高島屋高島屋創業——義父の屋号「高島屋」を継いだ京の古手・木綿商から三都の呉服系百貨店へ
越前敦賀出身の初代飯田新七 氏は、義父から譲られた「高島屋」の屋号と京の古手・木綿の商圏を、どのように三都体制の呉服系百貨店へ育てたか
- 概要
- 1831年1月、越前敦賀出身の初代飯田新七 氏が、義父で米穀商の高島屋飯田儀兵衛 氏から屋号を譲り受け、京都下京区烏丸松原に古着・木綿を扱う店を開いた。義父譲りの「高島屋」の看板は、近江・京間の商圏で築かれた信用を引き継ぐものであった。二代目飯田新七 氏が1855年前後に呉服商へ転じ、明治期に洋反物と輸出向けの絹織物・美術染織を加え、1909年の合名会社化と1919年の株式会社化を経て、京都・大阪・東京の三都に店を構える近代企業へと育っていった。
- 背景
- 京都下京区の烏丸松原は呉服や古手を扱う同業者が集まる一帯で、初代飯田新七 氏の店もこの古手・木綿の流通網に組み込まれていった。屋号「高島屋」は義父・高島屋飯田儀兵衛 氏の出身地である近江国高島郡に由来し、近江商人の商圏で培われた信用を看板として借り受けて開業した。西陣を背後に控えた京都では、烏丸松原一帯の小売が古手・木綿から利幅の大きい呉服へ品目を広げる余地を残していた。
- 内容
- 二代目飯田新七 氏は初代の娘婿として家督を継ぎ、1855年前後に店の主力を古着・木綿から呉服へ切り替えた。明治期に入ると洋反物の取り扱いを始め、輸出向けの絹織物や美術染織へ商いを広げた。1909年に髙島屋飯田合名会社、1919年8月に株式会社髙島屋呉服店へ改組し、京都本店に加え大阪南区心斎橋筋と東京京橋区南伝馬町に店を構える三都体制を法人として確立した。
- 含意
- 1930年12月、髙島屋は商号を「株式会社髙島屋」へ改め、御堂筋の整備を見込んで大阪難波の南海ビル内に南海店を開いた。1933年3月には東京店を日本橋へ移し、同月に大阪・東京の両証券取引所へ株式を上場して、家業の呉服商から三都を結ぶ株式公開の近代百貨店へと姿を変えた。義父の屋号を借りて始めた京の古手商が、大衆に開かれた百貨店へ育つまでに、創業から102年が経過していた。
屋号を借りて始めた家業が百貨店になるまで
この創業が示すのは、自ら一から看板を立てたのではなく、義父の屋号と近江・京間で培われた信用を受け継いで商いを始めた経緯である。初代飯田新七 氏が掲げた「高島屋」は米穀商の屋号であり、古手・木綿という日常の衣料を商う地味な家業として、京の商業地の一角から出発している。既存の信用を看板として借り受け、そこに自らの商いを重ねていく歩みは、のちに呉服から百貨店へと商材を広げていく過程にも通じているとみられる。
もう一つ見えてくるのは、家業の連続性を保ちながら商材と販路を組み替えていった歩みである。古着・木綿から呉服へ、呉服から雑貨・食品を含む総合的な小売へと品目を広げ、京都・大阪・東京の三都へ店を重ねていった過程は、屋号と家督を代々受け継ぐ家業の枠のなかで進められたと読める。義父の屋号を借りて始めた小さな古手商が、御堂筋の整備という都市の変化に合わせて難波へ大型店を構え、両証券取引所への上場に至るまでには、創業から一世紀を超える時間が費やされていた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
義父の屋号と近江商人の信用
初代飯田新七 氏は1803年に越前国敦賀で生まれ、京都へ出て米穀商・高島屋飯田儀兵衛 氏の養子に入った[1]。儀兵衛 氏は近江国高島郡の出身で、京都市中で米穀を商いつつ「高島屋」の屋号を掲げていた。屋号「高島屋」は儀兵衛 氏の出身地である近江国高島郡に由来し、近江から京へ広がる商圏のなかで信用を積み重ねてきた看板であった[2]。新七 氏は養子として、この屋号と京での商いの縁を受け継ぐ立場に置かれ、のちに義父の援助を得て自らの店を構える下地を得ていった。
新七 氏が店を構えた京都下京区の烏丸松原は、呉服や古手を扱う同業者が集まる一帯で、新七 氏の店もこの古手・木綿の流通網のなかに組み込まれていった[3]。京都は西陣を中心とする呉服生産地を背後に控え、烏丸松原一帯の小売は古手・木綿から呉服へと品目を広げる余地が大きかった。義父譲りの屋号を掲げた小さな店は、京の都市生活者を主な客とする家業として、この商業地の一角で商いを始めていった。屋号の地名由来は後年まで社内で語り継がれ、現在の社名にも残っている。
