新しい駐車場を思いついた話として語られやすい。だがこの転換の芯は、扱う機械ではなく、収益の出どころを他人の設備から自社の稼働へ移したところにある。パークロックは1971年から同じ機械で、西川清氏はそれを売る側から、土地を借りて自ら据える側へ回った。売上が地主の投資判断に左右される商いから、区画がどれだけ埋まったかで決まる商いへ移ったことが、店頭公開に足る安定をもたらしたと思われる。
もっとも、5年で10倍という伸びを西川清氏の着想だけに帰するのは難しい。1991年の車庫法と道路交通法の改正、地上げに失敗した都心の空き地という二つの条件が、同じ時期に重なっている。西川清氏自身、この商いをバブル崩壊のすき間産業の申し子と呼ぶ評価に反発し、資本金わずか100万円で始めた会社が店頭公開まで育ったと思うかと問い返した。その反発の強さが、追い風の大きさを裏側から示しているといえる。