{"spec_version":"3","endpoint":"history","stock_code":"mantetsu","company_name":"南満洲鉄道","content_lang":"ja","meta_lang":"en","canonical_url":"https://the-shashi.com/tse/mantetsu/","api_url":"/api/mantetsu/history.json","updated":"2026-08-29","license":"© 2026 Yutaka Sugiura. All rights reserved.","attribution":"The社史 (the-shashi.com) — https://the-shashi.com/tse/mantetsu/","title":"南満洲鉄道の歴史概略","sections":[{"start_year":1906,"end_year":1916,"main_title":"鉄道と炭鉱の引継から附属地の経営までを担った創業期","subsections":[{"title":"勅令と命令書が定めた鉄道七線と附帯事業の範囲","text":"南満洲鉄道の営業権は、会社が発足する前から売買と国際交渉の対象になった。日露媾和条約第六条は、長春（寛城子）旅順口間の鉄道と一切の支線、これに附属する権利・特権・財産、および鉄道の利益のために経営される一切の炭坑を、補償を受けることなく清国政府の承諾をもって日本へ移転譲渡すると定めた。譲渡が固まらないうちに米国の鉄道経営者ハリマンが買収を持ちかけ、1905年10月12日付で桂太郎との予備覚書が成立したが、帰朝した外相小村寿太郎が反対して取消となった。米国はその後も国務卿ノックスを通じて、満洲の諸鉄道を清国に買収させて中立の地位に置き、列強六国で共同監督にあたる案を英・独・仏・日・露へ通達したが、日露両国政府は1910年1月21日に拒絶の回答を発した。\n\n鉄道が日本の手に残ったのち、政府は経営を国家が直接担うか会社に委ねるかを議論し、株式会社組織を採った。南満洲鉄道株式会社設立の件と題する勅令第百四十二号は1906年6月7日に公布され、満洲地方で鉄道運輸業を営ませること、株式をすべて記名として日清両国政府および日清両国人に限り所有できること、日本政府が満洲の鉄道・附属財産・炭坑をもって出資に充てうることを定め、総裁一人・理事四人以上・監事三人ないし五人を置くとした。7月13日、陸軍大将児玉源太郎が設立委員長を、あわせて八十名が設立委員を命じられたが、児玉大将は7月24日に薨去し、翌25日、陸軍大臣寺内正毅が設立委員長を引き継いだ。\n\n1906年8月1日、外務・大蔵・逓信の三大臣が設立委員長に命令書を交付した。第一条は大連長春間、南関嶺旅順間、大房身柳樹屯間、大石橋営口間、煙台煙台炭坑間、蘇家屯撫順間、奉天安東県間の総哩数六七七・七七の運輸業を命じ、第二条は営業開始の日から満三年以内に四呎八吋半の軌間へ改築すること、大連蘇家屯間を複線とすることを求めた。第四条は鉄道の便益のための附帯事業として、撫順および煙台の炭坑採掘を含む鉱業、水運業、電気業、倉庫業、鉄道附属地における土地および家屋の経営を挙げ、第五条は用地内の土木・教育・衛生に関する施設を、第六条は用地内の居住民からの手数料徴収と費用の分賦を認めた。","references":[{"title":"満鉄の概要 1934年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"南満洲鉄道株式会社三十年略史","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"応募一億六百六十万株と大連本社での営業開始","text":"命令書は資本総額を二億円と定め、うち一億円を日本政府の出資に充てた。政府出資は既成の鉄道とこれに附属する一切の財産、撫順および煙台の炭坑から成り、日本政府は創立後十五箇年間を限り年六分の利益配当を保証した。一株の金額は当初二百円で、1915年に百円へ改められた。会社は1906年9月10日に第一回株式十万株、二千万円の募集を開始し、10月5日の締切までに、重役持株の千株を除く所要高九万九千株に対して一億六百六十四万三千四百十八株、一万千四百六十七人の申込を集め、按分比例と抽籤によって分配するほかなくなった。