ホリプロ の歴史

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創業 1963年
創業者 堀威夫
創業地 東京都港区
創業 1960年5月、明治大学商学部を卒業してウエスタンバンド「スウィング・ウエスト」
1960年5月、明治大学商学部を卒業してウエスタンバンド「スウィング・ウエスト」のリーダーを務めていた堀威夫氏が、有限会社堀プロダクションを創業した。1963年1月には資本金250千円で株式会社ホリプロダクションを設立し、東京都港区赤坂田町で演芸の供給と斡旋、演劇・音楽・映画の興行を始めている。堀威夫氏が代表取締役社長へ就任したのは1964年6月で、収入は所属タレントの番組出演料と興行収入に依存した。最初に世に出た守屋浩氏は事故で1年間謹慎し、次にデビューさせた舟木一夫氏は1年たたないうちに独立している。口入れ稼業、一代限りの人気商売と呼ばれた仕事を男子一生の仕事にすることが、会社のメインテーマに据えられた。
決断 他社へ渡さなかったのは、楽曲の権利と、新人を選ぶ権限の2つである。多くの芸能プロ
他社へ渡さなかったのは、楽曲の権利と、新人を選ぶ権限の2つである。多くの芸能プロダクションが所属歌手の楽曲の著作権を放送局系列の音楽出版会社へ譲り、見返りに番組出演の機会を得ていたなかで、ホリプロダクションは1965年8月に東京音楽出版を設立して著作権を自社に残した。使用料が協会を経由して入るまでの半年から1年の時差が、次の新人を開発する原資になった。1976年には日本テレビ「スター誕生」に委ねてきた発掘を全国公募のタレントスカウトキャラバンへ移している。年商35億円の会社が初回に1億5,000万円を投じ、第1回グランプリの榊原郁恵氏の成功で回収している。権利と発掘を社外へ出さなかったことが、看板が1人抜けても売上が消えない収益の構成を作った。
現況 上場最後の期も、利益の7割はタレントの出演料が生んでいた。2011年3月期の連結
上場最後の期も、利益の7割はタレントの出演料が生んでいた。2011年3月期の連結売上高は210億円、営業利益22億円、当期純利益9億円。セグメントは出演70億円(セグメント利益25.7億円)、映像45億円(3.4億円)、公演38億円(3.2億円)、小売29億円(0.5億円)、音楽18億円(4.6億円)で、出演は売上の3割に対して利益の7割を占める。1965年に権利を自社へ残した音楽は売上18億円で、出演の4分の1にとどまった。1992年に取得したサクラヤ商事は小売として残り、2006年10月には天王洲 銀河劇場を開場している。著作権を手元に置いても、稼ぎの中心は最後まで人が舞台とテレビに出て得る対価から動かなかった。
競合 業界で最初に株式市場へ入った会社が、最初にそこを出た。1989年2月に日本証券業
業界で最初に株式市場へ入った会社が、最初にそこを出た。1989年2月に日本証券業協会東京地区協会へ株式を店頭登録するまで、芸能プロダクションが株式を公開した前例はなかった。堀威夫氏が公開を求めたのは資金ではなく、長男の私立小学校の親子面接で職業を答えた際に試験官の顔が変わった体験による。同じ業界で原盤権を自社に保有したまま株式を公開したエイベックスは1998年に株式を公開して市場に残り、ホリプロは2011年12月に創業家の資産管理会社による公開買付けで市場を降りた。上場に託したのが資金ではなく職業の社会的認知だったことが、それを得た時点で市場に残る理由を消した。
長期業績の推移 1989〜2011年
ホリプロ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2002年3月期〜2011年3月期

第1章 1960年〜 スウィング・ウエストのリーダーが選んだ男子一生の仕事

1960年〜有限会社堀プロダクションから資本金250千円の株式会社へ

堀威夫氏は明治大学商学部を卒業し、ウエスタンバンド"スウィング・ウエスト"を結成してリーダーを務め、一時は渡辺プロダクションに所属していた。演奏者から経営者へ移り、1960年5月に有限会社堀プロダクションを創業した。ホリプロはこの年を創業年として数え、2010年5月に創業50周年を迎えた。芸能プロダクション事業は口入れ稼業、一代限りの人気商売と呼ばれた。プロダクションという仕組みは1955年に設立された渡辺プロダクションの実績から広まったもので、それ以前のマネジャー業はタレントが個人的に雇った番頭にとどまり、マーケティングの役割までは担っていなかった。

  • マネジメント 1977年7月号(脇田保)
    • [1]堀威夫氏は明治大学商学部を卒業後にウエスタンバンド「スウィング・ウエスト」を結成し、一時は渡辺プロダクションに所属した
    • [5]芸能プロダクションのシステムが始まったのは昭和30年に設立された渡辺プロダクションの実績からで、それまでのマネジャー業はタレントが個人的に雇った番頭であり、マーケティング的役割までははたしていなかった
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [2]1960年に有限会社堀プロダクションを創業した(設立1960年5月)
    • [4]芸能プロダクション事業は口入れ稼業、一代限りの人気商売と言われ続けた
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [3]2010年5月に創業50周年を迎えた

1963年1月、堀氏は資本金250千円で株式会社ホリプロダクションを設立し、東京都港区赤坂田町の本社で演芸の供給と斡旋、演劇・音楽・映画の興行等の業務を開始した。歌手のマネージメントを中心に据えた会社であり、収入は所属タレントの番組出演料と興行収入に頼っていた。設立時の堀氏は取締役で、代表取締役社長に就任したのは1964年6月である。所属タレントで最初に世に出たのは守屋浩氏で、"僕は泣いちっち"が大ヒットとなった。本社は1966年7月に港区赤坂2丁目、1967年9月に同区赤坂3丁目、1971年9月に渋谷区広尾へ移った。

  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1963年1月、堀威夫が株式会社ホリプロダクション(資本金250千円、本社・東京都港区赤坂田町)を設立し、演芸の供給、斡旋及び演劇・音楽・映画の興行等の業務を開始
    • [10]1966年7月に本社を東京都港区赤坂2丁目へ、1967年9月に同赤坂3丁目へ、1971年9月に東京都渋谷区広尾へ移転
  • 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [7]当社は歌手のマネージメントを中心にスタートした会社であり、芸能プロダクションの収益構造は所属タレントの番組出演料、興行収入に頼る
    • [9]所属タレントで最初に「僕は泣いちっち」が大ヒットして有名になったのは守屋浩
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [8]堀威夫は1963年1月の当社設立時に取締役、1964年6月に代表取締役社長

