白井松次郎氏と大谷竹次郎氏は、1877年12月13日に京都三条柳馬場で双子として生まれた[1]。父の大谷栄吉氏は花相撲の水場を営み、兄弟は物心のついた頃からその手伝いをした[2]。一家が興行の世界へ入る足がかりは劇場に付属する売店の権利で、1885年に祇園下の花見小路へ祇園座が開場すると、母方の西村熊吉氏がその売店を引き受けた[3]。1890年1月、同座を買い取った高木文平氏は祇園館と改称し、市川団十郎氏一派と中村鴈治郎氏を組ませた大芝居を打った[4]。1892年には大谷栄吉氏が新京極にある東向座の売店の権利を得て、その金主の一人に名を連ねた[5]。白井松次郎氏は同じ新京極の夷谷座を手伝ううちに売店主の白井亀吉氏の次女八重と結婚して白井家の養子となり、大谷家は大谷竹次郎氏が継いだ[6]。
当時の劇場は、持主の座元が自ら興行する場合と、仕打と呼ばれる興行主が劇場を借りて狂言を組み役者を集める場合とに分かれ、仕打は興行のたびに金主から資金を仰いだ[7]。当たれば利益を分け、外れれば仕打の借金になるため、銀行は芝居興行に融資しなかった[8]。1895年、金主の一人に逃げられた阪井座が大谷栄吉氏に出資を求めると、売店の経営に専念していた大谷栄吉氏は大谷竹次郎氏を代理人として差し向けた[9]。大谷竹次郎氏が阪井座の仕打となったのは1895年12月で、金主は5人おり、翌1896年1月に19歳で打った初興行では実川延二郎氏一座を立て、総利益の2割を取分とした[10]。1899年に阪井座の持主が借金で座を手放すと、大谷竹次郎氏は新しい持主の大浦新太郎氏の後援で祇園館を買収し、老朽化した阪井座を壊した跡地へ移して歌舞伎座と改め、1900年12月28日に開場させた[11]。
白井松次郎氏は京極座と夷谷座の仕打を務め、1900年1月から常盤座を引き受けた[12]。引受けにあたり兄弟が木戸口を仕切る遊び人を退かせ、空き家同然にして渡すよう求めたのは[13]、売店・番付・立見席の代金がそれぞれ外部の権利者に持ち去られ、太夫元の手元には僅かな木戸銭しか残らない慣行を断つためだった[14]。1901年6月6日に常盤座が漏電で全焼すると、白井松次郎氏は火災保険金を分配して解散した株式組織から権利を譲り受け、平井権七氏から建築費を借りて劇場を新築し、明治座と改めて1902年1月1日に開場した[15]。大阪朝日新聞京都版は1902年1月3日、明治座の落成を『松竹の新年』と題して記事に掲げた[16]。兄弟はまもなく松竹合資会社を興し、松と竹を組み合わせた社章を新京極近くの提灯屋に描かせた[17]。新京極で二人が経営する劇場は、大小5座になった[18]。
1902年に興した松竹合資会社を松竹合名社と改めた白井松次郎氏と大谷竹次郎氏は、実川延若氏と中村鴈治郎氏を擁して新京極の外へ出た[19]。白井松次郎氏と中村鴈治郎氏の付き合いは1902年11月に始まった[20]。松竹合名社は、演劇形式の改良と劇場様式の変革、興行方法の改革を掲げた[21]。1905年10月に東京歌舞伎座で初興行を打ち、1906年2月には大阪中座へ進出し、同年11月に日本最古の劇場である京都南座を買収して改築した[22][23]。1910年には東京の新富座と本郷座を買収[24]。直営の劇場が東西に跨ったため、白井松次郎氏が関西、大谷竹次郎氏が関東と担当する地域を分け、それぞれの経営に当たった[25]。