11月7日には、募集金額の十分の一にあたる一株二十円、総額二百万円の第一回払込と、政府出資財産の価格一億円の払込手続を終えた。\n\n初代総裁となった後藤新平氏は、就任を容易に承知しなかった。満鉄経営の中心は鉄道でなければならないのに会社を統理する中心点が定まらず、一方で関東都督の監督を受け、他方で外務大臣の指揮を仰ぐ三頭の体制では植民地経営の大任を果たせない、というのが後藤新平氏の言い分だった。畏敬する児玉大将の訃報に接した後藤新平氏は、満鉄総裁は関東都督の下に立つと同時に都督府顧問として外務大臣の監督下に立ち、都督府行政の一切に与るという条件を付けて8月1日に承諾し、その経緯を8月22日、山県元帥・西園寺首相・林外相へ回覧した満鉄総裁就職情由書に記した。後藤新平氏は台湾総督府民政長官から転じ、11月13日に総裁を仰せ付けられた。\n\n11月26日の創立総会では、寺内委員長が監事五名を指名し、後藤新平総裁と副総裁の中村是公氏および各理事を株主に紹介した。翌27日、会社は東京市麻布区狸穴町四番地に本社を置き、寺内委員長代理の関宗喜委員と後藤新平総裁代理の中村是公氏が、設立事務所で一切の事務と財産目録の授受を終えた。12月7日には設立の登記を完了し、会社は成立をみた。中村是公氏は12月20日、六理事とともに満洲の状況視察と引継準備のため東京を発ち、翌年2月11日に仮事務所を開いた。1907年3月には勅令が改正されて本社を大連、支社を東京に置くこととなり、会社は野戦鉄道提理部などの官憲から鉄道その他の引継を受け、大連の本社事務所で4月1日から業務を開始した。","references":[{"title":"満鉄の概要 1934年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"南満洲鉄道株式会社三十年略史","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"炭鉱と移民を見据えた方針と三年の期限が課した改築","text":"後藤新平総裁が引き受けた事業の輪郭は、設立委員長の児玉源太郎大将が描いていた。就職情由書に引かれた児玉大将の構想は、第二の日露戦争を予想してその成否は鉄道経営の巧拙にかかるとし、第一に鉄道の経営、第二に炭礦開発、第三に移民、第四に牧畜諸業の施設を挙げ、なかでも移民を要務に据えた。鉄道経営によって十年のうちに五十万の国民を満洲へ移入できれば、露国も容易に戦端を開けないという筋立てであった。後藤新平総裁は副総裁以下の人選を一任され、最年長の副総裁の中村是公氏が四十一、二歳、国沢新兵衛や岡松参太郎ら理事八名はいずれも三十三、四歳から四十歳未満という陣容を組んだ。就任から一年九箇月を経た1908年7月14日、後藤新平総裁は桂内閣の逓信大臣として入閣し、勅令一七九号で満鉄の監督権が逓信大臣へ移ったのを見届けて総裁を辞した。\n\n引き継いだ線路は三呎六吋の狭軌で、戦時輸送のために日本の機関車や客車をそのまま転用できるよう応急的に改築されていた。会社は1907年5月に本線と支線の擴軌工事へ着手し、狭軌の運転を止めずに改築を進めるため、在来の軌条の外側に一本または二本を足す三線式と四線式の狭広軌併用の運転法を採った。氷点下四十度の寒気のなかを昼夜兼行で工事を進めて1908年4月30日までに本線の試運転にこぎ着け、5月20日から29日にかけて長春方面から順に狭軌車輛を送還して、5月30日に全線の広軌列車開通をみた。工事費は車輛費と器械場費を除いて八百九十二万円余となった。大連蘇家屯間の複線工事も同じ1907年5月に始まり、1909年10月27日に全部が開通した。総額は千十八万円余に上った。\n\n安奉線は、日露戦争中に第一軍の軍器糧秣を運ぶため敷かれた軌間二呎六吋の軽便鉄道で、1905年12月3日に全線約二百哩が竣工した。日清満洲善後協約附属第六条で恒久の交通機関と定められ、会社は1907年4月1日の創業とともに野戦鉄道提理部から引き継いだ。標準軌への改築には清国との協議が要り、1909年1月に始めた交渉で清国側は6月24日、擴軌を許さないと回答した。日本政府は8月6日、条約上の権利に基づき単独で改築すると伊集院公使を通じて通告し、清国政府は13日に協力を表明し、19日に軌道を京奉線と同様とする覚書が調印された。日本は交換条件として、9月4日の間島協約で間島の主権を清国に認めた。