松竹 の歴史

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創業 1895年
創業者 大谷竹次郎、白井松次郎
創業地 京都(新京極 阪井座)
創業
1895年12月、大谷竹次郎氏が京都・新京極の阪井座の仕打(興行主)となり、翌1896年1月に19歳で初興行を打った。双子の兄・白井松次郎氏は同じ新京極の京極座と夷谷座を引き受け、1901年に焼失した常盤座を明治座として建て直している。売店・番付・立見席の代金がそれぞれ外部の権利者に流れ、太夫元の手元に僅かな木戸銭しか残らない慣行を断ったのが出発点である。1902年に松竹合資会社を興し、松と竹を組み合わせた社章を掲げた。1920年2月にキネマ部を設けて映画製作へ入り、1921年4月に松竹キネマ株式会社が発足、1937年4月には松竹興行が松竹キネマを吸収合併して松竹株式会社となった。
決断
手放したのは作る設備で、建て替えたのは見せる設備である。1934年に小林一三氏が日比谷へ出てくると、松竹は神奈川県大船に9万坪を得て建築費120万円の撮影所を建て、1936年1月に蒲田撮影所を閉鎖した。ところが観客が1960年の10億1,400万人から1975年の1億7,000万人へ減ると、1975年7月の東劇ビル竣工を皮切りに劇場を組み込んだ自社ビルを重ね、1998年12月に鎌倉シネマワールドを閉鎖、2000年6月には大船撮影所を閉所して原版を新木場の倉庫へ移した。単館の直営劇場も2001年以降はMOVIXへ入れ替えている。製作の設備を閉じる一方で興行の土地に貸床を積んだことが、現在の不動産事業を作った。
現況
従業員の1割に満たない不動産事業が、セグメント利益の半分を出している。2026年2月期の連結売上高982億円は映像関連529億円、演劇272億円、不動産146億円で構成され、セグメント利益は不動産51億円が最大で、映像25億円、演劇17億円が続く。従業員も連結1,462名のうち不動産は97名で、映像605名・演劇599名と桁が違う。その不動産の中身は劇場の建て替えで生まれた床であり、2013年に第五期歌舞伎座と同時に竣工したGINZA KABUKIZAを賃貸物件として運営し、2023年10月には銀座2丁目松竹ビルと同ANNEXを取得した。興行の当たり外れとは別の周期で入る賃料が、映像と演劇がそろって損失を出した2021年2月期にも利益を残した。
競合
競ってきたのは劇場の数ではなく、舞台に立つ人を抱える側に立てるかどうかである。1911年に歌舞伎座株3,000株の引き取りを図った大谷竹次郎氏は、座付俳優が調達した3万円で契約を解かれると、俳優の手から出た金は受け取れないとして倍返し分の1万5,000円を返した。1913年に歌舞伎座の経営を委任されてからは東西の劇場を取得し、1921年までに演劇劇場のほとんどを手中に収める。映画では1955年の1,675館が全国常設館の約42%を占めたが、ブロック・ブッキングは作品本数が減ると一部の監督の酷使とシリーズ依存へ転じた。製作・配給・興行・演劇を一社に収めた東宝ホテルと不動産へ多角化した日活と違い、松竹は撮影所も直営館も整理しながら歌舞伎の興行だけは手放さず、それが演劇事業272億円という現在の収入を残した。
長期業績の推移 1950〜2026年
松竹:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年2月期2026年2月期

創業ストーリー 阪井座の仕打から東京六大劇場と大船撮影所まで (1895年〜)

創業ストーリー(1)

新京極の五座を握った双子の兄弟と松竹合資会社

白井松次郎氏と大谷竹次郎氏は、1877年12月13日に京都三条柳馬場で双子として生まれた[1]。父の大谷栄吉氏は花相撲の水場を営み、兄弟は物心のついた頃からその手伝いをした[2]。一家が興行の世界へ入る足がかりは劇場に付属する売店の権利で、1885年に祇園下の花見小路へ祇園座が開場すると、母方の西村熊吉氏がその売店を引き受けた[3]。1890年1月、同座を買い取った高木文平氏は祇園館と改称し、市川団十郎氏一派と中村鴈治郎氏を組ませた大芝居を打った[4]。1892年には大谷栄吉氏が新京極にある東向座の売店の権利を得て、その金主の一人に名を連ねた[5]。白井松次郎氏は同じ新京極の夷谷座を手伝ううちに売店主の白井亀吉氏の次女八重と結婚して白井家の養子となり、大谷家は大谷竹次郎氏が継いだ[6]

  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」壱・「松竹」の名のおこり
    • [1]白井松次郎・大谷竹次郎は1877年12月13日、京都三条柳馬場に双生児として生まれ、松次郎が兄、竹次郎が弟とされた
    • [2]父の大谷栄吉は花相撲の水場(売店)を経営し、兄弟はもの心のついた頃から父母の仕事を手伝った
    • [3]1885年、祇園下の花見小路に祇園座が開場し、西村熊吉がそこの売店を引きうけた
    • [4]祇園座を譲り受けた高木文平は祇園館と改称し、1890年1月に東京の市川団十郎一派と大阪の中村鴈治郎を組み合わせた大芝居を興行した
    • [5]1892年、大谷栄吉は新京極の東向座の売店の権利を手に入れ、やがてその金主(出資者)の一人になった
    • [6]白井松次郎は新京極の夷谷座を手伝ううちに売店を経営する白井亀吉の次女八重と結婚して白井家の養子となり、大谷家は弟の竹次郎が跡目を継いだ

当時の劇場は、持主の座元が自ら興行する場合と、仕打と呼ばれる興行主が劇場を借りて狂言を組み役者を集める場合とに分かれ、仕打は興行のたびに金主から資金を仰いだ[7]。当たれば利益を分け、外れれば仕打の借金になるため、銀行は芝居興行に融資しなかった[8]。1895年、金主の一人に逃げられた阪井座が大谷栄吉氏に出資を求めると、売店の経営に専念していた大谷栄吉氏は大谷竹次郎氏を代理人として差し向けた[9]。大谷竹次郎氏が阪井座の仕打となったのは1895年12月で、金主は5人おり、翌1896年1月に19歳で打った初興行では実川延二郎氏一座を立て、総利益の2割を取分とした[10]。1899年に阪井座の持主が借金で座を手放すと、大谷竹次郎氏は新しい持主の大浦新太郎氏の後援で祇園館を買収し、老朽化した阪井座を壊した跡地へ移して歌舞伎座と改め、1900年12月28日に開場させた[11]

  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」壱・「松竹」の名のおこり
    • [7]当時の劇場経営は、持主である座元が直接経営する場合と、太夫元または仕打と呼ばれる者が持主から劇場を借りて経営する場合とがあり、仕打は資金をその都度外部の金主から援助してもらうのが通例だった
    • [8]興行が当たれば金主と利益を分け合い、損をすれば仕打の借金になるため、芝居興行は危険事業とされ、銀行その他の正規の金融機関は融資を喜ばなかった
    • [9]1895年、新京極の阪井座が金主の一人に逃げられて大谷栄吉に出資を求め、栄吉は売店の経営に専心して興行には直接関係せず、竹次郎を代理人として差し出した
    • [10]1896年1月、大谷竹次郎は19歳で阪井座の仕打として第一線に立ち、金主は5人いたため大谷の取分は総利益の2割で、出演俳優は座付の実川延二郎とその一座だった
    • [11]1899年に阪井座の持主が借金で座を手放し、新しい持主の大浦新太郎の後援を得た大谷竹次郎は、売物に出ていた祇園館を買収して阪井座を取りこわした跡へ移転させ、歌舞伎座と改称して1900年12月28日に開場式をあげた

