高島屋 の歴史

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創業 1831年
創業者 飯田新七
創業地 京都市下京区烏丸松原
創業
1831年、初代飯田新七氏が義父から屋号を譲り受け、京都烏丸松原で古着・木綿商を創業した。屋号は飯田家ゆかりの近江国高島郡にちなむ。1852年には古着商を廃して呉服へ主力を移し、友禅や刺繍の意匠を改良してビロード友禅を生み出した。1888年には客を座敷へ上げる座売りを廃し、商品を並べて見せる陳列販売へ切り替えている。大阪へは行商から入って1898年に心斎橋筋へ、東京へは官庁の御用達が増えたことを受けて1900年に京橋へ店を構えた。1909年に髙島屋飯田合名会社、1919年8月に株式会社髙島屋呉服店となり、1930年12月には商号を株式会社髙島屋へ改めて大阪難波の南海ビルに南海店を開設する。東京店を日本橋へ移し、大阪と東京の両証券取引所へ上場したのは1933年3月で、創業から102年が経っていた。
決断
店を出すのに要る土地と内装と信用を、外部へ委ねず子会社に抱えた。売場の集客がそのまま地代と手数料を生む以上、開発業者や金融機関へ渡せば利ざやは社外へ出ていく。1963年12月に設立した東神開発は、1969年11月開設の玉川店で核店舗の周囲に商業施設を併設し、賃料を受け取った。内装工事は1961年10月に大阪証券取引所第2部へ上場した髙島屋工作所が引き受け、1986年8月設立の髙島屋クレジットが買い物客への信用供与を担った。この並びから外れたのが二つの旗艦店で、1991年11月に新宿店の出店を公表したが、敷地は千駄ケ谷の借地だった。1997年7月にはJR東海との共同出資で名古屋駅へ出店すると決まったが、高島屋の負担は資本参加とロゴの提供にとどまった。外部へ払うはずだった地代と工事代と手数料が社内に残り、百貨店以外の収益源を生んだ。
現況
利益の4割近くは、もう百貨店の売場の外から出ている。2026年2月期のセグメント利益539億円のうち、国内百貨店業は249億円、海外百貨店業は85億円で、残る205億円は商業開発業・金融業・建装業が生んだ。国内商業開発業は売上418億円で利益66億円、海外商業開発業は売上157億円で利益58億円と、売上3,039億円に対し利益249億円の国内百貨店業を利益率で上回る。担い手は1963年12月設立の東神開発と1986年8月設立の髙島屋クレジットである。連結の営業利益は535億円と2期続けて500億円を超えたが、808億円の特別損失で純損益は82億円の赤字になった。1960年代に百貨店の周りへ置いた二つの会社が、本業の利益が減る局面で全体を支えている。
競合
東京での順位は、1956年に一度阻まれた時点で決まっていた。1955年から国鉄新宿駅の駅ビル開発への参画をめざしたが、地元の新宿商店街が『新宿駅百貨店進出反対期成同盟』を結成し、沿線の商店までもが死活問題になると訴えて撤回に追い込まれた。首都圏の核店舗は日本橋の一店に固定され、その状態が35年続く。1996年10月に新宿店が開業したとき、伊勢丹は1933年に新宿へ全面移転して本店とした以来、同じ街に本店を構えていた。国内では2023年1月に立川店の百貨店区画を、2024年7月に岐阜店を閉じている。一方、1993年10月のシンガポール髙島屋から上海・ホーチミン・サイアムまで、海外の店は不動産子会社と一体で出す形を踏襲した。東京で持てなかった一店の差を、国内ではなく海外の商業施設で埋める側へ移している。
高島屋:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年2月期2026年2月期

創業ストーリー 京の古手商が座売りを捨て、三都に店を構えるまで (1831年〜)

古着木綿商から呉服へ、宮内省御用達がもたらした転機

1831年、初代飯田新七氏が京都烏丸松原で古着および木綿商を始めた[1]。屋号の『高島屋』は飯田家ゆかりの近江国高島郡にちなむ[2]。開業から20年あまり後の1852年には古着商を廃して呉服へ主力を移し[3]、以後は呉服類の販売に加えて友禅や刺繍の意匠図案の改良に力を入れた[4]。染色技術の向上を図ってビロード友禅を生み出した[5]のもこの時期である。京の同業者が並ぶ烏丸松原の一角[6]で、古手の売買から染織品の作り手へと商いの中身が変わっていった。

