1831年、初代飯田新七氏が京都烏丸松原で古着および木綿商を始めた[1]。屋号の『高島屋』は飯田家ゆかりの近江国高島郡にちなむ[2]。開業から20年あまり後の1852年には古着商を廃して呉服へ主力を移し[3]、以後は呉服類の販売に加えて友禅や刺繍の意匠図案の改良に力を入れた[4]。染色技術の向上を図ってビロード友禅を生み出した[5]のもこの時期である。京の同業者が並ぶ烏丸松原の一角[6]で、古手の売買から染織品の作り手へと商いの中身が変わっていった。
1887年の宮城造営に際して装飾の用命を受けた[7]ことが、後年の宮内省御用達につながる端緒となった。翌1888年には従来の座売りを廃し、陳列販売の方法を採用している[8]。客を座敷に上げて番頭が反物を運ぶ座売りは当時の呉服商の常識で、商品を並べて見せる形へ切り替えた判断[9]は、百貨店への移行を先取りするものだった。大阪への進出は行商から始まり[10]、1896年に堂島へ出張所を設け[11]、1898年には心斎橋筋へ移して積極的な宣伝を行い[12]、1907年には店舗改築の落成によって陳列式の百貨店の形態を整えている[13]。
宮内省その他の諸官庁の御用達が増加するに及び[14]、東京にも拠点を置く必要が生じた。1897年に東京日本橋へ仮出張所を設け[15]、1900年には京橋へ店舗を移して貿易品の陳列と呉服の販売を行っている[16]。官需の増加が東京進出の契機になった点は、行商から段を踏んで商圏を広げた大阪とは異なる[17]。京都・大阪・東京という三都の骨格[18]は、この時点でおおむね姿を見せていた。
営業規模の拡大にあわせ、1909年に組織を改めて資本金100万円の髙島屋飯田合名会社を設立した[19]。創業から80年に及んだ個人経営の時代がここで終わり[20]、法人として新たに発足する。社長には四代目飯田新七氏が就任した[21]。1912年に京都店を改築し[22]、翌1913年には第一回百選会を開催している[23]。百選会は流行をリードする催物の嚆矢となり、以後は毎年春秋二回にわたって開かれた[24]。
1916年12月には東京の南伝馬町へ京都様式の店舗を新築し[25]、本格的な陳列販売を開始した[26]。京都で培った意匠と売り方をそのまま東京へ持ち込む構え[27]で、支店を単なる出先ではなく本店と同格の売場として設計している。折しも欧州大戦の好況が業績を押し上げ[28]、株式会社への改組はこの直後に訪れた。
1919年8月20日、組織を変更して株式会社髙島屋呉服店が発足した[29]。資本金は300万円で[30]、本店を京都下京区烏丸通に置き、店舗を京都のほか大阪南区心斎橋筋と東京京橋区南伝馬町に構える三都体制を法人として確定させた。1928年の業界紙は、富裕層向けの三越に対して高島屋と松坂屋を実質本位の大衆向け百貨店として並べており[31]、株式会社化と同じ時期に業界内での立ち位置も定まりつつあった。
1930年12月、商号を『株式会社髙島屋』へ改めるとともに、大阪南区難波の南海ビル内へ南海店を開設した[32]。呉服店という名称では百貨店の実態に合わなくなったための改称[33]である。難波を選んだ前提には当時整備が始まっていた御堂筋の拡幅と地下鉄計画があり、地下鉄第一期工事の梅田・難波間が開通したのは1933年5月[34]で、店の開設は都市インフラの完成を三年近く先取りしている。もっとも業界紙は、開店の当初から南海ビルの店賃負担の重さを懸念材料として伝えていた[35]。
1932年7月に南海支店の全館が開店し、延1万3,000坪の近代的百貨店が姿を現した[36]。翌1933年1月には資本金を1400万円へ積み増し、地上八階地下二階・延8,800坪の東京支店を新築する[37]。同年3月には東京店を日本橋へ移転し、大阪と東京に大型店を並べる体制[38]が整った。1936年の業界紙は、心斎橋から難波にかけて高島屋・大丸・十合が大玄関を構える御堂筋沿道を大阪の商店街と評しており[39]、難波への賭けは都市の成長とともに回収されていった。