白井松次郎氏は京極座と夷谷座の仕打を務め、1900年1月から常盤座を引き受けた[12]。引受けにあたり兄弟が木戸口を仕切る遊び人を退かせ、空き家同然にして渡すよう求めたのは[13]、売店・番付・立見席の代金がそれぞれ外部の権利者に持ち去られ、太夫元の手元には僅かな木戸銭しか残らない慣行を断つためだった[14]。1901年6月6日に常盤座が漏電で全焼すると、白井松次郎氏は火災保険金を分配して解散した株式組織から権利を譲り受け、平井権七氏から建築費を借りて劇場を新築し、明治座と改めて1902年1月1日に開場した[15]。大阪朝日新聞京都版は1902年1月3日、明治座の落成を『松竹の新年』と題して記事に掲げた[16]。兄弟はまもなく松竹合資会社を興し、松と竹を組み合わせた社章を新京極近くの提灯屋に描かせた[17]。新京極で二人が経営する劇場は、大小5座になった[18]

  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」壱・「松竹」の名のおこり
    • [12]白井松次郎は京極座と夷谷座の仕打となり、常盤座の話が持ちこまれたので1900年1月からこれを経営することにした
    • [13]白井松次郎・大谷竹次郎は常盤座の経営権を引き受ける条件として、劇場に付随する遊び人を一掃し、空き家同然にして渡すよう常盤座側に求めた
    • [14]当時の京都の興行界では、木戸口を仕切る遊び人が桟敷前や立見席の木戸銭を取り、売店・番付・火鉢やふとんの取り分も別々の他人が持ち去り、太夫元のふところには僅かの木戸銭しか入らなかった
    • [15]1901年6月6日に常盤座が楽屋からの漏電で全焼し、火災保険金を株主に分配して解散した株式組織から白井松次郎が権利を譲り受け、平井権七から建築費を借りて純日本式の劇場を新築、座名を明治座と改めて1902年1月1日に開場した
    • [16]1902年1月3日の大阪朝日新聞京都版が「松竹の新年」の見出しで新京極明治座の新築落成と白井松次郎・大谷竹次郎の兄弟を報じた
    • [17]新聞記事の後、白井松次郎・大谷竹次郎はまもなく松竹合資会社をおこし、松と竹を組み合わせた図案の社章を新京極近くの提灯屋に書かせた
    • [18]1902年の明治座開場時点で、白井松次郎・大谷竹次郎は新京極に大小5つの劇場を経営していた
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」壱・「松竹」の名のおこり
    • [1]白井松次郎・大谷竹次郎は1877年12月13日、京都三条柳馬場に双生児として生まれ、松次郎が兄、竹次郎が弟とされた
    • [2]父の大谷栄吉は花相撲の水場(売店)を経営し、兄弟はもの心のついた頃から父母の仕事を手伝った
    • [3]1885年、祇園下の花見小路に祇園座が開場し、西村熊吉がそこの売店を引きうけた
    • [4]祇園座を譲り受けた高木文平は祇園館と改称し、1890年1月に東京の市川団十郎一派と大阪の中村鴈治郎を組み合わせた大芝居を興行した
    • [5]1892年、大谷栄吉は新京極の東向座の売店の権利を手に入れ、やがてその金主(出資者)の一人になった
    • [6]白井松次郎は新京極の夷谷座を手伝ううちに売店を経営する白井亀吉の次女八重と結婚して白井家の養子となり、大谷家は弟の竹次郎が跡目を継いだ
    • [7]当時の劇場経営は、持主である座元が直接経営する場合と、太夫元または仕打と呼ばれる者が持主から劇場を借りて経営する場合とがあり、仕打は資金をその都度外部の金主から援助してもらうのが通例だった
    • [8]興行が当たれば金主と利益を分け合い、損をすれば仕打の借金になるため、芝居興行は危険事業とされ、銀行その他の正規の金融機関は融資を喜ばなかった
    • [9]1895年、新京極の阪井座が金主の一人に逃げられて大谷栄吉に出資を求め、栄吉は売店の経営に専心して興行には直接関係せず、竹次郎を代理人として差し出した
    • [10]1896年1月、大谷竹次郎は19歳で阪井座の仕打として第一線に立ち、金主は5人いたため大谷の取分は総利益の2割で、出演俳優は座付の実川延二郎とその一座だった
    • [11]1899年に阪井座の持主が借金で座を手放し、新しい持主の大浦新太郎の後援を得た大谷竹次郎は、売物に出ていた祇園館を買収して阪井座を取りこわした跡へ移転させ、歌舞伎座と改称して1900年12月28日に開場式をあげた
    • [12]白井松次郎は京極座と夷谷座の仕打となり、常盤座の話が持ちこまれたので1900年1月からこれを経営することにした
    • [13]白井松次郎・大谷竹次郎は常盤座の経営権を引き受ける条件として、劇場に付随する遊び人を一掃し、空き家同然にして渡すよう常盤座側に求めた
    • [14]当時の京都の興行界では、木戸口を仕切る遊び人が桟敷前や立見席の木戸銭を取り、売店・番付・火鉢やふとんの取り分も別々の他人が持ち去り、太夫元のふところには僅かの木戸銭しか入らなかった
    • [15]1901年6月6日に常盤座が楽屋からの漏電で全焼し、火災保険金を株主に分配して解散した株式組織から白井松次郎が権利を譲り受け、平井権七から建築費を借りて純日本式の劇場を新築、座名を明治座と改めて1902年1月1日に開場した
    • [16]1902年1月3日の大阪朝日新聞京都版が「松竹の新年」の見出しで新京極明治座の新築落成と白井松次郎・大谷竹次郎の兄弟を報じた
    • [17]新聞記事の後、白井松次郎・大谷竹次郎はまもなく松竹合資会社をおこし、松と竹を組み合わせた図案の社章を新京極近くの提灯屋に書かせた
    • [18]1902年の明治座開場時点で、白井松次郎・大谷竹次郎は新京極に大小5つの劇場を経営していた
創業ストーリー(2)

東京歌舞伎座の直営化と東西十三劇場の一斉開場

1902年に興した松竹合資会社を松竹合名社と改めた白井松次郎氏と大谷竹次郎氏は、実川延若氏と中村鴈治郎氏を擁して新京極の外へ出た[19]。白井松次郎氏と中村鴈治郎氏の付き合いは1902年11月に始まった[20]。松竹合名社は、演劇形式の改良と劇場様式の変革、興行方法の改革を掲げた[21]。1905年10月に東京歌舞伎座で初興行を打ち、1906年2月には大阪中座へ進出し、同年11月に日本最古の劇場である京都南座を買収して改築した[22][23]。1910年には東京の新富座と本郷座を買収[24]。直営の劇場が東西に跨ったため、白井松次郎氏が関西、大谷竹次郎氏が関東と担当する地域を分け、それぞれの経営に当たった[25]

  • 松竹九十年史 1985年「松竹合資会社設立」
    • [19]白井松次郎・大谷竹次郎は1902年に松竹合資会社を興し、後に松竹合名会社と改め、俳優には実川延若、中村鴈治郎を擁して大阪・東京への進出を図った
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」九・松竹トラストの結成
    • [20]白井松次郎は1902年11月に中村鴈治郎と握手して以来、30年余りの親交を結んだ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
    • [21]松竹合名社は演劇形式の改良、劇場様式の変革、興行方法の改革等を目標に掲げた
    • [22]1905年10月に東京歌舞伎座で初興行を行い、1906年2月に大阪中座に進出し、同年11月に京都南座を買収改築した
    • [24]1910年、松竹は東京に進出して新富座、本郷座を買収した
    • [25]直営劇場が東西に広く跨ったため、白井松次郎・大谷竹次郎は関西・関東に担当責任分野を分け、それぞれの地域の経営に専心した
  • 松竹 統合報告書2025(2025年11月)「価値創造の歴史」
    • [23]1906年、日本最古の劇場である南座を直営とした

