パーク24駐車場機器の販売代理店から無人時間貸駐車場「タイムズ」運営への転換

機械を売るか、機械を置いた土地を借りるか——上野のホテル跡地に並べた5〜6台から

時期 1991年12月
意思決定者(推定) 西川清 社長
論点 祖業の機器販売と駐車場運営への業態転換
概要
1991年12月、パーク24が東京都台東区上野のホテル跡地でロック付無人駐車料金徴収装置による24時間無人時間貸駐車場「タイムズ」1号の運用を始め、駐車場機器を売る商いから、土地を借りて自ら駐車場を運営する商いへ移った経営判断。
背景
西川清氏が1971年に興したニシカワ商会は、日本信号のパークロックを大病院の駐車場へ納めて足場を得たが、機器の販売では売上が年ごとに振れ、目標としていた株式の店頭公開に届かなかった。1991年には車庫法と道路交通法が改正され、路上駐車の取締りが強まっていた。
内容
地主から土地を借り、5〜6台の区画にパークロックを据えて24時間無人で貸し、駐車料金を自社の売上に立てる方式へ替えた。1992年5月にタイムズ二四株式会社を設立して集金業務を移し、1993年8月にはニシカワ商会から営業を譲り受けて事業母体を1つに束ねた。
含意
1997年3月に日本証券業協会へ株式を店頭登録し、1997年10月期の売上高は187億4,700万円・経常利益13億4,600万円と、5年前に比べ売上高で10倍・経常利益で20倍になった。収益を決める変数は売った機器の台数から、借りた区画の稼働率へ移った。
筆者の見解

売る側から借りる側へ

新しい駐車場を思いついた話として語られやすい。だがこの転換の芯は、扱う機械ではなく、収益の出どころを他人の設備から自社の稼働へ移したところにある。パークロックは1971年から同じ機械で、西川清氏はそれを売る側から、土地を借りて自ら据える側へ回った。売上が地主の投資判断に左右される商いから、区画がどれだけ埋まったかで決まる商いへ移ったことが、店頭公開に足る安定をもたらしたとみられる。

もっとも、5年で10倍という伸びを西川清氏の着想だけに帰するのは難しい。1991年の車庫法と道路交通法の改正、地上げに失敗した都心の空き地という二つの条件が、同じ時期に重なっている。西川清氏自身、この商いをバブル崩壊のすき間産業の申し子と呼ぶ評価に反発し、資本金わずか100万円で始めた会社が店頭公開まで育ったと思うかと問い返した。その反発の強さが、追い風の大きさを裏側から示しているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

機械を売る商いの27年

1971年8月、西川清氏は外資系の建設用機器メーカーを退いて株式会社ニシカワ商会を興した。資本金は100万円、事務所は子供の勉強部屋、社員は電話番の女性が1人であった。最初に扱ったのは重さ30キロの台座がついた1セット2,600円の駐車禁止看板で、運ぶ費用に対して単価が低かった。3カ月後に知人から紹介された日本信号のパークロックシステムが、この商いを変えた[1]

パークロックは車両の固定から料金の徴収までを無人でこなす機械で、西川清氏は製造元の日本信号に日参して販売の許可を得た。売り先に選んだのは、無料ゆえに不法駐車で埋まっていた大病院の駐車場であった。三脚に据えたカメラで定点観測を続け、証拠写真を事務局へ持ち込む売り込みで聖路加国際病院・昭和大学病院・東京女子医科大学病院・順天堂医院と契約が広がり、初年度の売上高は2,500万円となった[2]

1991年に重なった二つの変化

パーク二四株式会社は1985年8月、駐車場の保守及び運営管理を目的として東京都品川区西五反田に資本金1,000万円で設立された。1990年11月には日本信号と販売代理店契約を結び、機器の調達路を確保している。ただし機械を納める商いでは、駐車場を設けるかどうかを決めるのは土地の持ち主であり、設置の数を自社の側で積み増す手立てがなかった[3]

業態を替える呼び水は外側にあった。西川清氏は都市交通のシンポジウムで警察庁の担当者が駐車違反を徹底して取り締まると述べたのを聞き、駐車場の市場が広がるとみている。1991年には車庫法と道路交通法が改正され、車庫の確認と路上駐車の取締りが厳しくなった。同じ時期、地上げに失敗した空き地が都心のあちこちに残り、地主は使い道を探していた[4][5]

