東映:東京映画配給の設立と東横映画・太泉映画の合併による東映の発足
1949年〜獄門島で第四系統に名乗り出た東京映画配給と、3社で11億円に膨らんだ負債
東京映画配給は1949年10月1日、東横映画と太泉映画の作品を配給する会社として発足した。第1回の配給作品には、東横映画が製作した「獄門島」を充てている。東横映画は東急の傘下、太泉映画は系統の異なる会社で、どちらも経営は苦しかった。当時の邦画の配給は松竹・東宝・大映の3社で三分されており、東京映画配給は第4の系統として後から加わった。計画では東横映画と太泉映画が月2本ずつ製作し、合わせて月4本を自前の配給網に流す想定であった。製作の2社と配給の1社が別会社のまま、1本の系統を形づくる体制での出発。大手の系統に作品を預ければ配給収入の歩合で不利になるため、両社は自前の窓口を持つことを優先したとみられる。
- 東映五年の歩み(1956)「創立五周年を迎えて」取締役社長 大川博
- [1]東京映画配給は1949年10月1日、東横映画・太泉映画の作品配給を目的に創立。第1回配給作品は東横製作「獄門島」
- [2]東京映画配給は1949年10月1日、東横映画・太泉映画の作品配給を目的に創立。第1回配給作品は東横製作「獄門島」
- 私の履歴書「大川博」
- [3]東急配下の東横映画と系統の異なる太泉映画がともに行き詰まり、各月2本ずつ製作し月4本を東京映画配給のルートに流す計画。製作2社と配給1社の三社体制
- [5]東急配下の東横映画と系統の異なる太泉映画がともに行き詰まり、各月2本ずつ製作し月4本を東京映画配給のルートに流す計画。製作2社と配給1社の三社体制
- [6]東急配下の東横映画と系統の異なる太泉映画がともに行き詰まり、各月2本ずつ製作し月4本を東京映画配給のルートに流す計画。製作2社と配給1社の三社体制
- 東映五年の歩み(1956)「全プロ配給から二本立製作配給の開始へ」
- [4]当時の邦画は松竹・東宝・大映が三分し、東京映画配給は邦画第四系統としてスタート
東京映画配給は創業から1年ほどで、配給網の争いに巻き込まれて行き詰まった。1950年3月に新東宝が東宝から分かれて自主配給を始め、邦画の配給は5系統に増えている。洋画の進出で邦画の市場はすでに狭まり、後発の東京映画配給は瀕死の状態に陥った。製作2社と配給1社の連携は計画どおりに動かず、営業成績は日を追って悪化した。給与の遅配が続く製作2社では月2本ずつの計画も守れず、作品の遅配と欠配が重なった。東横映画の借入金は5億円余りから7億円に増え、3社の純負債は合計11億円に達した。作品が出なくても配給会社の経費は残るため、赤字は製作と配給の両側で同時に積み上がったと思われる。
- 東映五年の歩み(1956)「創立五周年を迎えて」取締役社長 大川博
- [7]1950年に新東宝が配給戦線に加わり、洋画進出で狭まった邦画市場に5系統が乱立。東京映画配給は瀕死の状態に
- [9]1950年に新東宝が配給戦線に加わり、洋画進出で狭まった邦画市場に5系統が乱立。東京映画配給は瀕死の状態に
- 東映五年の歩み(1956)「全プロ配給から二本立製作配給の開始へ」
- [8]1950年、東宝と配給提携が決裂した新東宝が自主配給を始め第五系統に
- 私の履歴書「大川博」
- [10]二人三脚は計画どおり運ばず営業成績は日増しに悪化。月給の遅配・欠配が作品の遅配・欠配につながり、東横の借金は5億円余から7億円へ。3社の純負債は合計11億円
- [11]二人三脚は計画どおり運ばず営業成績は日増しに悪化。月給の遅配・欠配が作品の遅配・欠配につながり、東横の借金は5億円余から7億円へ。3社の純負債は合計11億円
- [12]二人三脚は計画どおり運ばず営業成績は日増しに悪化。月給の遅配・欠配が作品の遅配・欠配につながり、東横の借金は5億円余から7億円へ。3社の純負債は合計11億円
参考文献[1]-[12]
- 東映五年の歩み(1956)「創立五周年を迎えて」取締役社長 大川博
- [1]東京映画配給は1949年10月1日、東横映画・太泉映画の作品配給を目的に創立。第1回配給作品は東横製作「獄門島」
