満鉄が引き受けたのは鉄道そのものではなく、鉄道を動かす仕事だった。所有権は満洲国に残り、手元に来たのは約1億3,000万金円の債務を財産と収入で担保に括り直した経営権にすぎない。それでも受託に応じられたのは、包囲鉄道網と運賃競争で創業以来初めての赤字を計上し、約二千名を解雇したばかりの会社にとって、自社を締め上げてきた国線が管理下に入ること自体が収支の前提を変える出来事だったからなのだろう。
ただ、運営だけを預かる形は長くは保たれなかった。1936年に鉄道機関が奉天の鉄道総局へ統合されて身分まで社員に揃い、1940年には経理も一本勘定になって、委託は名目だけが残る。引き換えに満鉄は毎年1,500万円の報償金を負い、鉄道投資の比重は64%から80%へ、収支比率は74%へと動いた。鉄道以外にも広く投資していたことが特質だった会社は、所有を伴わないはずの1933年の受託を境に、鉄道一本の会社へ痩せていったといえる。