東京歌舞伎座が木挽町に建ったのは1889年11月である[26]。東京日日新聞社長の福地源一郎氏が欧米視察のあとに理想的な新劇場を唱え、金融業者の千葉勝五郎氏を説いて出資させたもので、洋風木造3階建、定員1,824人、工費3万5,000円は当時として空前の規模に達した[27]。しかし福地源一郎・千葉勝五郎・守田勘弥・田村成義と経営に当たる者が定まらず、市川左団次氏の脱退と尾上菊五郎・市川団十郎の相次ぐ死、1911年の帝国劇場開場が重なって株主が離れた[28]。1911年8月、大谷竹次郎氏は藤山雷太氏ら同志会の一派から歌舞伎座株3,000株を1株60円で引き取ることとし、手附金1万5,000円を送った[29]。ところが田村成義氏が反対し、座付俳優から3万円を調達して倍返しで契約を解いた[30]。大谷竹次郎氏は、俳優の手から出た金は受け取れないとして、倍返し分の1万5,000円を歌舞伎座へ返した[31]

  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」四・歌舞伎座獲得の意義
    • [26]歌舞伎座が東京の木挽町に建てられたのは1889年11月である
    • [27]東京日日新聞社社長の福地源一郎が欧米視察の結果、理想的新劇場の建設を主張して金融業者千葉勝五郎に出資を承知させ、洋風木造三階建て、定員1,824人、工費3万5,000円という当時としては空前の大建築となった
    • [28]歌舞伎座は福地源一郎・千葉勝五郎のほか守田勘弥・田村成義など経営者が一定せず内紛が絶えず、市川左団次の脱退、尾上菊五郎・市川団十郎の相次ぐ死に加え、帝国劇場の開場で株主が株式を乗りかえた
    • [29]1911年8月、大谷竹次郎は三田系の藤山雷太ほか数名からなる同志会の一派が提出した歌舞伎座株3,000株を一株60円で引取ることにし、手附金1万5,000円を送った
    • [30]田村成義が猛烈に反対し、座付俳優の中村芝翫その他の関係者に交渉して3万円を調達し、商法により手附金を倍返しにして契約解除の手続きをした
    • [31]大谷竹次郎は、倍返しの1万5,000円が俳優の手から出た金であるため受け取れないとして、これを歌舞伎座側へ戻した

歌舞伎座の重役会は1913年8月8日、相談役の三輪善兵衛氏の仲介で経営を大谷竹次郎氏に委任すると決め、同年10月1日初日の興行から松竹合名社の請負経営に改めた[32]。1914年11月の興行からは、大谷竹次郎氏が個人として歌舞伎座を借り受け、松竹合名社の名による直営へ移った[33]。松竹合名社は1915年9月3日に横浜座を買収し、1916年1月には東西13か所の大小劇場を一斉に開場させた[34]。同年、大阪毎日新聞社へ堂島座の敷地を譲った代金で道頓堀の弁天座を獲得し、道頓堀五座を揃えた[35]。大谷竹次郎氏が興行主の務めとして挙げたのは、俳優を育てることと、新脚本を出しながら旧歌舞伎を捨てないことだった[36]。1917年に大阪の角座と浪花座、京都座を買収して神戸中央劇場と東京吾妻座を新築し[37]、1921年までに東西の演劇劇場のほとんどが松竹合名社の手に入った[38]

  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」四・歌舞伎座獲得の意義
    • [32]歌舞伎座の重役会は相談役三輪善兵衛の仲介により経営を大谷竹次郎に委任することを決定し、1913年8月8日に発表、同年10月1日初日で松竹合名社の請負経営による第一回興行がはじまった
    • [33]歌舞伎座は1914年11月興行から松竹合名社の直営となり、株主の大谷竹次郎が個人として歌舞伎座を借りうけ、それを合名社の名で経営した
    • [34]松竹合名社は1915年9月3日から横浜座を買収し、1916年1月には東京・横浜・大阪・京都の13か所にのぼる大小劇場を東西で一斉開場した
    • [35]1916年、松竹は堂島座を取りこわして敷地を大阪毎日新聞社に譲り、その代金で道頓堀五座のうち最後まで残っていた弁天座を獲得、5月から開場した
    • [36]大谷竹次郎は、興行主は一面において俳優を育てて行かなければならないとし、演劇の向上をはかり新脚本を上演するほか旧歌舞伎を捨てない方針をとると述べた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
    • [37]1917年に大阪角座・浪花座、京都の京都座を買収し、神戸中央劇場および東京吾妻座を新築した
    • [38]1921年までに東西の演劇劇場のほとんどを掌中に収めた
  • 松竹九十年史 1985年「松竹合資会社設立」
    • [19]白井松次郎・大谷竹次郎は1902年に松竹合資会社を興し、後に松竹合名会社と改め、俳優には実川延若、中村鴈治郎を擁して大阪・東京への進出を図った
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」九・松竹トラストの結成
    • [20]白井松次郎は1902年11月に中村鴈治郎と握手して以来、30年余りの親交を結んだ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
    • [21]松竹合名社は演劇形式の改良、劇場様式の変革、興行方法の改革等を目標に掲げた
    • [22]1905年10月に東京歌舞伎座で初興行を行い、1906年2月に大阪中座に進出し、同年11月に京都南座を買収改築した
    • [24]1910年、松竹は東京に進出して新富座、本郷座を買収した
    • [25]直営劇場が東西に広く跨ったため、白井松次郎・大谷竹次郎は関西・関東に担当責任分野を分け、それぞれの地域の経営に専心した
    • [37]1917年に大阪角座・浪花座、京都の京都座を買収し、神戸中央劇場および東京吾妻座を新築した
    • [38]1921年までに東西の演劇劇場のほとんどを掌中に収めた
  • 松竹 統合報告書2025(2025年11月)「価値創造の歴史」
    • [23]1906年、日本最古の劇場である南座を直営とした
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」四・歌舞伎座獲得の意義
    • [26]歌舞伎座が東京の木挽町に建てられたのは1889年11月である
    • [27]東京日日新聞社社長の福地源一郎が欧米視察の結果、理想的新劇場の建設を主張して金融業者千葉勝五郎に出資を承知させ、洋風木造三階建て、定員1,824人、工費3万5,000円という当時としては空前の大建築となった
    • [28]歌舞伎座は福地源一郎・千葉勝五郎のほか守田勘弥・田村成義など経営者が一定せず内紛が絶えず、市川左団次の脱退、尾上菊五郎・市川団十郎の相次ぐ死に加え、帝国劇場の開場で株主が株式を乗りかえた
    • [29]1911年8月、大谷竹次郎は三田系の藤山雷太ほか数名からなる同志会の一派が提出した歌舞伎座株3,000株を一株60円で引取ることにし、手附金1万5,000円を送った
    • [30]田村成義が猛烈に反対し、座付俳優の中村芝翫その他の関係者に交渉して3万円を調達し、商法により手附金を倍返しにして契約解除の手続きをした
    • [31]大谷竹次郎は、倍返しの1万5,000円が俳優の手から出た金であるため受け取れないとして、これを歌舞伎座側へ戻した
    • [32]歌舞伎座の重役会は相談役三輪善兵衛の仲介により経営を大谷竹次郎に委任することを決定し、1913年8月8日に発表、同年10月1日初日で松竹合名社の請負経営による第一回興行がはじまった
    • [33]歌舞伎座は1914年11月興行から松竹合名社の直営となり、株主の大谷竹次郎が個人として歌舞伎座を借りうけ、それを合名社の名で経営した
    • [34]松竹合名社は1915年9月3日から横浜座を買収し、1916年1月には東京・横浜・大阪・京都の13か所にのぼる大小劇場を東西で一斉開場した
    • [35]1916年、松竹は堂島座を取りこわして敷地を大阪毎日新聞社に譲り、その代金で道頓堀五座のうち最後まで残っていた弁天座を獲得、5月から開場した
    • [36]大谷竹次郎は、興行主は一面において俳優を育てて行かなければならないとし、演劇の向上をはかり新脚本を上演するほか旧歌舞伎を捨てない方針をとると述べた
創業ストーリー(3)