- [2]東京映画配給は1949年10月1日、東横映画・太泉映画の作品配給を目的に創立。第1回配給作品は東横製作「獄門島」
- [7]1950年に新東宝が配給戦線に加わり、洋画進出で狭まった邦画市場に5系統が乱立。東京映画配給は瀕死の状態に
- [9]1950年に新東宝が配給戦線に加わり、洋画進出で狭まった邦画市場に5系統が乱立。東京映画配給は瀕死の状態に
- 私の履歴書「大川博」
- [3]東急配下の東横映画と系統の異なる太泉映画がともに行き詰まり、各月2本ずつ製作し月4本を東京映画配給のルートに流す計画。製作2社と配給1社の三社体制
- [5]東急配下の東横映画と系統の異なる太泉映画がともに行き詰まり、各月2本ずつ製作し月4本を東京映画配給のルートに流す計画。製作2社と配給1社の三社体制
- [6]東急配下の東横映画と系統の異なる太泉映画がともに行き詰まり、各月2本ずつ製作し月4本を東京映画配給のルートに流す計画。製作2社と配給1社の三社体制
- [10]二人三脚は計画どおり運ばず営業成績は日増しに悪化。月給の遅配・欠配が作品の遅配・欠配につながり、東横の借金は5億円余から7億円へ。3社の純負債は合計11億円
- [11]二人三脚は計画どおり運ばず営業成績は日増しに悪化。月給の遅配・欠配が作品の遅配・欠配につながり、東横の借金は5億円余から7億円へ。3社の純負債は合計11億円
- [12]二人三脚は計画どおり運ばず営業成績は日増しに悪化。月給の遅配・欠配が作品の遅配・欠配につながり、東横の借金は5億円余から7億円へ。3社の純負債は合計11億円
- 東映五年の歩み(1956)「全プロ配給から二本立製作配給の開始へ」
- [4]当時の邦画は松竹・東宝・大映が三分し、東京映画配給は邦画第四系統としてスタート
- [8]1950年、東宝と配給提携が決裂した新東宝が自主配給を始め第五系統に
1951年〜大川博氏を社長に迎えた3社合併と、全プロ配給で超えた1億6千万円のクオータ
1951年4月1日、東京映画配給は東横映画と太泉映画を吸収合併し、商号を東映に改めた。合併後の社長は、東急専務のまま同年2月に東京映画配給の社長に就任していた大川博氏が務めた。東急は東横映画への融資を重ね、回収の見込みが立たない資金は5億円、6億円に膨らんだ。東急の一部株主からは、融資の責任を問う特別背任の訴えまで起こされた。大川博氏は3社の不振を分析し、製作と配給が別会社のまま二人三脚で動く体制に経営上の無駄があると結論づけた。合併の準備と並行して、製作力の不足を補うため1951年1月から東宝と配給系統を一本化した。新会社の資本金は1億7千万円で、創立の時点で11億円の負債を抱えた。大川博氏は合併の内実を『三社の事業を合併したというより、この場合、むしろ三社の赤字を合併したという方が適当だった』と振り返った。
- 東映五年の歩み(1956)「全プロ配給から二本立製作配給の開始へ」
- [13]1951年4月1日、東京映画配給を中心に東横映画・太泉映画を合併し東映株式会社として発足
- 私の履歴書「大川博」
- [14]東急専務の大川博が1951年2月に東京映画配給社長、合併新会社東映の社長に。東急の東横映画向け回収不能懸念資金は5億〜6億円。東急の一部株主が特別背任で訴え。東映の資本金1億7千万円、負債11億円
- [15]東急専務の大川博が1951年2月に東京映画配給社長、合併新会社東映の社長に。東急の東横映画向け回収不能懸念資金は5億〜6億円。東急の一部株主が特別背任で訴え。東映の資本金1億7千万円、負債11億円
- [16]東急専務の大川博が1951年2月に東京映画配給社長、合併新会社東映の社長に。東急の東横映画向け回収不能懸念資金は5億〜6億円。東急の一部株主が特別背任で訴え。東映の資本金1億7千万円、負債11億円
- [19]東急専務の大川博が1951年2月に東京映画配給社長、合併新会社東映の社長に。東急の東横映画向け回収不能懸念資金は5億〜6億円。東急の一部株主が特別背任で訴え。東映の資本金1億7千万円、負債11億円