投機的な思惑も、水商売的な感覚も、芸能界だからという言い訳も、堀社長はすべて取り払おうとした。はじめから企業として営み、企業として成り立たないなら手を出すべきではないという考えである。その根にあったのは、この仕事を男が一生を賭けられるものにするという、ホリプロダクションの主題だった。社員の採用でも、楽隊あがり・楽隊くずれのイメージを負う人物を退け、体が丈夫で声の大きい者を採った。タレントの若年化が進むなかで、担当する社員には時に兄、時に学校の教師の役割も求めた。バンドの演奏者だった経歴を持ちながら、堀社長は音楽が好きであることやギターを弾けることを採用の決め手とはしなかった。

  • マネジメント 1977年7月号(脇田保)
    • [11]投機的な思惑や水商売的な感覚、芸能界だからというエクスキューズを全部とりはらおうとやってきた、最初から企業だと思ってやってきており企業にできないならやってはいけないと堀威夫氏が語った
    • [12]うちのメインテーマは、自分たちの仕事を男子一生の仕事にしようということです、と堀威夫氏が語った
    • [13]楽隊あがり・楽隊くずれのイメージを背負った人物は社員として排除され、採用ではまず身体強健で声の大きい者を選ぶ
    • [14]タレントは若年化しており、若年タレントのマネジャーは時にお兄さん、時には学校の先生の役割もはたせるようでなければならない
    • [15]ギターがひける、音楽が好きだからというのはマイナス要因にはならないが、それがきめ手になるとはいえない、と堀威夫氏が語った
参考文献[1]-[15]
  • マネジメント 1977年7月号(脇田保)
    • [1]堀威夫氏は明治大学商学部を卒業後にウエスタンバンド「スウィング・ウエスト」を結成し、一時は渡辺プロダクションに所属した
    • [5]芸能プロダクションのシステムが始まったのは昭和30年に設立された渡辺プロダクションの実績からで、それまでのマネジャー業はタレントが個人的に雇った番頭であり、マーケティング的役割までははたしていなかった
    • [11]投機的な思惑や水商売的な感覚、芸能界だからというエクスキューズを全部とりはらおうとやってきた、最初から企業だと思ってやってきており企業にできないならやってはいけないと堀威夫氏が語った
    • [12]うちのメインテーマは、自分たちの仕事を男子一生の仕事にしようということです、と堀威夫氏が語った
    • [13]楽隊あがり・楽隊くずれのイメージを背負った人物は社員として排除され、採用ではまず身体強健で声の大きい者を選ぶ
    • [14]タレントは若年化しており、若年タレントのマネジャーは時にお兄さん、時には学校の先生の役割もはたせるようでなければならない
    • [15]ギターがひける、音楽が好きだからというのはマイナス要因にはならないが、それがきめ手になるとはいえない、と堀威夫氏が語った
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [2]1960年に有限会社堀プロダクションを創業した(設立1960年5月)
    • [4]芸能プロダクション事業は口入れ稼業、一代限りの人気商売と言われ続けた
    • [8]堀威夫は1963年1月の当社設立時に取締役、1964年6月に代表取締役社長
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [3]2010年5月に創業50周年を迎えた
    • [6]1963年1月、堀威夫が株式会社ホリプロダクション(資本金250千円、本社・東京都港区赤坂田町)を設立し、演芸の供給、斡旋及び演劇・音楽・映画の興行等の業務を開始
    • [10]1966年7月に本社を東京都港区赤坂2丁目へ、1967年9月に同赤坂3丁目へ、1971年9月に東京都渋谷区広尾へ移転
  • 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [7]当社は歌手のマネージメントを中心にスタートした会社であり、芸能プロダクションの収益構造は所属タレントの番組出演料、興行収入に頼る
    • [9]所属タレントで最初に「僕は泣いちっち」が大ヒットして有名になったのは守屋浩

1965年〜東京音楽出版の設立と楽曲著作権の自己保有

所属歌手の曲の著作権を放送局系の音楽出版社に渡し、見返りにテレビ・ラジオでの出番を確保するのが当時の芸能プロダクションの多くに共通するやり方だったが、堀社長はそれに倣わず、曲の著作権は自社がつくった財産であり、将来は安定収入の柱に育つと考えていた。そこでホリプロダクションは1965年8月、東京音楽出版株式会社(のちの株式会社ホリミュージック)を設け、レコード会社に音楽原盤の制作を提供する事業と著作権管理の業務に乗り出した。芸能プロダクションで自社による著作権管理に着手したのは、渡辺プロダクション、シンコー・ミュージックと並んでホリプロダクションが最も早かった。

  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [16]多くの芸能プロダクションは所属歌手の楽曲の著作権を放送局系列の音楽出版会社に譲り渡し、著作権使用料収入を放送局に譲る見返りにテレビ・ラジオ番組への出演機会を増やしてもらう作戦を採り始めた
    • [17]堀会長はこうした動きには同調せず、楽曲の著作権は我々がこの世に産み落としたかけがえのない財産、何年かすれば必ず安定した収益源になるとの読みがあった
    • [19]渡辺プロダクション、シンコー・ミュージックなどと並んで、芸能プロダクションとしては最も早い時期から自前の著作権管理事業に乗り出した
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1965年8月に東京音楽出版株式会社(のちの株式会社ホリミュージック)を設立し、レコード会社への音楽原盤制作の提供と音楽著作権の管理業務を開始

所属タレントを抱える事業には予測できない事態が起こり、守屋氏はある日事故を起こして1年間の謹慎で仕事から離れた。守屋氏に次いでデビューさせた舟木一夫氏は、父親がかつて興行を手がけた人物で、息子が売れ出すと1年たたないうちに独立した。生身の人間を抱える以上、病気や事故は起こり得る。デビュー曲1本を出して3か月ほどで消える新人も多く、次から次へと有望新人が送り込まれるなかでタレントのライフサイクルは短くなっていた。堀社長はこれらをプロダクションが生来もつアキレス腱と呼び、水商売的な要素が大きいと言われる仕事をいかに長続きさせるかに力を注いだ。