東京歌舞伎座が木挽町に建ったのは1889年11月である[26]。東京日日新聞社長の福地源一郎氏が欧米視察のあとに理想的な新劇場を唱え、金融業者の千葉勝五郎氏を説いて出資させたもので、洋風木造3階建、定員1,824人、工費3万5,000円は当時として空前の規模に達した[27]。しかし福地源一郎・千葉勝五郎・守田勘弥・田村成義と経営に当たる者が定まらず、市川左団次氏の脱退と尾上菊五郎・市川団十郎の相次ぐ死、1911年の帝国劇場開場が重なって株主が離れた[28]。1911年8月、大谷竹次郎氏は藤山雷太氏ら同志会の一派から歌舞伎座株3,000株を1株60円で引き取ることとし、手附金1万5,000円を送った[29]。ところが田村成義氏が反対し、座付俳優から3万円を調達して倍返しで契約を解いた[30]。大谷竹次郎氏は、俳優の手から出た金は受け取れないとして、倍返し分の1万5,000円を歌舞伎座へ返した[31]。
歌舞伎座の重役会は1913年8月8日、相談役の三輪善兵衛氏の仲介で経営を大谷竹次郎氏に委任すると決め、同年10月1日初日の興行から松竹合名社の請負経営に改めた[32]。1914年11月の興行からは、大谷竹次郎氏が個人として歌舞伎座を借り受け、松竹合名社の名による直営へ移った[33]。松竹合名社は1915年9月3日に横浜座を買収し、1916年1月には東西13か所の大小劇場を一斉に開場させた[34]。同年、大阪毎日新聞社へ堂島座の敷地を譲った代金で道頓堀の弁天座を獲得し、道頓堀五座を揃えた[35]。大谷竹次郎氏が興行主の務めとして挙げたのは、俳優を育てることと、新脚本を出しながら旧歌舞伎を捨てないことだった[36]。1917年に大阪の角座と浪花座、京都座を買収して神戸中央劇場と東京吾妻座を新築し[37]、1921年までに東西の演劇劇場のほとんどが松竹合名社の手に入った[38]。
松竹合名社は京都の歌舞伎座や道頓堀の朝日座を日活などの活動写真興行に貸しており、その歩合金は年々増えて、自社が経営する演劇場の収入を上回ることもあった[39]。1919年3月、白井松次郎氏と大谷竹次郎氏は舞台監督の松居松葉氏の欧米視察に白井信太郎氏を同行させ、当時最大の撮影所を持つユニヴァーサルを見せた[40]。帰国した白井信太郎氏の報告によれば、撮影所はそのまま一つの都市をなして広大な不動産会社を兼ね、製作フィルムの大半が海外へ輸出されていた[41]。1920年2月11日、松竹合名社はキネマ部を設けて映画の製作と供給を発表し、白井松次郎氏・大谷竹次郎氏・白井信太郎氏の連名で創立趣意書を出した[42]。大谷竹次郎氏は、株式会社にすれば株主への配当を考えて粗製濫造に傾くとして、当面は個人経営で通すと述べた[43]。
撮影所の敷地は、井の頭公園付近や国府津海岸付近などの申込みが値段で折り合わず、1920年5月末に東京府荏原郡蒲田村の中村化学研究所跡およそ9,000坪へ決まった[44]。松竹キネマ合名社は応募者240人から男子30人と女子6人を選び、小山内薫氏を校長とするキネマ俳優学校で養成した[45]。同社はまた、ハリウッドからカメラマンのヘンリー小谷氏と大道具技師のジョージ・チャプマン氏、撮影監督の田中欽之氏を招き、照明器具とベルハウエル・カメラを買い入れた[46]。創立披露第一回作品は、ヘンリー小谷氏が房州富浦で撮った『島の女』で、1920年11月1日に東京歌舞伎座、11月13日から道頓堀角座で公開した[47]。同年11月22日には帝国活動写真株式会社を資本金125万円で設立し、1921年4月にこれを松竹キネマ株式会社と改めて松竹キネマ合名社を吸収したことで、資本金は500万円になった[48][49]。
1923年9月の関東大震災で直営館22館と蒲田撮影所の施設が全壊すると、松竹キネマは京都の下加茂で撮影を始め、蒲田の現代劇と京都の時代劇という分担を作り上げた[50]。1924年7月に蒲田撮影所長となった城戸四郎氏は、泣きたい客だけに向けた映画を退け、明るく健康な娯楽を作ると説いた[51]。1931年8月1日に帝国劇場で封切った『マダムと女房』が、最初に成功した国産トーキーとなった[52][53]。1934年、日比谷に東京宝塚劇場を開いた小林一三氏の興行界進出を受けて、松竹キネマは地元と組んで松竹映画都市株式会社を資本金60万円で設立し、神奈川県大船駅近くの9万坪を得た[54][55]。9万坪のうち3万坪を撮影所用地とし、残りは田園都市住宅地として坪当り20円から40円で分譲した[56]。建築費120万円、建坪4,500坪、49棟の大船撮影所は蒲田の5倍の敷地を持ち、1936年1月14日の蒲田撮影所閉鎖をもって移転を終えた[57]。