  • 高島屋 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1831年 初代飯田新七氏が京都烏丸松原で古着木綿商を創業
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「高島屋」の項
    • [2]屋号「高島屋」は飯田家ゆかりの近江国高島郡に由来
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [3]嘉永5年(1852年)古着商を廃して呉服に主力
    • [4]維新後 呉服類の販売のほか友禅・刺繍の意匠図案の改良に注力
    • [5]染色技術の向上を図りビロード友禅を発明
    • [6]京都烏丸松原は古手・木綿を扱う同業者が集まる一帯

1887年の宮城造営に際して装飾の用命を受けた[7]ことが、後年の宮内省御用達につながる端緒となった。翌1888年には従来の座売りを廃し、陳列販売の方法を採用している[8]。客を座敷に上げて番頭が反物を運ぶ座売りは当時の呉服商の常識で、商品を並べて見せる形へ切り替えた判断[9]は、百貨店への移行を先取りするものだった。大阪への進出は行商から始まり[10]、1896年に堂島へ出張所を設け[11]、1898年には心斎橋筋へ移して積極的な宣伝を行い[12]、1907年には店舗改築の落成によって陳列式の百貨店の形態を整えている[13]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [7]明治20年(1887年)宮城造営の装飾を用命され宮内省御用達の端緒
    • [8]明治21年(1888年)座売りを廃して陳列販売方法を採用
    • [9]従来の座売りに代えて陳列販売へ切り替え
    • [10]大阪への進出は行商から開始
    • [11]明治29年(1896年)大阪堂島に出張所
    • [12]明治31年(1898年)心斎橋筋へ移転し積極的に宣伝
    • [13]明治40年(1907年)店舗改築が落成し陳列式の百貨店形態を整備
  • 高島屋 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1831年 初代飯田新七氏が京都烏丸松原で古着木綿商を創業
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「高島屋」の項
    • [2]屋号「高島屋」は飯田家ゆかりの近江国高島郡に由来
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [3]嘉永5年(1852年)古着商を廃して呉服に主力
    • [4]維新後 呉服類の販売のほか友禅・刺繍の意匠図案の改良に注力
    • [5]染色技術の向上を図りビロード友禅を発明
    • [6]京都烏丸松原は古手・木綿を扱う同業者が集まる一帯
    • [7]明治20年(1887年)宮城造営の装飾を用命され宮内省御用達の端緒
    • [8]明治21年(1888年)座売りを廃して陳列販売方法を採用
    • [9]従来の座売りに代えて陳列販売へ切り替え
    • [10]大阪への進出は行商から開始
    • [11]明治29年(1896年)大阪堂島に出張所
    • [12]明治31年(1898年)心斎橋筋へ移転し積極的に宣伝
    • [13]明治40年(1907年)店舗改築が落成し陳列式の百貨店形態を整備

東京進出と、80年の個人経営に区切りをつけた法人化

宮内省その他の諸官庁の御用達が増加するに及び[14]、東京にも拠点を置く必要が生じた。1897年に東京日本橋へ仮出張所を設け[15]、1900年には京橋へ店舗を移して貿易品の陳列と呉服の販売を行っている[16]。官需の増加が東京進出の契機になった点は、行商から段を踏んで商圏を広げた大阪とは異なる[17]。京都・大阪・東京という三都の骨格[18]は、この時点でおおむね姿を見せていた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [14]宮内省その他諸官庁の御用達増加が東京進出の契機
    • [15]明治30年(1897年)東京日本橋に仮出張所
    • [16]明治33年(1900年)京橋に店舗を移転し貿易品陳列と呉服販売
    • [17]大阪進出は行商・出張所を経た段階的展開だったのに対し東京は官需が動機
    • [18]1900年時点で京都本店・大阪心斎橋筋・東京京橋の三都に店舗