キネマ部の創設と蒲田から大船への撮影所移転

松竹合名社は京都の歌舞伎座や道頓堀の朝日座を日活などの活動写真興行に貸しており、その歩合金は年々増えて、自社が経営する演劇場の収入を上回ることもあった[39]。1919年3月、白井松次郎氏と大谷竹次郎氏は舞台監督の松居松葉氏の欧米視察に白井信太郎氏を同行させ、当時最大の撮影所を持つユニヴァーサルを見せた[40]。帰国した白井信太郎氏の報告によれば、撮影所はそのまま一つの都市をなして広大な不動産会社を兼ね、製作フィルムの大半が海外へ輸出されていた[41]。1920年2月11日、松竹合名社はキネマ部を設けて映画の製作と供給を発表し、白井松次郎氏・大谷竹次郎氏・白井信太郎氏の連名で創立趣意書を出した[42]。大谷竹次郎氏は、株式会社にすれば株主への配当を考えて粗製濫造に傾くとして、当面は個人経営で通すと述べた[43]

  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」1・発足は松竹キネマ合名社
    • [39]松竹合名社が京都の歌舞伎座や道頓堀の朝日座を横田永之助や日活の活動写真興行に貸していたとき、家賃として入る歩合金が年々多くなり、時には松竹が経営する他の演劇場の収入よりも多いことがあった
    • [40]1919年3月、松竹の舞台監督松居松葉の海外視察に際し、白井松次郎は大谷竹次郎と相談して23歳の白井信太郎を同行させ、アメリカで当時最大の撮影所を持っていたユニヴァーサルを視察させた
    • [41]白井信太郎は、ユニヴァーサルのように撮影所がそのまま一つの都市になって広大な不動産会社を兼ねているものもあり、製作フィルムの大半は海外へ輸出されると報告した
    • [42]松竹合名社が社内にキネマ部を設けて映画の製作・供給を内外に発表したのは1920年2月11日で、創立趣意書は白井松次郎・大谷竹次郎・白井信太郎の連名だった
    • [43]大谷竹次郎は、株式会社にすると株主への利益配当を考慮するため眼前の利益にあせり粗製濫造となりがちであるとして、当面は個人経営とする考えを表明した

撮影所の敷地は、井の頭公園付近や国府津海岸付近などの申込みが値段で折り合わず、1920年5月末に東京府荏原郡蒲田村の中村化学研究所跡およそ9,000坪へ決まった[44]。松竹キネマ合名社は応募者240人から男子30人と女子6人を選び、小山内薫氏を校長とするキネマ俳優学校で養成した[45]。同社はまた、ハリウッドからカメラマンのヘンリー小谷氏と大道具技師のジョージ・チャプマン氏、撮影監督の田中欽之氏を招き、照明器具とベルハウエル・カメラを買い入れた[46]。創立披露第一回作品は、ヘンリー小谷氏が房州富浦で撮った『島の女』で、1920年11月1日に東京歌舞伎座、11月13日から道頓堀角座で公開した[47]。同年11月22日には帝国活動写真株式会社を資本金125万円で設立し、1921年4月にこれを松竹キネマ株式会社と改めて松竹キネマ合名社を吸収したことで、資本金は500万円になった[48][49]

  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」1・発足は松竹キネマ合名社
    • [44]撮影所の敷地には東京市外井の頭公園附近、東海道国府津海岸附近、埼玉県大宮公園附近、神奈川県鶴見花月園附近などの申込があったが売買値段が折り合わず、1920年5月末に東京府荏原郡蒲田村の中村化学研究所跡約9,000坪に決定した
    • [45]松竹キネマ合名社は240人ばかりの俳優応募者から男子30人・女子6人を厳選し、1920年4月1日開講のキネマ俳優学校で養成した。校長には小山内薫が就任した
    • [46]松竹はハリウッド映画界のカメラマン、ヘンリー小谷、大道具技師ジョージ・チャプマン、撮影監督田中欽之を技術指導者に迎え、多数の照明器具、ベルハウエル・カメラなどを購入した
    • [47]松竹キネマ創立披露第一回作品はヘンリー小谷が房州富浦の海岸でロケーションして作った「島の女」で、1920年11月1日に歌舞伎座で公開し、大阪では11月13日から道頓堀角座で披露興行を行った
  • 松竹 有価証券報告書【沿革】
    • [48]1920年11月22日に帝国活動写真株式会社を創立し、これが松竹の設立日となる。1921年4月に社名を松竹キネマ株式会社に変更し、同時に松竹キネマ合名社を吸収した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
    • [49]大正9年11月設立の帝国活動(資本金125万円)を翌10年4月に松竹合名社が買収し、資本金500万円の松竹キネマとして発足した

1923年9月の関東大震災で直営館22館と蒲田撮影所の施設が全壊すると、松竹キネマは京都の下加茂で撮影を始め、蒲田の現代劇と京都の時代劇という分担を作り上げた[50]。1924年7月に蒲田撮影所長となった城戸四郎氏は、泣きたい客だけに向けた映画を退け、明るく健康な娯楽を作ると説いた[51]。1931年8月1日に帝国劇場で封切った『マダムと女房』が、最初に成功した国産トーキーとなった[52][53]。1934年、日比谷に東京宝塚劇場を開いた小林一三氏の興行界進出を受けて、松竹キネマは地元と組んで松竹映画都市株式会社を資本金60万円で設立し、神奈川県大船駅近くの9万坪を得た[54][55]。9万坪のうち3万坪を撮影所用地とし、残りは田園都市住宅地として坪当り20円から40円で分譲した[56]。建築費120万円、建坪4,500坪、49棟の大船撮影所は蒲田の5倍の敷地を持ち、1936年1月14日の蒲田撮影所閉鎖をもって移転を終えた[57]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
    • [50]関東大震災によって直営館22館をはじめ蒲田の撮影所施設が全壊し、これを契機として京都下加茂で撮影を開始、蒲田の現代劇、京都の時代劇という慣例をつくりあげた
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」2・明朗蒲田調の確立
    • [51]1924年7月1日に蒲田撮影所長へ就任した城戸四郎は、すべての映画を泣きたい客のために作るのは面白くない、娯楽は明るい健康なものでなければならないと説いて新派的題材の揚棄を主張した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂 概説
    • [52]国産トーキー映画で成功した最初のものは松竹の「マダムと女房」(1931年)である
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」4・日本トーキーに松竹の先制
    • [53]松竹トーキー第一作「マダムと女房」は1931年8月1日、帝国劇場で封切られた
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」九・松竹トラストの結成
    • [54]1934年1月に開場した東京日比谷の宝塚劇場を根城に、宝塚歌劇を経営していた小林一三が興行界に進出してきた
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」5・松竹第一主義と、大船移転
    • [55]松竹は地元と提携して松竹映画都市株式会社(資本金60万円)を創立し、神奈川県大船駅近くの9万坪を得た
    • [56]9万坪のうち松竹が撮影所用地として取得する分は3万坪とし、残余は田園都市住宅地として坪当り20円から40円で一般に分譲することにした
    • [57]大船撮影所は蒲田撮影所の5倍にあたる3万坪の敷地を持ち、49棟・建坪4,500坪、建築費120万円を要した。1936年1月14日に蒲田撮影所閉鎖式を挙げ、同日午後1時から大船で開所式を行った
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」1・発足は松竹キネマ合名社
    • [39]松竹合名社が京都の歌舞伎座や道頓堀の朝日座を横田永之助や日活の活動写真興行に貸していたとき、家賃として入る歩合金が年々多くなり、時には松竹が経営する他の演劇場の収入よりも多いことがあった
    • [40]1919年3月、松竹の舞台監督松居松葉の海外視察に際し、白井松次郎は大谷竹次郎と相談して23歳の白井信太郎を同行させ、アメリカで当時最大の撮影所を持っていたユニヴァーサルを視察させた
    • [41]白井信太郎は、ユニヴァーサルのように撮影所がそのまま一つの都市になって広大な不動産会社を兼ねているものもあり、製作フィルムの大半は海外へ輸出されると報告した
    • [42]松竹合名社が社内にキネマ部を設けて映画の製作・供給を内外に発表したのは1920年2月11日で、創立趣意書は白井松次郎・大谷竹次郎・白井信太郎の連名だった
    • [43]大谷竹次郎は、株式会社にすると株主への利益配当を考慮するため眼前の利益にあせり粗製濫造となりがちであるとして、当面は個人経営とする考えを表明した
    • [44]撮影所の敷地には東京市外井の頭公園附近、東海道国府津海岸附近、埼玉県大宮公園附近、神奈川県鶴見花月園附近などの申込があったが売買値段が折り合わず、1920年5月末に東京府荏原郡蒲田村の中村化学研究所跡約9,000坪に決定した
    • [45]松竹キネマ合名社は240人ばかりの俳優応募者から男子30人・女子6人を厳選し、1920年4月1日開講のキネマ俳優学校で養成した。校長には小山内薫が就任した
    • [46]松竹はハリウッド映画界のカメラマン、ヘンリー小谷、大道具技師ジョージ・チャプマン、撮影監督田中欽之を技術指導者に迎え、多数の照明器具、ベルハウエル・カメラなどを購入した
    • [47]松竹キネマ創立披露第一回作品はヘンリー小谷が房州富浦の海岸でロケーションして作った「島の女」で、1920年11月1日に歌舞伎座で公開し、大阪では11月13日から道頓堀角座で披露興行を行った
  • 松竹 有価証券報告書【沿革】
    • [48]1920年11月22日に帝国活動写真株式会社を創立し、これが松竹の設立日となる。1921年4月に社名を松竹キネマ株式会社に変更し、同時に松竹キネマ合名社を吸収した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
    • [49]大正9年11月設立の帝国活動(資本金125万円)を翌10年4月に松竹合名社が買収し、資本金500万円の松竹キネマとして発足した
    • [50]関東大震災によって直営館22館をはじめ蒲田の撮影所施設が全壊し、これを契機として京都下加茂で撮影を開始、蒲田の現代劇、京都の時代劇という慣例をつくりあげた
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」2・明朗蒲田調の確立
    • [51]1924年7月1日に蒲田撮影所長へ就任した城戸四郎は、すべての映画を泣きたい客のために作るのは面白くない、娯楽は明るい健康なものでなければならないと説いて新派的題材の揚棄を主張した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂 概説
    • [52]国産トーキー映画で成功した最初のものは松竹の「マダムと女房」(1931年)である
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」4・日本トーキーに松竹の先制
    • [53]松竹トーキー第一作「マダムと女房」は1931年8月1日、帝国劇場で封切られた
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」九・松竹トラストの結成
    • [54]1934年1月に開場した東京日比谷の宝塚劇場を根城に、宝塚歌劇を経営していた小林一三が興行界に進出してきた
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」5・松竹第一主義と、大船移転
    • [55]松竹は地元と提携して松竹映画都市株式会社(資本金60万円)を創立し、神奈川県大船駅近くの9万坪を得た
    • [56]9万坪のうち松竹が撮影所用地として取得する分は3万坪とし、残余は田園都市住宅地として坪当り20円から40円で一般に分譲することにした
    • [57]大船撮影所は蒲田撮影所の5倍にあたる3万坪の敷地を持ち、49棟・建坪4,500坪、建築費120万円を要した。1936年1月14日に蒲田撮影所閉鎖式を挙げ、同日午後1時から大船で開所式を行った
創業ストーリー(4)

