後藤新平
南満洲鉄道・元総裁
総裁就任 1906年11月
生年月日 —
学歴 —
出自 —
社長就任までの出自
出自
1906年11月13日付で台湾総督府民政長官から転じ、南満洲鉄道の初代総裁に就任した。総裁と副総裁は勅裁を経て政府が任命し、理事も株主のなかから政府が選ぶ役員構成で、株主総会が選ぶのは監事だけだった。株を持って経営に就いたのではない。満鉄では後藤新平氏に続く初期4代の総裁がいずれも官僚出身で、政党人や財界人が総裁に座るのは大正中期以降である。
社長に選ばれた経緯
抜擢
参謀総長の児玉源太郎氏とともに満鉄の設立を企画し、請われて初代総裁となった。ただし就任は即答ではない。経営を統理する中心が定まらないまま関東都督の監督と外務大臣の指揮を同時に受ける形を三頭政治の弊として退け、容易に応じなかった。設立委員長の児玉氏が1906年7月24日に薨去したのを受け、8月1日に、満鉄総裁は関東都督の下に立つと同時に都督府顧問として外務大臣監督の下に立ち都督府行政の一切を与り聴くべし、との条件を付して受諾した。
在任中の主な施策
施策
1907年4月1日に野戦鉄道提理部から鉄道と炭坑の引継を受け、大連で営業を開始した。同年5月には本線の広軌改築に着手し、三呎六吋の狭軌を四呎八吋半へ改めて、狭軌の運転を止めないまま1908年5月30日に全線で広軌列車を通した。役員は自ら選び、副総裁の中村是公氏を最年長として理事8名は30代が中心だった。1908年4月には岡松参太郎理事と露都を訪ね、東清鉄道に直通連絡運輸とタリフ協定を申し入れた。同年7月14日、桂内閣の逓信大臣として入閣し総裁を退任した。
日米共同経営案不採用在任の評価
評価
執筆予定
経歴 1906〜1908年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-