- [20]東急専務の大川博が1951年2月に東京映画配給社長、合併新会社東映の社長に。東急の東横映画向け回収不能懸念資金は5億〜6億円。東急の一部株主が特別背任で訴え。東映の資本金1億7千万円、負債11億円
- 東映五年の歩み(1956)「創立五周年を迎えて」取締役社長 大川博
- [17]大川博は3社が単一系統を作りながら別企業体で二人三脚に動くことに経営上の無駄があると判断し、合併を先決とし、並行して東宝と提携し配給系統を一本化(1951年1月から)。1951年2月社長就任
- [18]大川博は3社が単一系統を作りながら別企業体で二人三脚に動くことに経営上の無駄があると判断し、合併を先決とし、並行して東宝と提携し配給系統を一本化(1951年1月から)。1951年2月社長就任
大川博氏が最初に手を付けたのは、合併初日に机上へ積まれた123枚の事故手形の処理だった。債権者と1人ずつ話し合って手形を書き換え、取引停止を寸前で免れた。11億円の負債のうち約8千万円は高利の借入で、日歩は平均45銭、年利に直して約17割にのぼった。元金と利息の引き下げを個別に交渉し、月9百万円あった高利の支払いを5、6百万円まで減らしている。続いて製作・営業・管理の全部門で製作費を含む明細な予算を決め、支出の削減と配収クオータ制の推進を併せて進めた。映画1本の製作費は1千1百万円以内、収入は2千5百万円以上という基準の導入。映画界の慣行に縛られない経理出身の社長だったからこそ、費用を予算で縛る手法を持ち込めたと推察される。
- 私の履歴書「大川博」
- [21]合併初日に事故手形123枚。負債11億円のうち高利貸から約8千万円、日歩平均45銭・年利約17割。月900万円の高利支払いを500〜600万円に。1本1,100万円以内の製作費で2,500万円以上の収入とする予算制
- [23]合併初日に事故手形123枚。負債11億円のうち高利貸から約8千万円、日歩平均45銭・年利約17割。月900万円の高利支払いを500〜600万円に。1本1,100万円以内の製作費で2,500万円以上の収入とする予算制
- [24]合併初日に事故手形123枚。負債11億円のうち高利貸から約8千万円、日歩平均45銭・年利約17割。月900万円の高利支払いを500〜600万円に。1本1,100万円以内の製作費で2,500万円以上の収入とする予算制
- [26]合併初日に事故手形123枚。負債11億円のうち高利貸から約8千万円、日歩平均45銭・年利約17割。月900万円の高利支払いを500〜600万円に。1本1,100万円以内の製作費で2,500万円以上の収入とする予算制
- 東映五年の歩み(1956)「創立五周年を迎えて」取締役社長 大川博
- [22]手形120余枚を債権者と個別に書き換え取引停止を免れる。製作・営業・管理の全部門に明細な予算を決めて支出を削減し、配収クオータ制を推進
- [25]手形120余枚を債権者と個別に書き換え取引停止を免れる。製作・営業・管理の全部門に明細な予算を決めて支出を削減し、配収クオータ制を推進
1952年1月、東映は東宝との配給提携を打ち切り、自社だけで番組を組む全プロ配給に移った。1951年1月に始めた東宝との提携では、作品カラーの違いと系統館の少なさから東映の受ける配収の歩合が低く、成績は期待を下回った。東宝の一流劇場から東映作品が締め出され、東宝からは東映買収の申し出もあった。全プロには月4.3本の製作が要り、東西2撮影所の人員と機材はともに不足した状態。それでも正月番組の「江戸恋双六」「新撰組」「遊民街の夜襲」がヒットし、1億6千万円のクオータを上回った。1952年8月期までに2億円近い不良資産を償却し、同じ期に1割の株主配当を復活させた。東宝の系統に残れば歩合は上がらないため、身売りと自立の二択で自立を選んだ判断が、のちの系統づくりの起点になったと考えられる。
- 東映五年の歩み(1956)「全プロ配給から二本立製作配給の開始へ」