松竹興行の吸収合併と統制配給下の製作縮小

1937年4月、松竹興行株式会社が松竹キネマ株式会社を吸収合併して資本金3,740万1,250円の松竹株式会社が発足し[58]、会長には白井松次郎氏、社長には大谷竹次郎氏が就いた[59]。1902年に松竹合名社を興した兄弟は、直営劇場が東西に広がった時点で白井松次郎氏が関西、大谷竹次郎氏が関東と担当分野を分け、それぞれの地域で劇場を買い集めてきた[60]。合併の前年には蒲田撮影所を閉じて大船撮影所を開き[61]、1934年8月に常磐興行と邦楽座、1936年8月に神戸聚楽館を合併した[62]。演劇と映画を一つの会社に収めたうえで、1938年7月に浅草国際劇場、1940年1月に新橋演舞場を直営とし、同年6月には京都太秦撮影所を開いた[63]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
    • [58]1937年4月、松竹興行株式会社が松竹キネマ株式会社を吸収合併して松竹株式会社となり、資本金3,740万1,250円で発足した
    • [59]松竹株式会社の発足にあたり会長に白井松次郎氏、社長に大谷竹次郎氏が就任した
    • [60]1902年に白井松次郎氏と大谷竹次郎氏の兄弟が松竹合名社を設立し、直営劇場が東西に跨がったのを機に白井松次郎氏が関西、大谷竹次郎氏が関東と担当責任分野を分けた
  • 松竹 有価証券報告書【沿革】
    • [61]1936年1月に大船撮影所を開設し蒲田撮影所を閉鎖した
    • [62]1934年8月に常磐興行株式会社と邦楽座株式会社の2社を合併し、1936年8月に神戸聚楽館株式会社を吸収合併した
    • [63]1938年7月に浅草国際劇場を直営とし、1940年1月に新橋演舞場を直営開場、同年6月に京都太秦撮影所を開設した

戦時統制は製作と配給の両方に及んだ。1940年に製作会社の整理統合が強制され、残ったのは松竹、東宝映画、大日本映画製作の3社である[64]。配給は1942年4月に社団法人映画配給社へ一元化され、全国の映画興行場が紅白2系統に分けられ、毎週それぞれの系統へ劇映画1本を配給する方式に改まった[65]。同月に白系で封切られた『父ありき』は、プリント30本を掛け持ちさせ、42の興行場で一斉に公開された[66]。松竹の配給部門の職員も分離して映画配給社へ移った[67]。1942年4月以降に封切られた全60種の収入順位では、松竹作品18篇のうち中位以上は8篇にとどまり、残る10篇は下位に落ちた[68]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂 概説
    • [64]1940年に製作会社の整理統合が強制され、松竹、東宝映画、大日本映画製作の3社のみとなった
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」7・統制と耐乏の四年間
    • [65]1942年4月に社団法人映画配給社が創立され、全国の映画興行場を紅白の2系統に分流し、毎週各系統に1本の劇映画が配給される統制配給となった
    • [66]1942年4月封切の「父ありき」は白系に配給され、プリント30本を掛けもちの方法により42の興行場で一斉封切された
    • [67]1942年4月に新設された社団法人映画配給社へ、劇映画3社から配給部門の職員が分離して参加した
    • [68]映画配給社が示した1942年4月以降の封切映画全60種の封切収入総上り高順位で、松竹の全配給作品18篇のうち8篇が中位以上にあり、他の10篇は下位に低落していた

製作本数が減った撮影所は人員を興行と慰問に回し、俳優のなかには映画館の実演にかり出される者が出た[69]。大谷博氏は1942年6月、松竹少女歌劇団を主体に大船撮影所の女優と松竹軽音楽団から50名を選んで慰問団を組み、7月から8月末までマニラを中心に約150回の公演を行った[70]。京都の下加茂撮影所は同じ年の『迎春花』撮影のころからほぼ休止し、その分の作品は大船撮影所のスタッフが引き受けた[71]。1943年1月の人事機構改革では、城戸四郎氏が大船撮影所長、池田義信氏が下加茂撮影所長、芦田勝至氏が太秦撮影所長に就き、同じ年に城戸四郎氏は松竹を退社した[72]。終戦の年の製作は11本まで落ち込んだ[73]