工事は8月7日の福金嶺隧道着工に始まり、橋梁二〇五箇所、隧道二十四箇所を越えて二年三箇月後の1911年11月1日に全線が開通し、従来二日の行程は六時間に縮まった。","references":[{"title":"満鉄の概要 1934年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"南満洲鉄道株式会社三十年略史","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1917,"end_year":1930,"main_title":"理事長から社長へ、撫順の増産と大連築港に注いだ資本","subsections":[{"title":"総裁制から理事長制、そして社長制への二度の改組","text":"大正六年七月三十一日、会社は総裁と副総裁を廃し、理事長一人を置く体制に改めた。同じ日に中村雄次郎総裁が退任し、副総裁だった國澤新兵衞氏が理事長に任命された。國澤新兵衞理事長は明治三十九年十一月二十六日に理事として設立時の役員に加わり、四十一年十二月十九日に副総裁へ移り、大正二年十二月十八日にいったん退任したのち、三年七月二十日にふたたび副総裁として戻った経歴を持つ。理事は百株以上を持つ株主のなかから政府が任命して任期は四年、監事は株主総会が株主のなかから選んで任期は三年と定められていた。國澤新兵衞理事長は大正八年四月十二日までの一年八か月余りを務めた。\n\n大正八年四月十一日、会社は理事長を廃して社長・副社長各一人を置く体制へ移った。翌十二日、野村龍太郎氏が社長に、中西清一氏が副社長に任命された。野村龍太郎社長は大正二年十二月十九日に総裁へ任命されて三年七月十五日に退いており、四年九か月の間を置いて会社の首座に戻った。二度目の在任は二年一か月余りで、大正十年五月三十一日に野村龍太郎社長と中西清一副社長がそろって辞任し、同じ日に早川千吉郎氏が社長、松本烝治氏が副社長に任命された。松本氏は大正八年五月六日に理事として入り、二年で副社長へ上がったが、十一年三月二十四日に辞任した。\n\n早川千吉郎社長が逝去した大正十一年十月十四日、理事の島安次郎氏が社長事務取扱を命じられ、十日後の十月二十四日に解かれた。同じ日に川村竹治氏が社長に任命され、十三年六月二十二日に退任した。後任には同日付で安廣伴一郎氏が就き、昭和二年七月十九日まで務めた。安廣伴一郎社長の退任と同じ日に山本条太郎氏が社長に、松岡洋右氏が副社長に任命され、山本条太郎社長は昭和四年八月十四日に退いた。大正六年から昭和四年までの会社の首座は國澤新兵衞理事長以下六人を数えるが、会計と営業に関する規定を事前に政府の認可にかけ、毎営業年度の事業計画・事業費・営業収支の予算と利益配当の割合まで政府の認可を受ける仕組みは動かなかった。","references":[{"title":"満鉄の概要 1934年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"南満洲鉄道株式会社三十年略史","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"龍鳳坑の大竪坑と塔連坑買収、大連港へ積み上げた埠頭","text":"会社の業務は設立命令書に基づき、鉄道（倉庫と工場を含む）・海運・港湾・鑛山・製鉄・地方経営の六つに大別される。このうち鑛山の中心は撫順炭礦で、明治四十年に政府から引き継いだ千金寨・楊柏堡・老虎臺の三坑を九百二十万円の第一期計画で整え、大山坑と東郷坑の二大竪坑を開いて一日五千噸を出炭するまでになっていた。現地住民の燃料が高粱稈から石炭へ移り、鞍山製鉄所の完成と各種工業の勃興が重なると、この規模では需要に応じきれなくなった。会社は増掘の計画を立て、大正八年九月に龍鳳坑で大竪坑の開鑿に着手し、十一年十月に掘進作業を終えた。大正九年度からは千金寨露天掘を急速に広げて古城子露天掘に連結させ、坑内掘三百万噸・露天掘三百万噸の採炭にこぎつけた。\n\n撫順炭は灰分と硫黄分が少なく、七千百カロリーの火力を持つ有煙炭だが、粘結力に乏しく骸炭の製出には向かない。撫順礦区に続く塔連坑の炭は新屯坑・龍鳳坑と同じ粘着性で、コークス製造用に適していた。会社は製鉄所その他の用途を見込み、大正九年十二月一日に東洋炭坑株式会社から塔連坑の経営一切を買収した。