営業規模の拡大にあわせ、1909年に組織を改めて資本金100万円の髙島屋飯田合名会社を設立した[19]。創業から80年に及んだ個人経営の時代がここで終わり[20]、法人として新たに発足する。社長には四代目飯田新七氏が就任した[21]。1912年に京都店を改築し[22]、翌1913年には第一回百選会を開催している[23]。百選会は流行をリードする催物の嚆矢となり、以後は毎年春秋二回にわたって開かれた[24]

  • 高島屋 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1909年 資本金100万円で髙島屋飯田合名会社を設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [20]創業以来80年間の個人経営時代を経て法人組織へ
    • [22]明治45年(1912年)京都店を改築
    • [23]大正2年(1913年)第一回百選会を開催
    • [24]百選会は流行をリードする催物の嚆矢となり毎年春秋二回開催
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「高島屋」の項
    • [21]合名会社の社長に四代目飯田新七氏

1916年12月には東京の南伝馬町へ京都様式の店舗を新築し[25]、本格的な陳列販売を開始した[26]。京都で培った意匠と売り方をそのまま東京へ持ち込む構え[27]で、支店を単なる出先ではなく本店と同格の売場として設計している。折しも欧州大戦の好況が業績を押し上げ[28]、株式会社への改組はこの直後に訪れた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [25]大正5年(1916年)12月 東京南伝馬町に京都様式の店舗を新築
    • [26]南伝馬町店で本格的な陳列販売を開始
    • [27]京都様式の店舗を東京に新築
    • [28]欧州大戦の好況で業績が向上の一途
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [14]宮内省その他諸官庁の御用達増加が東京進出の契機
    • [15]明治30年(1897年)東京日本橋に仮出張所
    • [16]明治33年(1900年)京橋に店舗を移転し貿易品陳列と呉服販売
    • [17]大阪進出は行商・出張所を経た段階的展開だったのに対し東京は官需が動機
    • [18]1900年時点で京都本店・大阪心斎橋筋・東京京橋の三都に店舗
    • [20]創業以来80年間の個人経営時代を経て法人組織へ
    • [22]明治45年(1912年)京都店を改築
    • [23]大正2年(1913年)第一回百選会を開催
    • [24]百選会は流行をリードする催物の嚆矢となり毎年春秋二回開催
    • [25]大正5年(1916年)12月 東京南伝馬町に京都様式の店舗を新築
    • [26]南伝馬町店で本格的な陳列販売を開始
    • [27]京都様式の店舗を東京に新築
    • [28]欧州大戦の好況で業績が向上の一途
  • 高島屋 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1909年 資本金100万円で髙島屋飯田合名会社を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「高島屋」の項
    • [21]合名会社の社長に四代目飯田新七氏

難波という選択と、東西呼応の店舗網

1919年8月20日、組織を変更して株式会社髙島屋呉服店が発足した[29]。資本金は300万円で[30]、本店を京都下京区烏丸通に置き、店舗を京都のほか大阪南区心斎橋筋と東京京橋区南伝馬町に構える三都体制を法人として確定させた。1928年の業界紙は、富裕層向けの三越に対して高島屋と松坂屋を実質本位の大衆向け百貨店として並べており[31]、株式会社化と同じ時期に業界内での立ち位置も定まりつつあった。

  • 高島屋 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1919年8月20日 株式会社髙島屋呉服店へ組織変更、本店京都・店舗を大阪心斎橋筋と東京南伝馬町に
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [30]株式会社改組時の資本金300万円
  • 京城日報 1928年6月7日
    • [31]1928年の業界記事が三越を富裕層向け、高島屋と松坂屋を実質本位の大衆向けと並置

1930年12月、商号を『株式会社髙島屋』へ改めるとともに、大阪南区難波の南海ビル内へ南海店を開設した[32]。呉服店という名称では百貨店の実態に合わなくなったための改称[33]である。難波を選んだ前提には当時整備が始まっていた御堂筋の拡幅と地下鉄計画があり、地下鉄第一期工事の梅田・難波間が開通したのは1933年5月[34]で、店の開設は都市インフラの完成を三年近く先取りしている。もっとも業界紙は、開店の当初から南海ビルの店賃負担の重さを懸念材料として伝えていた[35]