  • 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [20]守屋浩がある日事故を起こし、1年間、仕事をしないで謹慎することになった
    • [21]守屋に次いでデビューさせた舟木一夫は、父親がかつて興行をやった人だったため、息子が売れ出すと1年たたないうちに独立した
    • [22]生身の人間を抱えているので、病気とか事故とか、予測できないことが起こり得る性格をもっている
    • [24]予測できない不慮の事態の発生というプロダクションが生来もっているアキレス腱
    • [25]水商売的な要素が大きいといわれている仕事を、いかにして長続きさせるかに全力を注いできた
  • マネジメント 1977年7月号(脇田保)
    • [23]ワンクール歌手と呼ばれるデビュー曲1本、3ヵ月くらいで消えていってしまう新人も多く、次から次と有望新人が送りこまれるためタレントのライフサイクルも短縮化してきている

ホリプロダクションは、著作権の活用が収入増につながると見て日本音楽著作権協会の会員となった。所属歌手が新曲を出す際には、作詞・作曲者との交渉で分配率と期間を決めたうえで著作権をすべて自社へ譲渡してもらい、実演やレコード・テープの販売のたびに使用料を受け取り、契約どおりに作詞・作曲者へ分配する。使用時から協会を経由して入金するまでには半年から1年かかり、この時差が次の商品を開発する原資となった。レコードでは自社がマザーテープを作ってレコード会社に納め、原盤印税がレコード会社経由で入る仕組みを敷いたため、1曲ごとに著作権と原盤権が同時に生じた。

  • 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [26]歌手のマネージメントを中心にスタートした会社として著作権の活用が収入増につながると気付き、(社)日本音楽著作権協会の会員になった
    • [27]所属歌手が新曲を出す際、発売時点で著作権は一定の分配率を決めたうえですべて当社に譲渡してもらい、実演されると著作権使用料が入り、契約どおりに作詞・作曲者へ分配する。分配率と期間は個々の交渉で決める
    • [28]著作権使用料は使用時からジャスラックを経由して入るまでに半年から1年ぐらいかかり、この間の時差が次の商品を開発するのに重要な役割を果たしている
    • [29]当社がマザーテープを作ってレコード会社に納め、原盤印税がレコード会社経由で入るため、レコードを出すと著作権と原盤権が同時に発生する
参考文献[16]-[29]
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [16]多くの芸能プロダクションは所属歌手の楽曲の著作権を放送局系列の音楽出版会社に譲り渡し、著作権使用料収入を放送局に譲る見返りにテレビ・ラジオ番組への出演機会を増やしてもらう作戦を採り始めた
    • [17]堀会長はこうした動きには同調せず、楽曲の著作権は我々がこの世に産み落としたかけがえのない財産、何年かすれば必ず安定した収益源になるとの読みがあった
    • [19]渡辺プロダクション、シンコー・ミュージックなどと並んで、芸能プロダクションとしては最も早い時期から自前の著作権管理事業に乗り出した
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1965年8月に東京音楽出版株式会社(のちの株式会社ホリミュージック)を設立し、レコード会社への音楽原盤制作の提供と音楽著作権の管理業務を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [20]守屋浩がある日事故を起こし、1年間、仕事をしないで謹慎することになった
    • [21]守屋に次いでデビューさせた舟木一夫は、父親がかつて興行をやった人だったため、息子が売れ出すと1年たたないうちに独立した
    • [22]生身の人間を抱えているので、病気とか事故とか、予測できないことが起こり得る性格をもっている
    • [24]予測できない不慮の事態の発生というプロダクションが生来もっているアキレス腱
    • [25]水商売的な要素が大きいといわれている仕事を、いかにして長続きさせるかに全力を注いできた
    • [26]歌手のマネージメントを中心にスタートした会社として著作権の活用が収入増につながると気付き、(社)日本音楽著作権協会の会員になった
    • [27]所属歌手が新曲を出す際、発売時点で著作権は一定の分配率を決めたうえですべて当社に譲渡してもらい、実演されると著作権使用料が入り、契約どおりに作詞・作曲者へ分配する。分配率と期間は個々の交渉で決める
    • [28]著作権使用料は使用時からジャスラックを経由して入るまでに半年から1年ぐらいかかり、この間の時差が次の商品を開発するのに重要な役割を果たしている
    • [29]当社がマザーテープを作ってレコード会社に納め、原盤印税がレコード会社経由で入るため、レコードを出すと著作権と原盤権が同時に発生する
  • マネジメント 1977年7月号(脇田保)
    • [23]ワンクール歌手と呼ばれるデビュー曲1本、3ヵ月くらいで消えていってしまう新人も多く、次から次と有望新人が送りこまれるためタレントのライフサイクルも短縮化してきている

1969年〜独善と偏見による発掘とホリ企画制作を加えた3社

タレントの採否を決める基準として、堀社長は目の輝き、歯の白さと歯ならび、声の大きさの3つを見た。歌のうまさや声の良し悪しよりも声が大きいかどうかを重んじ、健康で快活か、自己主張が強いかという人間としての資質を優先した。和田アキ子氏も山口百恵氏も、周囲の反対を押し切っての採用だった。1人でも手放しでほめる者がいれば、独善と偏見をあえて振るって採ると決めていたからである。複数の審査員が多数決で選ぶスカウト番組のやり方では、欠点こそ少ないが個性で訴える力のない平均的な人しか残らない。山口氏の場合、弱点をいかに隠すかから考えるのではなく、健康美に満ちたその大根足に惚れ込んだところが出発点だった。

  • マネジメント 1977年7月号(脇田保)
    • [30]タレントをスカウトする時には第1に目の輝き、第2に歯の白さと歯ならび、第3に声の大きさを見て採否を決める
    • [31]声がいいか悪いかよりも大きいかどうかのほうが大事で、声が大きければ健康で快活明朗、自己主張も強い。歌のうまさよりも人間としての本質的な資質を重視する
    • [32]複数の審査員の多数決では平均的な人が選ばれ個性を訴える力がないため、1人でもベタほめする人があれば独善と偏見を行使して採用に踏み切る。和田アキ子のときも山口百恵のときも周囲の反対を押し切って採用した
    • [33]タレント・スカウト番組などは複数の審査員の多数決によるため平均的な人が選ばれる可能性が強く、難点は少なくても個性を訴える力がない
    • [34]山口百恵を発掘した時は健康美あふれる大根足にほれこんで採用し、大根足をどうかくすかは最初から考えなかった