  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」7・統制と耐乏の四年間
    • [69]製作本数が激減したため撮影所では脚本や出演者に人員を動員できたが、俳優の中には映画館の実演にかり出される者もあった
    • [70]1942年6月、大谷博常務が松竹少女歌劇団を主体に大船の女優と松竹軽音楽団から50名を選抜して慰問団を組織し、7月から8月末までマニラを中心に約150回の慰問公演を行った
    • [71]下加茂撮影所は1942年の「迎春花」撮影の頃からほとんど休止状態となり、その他の映画は大船のスタッフが製作した
    • [72]1943年1月の人事機構改革で城戸四郎氏が大船撮影所長、池田義信氏が下加茂撮影所長、芦田勝至氏が太秦撮影所長となり、同年に城戸四郎専務が退社した
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」8・盛り上る生産復興の総力
    • [73]終戦の年の製作本数は11本であった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
    • [58]1937年4月、松竹興行株式会社が松竹キネマ株式会社を吸収合併して松竹株式会社となり、資本金3,740万1,250円で発足した
    • [59]松竹株式会社の発足にあたり会長に白井松次郎氏、社長に大谷竹次郎氏が就任した
    • [60]1902年に白井松次郎氏と大谷竹次郎氏の兄弟が松竹合名社を設立し、直営劇場が東西に跨がったのを機に白井松次郎氏が関西、大谷竹次郎氏が関東と担当責任分野を分けた
  • 松竹 有価証券報告書【沿革】
    • [61]1936年1月に大船撮影所を開設し蒲田撮影所を閉鎖した
    • [62]1934年8月に常磐興行株式会社と邦楽座株式会社の2社を合併し、1936年8月に神戸聚楽館株式会社を吸収合併した
    • [63]1938年7月に浅草国際劇場を直営とし、1940年1月に新橋演舞場を直営開場、同年6月に京都太秦撮影所を開設した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂 概説
    • [64]1940年に製作会社の整理統合が強制され、松竹、東宝映画、大日本映画製作の3社のみとなった
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」7・統制と耐乏の四年間
    • [65]1942年4月に社団法人映画配給社が創立され、全国の映画興行場を紅白の2系統に分流し、毎週各系統に1本の劇映画が配給される統制配給となった
    • [66]1942年4月封切の「父ありき」は白系に配給され、プリント30本を掛けもちの方法により42の興行場で一斉封切された
    • [67]1942年4月に新設された社団法人映画配給社へ、劇映画3社から配給部門の職員が分離して参加した
    • [68]映画配給社が示した1942年4月以降の封切映画全60種の封切収入総上り高順位で、松竹の全配給作品18篇のうち8篇が中位以上にあり、他の10篇は下位に低落していた
    • [69]製作本数が激減したため撮影所では脚本や出演者に人員を動員できたが、俳優の中には映画館の実演にかり出される者もあった
    • [70]1942年6月、大谷博常務が松竹少女歌劇団を主体に大船の女優と松竹軽音楽団から50名を選抜して慰問団を組織し、7月から8月末までマニラを中心に約150回の慰問公演を行った
    • [71]下加茂撮影所は1942年の「迎春花」撮影の頃からほとんど休止状態となり、その他の映画は大船のスタッフが製作した
    • [72]1943年1月の人事機構改革で城戸四郎氏が大船撮影所長、池田義信氏が下加茂撮影所長、芦田勝至氏が太秦撮影所長となり、同年に城戸四郎専務が退社した
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」8・盛り上る生産復興の総力
    • [73]終戦の年の製作本数は11本であった
創業ストーリー(5)

歌舞伎座の復興開場と契約館1,624館の配給網

1946年の興行界は活況を取り戻した。焼け残った映画館や急造のバラック小屋にまで観客が押し寄せ、興行の経験を持たない者までが各地で映画興行場を開いた[74]。松竹は自由配給の開始と同時に全プロ配給に踏み切り、契約を申し入れる興行者が相次いだ[75]。3月9日には映画公社の解散を受けて大谷竹次郎社長と城戸四郎氏が松竹に復帰し、重役の担当を映画製作、関西、演劇、映画興行に分けた[76]。10月15日からは日本映画演劇労働組合の指導で大船撮影所がゼネストに入り、19日から傍系興行館、26日から京都撮影所が合流して、11月6日の解決まで23日を要した[77]。翌1947年の製作は大船20本、京都13本の計33本で、前年より4本増えた[78]

  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」8・盛り上る生産復興の総力
    • [74]1946年の映画界は活況を呈し、焼残った映画館や急造のバラック小屋に観客が殺到し、興行に経験のあるなしにかかわらず全国各地に映画興行場が開かれた
    • [75]松竹は自由配給開始と同時に全プロ配給を実行し、各地の映画興行者から松竹配給部へ契約の申入れが相次いだ
    • [76]1946年3月9日、映画公社の解散により大谷竹次郎社長や城戸四郎元専務が復社したのを機会に松竹の重役陣を改革し、映画製作・関西・演劇・映画興行の担当を定めた
    • [77]1946年10月15日から大船撮影所が日本映画演劇労働組合の指導でゼネラルストライキに入り、19日から傍系興行館、26日から京都撮影所が合流し、11月6日に解決してスト突入から23日目に再開した
    • [78]1947年の松竹製作映画は大船20本、京都13本の合計33本で、前年度より4本増加した

復興の資金は増資で調達した。松竹は1948年以降、戦災からの復興整備資金に充てるため4回の増資を行い、1952年11月に国際劇場株式会社を合併して、1953年2月に資本金13億2,000万円となった[79]。株式は松竹キネマとして1924年12月に東京株式取引所と大阪株式取引所へ上場していたが、1949年5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ改めて上場し、同年7月には福岡、1950年4月には札幌の証券取引所にも上場した[80]。1950年5月には本社、東京と大阪の2支店、大船と京都の2撮影所、北海道・中部・九州の3支社という機構を整えた[81]。1951年1月、歌舞伎座が復興開場した[82]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
    • [79]1948年以降、戦災による復興整備資金充当のため4回にわたる増資と1952年11月の国際劇場株式会社の合併により、1953年2月に資本金13億2,000万円となった
    • [81]1950年5月に本社、東京・大阪の2支店、大船・京都の2撮影所、北海道・中部・九州の3支社という機構を整えた
  • 松竹 有価証券報告書【沿革】
    • [80]1924年12月に東京株式取引所・大阪株式取引所へ株式を上場し、1949年5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所、同年7月に福岡証券取引所、1950年4月に札幌証券取引所へ株式を上場した
    • [82]1951年1月に歌舞伎座が復興開場した

1951年の松竹は製作と興行の両方で数字を伸ばした。3月に富士フイルムと組んだ国産初の色彩劇映画『カルメン故郷に帰る』を直接製作費約3,900万円で完成させ、東京劇場で特別公開に踏み切った[83]。正月興行の直営収入は1億5,700万円と会社創立以来の最高で、上半期の配給収入10億1,800万円は業界の首位となった[84]。1955年時点の直営館は演劇8館と映画51館、映画契約館は1,624館を数え、映画館の合計1,675館は全国常設館の約42%を占めた[85]。単体の営業収入も1952年2月期の52億2,800万円から1955年2月期の105億8,300万円へ倍増した[86]。1955年6月、松竹は築地に敷地1,600坪の松竹会館を着工[87]。1956年9月の落成にあわせ、本社を同館へ移した[88]