日華事変が始まると百貨店は統制の強化、売場の供出、就業禁止といった制約を受けた[40]。国内で伸びしろを失った高島屋は活路を大陸に求め、新京や奉天をはじめ朝鮮・満州・中国の各地へ支店と出張所を置いている[41]。国内では1939年2月に大阪長堀支店を南海支店へ統合して大阪支店とし[42]、1944年3月には本店所在地を京都市から大阪市南区難波へ移し[43]、創業の地に置かれていた本店が関西の商業地へ動いた。
終戦とともに機構を再編し、1945年9月には丸高・丸高食品・第二丸高食品・第五丸高食品をそれぞれ吸収合併した[44]。しかし物資不足と統制経済の影響で経営上の困難は依然として続き、1947年2月には過度経済力集中排除法による指定を受ける[45]。分割の対象に挙げられたものの、この指定は同年5月に取り消され、解体を免れた[46]。設備の拡充に充てる資金は増資でまかない、1947年9月に3000万円、1948年7月には7500万円へと資本金を積み増している[47]。
戦災からの復旧は仮建築から始まり、1946年12月に戦前からの懸案だった京都四條店の仮建築が完成した[48]。1948年9月には大陸各地の支店を正式に廃止したうえで和歌山と別府に支店を置き[49]、戦前の大陸展開を清算している。翌1949年には東京・大阪の両支店にエクスポートバザーを設けて外国人客の取り込みを図っており[50]、占領下の消費に合わせて売り先を組み替えている。
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|---|---|---|---|---|
| 1831〜1918年京の古手商が座売りを捨て、三都に店を構えるまで | 高島屋創業——義父の屋号「高島屋」を継いだ京の古手・木綿商から三都の呉服系百貨店へ 1831年1月、越前敦賀出身の初代飯田新七氏が、義父で米穀商の高島屋飯田儀兵衛氏から屋号を譲り受け、京都下京区烏丸松原に古着・木綿を扱う店を開いた。義父譲りの『高島屋』の看板は、近江・京間の商圏で築かれた信用を引き継ぐものであった。二代目飯田新七氏が1855年前後に呉服商へ転じ、明治期に洋反物と輸出向けの絹織物・美術染織を加え、1909年の合名会社化と1919年の株式会社化を経て、京都・大阪・東京の三都に店を構える近代企業へと育っていった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 古着商を廃して呉服商へ転換 | ★★ | |||
| 宮城造営の装飾を用命 | ★ | |||
| 座売りを廃して陳列販売を採用 | ★★ | |||
| 大阪出張所を開設 | ★ | |||
| 東京仮出張所を開設 | ★ | |||
| 大阪出張所を移転 | ★ | |||
| 東京店を移転 | ★ | |||
| 大阪店の店舗改築が落成 | ★★ | |||
| 髙島屋飯田合名会社を設立 | ★★ | |||
| 京都店を改築 | ★ | |||
| 第一回百選会を開催 | ★ | |||
| 東京店を新築移転 | ★ | |||
| 1919〜1948年株式会社化と御堂筋への賭け、大陸展開の清算 | 髙島屋呉服店を設立 | ★★ | ||
| 髙島屋に商号変更 | ★ | |||
| 南海ビル内に南海店を開設 | ★★★ | |||
| 東京支店を新築開店 | ★★ | |||
| 大阪株式取引所に株式を上場 | ★ | |||
| 大阪長堀支店を南海支店に統合 | ★ | |||
| 本社を移転 | ★★ | |||
| 丸高・丸高食品など4社を吸収合併 | ★ | |||
| 京都四條店の仮建築が完成 | ★ | |||
| 過度経済力集中排除法による指定 | ★★ | |||
| 大陸各地の支店を廃止 | ★★ | |||
| 1949〜1995年日本初の転換社債による資金調達と、地域ごとの子会社で広げた全国の店舗網 | 東京・大阪の両支店にエクスポートバザーを設置 | ★ | ||
| 日本初の転換社債を発行 | ★★★ | |||
| 東京・大阪の各証券取引所に上場 | ★ | |||
| 京都店の第1期増築が完成 | ★ | |||
| 創業の地の烏丸店を閉鎖 | ★★ | |||
| 年間売上高が200億円に到達 | ★ | |||
| 国鉄新宿駅ビルへの出店を断念 | ★★ | |||
| 横浜髙島屋を設立 | ★ | |||
| ニューヨーク髙島屋を開設 | ★★ | |||
