パルコ の歴史

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創業 1953年
母体 増田通二(1969年の業態転換)
創業地 東京都豊島区南池袋
創業
1953年2月、国鉄池袋駅東口ビルの改装と運営を目的として、東京都豊島区南池袋に池袋ステーションビル株式会社が設立された。翌1954年10月、京都の百貨店である丸物の資本参加を受けて事業目的を百貨店業へ変更し、1957年5月に商号を東京丸物へ改めて、同年12月に池袋で百貨店営業を始めた。しかし1960年代の売場面積の拡張競争に対抗できず、1966年に西武百貨店へ買収された時点で累積赤字は18億円、月々2億円の赤字を出す月もあった。当時の池袋はファッションとは縁遠い土地柄で、駅前の一等地という条件だけが手元に残された。
決断
自ら商品を持たないと決めたことが、以後の判断をすべて規定している。1969年6月に店を閉じ、11月の池袋パルコ開店で商品を仕入れて売る立場からテナントに場所を貸す立場へ移った。1973年6月には駅から900メートル離れた坂の上に渋谷パルコを開設し、公園通りの整備と広告で坂を上る行為そのものに値をつけた。広告宣伝費はテナント売上高合計の3%と定め、パルコとテナントで2対1に分担する。核となる百貨店を置かない専門店の集合体では、広告そのものが集客の機能を担ったからである。仕入をやめた代わりにテナントから預かった保証金は112億円へ達し、固定負債の70%強を占める無利息の資金が出店の速度を支えた。
現況
パルコの独立を最後に脅かしたのは、競合ではなく株主だった。2010年8月、筆頭株主の森トラストから持株比率49%までの増資を提案されたパルコは、増資を決議せず日本政策投資銀行へ新株予約権付社債150億円を発行した。翌2011年3月にはイオンと森トラストが議決権45%強で共同行使に合意し、社長の退任と取締役の派遣、将来の子会社化を求める。パルコは平野秀一社長の退任と引き換えに株主提案を取り下げさせたが、守られた独立は1年あまりで終わり、2012年8月にJ.フロント リテイリングが親会社となった。2018年2月期からは国際会計基準を適用してテナント売上の総額計上をやめ、賃料を純額で計上する方式へ移った。2020年3月には完全子会社化により上場を廃止する。商品を持たない設計は身軽さを与えたが、賃料以外に守るべき資産のない会社は、株式を集める側から見て最も入手しやすい対象になった。
競合
パルコが競ったのは商品の品揃えではなく、街を歩かせる仕組みだった。駅から離れた坂の上や、ファッションとは縁遠い池袋のような場所を選び、劇場・出版・広告で人の流れを作ってから売場を埋めている。同じ小売業でも、丸井が消化仕入れから定期借家中心へ収益構造を移したのは2015年で、自社で仕入れて売る立場を手放すまでに46年の差があった。一方、1990年代以降は郊外の大型ショッピングセンターへ主力を移したイオンが車で来る客を郊外へ引き取り、駅前の商業施設は都心の大型店と競う立場に置かれる。2013年から広告を打たない小型のゼロゲートを主力の出店形態にしたのは、街に人を集める費用を負わずに一等地の通行量だけを使う設計へ寄せたからである。
パルコ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年2月期2019年2月期
パルコにおける経営の転換点(その1) Q なぜ1969年に東京丸物は百貨店をやめ、テナントに場所を貸す会社へ変わったのか
A 小売業は商品・サービス・建物のどれを直しても、客がその店に抱いた印象までは覆せない。改善すべき変数が多いうえ、最後の一つが自社の手の外にある。再建を託された増田通二氏の診断はそこにあった。直すべきは個々の売場ではなく、稼ぎ方そのものであった。1966年に西武百貨店へ買収された時点で東京丸物は累積赤字18億円を抱え、月々2億円の赤字を出す月もあった。増田氏は商品を仕入れて売る立場を捨て、専門店に場所を貸して賃料を得る立場へ移った。1969年11月に池袋パルコが開店し、翌1970年4月に商号もパルコへ改まった
パルコにおける経営の転換点(その2) Q なぜ2011年のパルコは、社長の退任と引き換えに独立を選んだのか
A 議決権で対抗できない以上、相手が矛を収める最小の対価を探すほかなかった。イオンと森トラストは議決権の共同行使で合意し、合算比率は45%強に達している。イオンは事業提携に加えて平野秀一社長の退任、最高経営責任者を含む取締役の派遣、将来的な子会社化を求めた。パルコが差し出したのは、資本でも事業でもなく社長の職であった。社長ひとりを替えれば矛を収めるという線を森トラストが受け入れ、株主提案は総会前に取り下げられる。ただし守られた独立は1年あまりしか続かず、2012年8月にJ.フロント リテイリングが親会社となった
パルコにおける経営の転換点(その3) Q なぜJ.フロント傘下入り後のパルコは、広告を打たない「ゼロゲート」を主力の出店形態にしたのか
A 賃料を固定して広告費を負わなければ、テナントの売上変動から切り離された安定収益になる。ゼロゲートは広告や販売促進を原則行わず、パルコは不動産賃貸だけを担う方式であった。1975年度にテナント売上高の3%にあたる約14億円を広告に投じ、その支出で客を動かしてきた収益の作り方とは原理が異なる。連結の経常利益は2013年2月期の103億円から2016年2月期の127億円まで伸び、業績の面ではこの選択が奏功した。ただし空間と情報で付加価値をつけてきたかつての姿からは、稼ぎ方が遠ざかったと推定される。