- [27]東宝との提携は行き詰まり東宝一流劇場から締め出し、東宝から買収の申し出。1951年12月に訣別し1952年正月から全プロ配給。月4.3本の製作が必要で設備不足。正月番組「江戸恋双六」「新撰組」「遊民街の夜襲」で1億6千万円のクオータを超過
- [29]東宝との提携は行き詰まり東宝一流劇場から締め出し、東宝から買収の申し出。1951年12月に訣別し1952年正月から全プロ配給。月4.3本の製作が必要で設備不足。正月番組「江戸恋双六」「新撰組」「遊民街の夜襲」で1億6千万円のクオータを超過
- [30]東宝との提携は行き詰まり東宝一流劇場から締め出し、東宝から買収の申し出。1951年12月に訣別し1952年正月から全プロ配給。月4.3本の製作が必要で設備不足。正月番組「江戸恋双六」「新撰組」「遊民街の夜襲」で1億6千万円のクオータを超過
- [31]東宝との提携は行き詰まり東宝一流劇場から締め出し、東宝から買収の申し出。1951年12月に訣別し1952年正月から全プロ配給。月4.3本の製作が必要で設備不足。正月番組「江戸恋双六」「新撰組」「遊民街の夜襲」で1億6千万円のクオータを超過
- 東映五年の歩み(1956)「創立五周年を迎えて」取締役社長 大川博
- [28]1951年1月からの東宝との配給提携は作品カラーの相違・系統館の少なさによる低い歩合で不振。1952年1月全プロ配給開始。1952年8月期までに約2億円の不良資産を償却し1割配当を復活
- [32]1951年1月からの東宝との配給提携は作品カラーの相違・系統館の少なさによる低い歩合で不振。1952年1月全プロ配給開始。1952年8月期までに約2億円の不良資産を償却し1割配当を復活
参考文献[13]-[32]
- 東映五年の歩み(1956)「全プロ配給から二本立製作配給の開始へ」
- [13]1951年4月1日、東京映画配給を中心に東横映画・太泉映画を合併し東映株式会社として発足
- [27]東宝との提携は行き詰まり東宝一流劇場から締め出し、東宝から買収の申し出。1951年12月に訣別し1952年正月から全プロ配給。月4.3本の製作が必要で設備不足。正月番組「江戸恋双六」「新撰組」「遊民街の夜襲」で1億6千万円のクオータを超過
- [29]東宝との提携は行き詰まり東宝一流劇場から締め出し、東宝から買収の申し出。1951年12月に訣別し1952年正月から全プロ配給。月4.3本の製作が必要で設備不足。正月番組「江戸恋双六」「新撰組」「遊民街の夜襲」で1億6千万円のクオータを超過
- [30]東宝との提携は行き詰まり東宝一流劇場から締め出し、東宝から買収の申し出。1951年12月に訣別し1952年正月から全プロ配給。月4.3本の製作が必要で設備不足。正月番組「江戸恋双六」「新撰組」「遊民街の夜襲」で1億6千万円のクオータを超過
- [31]東宝との提携は行き詰まり東宝一流劇場から締め出し、東宝から買収の申し出。1951年12月に訣別し1952年正月から全プロ配給。月4.3本の製作が必要で設備不足。正月番組「江戸恋双六」「新撰組」「遊民街の夜襲」で1億6千万円のクオータを超過
- 私の履歴書「大川博」
- [14]東急専務の大川博が1951年2月に東京映画配給社長、合併新会社東映の社長に。東急の東横映画向け回収不能懸念資金は5億〜6億円。東急の一部株主が特別背任で訴え。東映の資本金1億7千万円、負債11億円
- [15]東急専務の大川博が1951年2月に東京映画配給社長、合併新会社東映の社長に。東急の東横映画向け回収不能懸念資金は5億〜6億円。東急の一部株主が特別背任で訴え。東映の資本金1億7千万円、負債11億円
- [16]東急専務の大川博が1951年2月に東京映画配給社長、合併新会社東映の社長に。東急の東横映画向け回収不能懸念資金は5億〜6億円。東急の一部株主が特別背任で訴え。東映の資本金1億7千万円、負債11億円
- [19]東急専務の大川博が1951年2月に東京映画配給社長、合併新会社東映の社長に。東急の東横映画向け回収不能懸念資金は5億〜6億円。東急の一部株主が特別背任で訴え。東映の資本金1億7千万円、負債11億円
