パルコ百貨店業からの撤退と、専門店に場所を貸すファッションビル運営への転換

累積赤字18億円の百貨店を、増田通二氏はなぜ「不動産屋」と定義し直したか

時期 1969年11月
意思決定者(推定) 増田通二 専務
論点 業態転換と経営再建
概要
1969年、東京丸物は百貨店の営業をやめ、専門店に場所を貸すファッションビルの開発・運営業へ全面転換した。累積赤字18億円を抱え「死に体」と呼ばれた会社の再建を託された増田通二氏が、小売業として建て直す道は無いと診断し、自社を「不動産屋」と規定し直した判断であった。
背景
1953年に池袋駅前のターミナルビル会社として発足し、翌年に丸物の資本参加を受けて百貨店業へ転じたが、隣接する西武百貨店に対して品揃えでも歴史でも後発の位置に置かれた。営業不振は十年以上続き、1966年に西武百貨店が買収した時点で累積赤字は18億円に達していた。
内容
1969年6月に東京丸物を閉店し、同年11月に池袋パルコを開店、1970年4月に商号をパルコへ改めた。商品を仕入れて売る立場を捨ててテナントに場所を貸す立場へ移り、広告宣伝費は専門店の売上高合計の3%をパルコとテナントで2対1に分担する仕組みを敷いた。
含意
営業収入は1972年2月期の約10億円から1977年2月期に70億円の見込みまで伸び、1976年2月期には13年ぶりの復配を果たした。一方で保証金112億7600万円と借入金の増加により金融収支は支払い超過へ転じ、出店を続けるほど財務が膨らむ構造を同時に抱え込んだ。
筆者の見解

売り物ではなく、値段の付け方を変えた

この判断を、不振の百貨店が業態を変えて成功した例と読むだけでは足りない。増田通二氏が変えたのは売り物ではなく、値段の付け方であった。小売業は商品・サービス・建物のすべてを直しても客の印象が残れば効かない——その診断が正しいなら、直すべきは店ではなく稼ぎ方そのものになる。自社を「賃料で食ってる不動産屋」と規定し、駅から遠ければ安いという当たり前から出発したところに、この転換の芯があるとみることができる。

もっとも、貸す側に回ったことで新たな重荷も抱え込んだ。預かり保証金112億7600万円は固定負債の70%強を占め、長短借入金も65億4000万円まで増えて金融収支は支払い超過へ転じた。出店を続けるほど預かり金と利息が同時に膨らむ構造であり、賃料収入の伸びがそれを上回るかは転換の時点で見通せなかった。増田氏自身も1988年の利益供与の発覚を経て翌年に去った。値づけの原理は残り、それを立てた人は残らなかったとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

百貨店として立てなかった十五年

パルコの前身は、1953年2月に東京都豊島区南池袋で設立された池袋ステーションビル株式会社であった。国鉄池袋駅前のターミナルビルを運営する会社として発足したが、翌1954年10月に京都の百貨店である丸物の資本参加を受け、事業目的をビル運営から百貨店業へ変更する。1957年5月には商号も東京丸物へ改め、同年12月に百貨店としての営業を始めた。駅前の不動産会社が、わずか4年で小売業者へ姿を変えている[1][2]

しかし東京丸物は百貨店として立てなかった。池袋には隣接して西武百貨店が構え、品揃えでも歴史でも先行する相手を後から追う位置に置かれる。営業不振は十年以上続き、1966年に西武百貨店が同社を買収した。買収の時点で累積赤字は18億円に達し、月々2億円の赤字を出す月もあった。再建を託されて送り込まれた増田通二氏は当時を「もうダメかと思った」と振り返っており、同氏の表現によれば東京丸物は完全な「死に体」であった[3][4][5]

決断

小売業をやめるという診断

増田通二氏の診断は、百貨店として建て直す道は無い、というものであった。「小売業の立て直しというのは難しいんです。これがメーカーなら設備、商社なら資金力という決め手がある」。小売業は商品・サービス・建物に分散しており、そのすべてを改善しても客がその店に悪い印象を持っていれば効かない、と同氏は語っている。改善すべき変数の多さそのものが、再建の見込みを断っていた[6]