抱え込まない炭田もあり、長春付近の石碑嶺・陶家屯の二炭田は明治四十年に露国政府から引き渡しを受けたまま手をつけずにいたが、大正七年に南満鉱業会社へ経営を委ねた。販売では大正九年度から輸出炭と船舶焚料炭を積極的に売る方針を取った。\n\n一方の海運では、会社は自ら船を持つことをやめた。大正七年に香港航路の経営を大連汽船株式会社へ移し、大正十一年七月一日には上海航路も同社の経営に委ねている。大連汽船は資本金二千五百七十万円、払込一千四百四十五万円で、その全額を会社が出資した。港湾には逆に資本を積み増し、第三・第四および乙・丙埠頭を築造し、寺兒溝の第一・第二桟橋と甘井子石炭桟橋を建設し、防波堤の築造と港内浚渫を重ねた。港湾施設に投じた事業費の累計は昭和六年度末で約八千五百万円である。大連埠頭に着いた汽船は大正十四年度の三千五百九十五隻から昭和元年度は三千八百十三隻へ、輸出貨物は五百五十万八千五百六十一噸から五百七十五万六千八十一噸へ増えた。","references":[{"title":"満鉄の概要 1934年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"南満洲鉄道株式会社三十年略史","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"創業年度の十七倍に達した収入と、昭和五年の急転","text":"鉄道・港湾・炭礦へ年々投じた資本は、決算の桁を変えた。営業を始めた明治四十年度の収入は一千二百五十四万三千百十六円、益金は二百一万六千五百八十五円だった。創業十年目の大正五年度には収入五千二百四十万二千四百八円、益金一千十万七千六百八円と約五倍に伸び、二十年目の昭和元年度には収入二億一千五百六十一万四千九百四十四円、益金三千四百十五万七千八百八十四円となって、創業年度に対する増加率は約十七倍に達した。事業費支出も大正五年度の二億四千八百五十九万五千五百七十六円から昭和元年度の五億九千三百九十二万三千七百九十九円へ膨らんだ。\n\n撫順では、掘る炭のほかに石油をとる道も探っている。油母頁岩の工業的価値については明治四十年から会社が研究を重ね、中央試験所の調査で、工業化しても採算の見込みがあるという結論を得た。会社は地下採掘の原料で経済的に操業できるかを確かめるため、頁岩五百噸をスコットランドへ送り、あわせて社員を派遣して学術的な調査と海外の実地の工業計画を調べさせた。採算の方法がついたことで一日四千噸の乾餾工場を建設する計画が立てられ、昭和四年末に第一期計画の工場が竣工した。撫順炭礦の炭層上部にある約四百五十呎の油母頁岩層には約五十余億噸が埋蔵され、露天掘に伴う約五億噸から採油を始める計画である。\n\n昭和二年以降も会社の収入は年々増え、昭和四年には純益が四千五百万円を超えて従来の記録を塗り替えた。この時期の資本投下は、社線の輸送能力の増進と撫順炭礦の増産設備という社内事業に集中している。株主から求めた資金も増え、昭和二年度初めに三億三千七百十五万六千円だった払込済資本金は、二回の払込徴収を経て昭和六年度末に三億八千七百十五万六千円となった。ところが昭和五年に入ると形勢が一転する。世界的な不況の波及、銀貨の惨落、旧東北政権の重圧、恒常的な排日貨が重なり、会社の財政は創業以来味わったことのない苦境に落ちた。会社は社内全般に極度の緊縮を課し、事業投資を繰り延べ、諸経費を削った。","references":[{"title":"満鉄の概要 1934年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"南満洲鉄道株式会社三十年略史","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1931,"end_year":1937,"main_title":"満洲国鉄道の受託経営と、社内を超えた社外投資","subsections":[{"title":"未曾有の苦境と、資本金八億円への増資","text":"1929年に4,500万円を超える純益を挙げ、会社は創業以来の記録を作った。ところが翌1930年から1931年にかけて、世界的不況の波及、銀貨の惨落、旧東北政権の重圧、恒常的な排日貨が重なり、財政は急転して創業以来未曾有の苦境に陥った。会社は社内全般にわたる極度の緊縮に入り、事業投資を繰り延べ、諸経費を節約した。