南満洲鉄道終戦後の全社員の職場確守とソ連軍管理の受け入れ、全事業財産の管理・使用権の引渡し

軍も政府も消えた満洲で、8万人の従業員を抱えた会社に何が決められたか

時期 1945年8月
意思決定者(推定) 山崎元幹・平井喜久松・平島敏夫 総裁・副総裁
論点 終戦処理と従業員の処遇
概要
1945年8月15日の終戦と16日の関東軍停戦命令を受け、南満洲鉄道は全社員に現職に止まり業務を続行することを命じた。首脳部は進駐するソ連軍の希望を容認するほかないと結論し、ソ連軍の管理下で輸送を続けたうえで、全事業財産の管理・使用権を引き渡した。
背景
1945年度の会社は全機能を挙げて本土決戦に参与する方針で最後的動員に入り、軍令によって本部を梅河口と通化へ移していた。8月9日早暁のソ連軍侵攻で運送業務は大陸鉄道司令官の指揮下に入り、17日には満洲国政府が解消して、秩序を保つ主体が満洲から消えた。
内容
8月17日、総裁は長春で関東軍司令官から独自の立場で事態の収拾に当たるよう指示された。首脳部は輸送機能の再建と各民族の協力を選び、18日にラジオで協力を要望した。9月22日にカルギン中将が着任すると金庫と資材を引き渡し、27日の中国長春鉄路理事長命令が会社の法的・実質的存在の喪失と重役会の解散を告げた。
含意
鉄道・炭鉱・江運の事業は中国長春鉄路とソ連軍、八路軍、中国政府へ分かれて移り、機器と資材は撤去・国外搬出された。会社は余剰人員を撫順炭鉱と作業団に回して従業員の大部分を事業関係の業務に留め、幹部は顧問として残留を命ぜられ、のちに中国側の留用へ移った。
筆者の見解

決められたことの範囲

8月17日に関東軍司令官が総裁へ告げたのは、監督も管理もなくなるから独自の立場で収拾に当たれ、ということであった。会社に残されていたのは、鉄道と炭鉱を誰の手に渡すかではなく、渡されるまでの間に何を動かし続けるかだけである。首脳部が出した結論は、輸送の機能と秩序を再建し、進駐するソ連軍の希望を容認するほかないというもので、翌18日には各民族の協力をラジオで求めた。鉄道に依存して動く満洲の物流を抱えた組織に、ほかの選択肢は乏しかったとみられる。

ただ、職場確守の方針が守ったものと守れなかったものの差は大きい。定員は理事会285名・管理局100名まで絞られ、哈爾賓分局には日本人の介在が認められず、斉々哈爾と吉林の管内では会社は何の措置も取れなかった。給与は支給されてもインフレの進行に追いつかず、留用は撫順の出炭が日産1,000トンまで落ちるにつれて根拠を失っていく。会社が決められたのは移行の速度と行き先の割り振りまでで、財産も職も、決定の外側で移っていったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

本部を梅河口と通化へ移した最後の動員

1945年度の会社は、戦局の危急にかんがみて物心両面にわたり全機能を挙げて本土決戦に参与することを基本方針とし、最後的動員をおこなった。第一・四半期には在満・中国にある戦力を本土へ集中輸送するため勅令で鮮満鉄道の軍事使用が始まり、3月10日以降は関東軍司令官の命令を受けてこの輸送を敢行した。第二・四半期に入ると沖縄本島の失陥で大陸と本土の正常交通が困難を加え、大陸自戦自活体制の確立が緊急となった[1]

会社は関東軍司令部・大陸鉄道司令部・満洲国政府と連絡を保ち、満洲の戦場化に処すべき諸方策を立てて一部を実施していた。軍事輸送と臨戦体制を期して東南満地区に戦闘基盤を早急に設定するため、同地区へ極力人員と諸資材を集結する一方、軍令によって本部を梅河口および通化へ移した。8月9日早暁、満洲はソ連の先制攻撃を受けて戦闘状態に入り、同日の関東軍命令で運送業務は大陸鉄道司令官の、各鉄道局長は大陸鉄道支部長の指揮下に置かれた[2]

秩序を保つ主体が消えた満洲

8月19日、奉天と哈爾賓を中心にいっさいの列車運行が止まり、国内交通は一時杜絶した。日本軍の武装解除で警備力が弱まり、進駐したソ連軍の先遣部隊による倉庫の封鎖・家屋の接収・掠奪暴行が相次いだ。23日に運行は復活したが、ソ連軍兵力の増加につれて事態はかえって深刻となり、ソ連軍兵士と満人暴徒による日本人住宅への乱入・掠奪・暴行は全満洲に広がった。従業員は通勤の途上でも駅構内でも職場でも危険にさらされた[3]

関東軍はすでに解体し、満洲国政府も8月17日をもって解消したため、政府の存在しない満洲は政治・経済各般にわたって組織と秩序を失った。ソ連軍占領下で会社の所管事業がどうなるかも未知数で、進駐司令官の管轄権能は明確でなかった。斉々哈爾では先遣部隊が鉄道局長を更迭し、日本人従業員に職場からの強制退去を命じた。吉林では満人従業員の一方的意見により、将来の中国政府による接収を予定して満鉄の統一的組織から離脱し、地方的独立を企図した処もあった[4]

