南満洲鉄道満洲国国有鉄道の受託経営と、奉天への鉄路総局の設置
所有せずに運営するか、自社線に留まるか──社線の三倍の国線を預かった委託経営
- 概要
- 1933年2月9日に満洲国政府が国有既成鉄道の経営を南満洲鉄道へ委託し、満鉄が同年3月1日に受託を発表して奉天に鉄路総局を置いた判断。買収でも合併でもなく、所有権は満洲国に残したまま経営だけを引き受ける委任経営であった。
- 背景
- 張学良の治下で満鉄を包囲する鉄道網が計画され、銀安下の運賃競争で貨物は中国側鉄道へ流れた。満鉄は1930年末に前年比三分の一の減収となり、1931年には創業以来初めての赤字を出して約二千名の従業員解雇に踏み切っていた。
- 内容
- 吉長・吉敦・吉海・四洮・洮昂・洮索・齊克・呼海・瀋海・奉山の既成諸鉄道につき、満洲国が満鉄に負う債務約1億3,000万金円を当該鉄道の財産と収入で担保し、経営を委託した。新線の建造も約1億金円で請け負い、同年10月には朝鮮総督府から北鮮鉄道330粁を受託した。
- 含意
- 鉄路総局の所管は1933年12月末で約3,635.5粁と社線の約三倍に達した。1936年に鉄道機関が奉天の鉄道総局へ統合され、1940年には社線と国線の経理も一本勘定となって、鉄道投資の比重は総事業費の80%へ上がっていった。
所有を取らずに運営を取った形が残したもの
満鉄が引き受けたのは鉄道そのものではなく、鉄道を動かす仕事だった。所有権は満洲国に残り、手元に来たのは約1億3,000万金円の債務を財産と収入で担保に括り直した経営権にすぎない。それでも受託に応じられたのは、包囲鉄道網と運賃競争で創業以来初めての赤字を出し、約二千名を解雇したばかりの会社にとって、自社を締め上げてきた国線が管理下に入ること自体が収支の前提を変える出来事だったからだとみられる。
ただ、運営だけを預かる形は長くは保たれなかった。1936年に鉄道機関が奉天の鉄道総局へ統合されて身分まで社員に揃い、1940年には経理も一本勘定になって、委託は名目だけが残る。引き換えに満鉄は毎年1,500万円の報償金を負い、鉄道投資の比重は64%から80%へ、収支比率は74%へと動いた。鉄道以外にも広く投資していたことが特質だった会社は、所有を伴わないはずの1933年の受託を境に、鉄道一本の会社へ痩せていったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
満鉄を包囲する鉄道網と、創業以来初めての赤字
張学良の治下では、満洲における中国側鉄道網の建設を推す機関として1929年に東北交通委員会が設けられた。同委員会がまとめた東北鉄道網計画縁起は、満鉄を包囲し東支鉄道を縦断する東西二大幹線と枝線十八、延長約6,000粁を掲げ、『東北は満鉄を回収せざる限り安んずるを得ず。さりとて今急にこれを回収するを得ず。故に方略を定めて満鉄をして自滅の境に陥らしむるの策を講ずるを要す』と述べている。壺芦島に口を開いて満鉄の死命を制するという、輸送を迂回させるための体系的な計画であった[1]。
計画は満鉄の収入を実際に削った。銀安によって銀建運賃の中国各鉄道が大幅な値下げをしたのと同じ影響が及び、貨物は大迂回しながら中国鉄道へ流れ込んだ。満鉄も運賃二割引で対抗したが及ばず、1930年末には前年に比べ三分の一の減収を示し、翌1931年には会計上の操作で表面を糊塗したものの実際には創業以来初めての赤字を出して、約二千名の従業員解雇に踏み切っている[2]。
軍が接収した鉄道と、分立していた小鉄道
1931年9月18日の柳条溝事件のあと、満鉄は事態の進展に伴って、順次、軍が占領した中国鉄道の接収と管理の任に当たった。鉄道従業員の派遣は1931年度に実人員7,676人・延人員14万4,758人、1932年度には実人員8,803人・延人員32万8,918人に上っている。このとき満鉄の手が入った鉄道は、いずれも後年の満洲国国有鉄道となり、そのまま委任経営の対象になった[3]。
引き受ける側から見ても、国線の状態は放っておけるものではなかった。満鉄が受託にあたって示した要旨は、満洲国内にはまだ鉄道網が十分に普及しておらず、そのうえ小鉄道が分立して経営が個々に行われ不利が大きいという実情を挙げている。これらを統一して合理的な経営を行い、経済的ならびに技術的な能率を挙げるには、多年満洲で鉄道経営に習熟した満鉄が当たるのが最も適当だという理屈であった[4]。