日本テレビの番組"スター誕生"のスタートに協力し、ホリプロダクションは山口氏、森昌子氏をたて続けに獲得した。堀社長はタレントづくりの工程を前編と後編に分けた。新曲がベスト5に入り、俗に天下をとると呼ばれる段階までが前編で、年間600人近い新人歌手がデビューして技量に差がないなかでは偶然の要素も働き、マネジャー業はシロウトでもできる水準にある。後編ではタレントのグレードをどこまで高め、ライフサイクルをどこまで伸ばすかが問われ、山口氏は映画の主演で、森氏は歌舞伎座公演でそれを果たした。

  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [35]日本テレビの人気番組「スター誕生」のスタートに協力し、山口百恵、森昌子らをたて続けに獲得した
  • マネジメント 1977年7月号(脇田保)
    • [36]堀氏の表現によるとタレントづくりの工程には前編と後編があり、そう分けてとらえることが重要である
    • [37]タレントづくりの工程には前編と後編があり、新曲がベスト5ぐらいに入り俗に天下をとるまでが前編。年間600人近い新人歌手がデビューし技量的な差はほとんどなく、偶然の要素でスターになることもあり、マネジャー業もシロウトでできるレベルにある
    • [38]後編ではタレントのグレードをいかに高め、ライフサイクルをいかに伸ばすかが問われる。山口百恵は映画に主演することでそれを果たし、森昌子は歌舞伎座公演への出演でハクをつけた

1969年6月、ホリプロダクションは株式会社ホリ企画制作を設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組等の企画制作業務を開始した。マネジメントのホリ・プロダクション、音楽原盤と著作権の東京音楽出版、映像制作のホリ企画制作の3社がホリグループを構成し、堀社長がその代表を務めた。渡辺プロダクションの寡占がナベプロ帝国と呼ばれる業界にあって、ホリグループは第2勢力とされた。未成年のタレントにはマネジャーを付ける一方、どれほど売れても身の回りの世話をする付け人は付けさせず、楽屋でコーラを飲みたいと言えば自動販売機で自分で買わせた。

  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [39]1969年6月に株式会社ホリ企画制作を設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組等の企画制作業務を開始
  • マネジメント 1977年7月号(脇田保)
    • [40]堀威夫氏はホリグループ(ホリ・プロダクション、東京音楽出版、ホリ企画制作)の代表である
    • [41]この業界はナベプロ帝国と呼ばれるほど渡辺プロダクションの寡占的支配がつづいており、ホリグループは芸能業界の第2勢力である
    • [42]未成年のタレントにマネジャーはつけるが、身の回りの世話をする付け人はどんな売れっ子でもつけさせず、楽屋でコーラを飲みたいといっても自動販売機で自分で買わせる
参考文献[30]-[42]
  • マネジメント 1977年7月号(脇田保)
    • [30]タレントをスカウトする時には第1に目の輝き、第2に歯の白さと歯ならび、第3に声の大きさを見て採否を決める
    • [31]声がいいか悪いかよりも大きいかどうかのほうが大事で、声が大きければ健康で快活明朗、自己主張も強い。歌のうまさよりも人間としての本質的な資質を重視する
    • [32]複数の審査員の多数決では平均的な人が選ばれ個性を訴える力がないため、1人でもベタほめする人があれば独善と偏見を行使して採用に踏み切る。和田アキ子のときも山口百恵のときも周囲の反対を押し切って採用した
    • [33]タレント・スカウト番組などは複数の審査員の多数決によるため平均的な人が選ばれる可能性が強く、難点は少なくても個性を訴える力がない
    • [34]山口百恵を発掘した時は健康美あふれる大根足にほれこんで採用し、大根足をどうかくすかは最初から考えなかった
    • [36]堀氏の表現によるとタレントづくりの工程には前編と後編があり、そう分けてとらえることが重要である
    • [37]タレントづくりの工程には前編と後編があり、新曲がベスト5ぐらいに入り俗に天下をとるまでが前編。年間600人近い新人歌手がデビューし技量的な差はほとんどなく、偶然の要素でスターになることもあり、マネジャー業もシロウトでできるレベルにある
    • [38]後編ではタレントのグレードをいかに高め、ライフサイクルをいかに伸ばすかが問われる。山口百恵は映画に主演することでそれを果たし、森昌子は歌舞伎座公演への出演でハクをつけた
    • [40]堀威夫氏はホリグループ(ホリ・プロダクション、東京音楽出版、ホリ企画制作)の代表である
    • [41]この業界はナベプロ帝国と呼ばれるほど渡辺プロダクションの寡占的支配がつづいており、ホリグループは芸能業界の第2勢力である
    • [42]未成年のタレントにマネジャーはつけるが、身の回りの世話をする付け人はどんな売れっ子でもつけさせず、楽屋でコーラを飲みたいといっても自動販売機で自分で買わせる
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [35]日本テレビの人気番組「スター誕生」のスタートに協力し、山口百恵、森昌子らをたて続けに獲得した
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [39]1969年6月に株式会社ホリ企画制作を設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組等の企画制作業務を開始

第2章 1976年〜 山口百恵引退を乗り切った25%経営と業界初の株式公開

1976年〜1億5,000万円を投じたタレントスカウトキャラバン

ホリプロダクションは1976年5月に本社を東京都渋谷区広尾から東京都目黒区下目黒へ移した。同じ年、日本テレビの番組"スター誕生"に頼ってきた新人の発掘を自前でも行うため、タレント志願者を全国から公募するホリプロタレントスカウトキャラバンを始めた。同社は"スター誕生"の開始に協力して山口百恵氏・森昌子氏を相次いで獲得したものの、番組でのスカウト合戦が激しくなっていた。堀威夫社長は責任者に、同社を支えた最初の歌手で1976年に歌手を引退した守屋浩氏を充てた。初回は採算を度外視して1億5,000万円を投じ、第1回のグランプリに選んだ榊原郁恵氏がスターになったことで、その分は回収した。

  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1976年5月に本社を東京都目黒区下目黒へ移転(前所在地は1971年9月移転の東京都渋谷区広尾)
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [44]「スタ誕」でのスカウト合戦が激しくなるとタレント志願者を全国から公募する「ホリプロ・タレント・スカウト・キャラバン」を企画した
    • [45]日本テレビの人気番組「スター誕生」のスタートに協力し、山口百恵・森昌子らをたて続けに獲得した
  • バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
    • [46]守屋浩が歌手を引退した昭和51年にタレント・スカウト・キャラバンを組み、彼を責任者にした
    • [47]初めは採算を度外視して一億五千万円をかけたが、榊原郁恵がスターになってくれたのでその分は十分に回収できた