  • 高島屋 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1930年12月 商号を株式会社髙島屋へ変更し大阪難波の南海ビル内に南海店を開設
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [33]呉服店の名称では百貨店の性格に不十分として改称
  • 大阪時事新報 1936年7月17日
    • [34]地下鉄第一期工事 梅田・難波間の開通は1933年5月
  • 中外商業新報 1930年10月2日
    • [35]南海ビルの店賃負担の重さを開店当初から懸念

1932年7月に南海支店の全館が開店し、延1万3,000坪の近代的百貨店が姿を現した[36]。翌1933年1月には資本金を1400万円へ積み増し、地上八階地下二階・延8,800坪の東京支店を新築する[37]。同年3月には東京店を日本橋へ移転し、大阪と東京に大型店を並べる体制[38]が整った。1936年の業界紙は、心斎橋から難波にかけて高島屋・大丸・十合が大玄関を構える御堂筋沿道を大阪の商店街と評しており[39]、難波への賭けは都市の成長とともに回収されていった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [36]昭和7年(1932年)7月 南海支店の全館開店、延1万3000坪
    • [37]昭和8年(1933年)1月 資本金1400万円へ増資、地上8階地下2階延8800坪の東京支店を新築
  • 高島屋 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1933年3月 東京店を東京都中央区日本橋に移転
  • 大阪時事新報 1936年7月17日
    • [39]1936年の業界紙による評 心斎橋・難波間の御堂筋沿道=高島屋・大丸・十合が大玄関を構える大阪のショッピング街
  • 高島屋 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1919年8月20日 株式会社髙島屋呉服店へ組織変更、本店京都・店舗を大阪心斎橋筋と東京南伝馬町に
    • [32]1930年12月 商号を株式会社髙島屋へ変更し大阪難波の南海ビル内に南海店を開設
    • [38]1933年3月 東京店を東京都中央区日本橋に移転
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [30]株式会社改組時の資本金300万円
    • [33]呉服店の名称では百貨店の性格に不十分として改称
    • [36]昭和7年(1932年)7月 南海支店の全館開店、延1万3000坪
    • [37]昭和8年(1933年)1月 資本金1400万円へ増資、地上8階地下2階延8800坪の東京支店を新築
  • 京城日報 1928年6月7日
    • [31]1928年の業界記事が三越を富裕層向け、高島屋と松坂屋を実質本位の大衆向けと並置
  • 大阪時事新報 1936年7月17日
    • [34]地下鉄第一期工事 梅田・難波間の開通は1933年5月
    • [39]1936年の業界紙による評 心斎橋・難波間の御堂筋沿道=高島屋・大丸・十合が大玄関を構える大阪のショッピング街
  • 中外商業新報 1930年10月2日
    • [35]南海ビルの店賃負担の重さを開店当初から懸念

大陸への活路と、集中排除法の指定

日華事変が始まると百貨店は統制の強化、売場の供出、就業禁止といった制約を受けた[40]。国内で伸びしろを失った高島屋は活路を大陸に求め、新京や奉天をはじめ朝鮮・満州・中国の各地へ支店と出張所を置いている[41]。国内では1939年2月に大阪長堀支店を南海支店へ統合して大阪支店とし[42]、1944年3月には本店所在地を京都市から大阪市南区難波へ移し[43]、創業の地に置かれていた本店が関西の商業地へ動いた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [40]日華事変で百貨店は統制強化・売場供出・就業禁止の制約を受ける
    • [41]活路を大陸に求め新京・奉天はじめ鮮満華の各地に支店および出張所
    • [42]昭和14年(1939年)2月 大阪長堀支店を南海支店に統合して大阪支店とする
  • 高島屋 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1944年3月 本店所在地を京都市から大阪市南区難波に移転