決断
所有は満洲国に残し、経営だけを預かる
1933年2月9日、満洲国政府は国有既成鉄道の経営を満鉄に委託した。満鉄は同年3月1日に受託の旨を発表し、同じ日に奉天へ鉄路総局を置いて委託経営鉄道の直接経営に当たらせた。本社が当日示した要旨は、満洲国の治安を確保して産業を発達させるには国内交通、なかでも鉄道の整備発達を俟たなければならないと説いたうえで、『固より満鉄としても異議あるところに非ざるを以て茲に快く之を引受くる事とせり』と結んでいる[5]。
契約の大要は、買収とは異なる形を取った。吉長・吉敦・吉海・四洮・洮昂・洮索・齊克・呼海・瀋海・奉山の既成諸鉄道について、満洲国政府が満鉄に対して負担する債務合計約1億3,000万金円を、これら諸鉄道に属する一切の財産および収入を借款の担保として括り直したうえで、経営を満鉄に委託した。所有権は満洲国に残り、満鉄が握ったのは経営と担保であった[6]。
建設まで請け負い、北鮮の港へつなぐ
契約には建設も含まれていた。満洲国政府は別に満鉄へ敦化図們江鉄道、拉法哈爾濱鉄道、泰東海倫鉄道の建造を請け負わせ、その建造費は合計約1億金円とされた。満洲国は十ヶ年計画で約4,500粁の新鉄道を敷く予定であり、満鉄は大連に鉄道建設局を設けて、その下に哈爾濱・齊々哈爾・図們・錦州・羅津の五箇所へ建設事務所を置き、管轄区域を定めて工事に当たらせた[7]。
同じ年の10月1日には、朝鮮総督府から朝鮮国有鉄道咸鏡線の輸城会寧間と清津線・会寧炭礦線・図們線、延長330粁の経営を受託し、清津に北鮮鉄道管理局を置いて即日業務を開始した。鉄路総局の所管は1933年12月末で約3,635.5粁と社線の約三倍に達し、同年末の社員約3万6千名に鉄路総局従事員3万6千名と社員外従事員約5万2千人を加えると、満鉄が動かす人員は12万4千人に上った[8][9]。
結果
全満鉄道の一元化
受託の二年後、北満に残っていた東支鉄道も同じ枠に入った。1934年9月21日に妥協が成立し、譲渡価格1億4,000万円とソ連従業員退職資金3,000万円の合計1億7,000万円で譲渡が決まって、翌1935年3月23日に正式調印の運びとなり、満洲国が北満鉄路1,732.8粁と付属施設・資産の一切を継承した。この鉄道も他の国有鉄道と同じく満鉄の委任経営となった[10]。
満鉄はまず改軌に取りかかり、接収から五箇月の準備を経て、1935年8月31日、全列車の運行を続けたまま僅か三時間で全長240粁の区間の軌間を縮小した。旧東部線と西部線も引き続き改軌されて浜洲線・浜綏線と改称され、運賃も満鉄なみに統一されて、懸案だった全満鉄道の一元化が達成された。創業以来東支鉄道との間で闘われてきた運賃競争は解消し、満鉄の経営は一段と安定性を増した[11]。
経理まで一本にし、鉄道一本の会社になる
組織も経理も、順に一本へ寄せられた。1936年10月1日の職制改正で鉄道部・鉄路総局・北鮮鉄道管理局・鉄道建設局の四本建てが統合されて奉天に鉄道総局が置かれ、鉄路総局関係の従業員はすべて社員として身分の上でも統一された。1940年4月1日には経理の社線一元化に至り、それまで別建てで経理されていた委託国有鉄道が満鉄自体の計算に組み入れられた。『形式は国有鉄道の委託経営であるが、実質においては満鉄が、その全鉄道を自己の所有であるのと何等変ることなく運営することとなった』[12][13]
一本化の代償もあった。満鉄は借款利子の免除と引き換えに、毎年1,500万円の報償金を満洲国政府へ納めた。鉄道投資が総事業費に占める比重は1937年の64%から1941年の80%へ上がる。満洲事変前は30〜40%が常態で、鉄道以外にも広く投資していたことこそが満鉄の特質であった。収支比率も1938年まで50%を超えたことがなかったが74%まで落ち、満鉄は完全な鉄道一本の会社に変貌した[14][15][16]。
- 満鉄の概要 1934年版(南満洲鉄道、1934年)
- 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)