榊原氏に続いて堀ちえみ氏、井森美幸氏、鈴木保奈美氏、山瀬まみ氏がキャラバンからデビューし、看板の1人が去っても次の新人が後を継ぐ体制が整った。堀社長がキャラバンに託した狙いは、新人発掘の主導権をテレビ局の番組から自社に取り戻すことと、ホリプロの名を全国に広めることの2つだった。人材の面で手薄だったのは関連会社の側で、数は増えたものの、どこにも管理を担える者がいなかった。この手当てとして1977年5月に株式会社ホリグループ本社が設立された。ホリプロダクションをはじめ関連会社の総務・経理・人事などの管理業務は、同社が引き受ける形になった。

  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [48]キャラバンは榊原郁恵・堀ちえみ・井森美幸・鈴木保奈美・山瀬まみを世に送り出し、看板タレントがひとり欠けてもその穴を埋める人材が次々にデビューした
  • バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
    • [49]テレビ局の「スター誕生」式番組に頼っていた新人発掘を自前でもやる、加えてホリプロの名を全国に浸透させるねらいがあった
    • [50]関連会社をつくったが各社とも管理に人材がいなかったため、総務・経理・人事を扱うホリグループ本社を作った
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [51]昭和52年5月に株式会社ホリグループ本社を設立し、株式会社ホリプロダクションを含むその関連会社の管理業務受託を開始
参考文献[43]-[51]
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1976年5月に本社を東京都目黒区下目黒へ移転(前所在地は1971年9月移転の東京都渋谷区広尾)
    • [51]昭和52年5月に株式会社ホリグループ本社を設立し、株式会社ホリプロダクションを含むその関連会社の管理業務受託を開始
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [44]「スタ誕」でのスカウト合戦が激しくなるとタレント志願者を全国から公募する「ホリプロ・タレント・スカウト・キャラバン」を企画した
    • [45]日本テレビの人気番組「スター誕生」のスタートに協力し、山口百恵・森昌子らをたて続けに獲得した
    • [48]キャラバンは榊原郁恵・堀ちえみ・井森美幸・鈴木保奈美・山瀬まみを世に送り出し、看板タレントがひとり欠けてもその穴を埋める人材が次々にデビューした
  • バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
    • [46]守屋浩が歌手を引退した昭和51年にタレント・スカウト・キャラバンを組み、彼を責任者にした
    • [47]初めは採算を度外視して一億五千万円をかけたが、榊原郁恵がスターになってくれたのでその分は十分に回収できた
    • [49]テレビ局の「スター誕生」式番組に頼っていた新人発掘を自前でもやる、加えてホリプロの名を全国に浸透させるねらいがあった
    • [50]関連会社をつくったが各社とも管理に人材がいなかったため、総務・経理・人事を扱うホリグループ本社を作った

1980年〜売上シェア22%の山口百恵引退と小田信吾社長の就任

ホリプロダクションは、1人のアーチストに売上高の25%以上を依存しない方針を採ってきた。堀社長がこの比率を定めたのは、同社を支えた守屋氏が飲酒運転で逮捕され、次にデビューさせた舟木一夫氏が売れ出して1年たたないうちに独立した経験による。人間そのものを抱える商売では病気や事故は避けられず、1人に依存すればその1件で売上高の大半が消える。現に守屋氏は事故を起こし、1年間仕事を控えて謹慎した。舟木氏の独立も、かつて興行を手がけていた父親が息子の売れ行きを見て動いたことによる。社内の各ディビジョンについても、堀社長はどれもシェアを25%以下に抑えるのが望ましいとした。

  • 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [52]1人のアーチストに売り上げの25%以上を依存するのは注意信号だという「25%」の考え方を生活の知恵として重視してきた
    • [54]生身の人間を抱えているので病気とか事故とか予測できないことが起こり得る性格をもっている
    • [55]守屋浩は事故を起こして1年間仕事をせず謹慎し、舟木一夫は興行をやっていた父親が息子の売れ行きを見て1年たたないうちに独立させた
    • [56]社内の各ディビジョンもそれぞれのシェアが25%以下であることが望ましいという考え方だった
  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
    • [53]舟木一夫が独立し守屋浩が飲酒運転で逮捕された時、特定のタレントに頼ることの危険性を痛感し「一人のタレントの売上げが全体の25%を超えない経営」を唱えた

堀社長は山口氏を説き伏せて引退を撤回させる道を取らず、潔く負けを受け入れるのもプロの美学のうちだと結論づけた。山口氏が三浦友和氏との結婚を理由に歌手を退いたのは1980年で、その引退は一大イベントに仕立てて送り出された。新聞や雑誌はホリプロの倒産は必至と書いた。だが全盛期でさえ山口氏が売上高に占める割合は22%前後にすぎず、ホリプロダクションは次の商品の開発に移ることができた。25%の方針のもとでは、売上の突出したタレントがいても、その仕事を減らすのでなく、ほかの売上高を伸ばして釣り合いを取った。1965年設立の東京音楽出版、1969年設立のホリ企画制作も、その手立ての一つである。著作権使用料は使われてから半年から1年ほど遅れて入ってくるため、その時間差が次の商品の開発を支えた。

  • バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
    • [57]山口百恵が三浦友和と結婚したいと申し出、それを機会に歌手をやめたいと述べて引退した
    • [58]綿々と口説き落とそうとせず「いさぎよい敗戦」というプロの美学もあっていいという結論に落ち着き、妙な問題にせずむしろ一大イベントとして送り出した
    • [60]一人のタレントが全売り上げの二割五分を超さないようにする方針で、彼女の売り上げを押さえるのではなく他の売り上げを伸ばす努力をした。昭和40年の東京音楽出版と昭和44年設立のホリ企画制作もその一環
  • 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [59]山口百恵引退時に新聞や雑誌に「ホリプロはつぶれるにちがいない」と書かれたが、全盛期でも売上高に占めるシェアは22%ぐらいだったため次の商品を開発できた
    • [61]著作権使用料は使用時からジャスラックを経由して当社に入るまで半年から1年ぐらいかかり、この時差が次の商品を開発するのに重要な役割を果たしている