  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」9・色彩映画も松竹が先鞭
    • [83]1951年3月21日、富士フイルムと提携した日本最初の色彩劇映画「カルメン故郷に帰る」が直接製作費約3,900万円をかけて完成し、東京劇場で特別公開された
    • [84]1951年の正月は直営収入1億5,700万円をあげて会社創立以来の最高記録となり、当年度上半期の配給収入も10億1,800万円となって業界の首位を獲得した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
    • [85]1955年時点の直営館は演劇8館・映画51館、映画契約館は1,624館、映画館合計1,675館で、全国常設館の約42%を占めた
    • [87]1955年6月、築地の一角に敷地1,600坪の松竹会館の建設に着工した
  • 上場会社総覧(1956年版)半期合算
    • [86]単体の営業収入は1952年2月期52.28億円、1955年2月期105.83億円
  • 松竹 有価証券報告書【沿革】
    • [88]1956年9月、東京都中央区築地に松竹会館が落成し本社を移転した
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」8・盛り上る生産復興の総力
    • [74]1946年の映画界は活況を呈し、焼残った映画館や急造のバラック小屋に観客が殺到し、興行に経験のあるなしにかかわらず全国各地に映画興行場が開かれた
    • [75]松竹は自由配給開始と同時に全プロ配給を実行し、各地の映画興行者から松竹配給部へ契約の申入れが相次いだ
    • [76]1946年3月9日、映画公社の解散により大谷竹次郎社長や城戸四郎元専務が復社したのを機会に松竹の重役陣を改革し、映画製作・関西・演劇・映画興行の担当を定めた
    • [77]1946年10月15日から大船撮影所が日本映画演劇労働組合の指導でゼネラルストライキに入り、19日から傍系興行館、26日から京都撮影所が合流し、11月6日に解決してスト突入から23日目に再開した
    • [78]1947年の松竹製作映画は大船20本、京都13本の合計33本で、前年度より4本増加した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
    • [79]1948年以降、戦災による復興整備資金充当のため4回にわたる増資と1952年11月の国際劇場株式会社の合併により、1953年2月に資本金13億2,000万円となった
    • [81]1950年5月に本社、東京・大阪の2支店、大船・京都の2撮影所、北海道・中部・九州の3支社という機構を整えた
    • [85]1955年時点の直営館は演劇8館・映画51館、映画契約館は1,624館、映画館合計1,675館で、全国常設館の約42%を占めた
    • [87]1955年6月、築地の一角に敷地1,600坪の松竹会館の建設に着工した
  • 松竹 有価証券報告書【沿革】
    • [80]1924年12月に東京株式取引所・大阪株式取引所へ株式を上場し、1949年5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所、同年7月に福岡証券取引所、1950年4月に札幌証券取引所へ株式を上場した
    • [82]1951年1月に歌舞伎座が復興開場した
    • [88]1956年9月、東京都中央区築地に松竹会館が落成し本社を移転した
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」9・色彩映画も松竹が先鞭
    • [83]1951年3月21日、富士フイルムと提携した日本最初の色彩劇映画「カルメン故郷に帰る」が直接製作費約3,900万円をかけて完成し、東京劇場で特別公開された
    • [84]1951年の正月は直営収入1億5,700万円をあげて会社創立以来の最高記録となり、当年度上半期の配給収入も10億1,800万円となって業界の首位を獲得した
  • 上場会社総覧(1956年版)半期合算
    • [86]単体の営業収入は1952年2月期52.28億円、1955年2月期105.83億円
創業ストーリー(6)

松竹ロビンスの撤退と松竹会館28レーンのボーリング場

劇場と撮影所の外へ最初に資金を向けた先は、プロ野球である。松竹は映画の宣伝手段としても適当な事業と見て、1949年12月に田村駒次郎氏所有の大陽ロビンスを併合し、1950年1月7日付で資本金2,000万円の松竹ロビンスを発足させた[89]。球団代表には元満鉄理事の猪子一到氏、監督には元明治大学選手の小西得郎氏が就いた[90]。セントラル・リーグ初年度の1950年は137試合で優勝したものの、有名選手の引き抜き費用と球団運営費がかさみ、約5,000万円の赤字を計上した[91]。1951年は緊縮方針で有名選手を他球団へ移して4位、1952年は最下位に落ちた[92]。1953年1月に大洋ホエールズとの合併が決まり、2月7日から損益を半々で負担する洋松ロビンスとして再出発したが、1953年は7チーム中6位、1954年は最下位となり、松竹は1954年12月11日に球団経営から手を引いた[93]

  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹のテレビ製作・その他」2・松竹のスポーツ企業
    • [89]松竹は映画の宣伝手段としても適当な事業として、1949年12月に田村駒次郎氏所有の球団「大陽ロビンス」の併合に成功し、1950年1月7日付で資本金2,000万円の「松竹ロビンス」を発足させた
    • [90]松竹ロビンスの球団代表者に元満鉄理事の猪子一到氏、監督に元明治大学選手の小西得郎氏が就任した
    • [91]松竹ロビンスは1950年のセントラル・リーグ参加初年度に137試合で優勝したが、有名選手の引抜き費用や球団運営費がかさみ約5,000万円の赤字を計上した
    • [92]1951年度は緊縮方針を採り有名選手を他球団にトレードした結果、松竹ロビンスは第4位に落ち、1952年度は最下位となった
    • [93]1953年1月に松竹ロビンスと大洋ホエールズの合併が実現し、2月7日から損益半々負担の洋松ロビンスとして再出発したが、1953年度は7チーム中第6位、1954年は最下位となり、1954年12月11日に松竹は球団経営から手を退いた

配給網の拡大が止まると、収益は頭打ちになった。売上高は1957年2月期の110億7,500万円、経常利益は6億9,200万円が頂点で、1960年2月期は100億5,300万円へ落ちた[94]。1962年2月期は売上高91億円で経常損失5,600万円、1963年2月期も95億円で4,900万円の経常損失と、赤字が2期続いた[95]。1960年4月30日の株主総会で報告された第79期は営業収入が前年同期比15.4%減となり、前年9月の増資の直後に利益配当を打ち切った[96]。城戸四郎社長は同じ総会で辞任し、常任監査役の大谷博氏が3代目社長に就いた[97]。大谷博社長は機構の縮小と遊休施設の利用で年間5億円の経費を削ったが、1962年4月3日の重役会で任期満了を理由とする辞意が承認され、大谷隆三副社長も健康を理由に辞任した[98]。大谷竹次郎会長が8年ぶりに社長へ復帰し、城戸四郎氏が副社長に就任、白井信太郎氏は相談役を退いた[99]

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
    • [94]単体の売上高は1957年2月期110.75億円・経常利益6.92億円、1960年2月期は売上高100.53億円
    • [95]単体の売上高は1962年2月期91億円・経常利益△0.56億円、1963年2月期95億円・経常利益△0.49億円
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」1・長篇大作時代を迎う
    • [96]1960年4月30日の定時株主総会で報告された第79期決算は営業収入51億8,100万円(前年同期比15.4%減)で、前年9月の増資に対しても利益配当を打切った
    • [97]1960年4月30日の定時株主総会で城戸四郎社長が社長を辞任して取締役相談役となり、常任監査役の大谷博氏が松竹3代目の代表取締役社長に就任した
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」
    • [98]大谷博前社長は機構縮小を手はじめに遊休施設の利用に着手し、年間5億円にのぼる経費の節減をした。任期満了を理由に辞意を表明した大谷博社長と、健康を理由に辞任を申し出た大谷隆三副社長について、1962年4月3日の重役会でこれが承認された
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」昭和三十七年
    • [99]1962年4月3日の重役会の承認により大谷竹次郎会長が8年ぶりで社長に復帰し、城戸四郎相談役が副社長に就任、白井信太郎相談役は辞任した。同年4月30日の定時株主総会に続く重役会で取締役社長=大谷竹次郎、取締役副社長=城戸四郎と決定した

劇場と撮影所の外にも収入源を置いた。1959年3月開局のフジテレビへ、松竹は東宝大映と同じく4,000万円を出資し、大谷隆三氏が取締役に加わった[100]。1958年11月に本社へテレビ製作専門委員会を置き、1959年3月にはテレビ室を新設して、1963年8月末までに劇映画9篇200回分のテレビ映画をプロデュースしている[101]。1963年6月28日には松竹会館の6階と7階を改造した28レーンの松竹ボーリングを開場し、機械購入費を含む建設費は3億2,000万円を要した[102]。開場以来、連日700人から1,000人が入り[103]、この盛況を受けて松竹は1963年以降、全国の主要都市にボーリング場、サウナバス、ビリヤード、貸店舗を開いた[104]。1964年1月1日時点の資本金は27億7,200万円で、収入比率は演劇演芸興行36.6%、映画興行29.4%、映画営業26.4%、土地建物の賃貸などその他7.6%であった[105]