1937年4月、松竹興行株式会社が松竹キネマ株式会社を吸収合併して資本金3,740万1,250円の松竹株式会社が発足し[58]、会長には白井松次郎氏、社長には大谷竹次郎氏が就いた[59]。1902年に松竹合名社を興した兄弟は、直営劇場が東西に広がった時点で白井松次郎氏が関西、大谷竹次郎氏が関東と担当分野を分け、それぞれの地域で劇場を買い集めてきた[60]。合併の前年には蒲田撮影所を閉じて大船撮影所を開き[61]、1934年8月に常磐興行と邦楽座、1936年8月に神戸聚楽館を合併した[62]。演劇と映画を一つの会社に収めたうえで、1938年7月に浅草国際劇場、1940年1月に新橋演舞場を直営とし、同年6月には京都太秦撮影所を開いた[63]。
戦時統制は製作と配給の両方に及んだ。1940年に製作会社の整理統合が強制され、残ったのは松竹、東宝映画、大日本映画製作の3社である[64]。配給は1942年4月に社団法人映画配給社へ一元化され、全国の映画興行場が紅白2系統に分けられ、毎週それぞれの系統へ劇映画1本を配給する方式に改まった[65]。同月に白系で封切られた『父ありき』は、プリント30本を掛け持ちさせ、42の興行場で一斉に公開された[66]。松竹の配給部門の職員も分離して映画配給社へ移った[67]。1942年4月以降に封切られた全60種の収入順位では、松竹作品18篇のうち中位以上は8篇にとどまり、残る10篇は下位に落ちた[68]。
製作本数が減った撮影所は人員を興行と慰問に回し、俳優のなかには映画館の実演にかり出される者が出た[69]。大谷博氏は1942年6月、松竹少女歌劇団を主体に大船撮影所の女優と松竹軽音楽団から50名を選んで慰問団を組み、7月から8月末までマニラを中心に約150回の公演を行った[70]。京都の下加茂撮影所は同じ年の『迎春花』撮影のころからほぼ休止し、その分の作品は大船撮影所のスタッフが引き受けた[71]。1943年1月の人事機構改革では、城戸四郎氏が大船撮影所長、池田義信氏が下加茂撮影所長、芦田勝至氏が太秦撮影所長に就き、同じ年に城戸四郎氏は松竹を退社した[72]。終戦の年の製作は11本まで落ち込んだ[73]。
1946年の興行界は活況を取り戻した。焼け残った映画館や急造のバラック小屋にまで観客が押し寄せ、興行の経験を持たない者までが各地で映画興行場を開いた[74]。松竹は自由配給の開始と同時に全プロ配給に踏み切り、契約を申し入れる興行者が相次いだ[75]。3月9日には映画公社の解散を受けて大谷竹次郎社長と城戸四郎氏が松竹に復帰し、重役の担当を映画製作、関西、演劇、映画興行に分けた[76]。10月15日からは日本映画演劇労働組合の指導で大船撮影所がゼネストに入り、19日から傍系興行館、26日から京都撮影所が合流して、11月6日の解決まで23日を要した[77]。翌1947年の製作は大船20本、京都13本の計33本で、前年より4本増えた[78]。
復興の資金は増資で調達した。松竹は1948年以降、戦災からの復興整備資金に充てるため4回の増資を行い、1952年11月に国際劇場株式会社を合併して、1953年2月に資本金13億2,000万円となった[79]。株式は松竹キネマとして1924年12月に東京株式取引所と大阪株式取引所へ上場していたが、1949年5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ改めて上場し、同年7月には福岡、1950年4月には札幌の証券取引所にも上場した[80]。1950年5月には本社、東京と大阪の2支店、大船と京都の2撮影所、北海道・中部・九州の3支社という機構を整えた[81]。1951年1月、歌舞伎座が復興開場した[82]。