- [20]東急専務の大川博が1951年2月に東京映画配給社長、合併新会社東映の社長に。東急の東横映画向け回収不能懸念資金は5億〜6億円。東急の一部株主が特別背任で訴え。東映の資本金1億7千万円、負債11億円
- [21]合併初日に事故手形123枚。負債11億円のうち高利貸から約8千万円、日歩平均45銭・年利約17割。月900万円の高利支払いを500〜600万円に。1本1,100万円以内の製作費で2,500万円以上の収入とする予算制
- [23]合併初日に事故手形123枚。負債11億円のうち高利貸から約8千万円、日歩平均45銭・年利約17割。月900万円の高利支払いを500〜600万円に。1本1,100万円以内の製作費で2,500万円以上の収入とする予算制
- [24]合併初日に事故手形123枚。負債11億円のうち高利貸から約8千万円、日歩平均45銭・年利約17割。月900万円の高利支払いを500〜600万円に。1本1,100万円以内の製作費で2,500万円以上の収入とする予算制
- [26]合併初日に事故手形123枚。負債11億円のうち高利貸から約8千万円、日歩平均45銭・年利約17割。月900万円の高利支払いを500〜600万円に。1本1,100万円以内の製作費で2,500万円以上の収入とする予算制
- 東映五年の歩み(1956)「創立五周年を迎えて」取締役社長 大川博
- [17]大川博は3社が単一系統を作りながら別企業体で二人三脚に動くことに経営上の無駄があると判断し、合併を先決とし、並行して東宝と提携し配給系統を一本化(1951年1月から)。1951年2月社長就任
- [18]大川博は3社が単一系統を作りながら別企業体で二人三脚に動くことに経営上の無駄があると判断し、合併を先決とし、並行して東宝と提携し配給系統を一本化(1951年1月から)。1951年2月社長就任
- [22]手形120余枚を債権者と個別に書き換え取引停止を免れる。製作・営業・管理の全部門に明細な予算を決めて支出を削減し、配収クオータ制を推進
- [25]手形120余枚を債権者と個別に書き換え取引停止を免れる。製作・営業・管理の全部門に明細な予算を決めて支出を削減し、配収クオータ制を推進
- [28]1951年1月からの東宝との配給提携は作品カラーの相違・系統館の少なさによる低い歩合で不振。1952年1月全プロ配給開始。1952年8月期までに約2億円の不良資産を償却し1割配当を復活
- [32]1951年1月からの東宝との配給提携は作品カラーの相違・系統館の少なさによる低い歩合で不振。1952年1月全プロ配給開始。1952年8月期までに約2億円の不良資産を償却し1割配当を復活
1953年〜ひめゆりの塔で業界3位に上った製作と、娯楽版で始めた新作二本立配給
1953年1月に封切った「ひめゆりの塔」は、2億円からの収入を挙げた。今井正監督のもとで4か月の製作日数を費やしての完成。同じ年に東映は、松竹・大映に次ぐ業界3位の業績に上っている。1953年2月28日には新宿ヒカリ座と横浜オリムピア映画劇場を持つオリムピア映画を合併し、直営館を5館に増やした。増資も実施して撮影所の整備を進め、秋には東映として初の総天然色映画「日輪」を封切った。1953年2月期には残っていた不良資産を一掃し、株主配当を2割に引き上げた。ヒット作の収入を撮影所と直営館に振り向けたことで、作品の供給と上映の両方を自社で持つ体制が整い始めたとうかがえる。
- 東映五年の歩み(1956)「全プロ配給から二本立製作配給の開始へ」
- [33]「ひめゆりの塔」は1953年正月第3週封切、製作4カ月、2億円からの収入。業界第3位に。1953年はオリムピア映画合併・増資で撮影所整備、初の総天然色映画「日輪」封切
- [34]「ひめゆりの塔」は1953年正月第3週封切、製作4カ月、2億円からの収入。業界第3位に。1953年はオリムピア映画合併・増資で撮影所整備、初の総天然色映画「日輪」封切
- [35]「ひめゆりの塔」は1953年正月第3週封切、製作4カ月、2億円からの収入。業界第3位に。1953年はオリムピア映画合併・増資で撮影所整備、初の総天然色映画「日輪」封切
