新宿への旗艦店出店と、35年越しの悲願の実現
1956年に地元の反対で阻まれた新宿進出を、高島屋はなぜ35年後に社運を賭けて選び直したのか
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- 概要
- 1991年11月、高島屋が東京都渋谷区千駄ケ谷への新宿店出店を公表し、1956年に地元の反対で阻まれた新宿進出を35年越しで実現に向かわせた経営判断。社長の日高啓が「30年来の悲願」と語った、社運を賭けた首都圏の旗艦店戦略であった。
- 背景
- 1956年に国鉄新宿駅ビルへの参画を地元商店街の反対で断念して以来、高島屋の東京での旗艦店は日本橋本店一店にとどまり、関西で強く東京で弱い収益の偏りが20年以上にわたって残されていた。
- 内容
- 千駄ケ谷に年商1600億円を見込む巨艦店を出し、日本橋店と新宿店の二核で首都圏のシェアを高める構想。人件費を抑えた軽装備の店舗で開店5年後の単年度黒字をめざし、1996年10月にタカシマヤタイムズスクエアとして開業した。
- 含意
- 悲願は実現したが、売上は計画に遠く及ばず、借地に伴う重い賃料が長期の課題として残った。滅多に出店チャンスのない一等地への渇望と、投資回収の設計をどう両立させるかという、経営判断の難しさを映す事例であった。
悲願と、巨額賃料という重し
この決断の核心は、35年前に一度は手放した市場を、老舗があらためて社運を賭けて選び直した点にある。新宿は鉄道が幾重にも交わる首都圏随一の商圏であり、そこに核店舗を持てなかったことは、高島屋の東京での弱さを長く決定づけていた。日高社長が「30年来の悲願」と語ったのは、単なる感慨ではなく、日本橋一店に縛られてきた東京戦略の限界を正面から認める言葉であったとみることができる。挫折の記憶を抱えたまま、あえて同じ市場へ二度目の賭けに出た点に、この判断の重さがうかがえる。
もっとも、悲願の実現がそのまま成功を意味したわけではなかった。計画に遠く及ばない売上と重い賃料は、店を持つことと利益を上げることの間にある距離を、長期にわたって高島屋に突きつけた。土地を借りて巨艦店を構える形は、身軽さをねらいながら、賃料という固定費で経営を縛る両刃の選択でもあった。悲願をかなえることと、それを採算に乗せることは別の問題である。新宿店の歩みは、立地への渇望が強いほど回収の設計が問われるという、出店という経営判断の普遍的な難しさを今日に伝えているとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
1956年、新宿駅ビル進出の挫折
高島屋は東京での店舗網を広げる過程で、1955年から1956年にかけて国鉄新宿駅の駅ビル開発への参画をめざした。当時の社長飯田直次郎は「新宿民衆駅が建設された暁には、高島屋の進出を許可してほしい」と国鉄への陳情を重ね、増え続ける新宿の乗降客を取り込む首都圏の足がかりを描いた。呉服店を起源とする高島屋にとって、東京の旗艦店は日本橋本店にとどまっており、鉄道の結節点である新宿に店を構えることは、関西へ偏った収益の地理を東へ広げる好機と映っていた[1]。
これに対し新宿の地元商店街は「新宿駅百貨店進出反対期成同盟」を結成し、駅構内に百貨店が入れば乗降客の大半が吸収され、新宿はもとより中央線・京王・小田急沿線の商店までもが死活問題に直面すると主張した。先行した東京駅大丸の例が反対の論拠となり、駅という公共の空間を一企業が占める形が地元の警戒を集めた。行政は地元の声を採り、1956年8月の業界誌は計画撤回を伝えた。首都圏の核店舗を新宿で持てなかった事実は、その後20年以上にわたって高島屋の東京での基盤を日本橋本店一店に縛り続けた[2][3]。
日本橋一店体制という積み残し
新宿での挫折は、東京での旗艦店戦略を長く一店体制のまま据え置いた。高島屋は全国へ多店舗を広げる一方で、1970年代には岡山・岐阜・高崎・泉北と地方子会社を相次いで設け、十を超える地域会社を抱える分散した組織を生んだ。首都圏の中心に核店舗を欠いたまま、関西で強く東京で弱い偏りは残された。1990年9月に関東髙島屋を合併して首都圏の営業基盤を整えたことは、35年前に手放した新宿への再挑戦を現実の射程に入れる布石となった[4]。
決断
35年越しの再挑戦——千駄ケ谷への出店公表
1991年11月、高島屋は東京都渋谷区千駄ケ谷に新宿店を出すと公表し、1956年に阻まれた新宿進出を35年越しで実現に向かわせた。社長の日高啓は「新宿出店は30年来の悲願だっただけに、熱意が認められたのではないか」と述べ、「首都圏の大きな核店舗にする。日本橋の東京店と新宿店を核にしてシェアを高めていきたい」と、二つの旗艦店で東京の競争に臨む構図を示した。長く一店体制に縛られてきた東京戦略を、二核体制へ組み替える転換であった[5]。
もっとも、悲願の裏には重い投資が控えていた。当初の年商は約1600億円を見込んだが、業界紙は1000億円を軽く超えるとみられる投資額の重さを指摘し、20年先を見据えた賭けと位置づけて報じた。日高社長は「開店5年後で単年度黒字を達成したい」「新宿商圏はまだまだ広がるはずで、大いに期待できる。そのためには、人件費も含めて軽装備の店舗にする」と語り、規模と身軽さの両立を目標に掲げた。長年の望みの実現と採算の確保をどう両立させるかが、出店の当初から問われていた[6]。
退路を断つための地方再編
新宿への賭けは、グループの足元を固める作業と表裏で進んだ。バブル崩壊後の地方百貨店の不振で単独採算が難しくなるなか、高島屋は1995年9月に横浜・岐阜・泉北・岡山・米子の各髙島屋を一括合併し、分散していた地域会社を本体へ束ねた。1990年の関東髙島屋合併に続く二度目の集約であり、財務体質を立て直して新宿店の開業に備える、退路を断った再編にあたる。老舗の看板を守るだけでは巨艦店を支えきれないという危機感が、組織の作り替えを促していた[7]。
結果
1996年開業と、計画に届かぬ回収
新宿店は1996年10月、タカシマヤタイムズスクエアとして開業した。しかし、計画した年商1600億円に対し、2013年2月期の売上高は637億円にとどまり、当初の見込みとのへだたりは埋まらないまま残った。土地を保有せず借りて店を構えた選択は、開業後に重い負担として表れた。賃料をめぐっては国鉄清算事業団の後継組織との間で裁判にもつれ込み、業界紙は年70億円規模の賃料負担と目標との乖離を、20年に及ぶ勉強代として総括する論調も伝えた。悲願の実現は、立地と賃料の重さという別の課題を高島屋に残した[8][9]。
転機は、開業から十数年を経て外から訪れた。2013年3月に東急東横線と東京メトロ副都心線の相互直通運転が始まると、渋谷方面からの人の流れが変わり、新宿店の集客を後押しした。直通開始直後の3月2日から28日の売上高は前年同期比で7.5%増え、開業以来の重い損益に一つの転機が生じた。1956年の阻止、1991年の出店公表、2013年の流動回復という35年を超える軌跡は、店の成否が自前の努力だけでなく、鉄道網という都市の骨格に強く左右されることを示していた[10]。
- 新日本経済(1956年2月)
- 実業の世界(1956年8月)
- 日経流通新聞(1991年11月12日)
- 日本経済新聞(1991年11月7日)
- 日経MJ(2013年12月2日)
- 高島屋 有価証券報告書【沿革】