配給を他社に預けず、自社の作品だけで番組を埋めてきた。大川博氏はまず合併初日に積まれた123枚の事故手形を債権者ごとに書き換え、映画1本の製作費を1,100万円以内に抑える予算で支出を縛った。東宝から買収の申し出を受けた後の1952年1月には、東宝との配給提携を打ち切って全プロ配給に移っている。1954年1月には中篇の娯楽版を本篇に添えた新作二本立配給を始め、50館足らずだった専門館は1956年に500館余りまで増えた。1954年8月には教育映画製作配給委員会を設け、16ミリの配給網に載せる教育映画の製作にも参入した。