- [37]「ひめゆりの塔」は1953年正月第3週封切、製作4カ月、2億円からの収入。業界第3位に。1953年はオリムピア映画合併・増資で撮影所整備、初の総天然色映画「日輪」封切
- 東映五年の歩み(1956)「伸びゆく直営網」
- [36]1953年2月28日、新宿ヒカリ座と横浜オリムピア映画劇場を持つオリムピア映画を合併し直営館5館に
- 東映五年の歩み(1956)「創立五周年を迎えて」取締役社長 大川博
- [38]1953年2月期決算で2億円を償却し不良資産を一掃、株主配当を2割に
1954年1月、東映は本篇に5千フィート程度の中篇「東映娯楽版」を添え、自社作品だけの新作二本立配給を始めた。当時の映画館は2社から作品を借りて二本立にしており、後発の東映が受け取るフィルム代の歩合は低かった。館主の側も2社に払うフィルム代が割高で、値下げを求める運動が各地に起きていた。1社で二本立を組めば館主の支払いは安くなり、東映は自社作品だけを掛ける系統館を確立できる計算であった。娯楽版は「真田十勇士」三部作で始まり、5月封切の「笛吹童子」で少年層の人気を集めて系統館を急増させた。1954年に50館足らずだった専門館は、1956年には500館余りまで増えた。他社との併映では作品の出来が収入に結びつかなかったため、1社での二本立は配収の歩合を自社で決める手段になったのだろう。
- 東映五年の歩み(1956)「全プロ配給から二本立製作配給の開始へ」
- [39]他社併映の系統館は不安定で、館側はフィルム代値下げを求めていた。5千フィート程度の中篇で他社併映不要の二本立とし、1954年1月から娯楽版による新作二本立配給を開始。「真田十勇士」三部作で始まり5月「笛吹童子」で系統館が急増
- [41]他社併映の系統館は不安定で、館側はフィルム代値下げを求めていた。5千フィート程度の中篇で他社併映不要の二本立とし、1954年1月から娯楽版による新作二本立配給を開始。「真田十勇士」三部作で始まり5月「笛吹童子」で系統館が急増
- [42]他社併映の系統館は不安定で、館側はフィルム代値下げを求めていた。5千フィート程度の中篇で他社併映不要の二本立とし、1954年1月から娯楽版による新作二本立配給を開始。「真田十勇士」三部作で始まり5月「笛吹童子」で系統館が急増
- [43]他社併映の系統館は不安定で、館側はフィルム代値下げを求めていた。5千フィート程度の中篇で他社併映不要の二本立とし、1954年1月から娯楽版による新作二本立配給を開始。「真田十勇士」三部作で始まり5月「笛吹童子」で系統館が急増
- 東映五年の歩み(1956)「創立五周年を迎えて」取締役社長 大川博
- [40]異なる会社の二本立では後発の東映のフィルム代が低く、館側も割高。1954年に50館足らずの専門館が1956年に500数十館
- [44]異なる会社の二本立では後発の東映のフィルム代が低く、館側も割高。1954年に50館足らずの専門館が1956年に500数十館
1954年8月、東映は教育映画製作配給委員会を設け、教育文化映画の自主製作の検討に入った。国内ではCIE映画が国情の違いから理解されにくく、1953年頃から日本向けの教育映画と視聴覚教育を求める声が強まっていた。一方で教育文化映画の製作は、設備と資金に乏しい独立プロダクションの手にとどまった。東映は全国の農山漁村まで届く16ミリ映画の配給網を持ち、製作の設備も備えていた。同年11月下旬に「ふろたき大将」など3本の製作に入り、1955年1月に一般公開した。製作方針には、児童劇映画を中心に漫画映画を年間2本程度加える案も盛り込まれた。1956年までに教育・文化映画は数々の作品を送り出し、東映独自の事業となった。劇映画とは別の16ミリ配給網が、映画館の外にある市場へ事業を広げる足場として働いたと言える。
- 東映五年の歩み(1956)「教育文化映画の製作開始」