1927年度から1931年度までの資本投下は、社線の輸送能力の増進と撫順炭礦の増産設備という社内事業に集中していた。二十余年かけて築いた強固な財政が、この難局を支えた。\n\n1931年に満洲事変が起き、翌1932年に満洲国が成立すると、日満の政治的結合と経済ブロックの結成が進み、満洲の政治・経済情勢は急激な変革を来した。会社は大陸政策の先駆として、日満両国の経済的発展と植民事業の誘導達成に必要な施設を引き受け、これに要する資金は巨額に上った。1933年3月6日、会社は資本金を4億4,000万円から8億円へ増やし、新募集株の二分の一にあたる360万株を政府が引き受け、残る360万株を一般から募った。払込済資本金は1927年度初の3億3,715万6,000円から1931年度末に3億8,715万6,000円となり、増資を経た1935年度末には5億8,420万8,000円に達した。","references":[{"title":"満鉄の概要 1934年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"南満洲鉄道株式会社三十年略史","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"奉天の鉄路総局と、社線の三倍に及ぶ国線の受託","text":"1933年2月9日に満洲国政府が国有既成鉄道の経営を会社に委託し、会社は同年3月1日に受託の旨を発表して、あわせて奉天に鉄路総局を設けて委託経営鉄道の直接経営に当たらせた。契約の対象は吉長・吉敦・吉海・四洮・洮昂・洮索・齊克・呼海・瀋海・奉山の既成諸鉄道である。満洲国政府が会社に負担する約1億3,000万金円の債務には、これら諸鉄道に属する一切の財産と収入を借款の担保に充てた。会社は総局の設立と同時に社員を督励し、所管鉄道の合理的な有機的機構の樹立と経済的運用という二原則を掲げた。\n\n総局の所管は、1933年12月末で約3,635.5粁に達し、社線の約3倍にあたった。うち約813粁は事変後に会社が新たに敷いた線が占め、鉄道のほかに港湾と水路も総局が抱えた。営口の河北埠頭は事変前まで東北軍閥が自国鉄道の貨物を一手に集めた埠頭で、桟橋3、倉庫8棟を持ち、10万瓲の収貨能力があった。松花江の水運では、旧東北政権の船舶財産を運用していた東北江運処・東北航務局と、その付属機関である東北造船所・広信航業所の事務を引き継いだ。満洲国の大同元年度は収入約4,700万円に対し支出3,650万円で、収入対支出比率77%を第一段として、総局はこれを50%まで下げる目標に据えた。\n\n新京と鮮満国境の図們・開山屯を結ぶ京図線によって、満洲の鉄道は日本海側へ抜けた。京図線は1933年10月1日に朝鮮総督府から会社へ委管された北鮮鉄道につながり、雄基・清津の両港に通じた。会社は同じ日に清津へ北鮮鉄道管理局を置き、即日業務を開始した。北鮮鉄道は延長330粁のC字形で、咸鏡線のうち輸城会寧間、清津線、会寧炭礦線、図們線から成っていた。10月15日には新京・清津間の直通列車が走り出し、二十年来の懸案だった吉会鉄道が実現した。終端港に選ばれた羅津では会社が築港を進め、1935年7月に雄基から雄羅隧道を通って羅津港まで延ばす予定を立てた。1935年3月23日にはソ連邦政府の旧北満鉄道を接収して会社がその経営を受託し、全国線と社線の経営が一本にまとまった。","references":[{"title":"満鉄の概要 1934年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"南満洲鉄道株式会社三十年略史","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"満鉄王国と呼ばれた附属地行政と六十一社の関係会社","text":"会社は政府命令書により、鉄道沿線の附属地で土木・教育・衛生に必要な施設を設ける責任を負い、あわせて居住者から手数料を徴収し費用を分賦する権能を与えられた。営利事業に止まらず行政まで担ったことから、会社は満鉄王国と称された。附属地の行政は14か所の地方事務所が管轄し、うち1か所は撫順の炭礦庶務課が兼ねた。関東州を除く附属地の戸数は6万8,000、人口は36万3,000に達し、1932年度の一戸当たり平均負担額は14円34銭だった。