8月17日に関東軍司令官が総裁へ告げたのは、監督も管理もなくなるから独自の立場で収拾に当たれ、ということであった。会社に残されていたのは、鉄道と炭鉱を誰の手に渡すかではなく、渡されるまでの間に何を動かし続けるかだけである。首脳部が出した結論は、輸送の機能と秩序を再建し、進駐するソ連軍の希望を容認するほかないというもので、翌18日には各民族の協力をラジオで求めた。鉄道に依存して動く満洲の物流を抱えた組織に、ほかの選択肢は乏しかったのだろう。
ただ、職場確守の方針が守ったものと守れなかったものの差は大きい。定員は理事会285名・管理局100名まで絞られ、哈爾賓分局には日本人の介在が認められず、斉々哈爾と吉林の管内では会社は何の措置も取れなかった。給与は支給されてもインフレの進行に追いつかず、留用は撫順の出炭が日産1,000トンまで減少するにつれて根拠を失っていく。会社が決められたのは移行の速度と行き先の割り振りまでで、財産も職も、決定の外側で移っていったといえる。