- [45]CIE映画は国情の違いで理解されにくく、1953年頃から教育映画・視聴覚教育の要望。製作は設備・資金の乏しい独立プロ任せ。東映は全国に16ミリ配給網。1954年8月教育映画製作配給委員会設置、11月下旬「ふろたき大将」ほか3本着手、1955年1月公開。漫画映画も年2本程度を計画
- [46]CIE映画は国情の違いで理解されにくく、1953年頃から教育映画・視聴覚教育の要望。製作は設備・資金の乏しい独立プロ任せ。東映は全国に16ミリ配給網。1954年8月教育映画製作配給委員会設置、11月下旬「ふろたき大将」ほか3本着手、1955年1月公開。漫画映画も年2本程度を計画
- [47]CIE映画は国情の違いで理解されにくく、1953年頃から教育映画・視聴覚教育の要望。製作は設備・資金の乏しい独立プロ任せ。東映は全国に16ミリ配給網。1954年8月教育映画製作配給委員会設置、11月下旬「ふろたき大将」ほか3本着手、1955年1月公開。漫画映画も年2本程度を計画
- [48]CIE映画は国情の違いで理解されにくく、1953年頃から教育映画・視聴覚教育の要望。製作は設備・資金の乏しい独立プロ任せ。東映は全国に16ミリ配給網。1954年8月教育映画製作配給委員会設置、11月下旬「ふろたき大将」ほか3本着手、1955年1月公開。漫画映画も年2本程度を計画
- [49]CIE映画は国情の違いで理解されにくく、1953年頃から教育映画・視聴覚教育の要望。製作は設備・資金の乏しい独立プロ任せ。東映は全国に16ミリ配給網。1954年8月教育映画製作配給委員会設置、11月下旬「ふろたき大将」ほか3本着手、1955年1月公開。漫画映画も年2本程度を計画
- [50]CIE映画は国情の違いで理解されにくく、1953年頃から教育映画・視聴覚教育の要望。製作は設備・資金の乏しい独立プロ任せ。東映は全国に16ミリ配給網。1954年8月教育映画製作配給委員会設置、11月下旬「ふろたき大将」ほか3本着手、1955年1月公開。漫画映画も年2本程度を計画
- 東映五年の歩み(1956)「創立五周年を迎えて」取締役社長 大川博
- [51]1955年1月から始めた教育・文化映画の製作は1956年までに数々の作品を生み、東映独特の事業に
参考文献[33]-[51]
- 東映五年の歩み(1956)「全プロ配給から二本立製作配給の開始へ」
- [33]「ひめゆりの塔」は1953年正月第3週封切、製作4カ月、2億円からの収入。業界第3位に。1953年はオリムピア映画合併・増資で撮影所整備、初の総天然色映画「日輪」封切
- [34]「ひめゆりの塔」は1953年正月第3週封切、製作4カ月、2億円からの収入。業界第3位に。1953年はオリムピア映画合併・増資で撮影所整備、初の総天然色映画「日輪」封切
- [35]「ひめゆりの塔」は1953年正月第3週封切、製作4カ月、2億円からの収入。業界第3位に。1953年はオリムピア映画合併・増資で撮影所整備、初の総天然色映画「日輪」封切
- [37]「ひめゆりの塔」は1953年正月第3週封切、製作4カ月、2億円からの収入。業界第3位に。1953年はオリムピア映画合併・増資で撮影所整備、初の総天然色映画「日輪」封切
- [39]他社併映の系統館は不安定で、館側はフィルム代値下げを求めていた。5千フィート程度の中篇で他社併映不要の二本立とし、1954年1月から娯楽版による新作二本立配給を開始。「真田十勇士」三部作で始まり5月「笛吹童子」で系統館が急増
- [41]他社併映の系統館は不安定で、館側はフィルム代値下げを求めていた。5千フィート程度の中篇で他社併映不要の二本立とし、1954年1月から娯楽版による新作二本立配給を開始。「真田十勇士」三部作で始まり5月「笛吹童子」で系統館が急増
- [42]他社併映の系統館は不安定で、館側はフィルム代値下げを求めていた。5千フィート程度の中篇で他社併映不要の二本立とし、1954年1月から娯楽版による新作二本立配給を開始。「真田十勇士」三部作で始まり5月「笛吹童子」で系統館が急増