終戦とともに機構を再編し、1945年9月には丸高・丸高食品・第二丸高食品・第五丸高食品をそれぞれ吸収合併した[44]。しかし物資不足と統制経済の影響で経営上の困難は依然として続き、1947年2月には過度経済力集中排除法による指定を受ける[45]。分割の対象に挙げられたものの、この指定は同年5月に取り消され、解体を免れた[46]。設備の拡充に充てる資金は増資でまかない、1947年9月に3000万円、1948年7月には7500万円へと資本金を積み増している[47]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [44]昭和20年(1945年)9月 丸高・丸高食品・第二丸高食品・第五丸高食品を吸収合併
    • [45]昭和22年(1947年)2月 過度経済力集中排除法による指定
    • [46]同指定は昭和22年(1947年)5月に取り消し
    • [47]資本金 1947年9月 3000万円・1948年7月 7500万円

戦災からの復旧は仮建築から始まり、1946年12月に戦前からの懸案だった京都四條店の仮建築が完成した[48]。1948年9月には大陸各地の支店を正式に廃止したうえで和歌山と別府に支店を置き[49]、戦前の大陸展開を清算している。翌1949年には東京・大阪の両支店にエクスポートバザーを設けて外国人客の取り込みを図っており[50]、占領下の消費に合わせて売り先を組み替えている。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [48]昭和21年(1946年)12月 京都四條店の仮建築が完成
    • [49]昭和23年(1948年)9月 大陸各地の支店を正式に廃止し和歌山および別府に支店を設置
    • [50]昭和24年(1949年)東京・大阪両支店にエクスポートバザーを開設し外人客の吸収を図る
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
    • [40]日華事変で百貨店は統制強化・売場供出・就業禁止の制約を受ける
    • [41]活路を大陸に求め新京・奉天はじめ鮮満華の各地に支店および出張所
    • [42]昭和14年(1939年)2月 大阪長堀支店を南海支店に統合して大阪支店とする
    • [44]昭和20年(1945年)9月 丸高・丸高食品・第二丸高食品・第五丸高食品を吸収合併
    • [45]昭和22年(1947年)2月 過度経済力集中排除法による指定
    • [46]同指定は昭和22年(1947年)5月に取り消し
    • [47]資本金 1947年9月 3000万円・1948年7月 7500万円
    • [48]昭和21年(1946年)12月 京都四條店の仮建築が完成
    • [49]昭和23年(1948年)9月 大陸各地の支店を正式に廃止し和歌山および別府に支店を設置
    • [50]昭和24年(1949年)東京・大阪両支店にエクスポートバザーを開設し外人客の吸収を図る
  • 高島屋 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1944年3月 本店所在地を京都市から大阪市南区難波に移転

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高島屋の沿革1831〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1831〜1918年京の古手商が座売りを捨て、三都に店を構えるまで高島屋創業——義父の屋号「高島屋」を継いだ京の古手・木綿商から三都の呉服系百貨店へ

1831年1月、越前敦賀出身の初代飯田新七氏が、義父で米穀商の高島屋飯田儀兵衛氏から屋号を譲り受け、京都下京区烏丸松原に古着・木綿を扱う店を開いた。義父譲りの『高島屋』の看板は、近江・京間の商圏で築かれた信用を引き継ぐものであった。二代目飯田新七氏が1855年前後に呉服商へ転じ、明治期に洋反物と輸出向けの絹織物・美術染織を加え、1909年の合名会社化と1919年の株式会社化を経て、京都・大阪・東京の三都に店を構える近代企業へと育っていった。