そこで踏み切ったのが「全面的、かつ徹底的モデルチェンジ」であった。1969年6月に東京丸物を閉店してパルコの開設準備に入り、同年11月に池袋パルコを開店、1970年4月には商号を株式会社パルコへ改めた。自ら商品を仕入れて売る立場を捨て、専門店を集めたファッションビルの開発・運営業へ移る。増田氏は変身先を端的に「不動産屋」と呼び、狙う客を団塊世代の働く女性に定めた[7][8][9]

「賃料で食う不動産屋」という値づけの原理

「不動産屋」という自己規定は、卑下ではなく値づけの原理であった。増田氏は「何といっても賃料で食ってる不動産屋ですからね。不動産は値打ちの通りしか売れない。駅から遠けりゃ安くなるし、日当たりが悪けりゃ高い家賃はとれない」と述べている。部屋にきれいな花を飾っても付加価値が大きくなるわけではない、というのが同氏の見方であった。物件の不利をまず正確に認め、そこから始める[10]

この原理は出店の実務に落ちていた。1973年6月に開いた渋谷パルコは、駅から900メートル離れたハンデを負って出発している。増田氏は自らカウンターを持って通行人の数を調べ、社員には古代ローマの都市と道の文化史を研究させた。そのうえで劇場を作り、坂を上る行為そのものを「坂道のショッピング」という言葉で価値に変えた。広告宣伝費の予算も専門店の売上高合計の3%と定め、パルコとテナントで2対1の比率で分担している[11][12]

結果

十三年ぶりの復配と、空間を売る商法への評価

転換の成否は数字に表れた。営業収入は1972年2月期の約10億円から1976年2月期に40億円を超え、1977年2月期は70億円の見込みとなる。テナント総売上高は約700億円、従業員は230人、平均年齢30歳であった。売上規模に比して人員が少ないのは、商品在庫も販売員も自社では抱えない賃貸業ゆえである。1976年2月期には年5円・10%の配当を再開し、増田氏は「13年ぶりかな。やっとこぎつけた」と述べた[13][14]

外からの評価も、商品ではなく空間を売る点に集まった。社会学者の上野千鶴子氏は後年、当時のパルコの先進性を「物を売らずに空間を売ったこと」と要約している。テナントがばらばらに物を売っていたところにパルコというハコをブランド化し、賃料を取りながら広告戦略をまとめて引き受け、劇場まで作った。1975年度に専門店の集団が使った広告宣伝費は約14億円にのぼり、広告費300社ランキングでも120位前後に入っている[15][16]

保証金に支えられた財務と、転換を主導した経営者の退場

賃貸業への転換は、財務の形も変えた。テナントから預かる保証金は112億7600万円に達し、固定負債総額の70%強を占める。パルコが差し入れる入居保証金も1974年2月期の9200万円から1975年2月期には49億2900万円へ膨らんだ。無利息の預かり資金が出店を支える一方、長短借入金は1976年2月期に65億4000万円まで増え、金融収支は受け取り超過から2億4800万円の支払い超過へ転じている[17][18]

出店を続けるかぎり、保証金と利息の双方が膨らむ構造であった。パルコはその後も各地に店を開き、1987年1月に東京証券取引所市場第二部へ上場、1988年8月には第一部銘柄に指定される。しかしその1988年、当時の専務らによる総会屋への利益供与が発覚した。増田氏は1989年に会長職を退き、表舞台から姿を消している。転換を主導した経営者が去ったのは、上場を果たした直後であった[19][20]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「パルコスタディ 若者を魅了した“華麗なる不動産屋”」
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「堤清二以上のカリスマ 増田通二とは何者か」
  • 週刊東洋経済 2014年10月11日号「INTERVIEW 上野千鶴子 堤さんはパルコに嫉妬していた」
  • パルコ 有価証券報告書【沿革】

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