- [43]他社併映の系統館は不安定で、館側はフィルム代値下げを求めていた。5千フィート程度の中篇で他社併映不要の二本立とし、1954年1月から娯楽版による新作二本立配給を開始。「真田十勇士」三部作で始まり5月「笛吹童子」で系統館が急増
- 東映五年の歩み(1956)「伸びゆく直営網」
- [36]1953年2月28日、新宿ヒカリ座と横浜オリムピア映画劇場を持つオリムピア映画を合併し直営館5館に
- 東映五年の歩み(1956)「創立五周年を迎えて」取締役社長 大川博
- [38]1953年2月期決算で2億円を償却し不良資産を一掃、株主配当を2割に
- [40]異なる会社の二本立では後発の東映のフィルム代が低く、館側も割高。1954年に50館足らずの専門館が1956年に500数十館
- [44]異なる会社の二本立では後発の東映のフィルム代が低く、館側も割高。1954年に50館足らずの専門館が1956年に500数十館
- [51]1955年1月から始めた教育・文化映画の製作は1956年までに数々の作品を生み、東映独特の事業に
- 東映五年の歩み(1956)「教育文化映画の製作開始」
- [45]CIE映画は国情の違いで理解されにくく、1953年頃から教育映画・視聴覚教育の要望。製作は設備・資金の乏しい独立プロ任せ。東映は全国に16ミリ配給網。1954年8月教育映画製作配給委員会設置、11月下旬「ふろたき大将」ほか3本着手、1955年1月公開。漫画映画も年2本程度を計画
- [46]CIE映画は国情の違いで理解されにくく、1953年頃から教育映画・視聴覚教育の要望。製作は設備・資金の乏しい独立プロ任せ。東映は全国に16ミリ配給網。1954年8月教育映画製作配給委員会設置、11月下旬「ふろたき大将」ほか3本着手、1955年1月公開。漫画映画も年2本程度を計画
- [47]CIE映画は国情の違いで理解されにくく、1953年頃から教育映画・視聴覚教育の要望。製作は設備・資金の乏しい独立プロ任せ。東映は全国に16ミリ配給網。1954年8月教育映画製作配給委員会設置、11月下旬「ふろたき大将」ほか3本着手、1955年1月公開。漫画映画も年2本程度を計画
- [48]CIE映画は国情の違いで理解されにくく、1953年頃から教育映画・視聴覚教育の要望。製作は設備・資金の乏しい独立プロ任せ。東映は全国に16ミリ配給網。1954年8月教育映画製作配給委員会設置、11月下旬「ふろたき大将」ほか3本着手、1955年1月公開。漫画映画も年2本程度を計画
- [49]CIE映画は国情の違いで理解されにくく、1953年頃から教育映画・視聴覚教育の要望。製作は設備・資金の乏しい独立プロ任せ。東映は全国に16ミリ配給網。1954年8月教育映画製作配給委員会設置、11月下旬「ふろたき大将」ほか3本着手、1955年1月公開。漫画映画も年2本程度を計画
- [50]CIE映画は国情の違いで理解されにくく、1953年頃から教育映画・視聴覚教育の要望。製作は設備・資金の乏しい独立プロ任せ。東映は全国に16ミリ配給網。1954年8月教育映画製作配給委員会設置、11月下旬「ふろたき大将」ほか3本着手、1955年1月公開。漫画映画も年2本程度を計画
1949年〜1955年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年02月期 | 単体 | 20 | n/a | 3 | 2 | 10.0% | n/a |
| 1954年02月期 | 単体 | 30 | +50.0% | 7 | 5 | 16.7% | n/a |
| 1955年02月期 | 単体 | 41 | +36.7% | 9 | 7 | 17.1% | n/a |
出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算
出典・参考
5件
- 東映五年の歩み(1956)「創立五周年を迎えて」取締役社長 大川博
- 東映五年の歩み(1956)「全プロ配給から二本立製作配給の開始へ」
- 東映五年の歩み(1956)「伸びゆく直営網」
- 東映五年の歩み(1956)「教育文化映画の製作開始」
- 私の履歴書「大川博」