1951年の松竹は製作と興行の両方で数字を伸ばした。3月に富士フイルムと組んだ国産初の色彩劇映画『カルメン故郷に帰る』を直接製作費約3,900万円で完成させ、東京劇場で特別公開に踏み切った[83]。正月興行の直営収入は1億5,700万円と会社創立以来の最高で、上半期の配給収入10億1,800万円は業界の首位となった[84]。1955年時点の直営館は演劇8館と映画51館、映画契約館は1,624館を数え、映画館の合計1,675館は全国常設館の約42%を占めた[85]。単体の営業収入も1952年2月期の52億2,800万円から1955年2月期の105億8,300万円へ倍増した[86]。1955年6月、松竹は築地に敷地1,600坪の松竹会館を着工[87]。1956年9月の落成にあわせ、本社を同館へ移した[88]。
劇場と撮影所の外へ最初に資金を向けた先は、プロ野球である。松竹は映画の宣伝手段としても適当な事業と見て、1949年12月に田村駒次郎氏所有の大陽ロビンスを併合し、1950年1月7日付で資本金2,000万円の松竹ロビンスを発足させた[89]。球団代表には元満鉄理事の猪子一到氏、監督には元明治大学選手の小西得郎氏が就いた[90]。セントラル・リーグ初年度の1950年は137試合で優勝したものの、有名選手の引き抜き費用と球団運営費がかさみ、約5,000万円の赤字を計上した[91]。1951年は緊縮方針で有名選手を他球団へ移して4位、1952年は最下位に落ちた[92]。1953年1月に大洋ホエールズとの合併が決まり、2月7日から損益を半々で負担する洋松ロビンスとして再出発したが、1953年は7チーム中6位、1954年は最下位となり、松竹は1954年12月11日に球団経営から手を引いた[93]。
配給網の拡大が止まると、収益は頭打ちになった。売上高は1957年2月期の110億7,500万円、経常利益は6億9,200万円が頂点で、1960年2月期は100億5,300万円へ落ちた[94]。1962年2月期は売上高91億円で経常損失5,600万円、1963年2月期も95億円で4,900万円の経常損失と、赤字が2期続いた[95]。1960年4月30日の株主総会で報告された第79期は営業収入が前年同期比15.4%減となり、前年9月の増資の直後に利益配当を打ち切った[96]。城戸四郎社長は同じ総会で辞任し、常任監査役の大谷博氏が3代目社長に就いた[97]。大谷博社長は機構の縮小と遊休施設の利用で年間5億円の経費を削ったが、1962年4月3日の重役会で任期満了を理由とする辞意が承認され、大谷隆三副社長も健康を理由に辞任した[98]。大谷竹次郎会長が8年ぶりに社長へ復帰し、城戸四郎氏が副社長に就任、白井信太郎氏は相談役を退いた[99]。
劇場と撮影所の外にも収入源を置いた。1959年3月開局のフジテレビへ、松竹は東宝、大映と同じく4,000万円を出資し、大谷隆三氏が取締役に加わった[100]。1958年11月に本社へテレビ製作専門委員会を置き、1959年3月にはテレビ室を新設して、1963年8月末までに劇映画9篇200回分のテレビ映画をプロデュースしている[101]。1963年6月28日には松竹会館の6階と7階を改造した28レーンの松竹ボーリングを開場し、機械購入費を含む建設費は3億2,000万円を要した[102]。開場以来、連日700人から1,000人が入り[103]、この盛況を受けて松竹は1963年以降、全国の主要都市にボーリング場、サウナバス、ビリヤード、貸店舗を開いた[104]。1964年1月1日時点の資本金は27億7,200万円で、収入比率は演劇演芸興行36.6%、映画興行29.4%、映画営業26.4%、土地建物の賃貸などその他7.6%であった[105]。