専務取締役だった小田信吾氏が代表取締役社長に就いたのは1984年3月で、51歳の堀社長は代表取締役会長に退いた。会長となった堀氏が率いたのは、2人の部下しか持たない新設部署の文化事業部で、肩書は事業部長だった。一方の小田社長は1938年5月7日生まれで、1968年2月の入社後、1975年12月に取締役、1980年10月に常務取締役、1983年4月に専務取締役と階段を上った生え抜きである。1985年10月には洋楽の音楽著作権を扱う新会社として東京音楽出版株式会社を設けたが、これは1965年に設立されて音楽原盤の制作と著作権管理を担った同名の会社とは別法人である。

  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【役員の状況】
    • [62]1984年3月に堀威夫が代表取締役会長、小田信吾が代表取締役社長に就任(小田は1983年4月に専務取締役)
    • [64]小田信吾は1938年5月7日生まれ、1968年2月入社、1975年12月取締役、1980年10月常務取締役、1983年4月専務取締役
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
    • [63]14年前・51歳のときに社長を退いて会長に就任し、会長になってからまずやったのは部下が2人しかいない新規部門「文化事業部」の事業部長に就任したことだった
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [65]昭和60年10月に新会社東京音楽出版株式会社(現株式会社ホリウッド)を設立し、洋楽の音楽著作権の管理業務を開始
    • [66]昭和40年8月に設立した東京音楽出版株式会社(のちの株式会社ホリミュージック)はレコード会社への音楽原盤制作の提供と音楽著作権の管理業務を行った別会社
参考文献[52]-[66]
  • 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [52]1人のアーチストに売り上げの25%以上を依存するのは注意信号だという「25%」の考え方を生活の知恵として重視してきた
    • [54]生身の人間を抱えているので病気とか事故とか予測できないことが起こり得る性格をもっている
    • [55]守屋浩は事故を起こして1年間仕事をせず謹慎し、舟木一夫は興行をやっていた父親が息子の売れ行きを見て1年たたないうちに独立させた
    • [56]社内の各ディビジョンもそれぞれのシェアが25%以下であることが望ましいという考え方だった
    • [59]山口百恵引退時に新聞や雑誌に「ホリプロはつぶれるにちがいない」と書かれたが、全盛期でも売上高に占めるシェアは22%ぐらいだったため次の商品を開発できた
    • [61]著作権使用料は使用時からジャスラックを経由して当社に入るまで半年から1年ぐらいかかり、この時差が次の商品を開発するのに重要な役割を果たしている
  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
    • [53]舟木一夫が独立し守屋浩が飲酒運転で逮捕された時、特定のタレントに頼ることの危険性を痛感し「一人のタレントの売上げが全体の25%を超えない経営」を唱えた
  • バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
    • [57]山口百恵が三浦友和と結婚したいと申し出、それを機会に歌手をやめたいと述べて引退した
    • [58]綿々と口説き落とそうとせず「いさぎよい敗戦」というプロの美学もあっていいという結論に落ち着き、妙な問題にせずむしろ一大イベントとして送り出した
    • [60]一人のタレントが全売り上げの二割五分を超さないようにする方針で、彼女の売り上げを押さえるのではなく他の売り上げを伸ばす努力をした。昭和40年の東京音楽出版と昭和44年設立のホリ企画制作もその一環
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【役員の状況】
    • [62]1984年3月に堀威夫が代表取締役会長、小田信吾が代表取締役社長に就任(小田は1983年4月に専務取締役)
    • [64]小田信吾は1938年5月7日生まれ、1968年2月入社、1975年12月取締役、1980年10月常務取締役、1983年4月専務取締役
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
    • [63]14年前・51歳のときに社長を退いて会長に就任し、会長になってからまずやったのは部下が2人しかいない新規部門「文化事業部」の事業部長に就任したことだった
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [65]昭和60年10月に新会社東京音楽出版株式会社(現株式会社ホリウッド)を設立し、洋楽の音楽著作権の管理業務を開始
    • [66]昭和40年8月に設立した東京音楽出版株式会社(のちの株式会社ホリミュージック)はレコード会社への音楽原盤制作の提供と音楽著作権の管理業務を行った別会社

1989年〜グループ4社の吸収合併と株式公開

1987年4月、ホリプロダクションは株式会社ホリミュージック、株式会社ホリ企画制作、株式会社ホリグループ本社および株式会社志津興業の4社を吸収合併した。ホリミュージックは音楽出版、ホリ企画制作は映像、ホリグループ本社はグループ経営の管理部門、志津興業はタレント寮の管理を担っていた。合併は株式の上場に向けて3年ほど前から進めてきた準備の一環だった。分けてきた各社をひとつにした理由には、公開して上場するのに頭がなくて胴体ばかりでは通らないことを挙げた。合併後は役員の下に業務・文化事業・プロダクション・AV制作・ファクトリーの5本部を開設し、音と映像に分かれていた守備範囲を1つにまとめた。

  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [67]昭和62年4月に株式会社ホリプロダクションが株式会社ホリミュージック、株式会社ホリ企画制作、株式会社ホリグループ本社及び株式会社志津興業を吸収合併
  • バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
    • [68]タレントのマネージメントのホリプロダクションを中心に、音楽出版のホリミュージック、映像のホリ企画制作、グループ経営の管理部門のホリグループ本社、タレント寮を管理する志津興業の五社が合併した
    • [69]合併は含みというより上場のために三年ほど前から準備してきた、その一環だった
    • [70]合併した理由は、株式を公開し上場するのにこのままでは頭がなくて胴体ばかりではないかということだった
    • [71]役員の下に業務、文化事業、プロダクション、AV制作、ファクトリーの五本部を置いた。東京音楽出版は音、ホリ企画は映像というフォーメーションではビデオディスクなど新しい映像分野に対応できなかった

1989年2月、ホリプロダクションは株式を社団法人日本証券業協会東京地区協会へ店頭銘柄として登録した。芸能プロダクションが株式市場へ株式を公開した前例はなかった。堀会長がこれを求めたのは、長男が私立小学校へ入るときの親子面接で職業を答えた際、試験官の顔が変わった体験による。堀会長は職業を特殊なものと見られることに免疫があるとしたうえで、後輩の社員が将来同じ体験をするなら社会的認知がほしいと考えた。株式公開はホリプロを社会性と永続性を備えた企業に育てる方針に沿って15年前から掲げてきた目標で、堀会長は公開を一番わかりやすい証明書と呼んだ。