  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹のテレビ製作・その他」1・松竹のテレビ製作
    • [100]1959年3月開局のフジテレビに対し、松竹は東宝・大映の2社と同様に4,000万円を出資し、大谷隆三氏が取締役として役員陣に参加した
    • [101]1958年11月から本社内にテレビ製作専門委員会を開設し、1959年3月にテレビ室を新設、1963年8月末までに松竹がプロデュースしたテレビ映画は劇映画9篇200回分に上った
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹のテレビ製作・その他」2・松竹のスポーツ企業
    • [102]1963年6月28日、東京築地の松竹会館6・7階の改造により機械購入費を含む建設費3億2,000万円を要した28レーンの「松竹ボーリング」が開場した
    • [103]松竹ボーリングは開場以来、連日700人から1,000人の入場者を見ている
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「松竹」
    • [104]1963年以降、全国主要都市にボーリング場、サウナバス、ビリヤード、貸店舗などを開設した
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹株式会社の現況」
    • [105]1964年1月1日時点の資本金は27億7,200万円、従業員は2,779名、収入比率は映画営業26.4%・映画興行29.4%・演劇演芸興行36.6%・その他7.6%で、その他の事業には土地建物の賃貸が含まれる
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹のテレビ製作・その他」2・松竹のスポーツ企業
    • [89]松竹は映画の宣伝手段としても適当な事業として、1949年12月に田村駒次郎氏所有の球団「大陽ロビンス」の併合に成功し、1950年1月7日付で資本金2,000万円の「松竹ロビンス」を発足させた
    • [90]松竹ロビンスの球団代表者に元満鉄理事の猪子一到氏、監督に元明治大学選手の小西得郎氏が就任した
    • [91]松竹ロビンスは1950年のセントラル・リーグ参加初年度に137試合で優勝したが、有名選手の引抜き費用や球団運営費がかさみ約5,000万円の赤字を計上した
    • [92]1951年度は緊縮方針を採り有名選手を他球団にトレードした結果、松竹ロビンスは第4位に落ち、1952年度は最下位となった
    • [93]1953年1月に松竹ロビンスと大洋ホエールズの合併が実現し、2月7日から損益半々負担の洋松ロビンスとして再出発したが、1953年度は7チーム中第6位、1954年は最下位となり、1954年12月11日に松竹は球団経営から手を退いた
    • [102]1963年6月28日、東京築地の松竹会館6・7階の改造により機械購入費を含む建設費3億2,000万円を要した28レーンの「松竹ボーリング」が開場した
    • [103]松竹ボーリングは開場以来、連日700人から1,000人の入場者を見ている
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
    • [94]単体の売上高は1957年2月期110.75億円・経常利益6.92億円、1960年2月期は売上高100.53億円
    • [95]単体の売上高は1962年2月期91億円・経常利益△0.56億円、1963年2月期95億円・経常利益△0.49億円
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」1・長篇大作時代を迎う
    • [96]1960年4月30日の定時株主総会で報告された第79期決算は営業収入51億8,100万円(前年同期比15.4%減)で、前年9月の増資に対しても利益配当を打切った
    • [97]1960年4月30日の定時株主総会で城戸四郎社長が社長を辞任して取締役相談役となり、常任監査役の大谷博氏が松竹3代目の代表取締役社長に就任した
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」
    • [98]大谷博前社長は機構縮小を手はじめに遊休施設の利用に着手し、年間5億円にのぼる経費の節減をした。任期満了を理由に辞意を表明した大谷博社長と、健康を理由に辞任を申し出た大谷隆三副社長について、1962年4月3日の重役会でこれが承認された
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」昭和三十七年
    • [99]1962年4月3日の重役会の承認により大谷竹次郎会長が8年ぶりで社長に復帰し、城戸四郎相談役が副社長に就任、白井信太郎相談役は辞任した。同年4月30日の定時株主総会に続く重役会で取締役社長=大谷竹次郎、取締役副社長=城戸四郎と決定した
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹のテレビ製作・その他」1・松竹のテレビ製作
    • [100]1959年3月開局のフジテレビに対し、松竹は東宝・大映の2社と同様に4,000万円を出資し、大谷隆三氏が取締役として役員陣に参加した
    • [101]1958年11月から本社内にテレビ製作専門委員会を開設し、1959年3月にテレビ室を新設、1963年8月末までに松竹がプロデュースしたテレビ映画は劇映画9篇200回分に上った
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「松竹」
    • [104]1963年以降、全国主要都市にボーリング場、サウナバス、ビリヤード、貸店舗などを開設した
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹株式会社の現況」
    • [105]1964年1月1日時点の資本金は27億7,200万円、従業員は2,779名、収入比率は映画営業26.4%・映画興行29.4%・演劇演芸興行36.6%・その他7.6%で、その他の事業には土地建物の賃貸が含まれる

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沿革年表 1895〜2023年

松竹の沿革1895〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1895〜1936年阪井座の仕打から東京六大劇場と大船撮影所まで大谷竹次郎が京都・阪井座の興行主となり創業★★
白井松次郎と大谷竹次郎が松竹を設立★★
新富座を買収し東京での興行を開始★★
歌舞伎座を直営化★★
松竹キネマ合名社を設立し蒲田撮影所を開所して映画製作に参入★★★
松竹キネマ合名社を吸収し商号を松竹キネマに変更★★
大阪松竹座開場
東京株式取引所・大阪株式取引所に株式上場
帝国劇場の経営を引き受け歌舞伎俳優を松竹の専属に集約★★
日本初の完全トーキー映画「マダムと女房」を公開★★
常磐興行・邦楽座の2社を合併
大船撮影所を開設し蒲田撮影所を閉鎖★★
1937〜1963年松竹株式会社の成立と全国42%を占めた映画館網松竹興行を吸収合併し商号を松竹に変更★★
新橋演舞場を直営開場
歌舞伎座と新橋演舞場が空襲で焼失★★
東京・大阪・名古屋の各証券取引所に株式上場
プロ野球チーム松竹ロビンス発足
歌舞伎座復興開場★★
東京・築地に松竹会館が落成し本社移転
東急と全面提携しS・Tチェーンを結成★★
1964〜1997年観客が1億7,000万人へ減るなかで竣工した東劇ビル東劇ビル竣工開場
浅草国際劇場閉館
有楽町センタービル完成にあわせ丸の内ピカデリー2館を開場
京都南座新装開場
映画テーマパーク鎌倉シネマワールド開場★★★
松竹マルチプレックスシアターズを設立しシネマコンプレックス展開に着手★★
大阪松竹座新築開場
1998〜2026年奥山親子の解任から歌舞伎座タワー竣工まで大谷信義鎌倉シネマワールド閉鎖★★
大谷信義大阪中座閉館
大谷信義大船撮影所閉鎖★★★
大谷信義名古屋松竹座・浪花座閉館
迫本淳一MOVIX京都ツインビル開場
迫本淳一名古屋証券取引所の上場廃止
迫本淳一第五期歌舞伎座新開場とGINZA KABUKIZA竣工★★★
迫本淳一耐震補強工事を終えた南座が新開場★★
迫本淳一BS松竹東急開局★★
迫本淳一東京証券取引所の市場区分見直しによりプライム市場に移行
髙橋敏弘銀座2丁目松竹ビルおよび同ANNEXを取得
出典・参考 24件
出典・参考
  • 松竹 統合報告書2025(2025年11月)「価値創造の歴史」
  • 松竹 有価証券報告書【沿革】
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」壱・「松竹」の名のおこり
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」九・松竹トラストの結成
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」四・歌舞伎座獲得の意義
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」1・発足は松竹キネマ合名社
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」2・明朗蒲田調の確立
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」4・日本トーキーに松竹の先制
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」5・松竹第一主義と、大船移転
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」7・統制と耐乏の四年間
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」8・盛り上る生産復興の総力
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」9・色彩映画も松竹が先鞭
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹のテレビ製作・その他」2・松竹のスポーツ企業
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」1・長篇大作時代を迎う
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹の映画製作」
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹演劇七十年の歩み」昭和三十七年
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹のテレビ製作・その他」1・松竹のテレビ製作
  • 松竹七十年史(松竹、1964年)「松竹株式会社の現況」
  • 松竹九十年史 1985年「松竹合資会社設立」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂「松竹」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 48_興行娛樂 概説
  • 上場会社総覧(1956年版)半期合算
  • 企業の歴史:明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「松竹」
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版

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