| 横浜店を開設 | ★ | |||
| 髙島屋工作所が大阪証券取引所市場第2部に上場 | ★ | |||
| 東神開発を設立 | ★★ | |||
| 堺店を開設 | ★ | |||
| 玉川店を開設 | ★★ | |||
| 洛西店を開設 | ★ | |||
| 関東髙島屋を設立 | ★ | |||
| 髙島屋クレジットを設立 | ★ | |||
| TAKASHIMAYA SINGAPORE PTE.LTD.を設立 | ★★ | |||
| 関東髙島屋を吸収合併 | ★★ | |||
| 新宿への旗艦店出店と、35年越しの悲願の実現 1991年11月、高島屋が東京都渋谷区千駄ケ谷への新宿店出店を公表し、1956年に地元の反対で阻まれた新宿進出を35年越しで実現に向かわせた経営判断。社長の日高啓氏が『30年来の悲願』と語った、社運を賭けた首都圏の旗艦店戦略であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 横浜・岐阜・泉北・岡山・米子の5社を吸収合併 | ★★ | |||
| 1996〜2026年新宿と名古屋、二つの旗艦店が分けた明暗 | 総会屋への利益供与で株主代表訴訟が提起 | ★★ | ||
| 新宿店を開設 | ★★ | |||
| 総会屋への利益供与と、株主代表訴訟を全面的に受け入れた和解 1997年4月21日、総会屋への利益供与をめぐって新旧役員が訴えられていた株主代表訴訟が和解で決着した。1994年と1995年の株主総会対策費1億6000万円に使途不明金課税分1000万円を加えた計1億7000万円を、日高啓前社長や田中辰郎社長ら新旧役員九人が連帯して支払い、あわせて以後の株主総会を報道機関へ公開することを約束した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 新宿店の売上高が計画を大きく下回る | ★★ | |||
| JR東海との共同出資による名古屋出店と、初年度黒字という別解 1997年7月末までに、JR東海が名古屋駅に建設する高層ツインビル『JRセントラルタワーズ』へ入る百貨店の運営会社が『ジェイアール名古屋タカシマヤ』と決まり、高島屋の資本参加とロゴ使用が固まった。2000年3月15日に開業した同店は初年度の売上高608億円・経常利益7億7000万円を計上し、当初二十年と見ていた累積損失の解消を開業四年で終えた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 髙島屋工作所を株式交換で完全子会社化 | ★ | |||
| 建装事業を髙島屋工作所に営業譲渡 | ★ | |||
| 鈴木弘治 | 鈴木弘治氏が社長に就任 | ★ | ||
| 鈴木弘治 | 会社分割により米子店を分社化 | ★ | ||
| 鈴木弘治 | 会社分割により岡山店・岐阜店・高崎店を分社化 | ★ | ||
| 鈴木弘治 | グループ長期計画を公表 | ★ | ||
| 鈴木弘治 | エイチ・ツー・オー リテイリングと資本業務提携 | ★★ | ||
| 鈴木弘治 | エイチ・ツー・オー リテイリングとの経営統合を白紙撤回 | ★★ | ||
| 鈴木弘治 | 上海高島屋を開設 | ★ | ||
| 木本茂 | 木本茂氏が社長に就任 | ★ | ||
| 木本茂 | ホーチミン髙島屋を開設 | ★ | ||
| 木本茂 | サイアム髙島屋を開設 | ★ | ||
| 村田善郎 | 村田善郎氏が社長に就任 | ★ | ||
| 村田善郎 | 米子髙島屋の全株式をジョイアーバンに譲渡 | ★ | ||
| 村田善郎 | 連結営業損失135億円・当期純損失340億円を計上 | ★★ | ||
| 村田善郎 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 村田善郎 | 立川店の百貨店区画の営業を終了 | ★ | ||
| 村田善郎 | 岐阜店を閉鎖 | ★ | ||
| 村田善郎 | 連結営業利益575億円・当期純利益395億円を計上 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(高島屋)