詳細を読む
★★★
古着商を廃して呉服商へ転換★★
宮城造営の装飾を用命
座売りを廃して陳列販売を採用★★
大阪出張所を開設
東京仮出張所を開設
大阪出張所を移転
東京店を移転
大阪店の店舗改築が落成★★
髙島屋飯田合名会社を設立★★
京都店を改築
第一回百選会を開催
東京店を新築移転
1919〜1948年株式会社化と御堂筋への賭け、大陸展開の清算髙島屋呉服店を設立★★
髙島屋に商号変更
南海ビル内に南海店を開設★★★
東京支店を新築開店★★
大阪株式取引所に株式を上場
大阪長堀支店を南海支店に統合
本社を移転★★
丸高・丸高食品など4社を吸収合併
京都四條店の仮建築が完成
過度経済力集中排除法による指定★★
大陸各地の支店を廃止★★
1949〜1995年日本初の転換社債による資金調達と、地域ごとの子会社で広げた全国の店舗網東京・大阪の両支店にエクスポートバザーを設置
日本初の転換社債を発行★★★
東京・大阪の各証券取引所に上場
京都店の第1期増築が完成
創業の地の烏丸店を閉鎖★★
年間売上高が200億円に到達
国鉄新宿駅ビルへの出店を断念★★
横浜髙島屋を設立
ニューヨーク髙島屋を開設★★
横浜店を開設
髙島屋工作所が大阪証券取引所市場第2部に上場
東神開発を設立★★
堺店を開設
玉川店を開設★★
洛西店を開設
関東髙島屋を設立
髙島屋クレジットを設立
TAKASHIMAYA SINGAPORE PTE.LTD.を設立★★
関東髙島屋を吸収合併★★
新宿への旗艦店出店と、35年越しの悲願の実現

1991年11月、高島屋が東京都渋谷区千駄ケ谷への新宿店出店を公表し、1956年に地元の反対で阻まれた新宿進出を35年越しで実現に向かわせた経営判断。社長の日高啓氏が『30年来の悲願』と語った、社運を賭けた首都圏の旗艦店戦略であった。

詳細を読む
★★★
横浜・岐阜・泉北・岡山・米子の5社を吸収合併★★
1996〜2026年新宿と名古屋、二つの旗艦店が分けた明暗総会屋への利益供与で株主代表訴訟が提起★★
新宿店を開設★★
総会屋への利益供与と、株主代表訴訟を全面的に受け入れた和解

1997年4月21日、総会屋への利益供与をめぐって新旧役員が訴えられていた株主代表訴訟が和解で決着した。1994年と1995年の株主総会対策費1億6000万円に使途不明金課税分1000万円を加えた計1億7000万円を、日高啓前社長や田中辰郎社長ら新旧役員九人が連帯して支払い、あわせて以後の株主総会を報道機関へ公開することを約束した。

詳細を読む
★★★
新宿店の売上高が計画を大きく下回る★★
JR東海との共同出資による名古屋出店と、初年度黒字という別解

1997年7月末までに、JR東海が名古屋駅に建設する高層ツインビル『JRセントラルタワーズ』へ入る百貨店の運営会社が『ジェイアール名古屋タカシマヤ』と決まり、高島屋の資本参加とロゴ使用が固まった。2000年3月15日に開業した同店は初年度の売上高608億円・経常利益7億7000万円を計上し、当初二十年と見ていた累積損失の解消を開業四年で終えた。

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★★★
髙島屋工作所を株式交換で完全子会社化
建装事業を髙島屋工作所に営業譲渡
鈴木弘治鈴木弘治氏が社長に就任
鈴木弘治会社分割により米子店を分社化
鈴木弘治会社分割により岡山店・岐阜店・高崎店を分社化
鈴木弘治グループ長期計画を公表
鈴木弘治エイチ・ツー・オー リテイリングと資本業務提携★★
鈴木弘治エイチ・ツー・オー リテイリングとの経営統合を白紙撤回★★
鈴木弘治上海高島屋を開設
木本茂木本茂氏が社長に就任
木本茂ホーチミン髙島屋を開設
木本茂サイアム髙島屋を開設
村田善郎村田善郎氏が社長に就任
村田善郎米子髙島屋の全株式をジョイアーバンに譲渡
村田善郎連結営業損失135億円・当期純損失340億円を計上★★
村田善郎プライム市場に移行
村田善郎立川店の百貨店区画の営業を終了
村田善郎岐阜店を閉鎖
村田善郎連結営業利益575億円・当期純利益395億円を計上
出典・参考
  • 高島屋 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「高島屋」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「高島屋」の項
  • 新日本経済 1956年2月号
  • 実業の世界 1956年8月号
  • 私の証券昭和史(日本経済新聞社、1986年)瀬川美能留
  • 日経流通新聞 1991年11月12日
  • 京城日報 1928年6月7日
  • 中外商業新報 1930年10月2日
  • 大阪時事新報 1936年7月17日

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