1933年3月末に会社が擁した施設は小学校37、中等学校10、専門学校2、大学1、図書館23。沿線各地の小学校では1万7,000余の日本人児童を教えた。医院は大連から哈爾濱まで17か所に置き、1932年5月には結核療養所として南満洲保養院を開いた。\n\n会社は満蒙の資源と産業を調べる機関を各地に構えた。地質調査所は撫順炭田の地質調査から始めて事務所を大連へ移し、鞍山ほか7鉄鉱の発見、蓋平・海城両県での菱苦土鉱の発見、各地炭田の地質調査に当たった。中央試験所は1931年12月に理学試験所を合併して無機化学・有機化学・燃料・農産化学・機械研究・電気研究・土木研究の7科に分かれ、1933年3月末で外国の特許8件、日本の特許67件を保有した。1932年1月には鄭家屯に産業調査所を設け、会社が出資した生畜の預託事業を監督させた。公主嶺の農事試験場では農芸化学・畜産・種芸の試験と調査研究を行い、熊岳城の分場に園芸・種芸・林産・養蚕・病理昆虫の五科を置いた。商工業と農牧林業に対する産業助成費は年額約150万円内外に上った。\n\n会社は早くから直営事業を独立の株式会社に改め、新興の企業にも出資してきた。事変後に設立された満洲化学工業、満洲航空、満洲電信電話にも出資し、1933年12月末の関係会社は61社に及んだ。この出資と国線の建設が、会社の資金の向かう先を変えた。満洲事変以後、社内事業費の増加額は4,426万7,000円にとどまったのに対し、社外投資は6億4,700万円余の激増を示し、創業以来の累計でも社外投資が社内事業費を上回った。社債も同じ動きを示し、1927年度から1931年度までの5か年では4,760万円しか増えなかったが、1932年度以降の4か年では3億3,634万8,000円増えた。発行限度も資本総額から払込資本金の2倍へ広げた。1935年度は4,962万円の利益金を挙げたが、配当は一般株主8分、政府4分4厘3毛に止め、残りを社内資本に留保した。","references":[{"title":"満鉄の概要 1934年版","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"南満洲鉄道株式会社三十年略史","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1938,"end_year":1945,"main_title":"重工業と行政権を手放し、鉄道一本の会社として終わるまで","subsections":[{"title":"附属地行政権と重工業部門の移管、華北への進出","text":"1937年12月、会社は治外法権の全面撤廃と同時に、創業以来社業の基本要素の一つだった附属地行政権を満洲国へ移した。土木・衛生・道路・中国人教育にかかわる行政は満洲国政府へ、日本人の教育施設は新たに設けられた学校組合とその連合会へ渡り、日本臣民の神社・教育・兵事に関する行政だけが日本国政府の手に属人的に残った。移した施設は公学堂・州外公費図書館・婦人病院・保健所・上水道・消防隊・火葬場などに及び、評価額は5,500万円、投資額の28%にあたる。内訳は満洲国関係が3,238万9,546円、日本政府関係が2,282万8,985円。施設に随伴して満洲国政府へ1,495人、日本政府系統機関へ2,842人、合わせて4,319人の社員が転出した。\n\n翌1938年3月、会社は重工業部門を満洲重工業開発株式会社へ引き渡した。1916年から独力で育ててきた昭和製鋼所の株式75%を筆頭に、満洲炭鉱・日満マグネシウム・満洲鉛鉱・同和自動車・満洲石油などの持分合計1億890万円を満洲国政府へ譲り、重工業の建設と経営から手を引いた。産業部を構成していた基幹要員も大部分が新会社へ移り、残った要員は調査部として再出発し、社業は鉄道を中心とする交通部門の綜合経営、撫順炭礦を中心とする炭礦事業と製油、調査部を中心とする調査研究の三本立てになった。総事業費に占める鉄道投資の比重は1937年の64%から1941年には80%へ上昇。満洲事変前の鉄道投資は全投資の30〜40%にとどまるのが常態で、会社は鉄道以外の分野へ広く資金を振り向けていた。\n\n日中事変の後、会社は天津に置いていた連絡機関を総裁直轄の北支事務局へ改め、1938年9月の職制改正で正規の機関とし、1万3,500名の社員を配置して華北各鉄道の接収と運営に当たらせた。