  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [72]平成元年2月に株式を(社)日本証券業協会東京地区協会へ店頭銘柄として登録
  • バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
    • [73]プロダクションという分野では株式市場への上場の前例はなかった
    • [74]長男が小学校へ入るときの親子面接で職業を聞かれた段になって相手の顔が変わった
    • [75]職業として特殊なものだと思われるのは仕方がないと割切って免疫はあるが、面接の体験から後輩の社員たちが将来同じ体験をするならなんとしても社会的認知がほしいという気持ちが芽生えた
    • [77]公開は一番わかり易い証明書であり悲願だった
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [76]ホリプロを社会性・永続性を備えた企業らしい企業に育てる方針に沿って株式公開を15年前から目標にしてきた

堀会長は1989年を国際化元年と位置づけた。それに先立つ1987年11月、ホリプロダクションは東京都世田谷区用賀に"スタジオファクトリー"と新しいタレント寮を開き、1988年5月には飲食店を営む株式会社伊真沁を設けている。1989年6月には米国ロスアンジェルスにホリ・プロダクションズ・アメリカ・インクを置き、出版の業務を始めた。エンタテイメントの取引は95対5ほどの逆インバランスだった。そこで堀会長は、日本の芸能を輸出するだけでなく、米国の作品を東南アジアへ運ぶ事業も挙げた。収入の構成を1989年3月20日時点で見ると、所属タレント上位10人の稼ぎが総売上高の30%ほど、原盤印税を含む著作権料収入が20%強を占めていた。

  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [78]昭和62年11月に「スタジオファクトリー」及び新タレント寮を東京都世田谷区用賀に開設
    • [79]昭和63年5月に株式会社伊真沁を設立し飲食店の経営を開始
    • [80]平成元年6月にホリ・プロダクションズ・アメリカ・インクを米国ロスアンジェルスに設立し出版業務を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [81]エンタテイメントのビジネスは95対5ぐらいの比率で大幅な逆インバランスになっており、日本の芸能の輸出だけでなくアメリカのものを東南アジアへ持っていく事業を展開したい。その意味で今年を「国際化元年」と呼んでいる
    • [82]所属タレントのうちトップ10人の収入が総売上高に占める割合は30%ぐらい、著作権料収入はレコードの原盤印税を含めて20%強(1989年3月20日の講演)
参考文献[67]-[82]
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [67]昭和62年4月に株式会社ホリプロダクションが株式会社ホリミュージック、株式会社ホリ企画制作、株式会社ホリグループ本社及び株式会社志津興業を吸収合併
    • [72]平成元年2月に株式を(社)日本証券業協会東京地区協会へ店頭銘柄として登録
    • [78]昭和62年11月に「スタジオファクトリー」及び新タレント寮を東京都世田谷区用賀に開設
    • [79]昭和63年5月に株式会社伊真沁を設立し飲食店の経営を開始
    • [80]平成元年6月にホリ・プロダクションズ・アメリカ・インクを米国ロスアンジェルスに設立し出版業務を開始
  • バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
    • [68]タレントのマネージメントのホリプロダクションを中心に、音楽出版のホリミュージック、映像のホリ企画制作、グループ経営の管理部門のホリグループ本社、タレント寮を管理する志津興業の五社が合併した
    • [69]合併は含みというより上場のために三年ほど前から準備してきた、その一環だった
    • [70]合併した理由は、株式を公開し上場するのにこのままでは頭がなくて胴体ばかりではないかということだった
    • [71]役員の下に業務、文化事業、プロダクション、AV制作、ファクトリーの五本部を置いた。東京音楽出版は音、ホリ企画は映像というフォーメーションではビデオディスクなど新しい映像分野に対応できなかった
    • [73]プロダクションという分野では株式市場への上場の前例はなかった
    • [74]長男が小学校へ入るときの親子面接で職業を聞かれた段になって相手の顔が変わった
    • [75]職業として特殊なものだと思われるのは仕方がないと割切って免疫はあるが、面接の体験から後輩の社員たちが将来同じ体験をするならなんとしても社会的認知がほしいという気持ちが芽生えた
    • [77]公開は一番わかり易い証明書であり悲願だった
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [76]ホリプロを社会性・永続性を備えた企業らしい企業に育てる方針に沿って株式公開を15年前から目標にしてきた
  • 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [81]エンタテイメントのビジネスは95対5ぐらいの比率で大幅な逆インバランスになっており、日本の芸能の輸出だけでなくアメリカのものを東南アジアへ持っていく事業を展開したい。その意味で今年を「国際化元年」と呼んでいる
    • [82]所属タレントのうちトップ10人の収入が総売上高に占める割合は30%ぐらい、著作権料収入はレコードの原盤印税を含めて20%強(1989年3月20日の講演)

第3章 1990年〜 ホリプロへの改称、9,000曲の著作権とサクラヤ商事の再建

1990年〜商号変更とホリックスの設立

1990年、ホリプロダクションは創業30周年を迎えた。1月にロゴマークを定めるCIを導入し、6月28日の株主総会後の社名変更を計画に置いた。商号の変更は同年10月で、株式会社ホリプロダクションから株式会社ホリプロへ改めた。CIの導入と社名の変更は、1989年2月の株式公開を足がかりとするブランドイメージの向上策として打たれた。同年8月にはホリックスを設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組などの映像物全般にわたる企画制作業務を開始した。1990年3月期の売上高は81億6200万円、従業員数は約130人であった。

  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [83]1990年はホリプロダクションの創業30周年にあたる(1960年5月創業)
    • [84]1990年1月にCI(ロゴマーク)を導入し、6月28日の株主総会後に「ホリプロダクション」から「ホリプロ」への社名変更を予定していた
    • [86]CI導入と社名変更は、株式公開をバネにした「ホリプロ」のブランドイメージ向上戦略の一環
    • [88]1990年3月期の売上高81億6200万円、従業員数約130人
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [85]1990年10月に商号を株式会社ホリプロダクションより株式会社ホリプロに変更
    • [87]1990年8月に株式会社ホリックスを設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組等の映像物全般にわたる企画制作業務を開始

