南満洲鉄道昭和製鋼所株75%など重工業持分1億890万円の満州国政府への譲渡
五カ年計画の実行機関となるはずだった会社は、なぜ重工業から一切手を引いたのか
- 概要
- 1937年10月、日本産業株式会社の改組と対満移駐により資本金4億5000万円の満州重工業株式会社の設立が発表され、満鉄は昭和製鋼所の株式75%をはじめとする重工業関係の持分合計1億890万円を満州国政府へ譲渡し、重工業関係の建設経営から一切手を引いた。
- 背景
- 満鉄は1936年10月の職制改正で産業部を新設し、五カ年計画の実行機関として自らが主力となることを自他ともに疑わなかった。だが1935年度末には社外投資が総投資額の5割に達する一方、日本経済の悪化により社債発行予定1億3000万円のうちシンジケート団の引受は1500万円にとどまっていた。
- 内容
- 日産と満州国の折半出資による持株会社に対し、満州国は満鉄から譲り受けた重工業関係特殊会社の持株を払込みに充当した。譲渡の対象は昭和製鋼所のほか満州炭鉱、日満マグネシウム、満州鉛鉱、同和自動車、満州石油等で、産業部の基幹要員も大部分が満州重工業へ移った。
- 含意
- 残った産業部の要員は調査部として再出発し、満鉄は終戦まで鉄道を中心とする交通部門、撫順炭礦を中心とする炭礦事業と製油、調査部の三本立てを社業の基礎とした。貨物輸送量は1942年に1937年の2倍となり、公称資本金は1940年に14億円へ積み上がった。
手放したものと、残ったもの
1億890万円という譲渡額は、満州事変後に満鉄が特殊会社へ投じた資本の大部分に当たる。価格を交渉した形跡は資料に見えず、譲渡分はそのまま満州国政府が満州重工業へ払い込む出資の原資になった。前年10月に産業部を組み上げ、五カ年計画の実行機関を自任した会社が一年で重工業から外された経緯を見れば、これは満鉄が選んで畳んだ撤退というより、1933年の改組案でいったんは退けられた構想が、資金難という別の入口から通されたものだとみられる。
ただ、満鉄に二つの任務を同時に負う体力が欠けていたことも事実である。社債発行予定1億3000万円のうちシンジケート団の引受が1500万円にとどまる起債力で、軍事鉄道の急速整備と重工業の急速育成を並行させるのは難しかった。重工業を降りた満鉄は、貨物輸送量を五年で2倍にし、公称資本金を14億円まで積み上げる。事業の幅と、1916年以来育ててきた製鉄を失った代わりに、鉄道会社としては戦時のあいだ最も太く動いたといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
五カ年計画の実行機関になるはずだった産業部
満鉄は満州国第一次五カ年計画の発表の前年、1936年10月1日に根本的な職制改正を断行した。鉄道総局の新設、産業部の新設、新京事務局の設置の三点を基本方針とするもので、なかでも産業部は、関東軍の経済参謀として施策に協力してきた計画部、経済調査会、地方部、鉄路総局産業系統を打って一丸とし、満州経済の全面的開発に対する調査、立案、計画、助成を統合、強化する部門であった。発足と同時に五カ年計画の策定作業に着手し、翌1937年その公式発表を見ている[1]。
この経緯から、五カ年計画の実行機関として満鉄がその主力となることは自他ともに信じて疑わなかった、と四十年史は記す。もっともその地位は一度揺らいでいる。1933年10月、関東軍特務部参謀の談話を発端に、満鉄の各事業を独立会社とし満鉄自身は持株会社となるという改組案が表面化した。社員会は経済の担い手は経済人であるべきだとして抗議宣言を発し、日本商工会議所も6万7千人の株主と数万の社債権者への影響を理由に慎重審議を求める反対声明を出した[2]。
社外投資に膨れた資産と、細る起債力
満鉄の投資はこの時期、事業の外側へ大きく傾いていた。創業以来1927年度末までの会社総投資額は7億5958万円であったが、1932年度末には10億4310万円、1935年度末には16億729万円へ激増する。そのうち社外投資の比率は、1931年度末までは2割未満であったものが、1932年度末に3割、1935年度末には5割に達した。鉄道を営む会社の投資の半分が、自社の事業設備ではなく他社の有価証券や貸金へ振り向けられていたことになる[3]。