会社は30年に及ぶ大陸鉄道経営の経験と人的蓄積を根拠に中国全鉄道の経営委任を求めたが、華中は鉄道省を主体とする華中鉄道株式会社が担い、会社の関与は華北にとどまった。1939年に華北交通株式会社が発足すると、派遣社員は満鉄社員の身分を保留したまま新会社へ配置され、その主力を占めた。華北交通は資本金3億円（連銀券）のうち1億2,000万円を会社が引き受け、京山・京漢・膠済など5,780粁の鉄道に加えて584粁の内河水運と1万粁を超える自動車路線を運営し、塘沽の築港工事も直轄した。","references":[{"title":"満州開発四十年史 上巻（満史会編、1964年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"輸送量八千三百万瓲の頂点と、七割四分へ落ちた収支比率","text":"1938年10月、会社は運賃を全面的に改めた。社線と国線で異なっていた賃率を最低率の社線賃率に合わせて単一運賃率とし、遠距離逓減を強めたうえ、穀類・家畜・木材・石炭・鉄鉱の5品目には別建ての品目運賃率を設けた。この5品目は1935年の実績で営業貨物の79%、収入の75%を占めており、改正で会社が負う減収は1939年度で約1,800万円と見込まれた。1939年3月に大村卓一総裁が就任すると、会社は運賃に続いて資本と勘定にも手を入れ、1940年1月20日に資本金を8億円から14億円へ引き上げた。同年4月からは委託国有鉄道の営業収支を固有の収支と区分せず一本の勘定で扱い、満洲国が会社に負う借款の利子は契約の当初に遡って全額免除となり、代わりに会社は毎年1,500万円の報償金を満洲国政府へ納めた。\n\n営業粁は1937年度末の9,655粁から1943年5月末の1万1,205粁へ約1,550粁延び、ほかに仮営業線360粁を抱えた。多年の懸案だった1万粁は、1939年11月1日に浜綏線から東寧へ至る新線91.1粁が本営業を始めて突破した。鉄道従業員は1937年の9万8,000人から1943年5月の21万人へ倍以上に増え、貨物輸送量は1937年以来毎年記録を更新して1942年には8,316万6,000瓲と1937年実績の2倍となった。旅客も輸送人員1億3,000万人、140億人粁、収入3億770万円を数え、1937年比でそれぞれ3.5倍、3.4倍、4.5倍へ伸びた。1941年の関東軍特別演習では7月24日から9月10日にかけて約30万の兵力を移送し、旅客と貨物の受付を広く止めたため、7・8月の輸送は5月比で旅客が約4割、営業貨物が2割6分減った。\n\n輸送量の記録と裏腹に、収益力は落ちた。鉄道の収支比率は1908年から1938年まで50%を超えず、会社がつぶれると騒がれた1931年でさえ支出は収入の44%にとどまっていたが、74%へ跳ね上がった。港湾部門は初めて赤字に転じ、会社が経営する8港湾の輸出貨物は1938年の742万瓲から1942年の441万瓲へ減った。1942年度の利息負担7,000万円は、鉄道部門の利益約2億円の35%にあたる。撫順炭礦は1938年に出炭1,000万瓲を記録したものの、増産を急いで炭層を覆う頁岩層の剥離が遅れ、この年を頂点に生産は900万瓲台から600万瓲台まで落ちた。使用総資本は1937年の21億1,940万2,000円から1943年の42億3,188万6,000円へ倍増し、増加額21億1,200万円の8割は株金の徴収と12億800万円の社債募集で賄われた。","references":[{"title":"満州開発四十年史 上巻（満史会編、1964年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"終戦による事業の停止と、中国長春鉄路への移管","text":"1944年に入ると戦火が満洲へ及んだ。夏に鞍山が、冬に奉天が爆撃を受け、海上交通が途絶えて貨客の陸路転換は避けられなくなった。会社は京義・安奉・奉山各線の複線工事を進め、資材を回すために大石橋・二十里台間193粁の軌条と橋梁を撤去して単線に戻し、安奉線の複線化は終戦の直前に終わった。大陸中継輸送の激増で貨車が朝鮮と華北へ流出し、この年の末には使用可能な車輛が2,000両を割った。炭質の悪化、給水の困難、小運送機能の低下、稀有の酷寒が重なるなかで1944年の輸送は7,900万瓲を成し遂げたが、計画の8,800万瓲には届かなかった。1934年から大連・新京間を走っていた特別急行アジア号も、この年に運転を休止した。