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パルコの沿革1953〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1953〜1968年池袋の駅前ビルが百貨店を志し、15年かけて行き詰まるまで池袋ステーションビルを設立
丸物の資本参加を得て、事業目的をステーションビル運営から百貨店業に変更★★
池袋ステーションビルを東京丸物に商号変更
店名「東京丸物」で百貨店業を開始
東京丸物が社団法人日本証券業協会大阪地区協会の「登録銘柄」に登録
1969〜1988年小売業をやめて不動産業になる ―― 空間に値をつけた20年「東京丸物」を閉店★★
「パルコ」の開設準備に着手★★
百貨店業からの撤退と、専門店に場所を貸すファッションビル運営への転換

1969年、東京丸物は百貨店の営業をやめ、専門店に場所を貸すファッションビルの開発・運営業へ全面転換した。累積赤字18億円を抱え『死に体』と呼ばれた会社の再建を託された増田通二氏が、小売業として建て直す道は無いと診断し、自社を『不動産屋』と規定し直した判断であった。

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★★★
パルコに商号変更
東京パルコが「渋谷パルコ」を開店★★
「パルコ劇場」の運営を開始
東京パルコを吸収合併
「札幌パルコ」を開店
「吉祥寺パルコ」を開店
東京証券取引所市場第二部に株式上場
パルコプロモーション設立
1989〜2009年後ろ盾を失った20年 ―― 停滞する売上と組織の作り替えハウスカード「PECカード」の発行開始
「名古屋パルコ」を開店
PARCO (SINGAPORE) PTE LTD設立
「ひばりが丘パルコ」を開店
「広島パルコ」を開店
「宇都宮パルコ」を開店
パルコ・シティを設立
ヌーヴ・エイ営業開始
伊東勇「委員会等設置会社」に移行
伊東勇「Pedi(ペディ)汐留」を開店。(東京汐留ビルディング内)
伊東勇「静岡パルコ」を開店
2010〜2020年二年におよぶ資本の攻防と、完全子会社化による上場廃止平野秀一森トラストの増資提案の見送りと、日本政策投資銀行への新株予約権付社債150億円の発行

2010年1月、筆頭株主の森トラストはパルコに対し、第三者割当増資で持ち株比率を49%まで引き上げる案を正式に申し込んだ。パルコは7月に取締役会で決まらなかったと回答し、翌8月、日本政策投資銀行と資本業務提携を結んで約150億円の新株予約権付社債を発行した。33%強を握る筆頭株主に事前の説明はなかった。

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★★★
平野秀一イオン・森トラスト連合による経営支配要求の拒否と、平野秀一社長の退任

2011年2月にパルコ株12.31%を取得して第2位株主となったイオンは、3月に平野秀一社長の退任と最高経営責任者を含む取締役の派遣、将来的な子会社化を要求した。筆頭株主の森トラストも経営陣刷新の株主提案で同調し、両社の議決権は45%強に達した。パルコは統合を拒み、平野秀一氏(社長)の退任と引き換えに株主提案を取り下げさせている。

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★★★
牧山浩三J.フロント リテイリングが親会社に★★
牧山浩三「心斎橋ゼロゲート」、「道頓堀ゼロゲート」を開店
牧山浩三建替えのため2016年8月に休業していた「渋谷パルコ」を、複合施設として開業
牧山浩三J.フロント リテイリングの完全子会社となり、東京証券取引所市場第一部を上場廃止★★
デベロッパー事業(一部を除く)をJ.フロント都市開発に承継★★
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 会社銀行八十年史(1955年)
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号
  • 証券 1987年39巻3号

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