一方で、対満資金供給の源泉である日本経済は1936年以来急速に悪化していた。物価騰貴と為替不安に伴って金融市場の梗塞が始まり、満鉄の起債力をもってしても、社債発行予定1億3000万円のうちシンジケート団の引受を見たのは1500万円に過ぎない惨状であった。残りは預金部と簡易保険の引受により1600万円を調達し、なお足りない分は借入金で一時を凌ぐ有様であった。手元の資金繰りは、重工業への追加投資を支えられる状態になかった[4]。
決断
二つの任務を同時には担えない
五カ年計画の発表から間もなく日中事変が勃発し、情勢は急転回した。国際情勢の悪化に備えて軍事鉄道の急速整備を求める要請が強まると同時に、これと同じ強さで、軍備の高度化のための重工業の急速育成、とりわけ内燃機を含む高度の機械工業への要請が高まる。四十年史はこの二つを巨大な任務と呼び、それを同時に担当することは如何なる機関をもってしても到底不可能であったと記している[5]。
そこへ1937年10月、突如として日本産業株式会社の改組と対満移駐、そして日産と満州国の折半出資による資本金4億5000万円の満州重工業株式会社の設立が発表された。新会社は満州における重工業関係投資を独占する持株会社であり、日産側は在日子会社の株式解放によって資金化した資本を順次投下し、満州国は重工業関係特殊会社に対する満鉄持株の譲渡を受けて、これを払込みに充当するという構想であった。満鉄の持分は、はじめから満州国側の出資原資として組み込まれていた[6]。
昭和製鋼所株75%を含む1億890万円
この構想のもとで満鉄が差し出したものは大きかった。1916年以来独力で育成に努めてきた昭和製鋼所の株式75%をはじめ、満州事変後の特殊会社投資の大部分に相当する満州炭鉱、日満マグネシウム、満州鉛鉱、同和自動車、満州石油等の持分、合計1億890万円が満州国政府へ譲渡され、満鉄は重工業関係の建設経営から一切手を引くこととなった。譲渡は売却益を得るための取引ではなく、満州国が満州重工業へ払い込む出資の原資への振替であった[7]。
新会社の側には、投資の安全性を保証する措置が講じられていた。日産の満州移駐にあたり臨時株主総会へ提出された理由書によれば、民間株主の配当が年1割以内の場合、満州国株式の配当は恒にその半分とされ、また満州国政府は国策会社の成立後10カ年、同社が満州国内事業の経営のため振り向けた一切の資金に対して年6分に相当する効果および元本を保証するとされた。満鉄が20年かけて育てた持分は、日本の民間資本を新たに呼び込むための保証付きの器へ組み替えられた[8]。
結果
産業部から調査部へ
移譲は資産だけにとどまらなかった。産業部を構成していた基幹要員も大部分が新設の満州重工業へ移り、残部は新たに補強された要員を加えて調査部として再出発する。調査部の本務は、広く東亜の社会経済に関する基礎的な調査、研究に専念することと定められた。前年の職制改正で満州経済の全面的開発の司令塔として組み上げられた部門は、発足から一年で、計画と助成の権限を伴わない調査機関へ姿を変えたことになる[9]。
満鉄はこの時以来終戦に至るまで、鉄道を中心とする交通部門の綜合経営、撫順炭礦を中心とする炭礦事業と製油、そして調査部を中心とする全東亜にまたがる調査、研究の三本立てを社業の基礎とすることになった。五カ年計画の中心をなす重工業の育成は満州重工業開発株式会社が担い、満鉄は撫順を中心とする炭礦、製油部門で直接これに参加したものの、主力は鉄道の建設と輸送の部面に注がれることとなった[10]。
鉄道に絞られた会社の戦時
鉄道へ絞られた満鉄は、輸送力の増強に資源を集中した。京浜、浜綏両線の複線化工事は1937年に計画され、突貫工事によって1941年と1942年の両年に完成する。機関車の車輛数は1936年を100として1940年は137、貨車は同じく145と4割前後の増加をみ、列車粁はこの期間に7割の増加を示した。その結果1942年の貨物輸送量は8316万6千瓲に達し、これは1937年の実績の2倍に相当する数字であった[11]。
制度の面でも鉄道への一体化が進んだ。1938年10月には社線、国線を通じた遠距離逓減制の単一運賃率と、穀類、家畜、木材、石炭、鉄鉱の五品目別運賃率が設定され、この改正による満鉄の負担は1939年度で約1800万円と推算された。1940年1月には資本金8億円に6億円を増資して公称資本金14億円とし、同年4月には委託国有鉄道の経理を自社と一本勘定にまとめ、代わりに満州国が満鉄に負う借款の利子は既往に遡って一切免除された[12][13]。
- 満州開発四十年史 上巻(満史会編、1964年)
- 南満洲鉄道株式会社三十年略史(南満洲鉄道、1937年)