決断
烏丸松原の古手・木綿商として開業
1831年1月、初代飯田新七 氏は義父・高島屋飯田儀兵衛 氏の援助を受けて京都下京区烏丸松原に独立し、古着と木綿を扱う店を構えた[4]。義父譲りの屋号「高島屋」をそのまま掲げたことで、近江・京間の商圏で築かれた信用を引き継ぐ格好で商いを始めていった。創業期の店は初代新七 氏と一族・奉公人による少人数の体制で、京の都市生活者を主な客に据えていた。華やかな呉服ではなく、古手と木綿という日常の衣料を商う地味な家業から、髙島屋の歴史は始まっている。
初代新七 氏の没後、その娘婿が二代目飯田新七 氏を襲名して家業を継いだ。二代目新七 氏は1855年前後に店の主力を古着・木綿から呉服へ切り替え、本店を呉服商として再編していった[5]。西陣を背後に控えた京都では、烏丸松原一帯の小売が利幅の大きい呉服へ品目を広げる余地を残していた。明治期に入ると二代目新七 氏は国内呉服に加えて洋反物の取り扱いを始め、輸出向けの絹織物や美術染織の発送も手がけ、京の小規模な古手商から始まった商いを輸出を含む呉服商へ広げていった[6]。
結果
二段階の法人化と三都体制
1909年、髙島屋飯田合名会社が設立され、京都本店を中心とする一族経営の店舗群が一つの法人の傘の下にまとめられた[7]。同年には大阪南区心斎橋筋にも店舗が置かれ、京都・大阪の二都に店を構える体制が動き始めた。第一次世界大戦期の繊維需要の拡大と店舗網の広がりを受けて、1919年8月に株式会社髙島屋呉服店へ改組し、株式の譲渡を通じて出資者を広げられる近代株式会社の枠組みを取り入れた[8]。京都本店に加え大阪南区心斎橋筋と東京京橋区南伝馬町にも店を構え、三都で同時に店舗を運営する体制が法人として整った。
三都に店を広げた時期、百貨店の業態そのものが富裕層向けから大衆向けへと転じていた。1928年6月の業界記事は、かつての「今日は帝劇明日は三越」の時代が去り、「われ等の高島屋であり、実質本位の松坂屋」(京城日報 1928/6/7)へと移り変わっていると書き、富裕層に特化する三越に対して、高島屋を大衆に開かれた実質本位の店として描いた[9]。古手・木綿から呉服へ、さらに雑貨や食品を扱う総合的な小売へと商いを広げるなかで、高島屋は都市の勤労層を主な客とする百貨店へ姿を変えていった。
われ等の高島屋であり、実質本位の松坂屋
南海店出店と両証取上場
大阪では御堂筋の拡幅と地下鉄計画が動き出していた。1923年10月の報道は「南北幹線の西横堀線の高架式を廃し、これを御堂筋線に持って来て地下線に変更する」(大阪朝日新聞 1923/10/6)と伝え[10]、難波を南端とする都市インフラの整備が具体化していった。1930年12月、髙島屋は商号を「株式会社髙島屋」に改めると同時に、大阪南区難波の南海ビル内へ南海店を開いた[11]。開店を前に業界紙は「新興の高島屋が南海へのあの高い店賃をどうして稼ぎ出すだろうか」(中外商業新報 1930/10/2)と店賃負担の重さを気にかけており[12]、難波への出店は都市インフラの整備を見込んだ資本集約の判断であった。
1933年3月、髙島屋は東京店を京橋区南伝馬町から日本橋区日本橋へ移し、同月に大阪証券取引所へ株式を上場し、続いて東京証券取引所にも上場した[13]。1928年末の業界紙は「大大阪の百貨店は歳が越えていよいよ凄じい戦いを開こうとしている」(大阪時事新報 1928/12/16)と大阪での競争の激化を伝えていた[14]。そのなかで高島屋は三都を結ぶ株式公開企業として近代百貨店の業態を整え、家業として始まった呉服商が公開資本市場から資金を調達する企業へ至るまでに、創業から102年が経過していた。1944年3月には本店を京都市から大阪市南区難波へ移し、関西を経営の主軸に据えて戦時期を迎えている[15]。
南北幹線の西横堀線の高架式を廃し、これを御堂筋線に持って来て地下線に変更する
新興の高島屋が南海へのあの高い店賃をどうして稼ぎ出すだろうか
大大阪の百貨店は歳が越えていよいよ凄じい戦いを開こうとしている
- 髙島屋百五十年史
- 有価証券報告書(沿革)
- 京城日報 1928/6/7
- 中外商業新報 1930/10/2
- 大阪朝日新聞 1923/10/6
- 大阪時事新報 1928/12/16