決断

上野のホテル跡地に置いた1号

1991年12月、東京都台東区上野のホテル跡地で、ロック付無人駐車料金徴収装置を据えた24時間無人時間貸駐車場「タイムズ」1号が動き出した。1カ所の標準は5〜6台で、パーク24は地主から土地を借り、自ら運営して駐車料金を受け取る。車1台分の広さがあれば始められ、設備の撤去も容易で、管理の手間が小さいことが土地の持ち主に受け入れられた[6][7]

西川清氏はこの商品の由来を、株式の店頭公開を決めたときに生まれたものと説明している。1997年の講演では「タイムズは夜も休日も、稼いでくれている。景気の変動も少なく、毎年安定的な売上ができるシステムは何かと考えた末、誕生したもの」と述べた。機器の販売だけでは年ごとの売上に波があり、目標としていた公開には届かないという事情が、業態を替える理由であった[8][9]

人を集め、運営を分ける

店頭公開を決めた西川清氏は人手の不足に突き当たり、求人広告の文案を自ら書いた。「これから2年後、家にも帰れない日が6カ月続きます。そういう過酷な仕事が待っているが、これにチャレンジ出来る人だけ面接にきてくれ」。バブルの絶頂期にもかかわらず100人以上が応募し、このとき入社した人材が1998年には課長級として社の中枢にいた[10]

会社の形も分けた。1992年5月に東京都台東区へタイムズ二四株式会社を設立して集金業務を移し、1993年8月にはニシカワ商会から営業を譲り受けて九州支店を開いている。現場では100%子会社が点検・補修・清掃を24時間体制で担い、1台あたり1,000円をかけて清掃した。西川清氏は「表面だけまねても同じシステムはできない」と述べている[11][12]

結果

5年で10倍と3段階の上場

1997年3月、パーク24は日本証券業協会へ株式を店頭登録した。タイムズ1号から5年3カ月で、西川清氏が業態を替えるときに掲げた公開の目標に届いている。1997年10月期の売上高は187億4,700万円、経常利益は13億4,600万円で、5年前に比べ売上高は10倍、経常利益は20倍になった。1999年4月に東京証券取引所市場第二部、2000年4月に同第一部へ移っている[13][14]

規模の広がりは区画の数に表れた。1997年5月の時点でタイムズは1,700カ所・1万7,000台が動き、同年6月の講演では全国1,800カ所・1万8,000台と述べている。1カ所あたりの平均は10台で、西川清氏は長く続く駐車場としては7台程度が適正だと語った。30坪以下の流動性の低い土地を借りることが、この商いの仕入れであった[15][16]

模倣する30社と、稼働率という変数

タイムズの成功を見て、無人駐車場には約30社が参入した。もっとも利益を上げる会社は少なく、西川清氏はその差をニシカワ商会以来の蓄積に求めている。1997年の講演では稼働率を50%、目標を65%と述べ、10ポイント引き上げれば20億円を超える利益が出ると説明した。区画の数ではなく1区画あたりの埋まり方が、収益を決める変数になった[17][18]

直営を無制限に増やす構想ではなかった。西川清氏は自社の運営台数を2万4,000台にとどめ、契約は2年を原則として、期限が来た地主に自ら経営してもらう案を示している。フランチャイズとタイムズネットワークで3年間に2万台を積み、そこからロイヤルティーと機械の賃料を得る計算であった。2万台に達したときのロイヤルティー収入を7億2,000万円と見込んでいる[19]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1998年4月6日号「西川清氏[パーク24社長] 駐車場商売一筋27年のアイデアマン 虫食い空き地を“カネのなる木”に」
  • 週刊東洋経済 1997年5月31日号「[特集]成長企業を探せ11選 パーク24 24時間無人時間貸し駐車場のパイオニア、ドライバーの支持で急成長続く」
  • 週刊東洋経済 1997年7月19日号「[ザ・トーク]行天豊雄・国際通貨研究所理事長/パーク24・西川清社長」
  • 証券アナリストジャーナル 1997年 第35巻第7号「パーク24」(西川清社長講演)
  • パーク24 有価証券報告書 第41期(2025年10月期)【沿革】

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