決断

現職に止まることを命じた8月16日

8月15日正午にラジオを通じて戦争終結が宣せられ、16日に関東軍司令官から停戦命令が発せられた。会社はただちに全社員に対し、戦争の終結を告げるとともに現職に止まり業務を続行すべきことを命令した。17日、総裁は長春で関東軍司令官と会見し、関東軍司令官と駐満全権大使の地位は近日中に事実上解消し、会社に対する監督ないし管理の関係もなくなるから、爾今総裁は独自の立場において事態の収拾と経営に当たられたいとの指示を受けた[5]

首脳部は、社会秩序を維持し在満日本人全般の生命財産を保全する方途は、速やかに輸送の機能と秩序を再建回復し、進駐してくるソ連軍の希望を容認するほかないと結論した。18日、ラジオを通じて鉄道再建に関し各民族の全幅的協力を要望した。20日には長春へ進駐したザバイカル軍第一軍団司令官コワリョフ大将から、民族と職責の如何を問わず現職に止まり職務を継続すること、速やかに鉄道の復旧をはかることを命ぜられ、会社はソ連軍の管理下で運営を続けることとなった[6]

組織の維持と、財産の管理・使用権の引渡し

総裁は専らコワリョフ大将と折衝し、満鉄組織の維持と従業員の職場確守による速やかな交通機能の回復を方針として、極力事態の悪化防止に努めた。8月27日に中ソ友好条約と中国長春鉄道および大連湾に関する協定が成立してから、ようやく事情が明らかになってきた。9月22日、カルギン中将が中国長春鉄路管理局長として長春に着任し、翌日から長春本部関係の金庫と資材の引渡し、業務の引継ぎがおこなわれた[7]

9月27日の中国長春鉄路理事長命令は、22日11時以後、満洲里・綏芬河・哈爾賓・大連・旅順に至る全線と付帯事業が理事会の管轄に移り、南満洲鉄道株式会社はその法的並びに実質的存在を喪失し、総裁と両副総裁ほかの理事から成る重役会は解散したものと認められると告げた。のちにソ連軍から全事業財産の引渡文書の提出を求められると、総裁は日本政府に請訓したところに準拠し、理事者としての管理および使用の権利を9月25日付で引き渡すことに同意する文書を作成して提出した[8][9]

結果

誰の手に移ったか

中国長春鉄路の理事会は長春に、管理局は哈爾賓に置かれ、旧来の瀋陽本部・大連本社・地区事務局は解消された。大連埠頭局は鉄道部門と港湾部門に分けられ、11月8日に港湾部門が大連中ソ自由港管理局として組織された。北満江運局の事業は11月2日に松花江航運局長事務取扱との間で財産の引継ぎがおこなわれた。中国長春鉄路に含まれない鉄道はソ連軍司令部の監督下に置かれ、八路軍または旧来の在満中国人によって分割運営された[10]

形式的な段階を踏まないままの接収も進んだ。浜綏線・浜洲線の改軌をはじめ北満江運事業が接収され、牡丹江・斉々哈爾・長春・吉林の各鉄道工場の機器、撫順炭鉱の機器、各地の用度倉庫の資材が撤去され国外へ搬出された。撫順炭鉱・大連埠頭・中央試験所・化学工場などへのソ連側の処置も鉄道とおおむね同様で、軍管理からそれぞれソ連側の経営へ移った。1946年3月14日には東北行営の錦州進駐に伴い、錦州鉄道局が中国政府に接収された[11]

留め置かれた者と、帰った者

中国長春鉄路が定めた日本人従業員の定員は理事会285名、管理局100名で、長春・瀋陽・大連の各分局は従来の鉄道局の人員をはるかに下回り、新設の哈爾賓分局には日本人の介在が認められなかった。会社は生じた余剰人員の一部を現業機関と撫順炭鉱へ配置替えし、哈爾賓・長春・瀋陽・大連では作業団を組織して給炭・荷役・清掃・工事などに従事させた。斉々哈爾と吉林の両鉄道局管内ではこの措置を取りえず、現地で生計を維持させるほかなかった[12]

山崎元幹総裁と平井・平島両副総裁、鈴木・古山・浜田の各理事は理事会顧問、猪子理事は管理局顧問、宮本理事は撫順炭鉱顧問として残留を命ぜられた。一般従業員への給与は10月分から支給され手当も逐次増えたが、インフレーションの進行がより急で、売り食いで生計を維持し得る程度であった。1946年4月に中国側接収委員が瀋陽へ来ると日本人は各部門で技術者として留用され、その数は交通部で約600名、中長側で約1,500名に上った[13]

撫順炭鉱の出炭は日産5,000トンが精一杯で、電力不足による排水不能と杭木不足による坑道の維持不能から、1946年末には約3,000トン、のちに1,000トンまで落ちた。輸送量と車両数も満鉄時代の10分の1から15分の1に下がり、留用の根拠は薄弱になって解除希望者が続出した。1947年2月に解除者千余名、残留者は現場約150名・弁公処約50名と予定され、8月20日から約2週間で南下輸送を終えた。長春交通部は全員が解除となり、中長側には17名が残った[14]

出典・参考
  • 満蒙終戦史(満蒙同胞援護会編、1962年)
  • 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)

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