\n\n1943年7月に小日山直登総裁が、1945年5月には山崎元幹総裁が就任した。1945年1月20日の臨時株主総会で会社は10億円の増資を決議し、閉鎖指定日までに7,017万689円が払い込まれたが、終戦と閉鎖機関の指定を受けてこの払込金は出資株主へ返された。1945年度に入ると本土決戦方針に応じる関東軍の兵力転用輸送が続き、一般物資の国内輸送は月300万瓲へ落ちた。作戦方針が満洲内の自戦自活体制の確立へ切り替わると社員にも根こそぎ動員がかかり、数万の社員が北辺へ配置された。6月に東南開発計画と地域自体防衛計画が発表され、関東軍司令部の通化移駐に満洲国と会社の首脳部が随行した。8月9日午前3時のソ連軍による新京爆撃を経て、15日に終戦の詔勅が発せられた。工事の終わらなかった建設線は9線を数える。\n\n1945年8月27日、中ソ両国は中ソ友好条約と中国長春鉄道および大連湾に関する協定を結び、連京線以南の諸線は中ソ合弁の中国長春鉄路へ移った。浜綏・浜州の両線はソ連軍が直接管轄し、長春の本社にはワシリエフ少将が、奉天と哈爾賓には鉄道監が駐在した。日本人社員は約8万人と推算され、このうち5万人が中長鉄路と旧満鉄系機関に吸収された。会社の重役会は9月22日をもって解散したものと扱われた。1946年2月末には中長鉄路の陣容が整い、理事長に張嘉璈、副理事長にカルギン中将が就き、山崎元幹総裁はソ連側顧問の最高顧問となった。社員は在留邦人の都市集中輸送に当たり、送還者は1946年度の101万4,394人を含めて104万6,954人に上る。1947年7月、山崎元幹総裁が新京から奉山線経由で帰国した。","references":[{"title":"満州開発四十年史 上巻（満史会編、1964年）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","description":"南満洲鉄道の歴史。1906年、日露講和条約でロシアから譲り受けた長春旅順口間の鉄道を営む半官半民の特殊会社として設立。初代総裁後藤新平氏、撫順炭礦と大連築港、満洲国鉄道の受託経営、1945年の解散までの沿革を執筆。","qa":[{"q":"1907年の開業から、なぜ炭鉱も港も学校も病院まで持ったのか","a":"鉄道の運賃だけで採算が立つとは見られていなかった。先を行く東清鉄道は1903年の開業以来、年1,000万ルーブル超の欠損を続けていた。運ぶ貨物も積み出す港も沿線の住民も、自前で用意するほかない。1906年の設立命令書は撫順と煙台の炭坑採掘、鉄道附属地（線路沿いに会社が経営した市街地）の土地家屋の経営を附帯事業に挙げ、附属地内の土木・教育・衛生の施設も命じた。1907年に大連で営業を始めた会社は、のちに小学校37、大学1、医院17か所を構えた。社員は1908年の1万3217人から1943年の29万6213人になった。"},{"q":"なぜ満洲の鉄道を国が直接営まず、1906年に会社にしたのか","a":"政府ははじめ、鉄道を国が直に営むつもりだった。ポーツマス条約第七条が、日露両国は満洲の鉄道を商工業の目的に限って経営すると定めていた。児玉源太郎大将が構想した政府直轄の満洲鉄道庁は置けず、米国の鉄道王ハリマンとの共同経営案も外相小村寿太郎氏が退けた。残ったのは、形式は民営の会社、実体は国家という設計である。政府は鉄道と附属財産、炭坑を現物で1億円分出資し、株主を日清両国の政府と国民に限り、総裁と副総裁を自ら任命した。それでも同年9月の9万9000株の募集には、1万1467人から1億664万3418株の申込があった。"},{"q":"39年で消えた会社は、1945年のあとに何を残したのか","a":"鉄道も炭鉱も附属地も満洲の土地にあり、事業は据え置かれたまま相手が替わった。1945年8月9日にソ連軍が侵攻し、15日の終戦を経て、9月22日に重役会は解散したものと扱われた。連京線以南の諸線は中ソ合弁の中国長春鉄路へ移り、残る線はソ連軍司令部の監督下で八路軍や在満の中国人が分けて動かした。鉄道工場と撫順炭鉱の機器、倉庫の資材はソ連軍によって国外へ運び出された。会社から次へ渡ったのは人である。幹部は顧問として残り、技術者は1946年4月以降に中国側へ留用され、交通部で約600名、中長鉄路側で約1,500名が残った。"}]},"auditVersion":3}