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|---|---|---|---|---|
| 1895〜1936年阪井座の仕打から東京六大劇場と大船撮影所まで | 大谷竹次郎が京都・阪井座の興行主となり創業 | ★★ | ||
| 白井松次郎と大谷竹次郎が松竹を設立 | ★★ | |||
| 新富座を買収し東京での興行を開始 | ★★ | |||
| 歌舞伎座を直営化 | ★★ | |||
| 松竹キネマ合名社を設立し蒲田撮影所を開所して映画製作に参入 | ★★★ | |||
| 松竹キネマ合名社を吸収し商号を松竹キネマに変更 | ★★ | |||
| 大阪松竹座開場 | ★ | |||
| 東京株式取引所・大阪株式取引所に株式上場 | ★ | |||
| 帝国劇場の経営を引き受け歌舞伎俳優を松竹の専属に集約 | ★★ | |||
| 日本初の完全トーキー映画「マダムと女房」を公開 | ★★ | |||
| 常磐興行・邦楽座の2社を合併 | ★ | |||
| 大船撮影所を開設し蒲田撮影所を閉鎖 | ★★ | |||
| 1937〜1963年松竹株式会社の成立と全国42%を占めた映画館網 | 松竹興行を吸収合併し商号を松竹に変更 | ★★ | ||
| 新橋演舞場を直営開場 | ★ | |||
| 歌舞伎座と新橋演舞場が空襲で焼失 | ★★ | |||
| 東京・大阪・名古屋の各証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| プロ野球チーム松竹ロビンス発足 | ★ | |||
| 歌舞伎座復興開場 | ★★ | |||
| 東京・築地に松竹会館が落成し本社移転 | ★ | |||
| 東急と全面提携しS・Tチェーンを結成 | ★★ | |||
| 1964〜1997年観客が1億7,000万人へ減るなかで竣工した東劇ビル | 東劇ビル竣工開場 | ★ | ||
| 浅草国際劇場閉館 | ★ | |||
| 有楽町センタービル完成にあわせ丸の内ピカデリー2館を開場 | ★ | |||
| 京都南座新装開場 | ★ | |||
| 映画テーマパーク鎌倉シネマワールド開場 | ★★★ | |||
| 松竹マルチプレックスシアターズを設立しシネマコンプレックス展開に着手 | ★★ | |||
| 大阪松竹座新築開場 | ★ | |||
| 1998〜2026年奥山親子の解任から歌舞伎座タワー竣工まで | 大谷信義 | 鎌倉シネマワールド閉鎖 | ★★ | |
| 大谷信義 | 大阪中座閉館 | ★ | ||
| 大谷信義 | 大船撮影所閉鎖 | ★★★ | ||
| 大谷信義 | 名古屋松竹座・浪花座閉館 | ★ | ||
| 迫本淳一 | MOVIX京都ツインビル開場 | ★ | ||
| 迫本淳一 | 名古屋証券取引所の上場廃止 | ★ | ||
| 迫本淳一 | 第五期歌舞伎座新開場とGINZA KABUKIZA竣工 | ★★★ | ||
| 迫本淳一 | 耐震補強工事を終えた南座が新開場 | ★★ | ||
| 迫本淳一 | BS松竹東急開局 | ★★ | ||
| 迫本淳一 | 東京証券取引所の市場区分見直しによりプライム市場に移行 | ★ | ||
| 髙橋敏弘 | 銀座2丁目松竹ビルおよび同ANNEXを取得 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(松竹)