芸能プロダクションという既存の枠を抜け出し、人間産業へ転換する。これが堀会長の掲げた方針だった。1984年、51歳の堀威夫氏は社長を退いて会長に就き、2人の部下しか持たない発足直後の文化事業部で事業部長を兼務した。同部は、芸能以外の文化・芸術・スポーツ分野で人材を育ててマネジメントすることを目的とした。滑り出しこそ苦しんだものの、同部はやがてスタッフ30人超、年間売上30億円の規模に育ち、そこで堀会長は事業部長を後任に引き継いだ。人間産業の分野では大量生産や省力化ができない代わりに市場は無限に広がると、堀会長は述べた。1992年4月、ホリプロは大阪営業所を大阪市北区に開設した。

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
    • [89]既成の芸能プロからの脱皮を目指して「人間産業になろう」と旗を掲げている
    • [90]堀威夫は14年前(1984年)51歳のときに社長を退いて会長に就任し、部下が2人しかいない新規部門「文化事業部」の事業部長に就任した
    • [91]文化事業部は芸能界以外の文化、芸術、スポーツなどの分野で人を育て、マネジメントすることを目的にしている
    • [92]文化事業部はスタート時に苦労したが、30人以上のスタッフを抱え年間30億円を売り上げる部門に成長し、事業部長の座はすでに譲った
    • [93]人間産業の分野では大量生産や省力化はできない。その代わり、市場は無限に広がる
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [94]1992年4月に大阪営業所(現大阪支社)を大阪市北区に開設

人間産業を目指す第一弾として、ホリプロは海外タレントの発掘に乗り出した。香港の現地法人を通じて中国人タレントを探し、1993年秋のオーディションでは40万人の応募者から2人を選んで台湾でデビューさせた。対象はテレビタレントに限らず、スポーツ選手や学者、芸術家にも広げ、元体操選手の池谷幸雄氏をスカウトで迎えた。ホリプロは所属タレントをアーチストと呼び、演技力や歌唱力だけでなく社会性を備えたプロであることを求めた。堀会長は1992年11月、ホリプロ設立30周年と自身の還暦に合わせ、半生記"いつだって青春"を東洋経済新報社から刊行した。

  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
    • [95]人間産業を目指す第一弾として海外タレントの発掘に乗り出した
    • [96]香港の現地法人を通じて中国人タレントを見い出し、昨年(1993年)秋のオーディションで40万人の応募者の中から2人を選び台湾でデビューさせた
    • [97]スポーツ選手、学者、芸術家らさまざまの才能を持つ人々がビジネスの対象であり、すでに元体操選手の池谷幸雄をスカウトした
    • [98]ホリプロではタレントのことをアーチストと呼びプロの自覚を促している。演技力や歌唱力だけでは客を満足させられず、タレントの社会性という隠し味があって初めて表の芸が生きる
    • [99]堀威夫は1992年11月、ホリプロ設立30周年と自身の還暦を記念して半生記『いつだって青春』(東洋経済新報社)をまとめた
参考文献[83]-[99]
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [83]1990年はホリプロダクションの創業30周年にあたる(1960年5月創業)
    • [84]1990年1月にCI(ロゴマーク)を導入し、6月28日の株主総会後に「ホリプロダクション」から「ホリプロ」への社名変更を予定していた
    • [86]CI導入と社名変更は、株式公開をバネにした「ホリプロ」のブランドイメージ向上戦略の一環
    • [88]1990年3月期の売上高81億6200万円、従業員数約130人
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [85]1990年10月に商号を株式会社ホリプロダクションより株式会社ホリプロに変更
    • [87]1990年8月に株式会社ホリックスを設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組等の映像物全般にわたる企画制作業務を開始
    • [94]1992年4月に大阪営業所(現大阪支社)を大阪市北区に開設
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
    • [89]既成の芸能プロからの脱皮を目指して「人間産業になろう」と旗を掲げている
    • [90]堀威夫は14年前(1984年)51歳のときに社長を退いて会長に就任し、部下が2人しかいない新規部門「文化事業部」の事業部長に就任した
    • [91]文化事業部は芸能界以外の文化、芸術、スポーツなどの分野で人を育て、マネジメントすることを目的にしている
    • [92]文化事業部はスタート時に苦労したが、30人以上のスタッフを抱え年間30億円を売り上げる部門に成長し、事業部長の座はすでに譲った
    • [93]人間産業の分野では大量生産や省力化はできない。その代わり、市場は無限に広がる
  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
    • [95]人間産業を目指す第一弾として海外タレントの発掘に乗り出した
    • [96]香港の現地法人を通じて中国人タレントを見い出し、昨年(1993年)秋のオーディションで40万人の応募者の中から2人を選び台湾でデビューさせた
    • [97]スポーツ選手、学者、芸術家らさまざまの才能を持つ人々がビジネスの対象であり、すでに元体操選手の池谷幸雄をスカウトした
    • [98]ホリプロではタレントのことをアーチストと呼びプロの自覚を促している。演技力や歌唱力だけでは客を満足させられず、タレントの社会性という隠し味があって初めて表の芸が生きる
    • [99]堀威夫は1992年11月、ホリプロ設立30周年と自身の還暦を記念して半生記『いつだって青春』(東洋経済新報社)をまとめた

1994年〜米国3社の音楽著作権とサクラヤ商事の再建

ホリプロは音楽著作権事業のために米国へ3社を設けた。1994年までに買い付けた著作権は9,000曲に上った。投じた総額10億円に対し、入ってくる使用料は年9,000万円だった。関わったのは、ナッシュビルのホリプロ・エンターテイメント・グループ、ロサンゼルスのエメラルド・フォレスト、ニューヨークのデルファイ・キャピタルである。堀会長の見通しでは、2000年になれば著作権の事業ひとつでグループの人件費全体を賄える。1994年11月にはレーベル"サウンデイジア"を新たに設け、レコードの企画・制作・製造と付帯する業務に乗り出した。

  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
    • [100]音楽著作権事業のため米国に3社を設立した
    • [101]すでに9,000曲の著作権を獲得し、総投資額10億円に対し年間9,000万円の使用料が入る
    • [102]米国にホリプロ・エンターテイメント・グループ(ナッシュビル)、エメラルド・フォレスト(ロサンゼルス)、デルファイ・キャピタル(ニューヨーク)の3社を設立
    • [103]堀威夫は「2000年には著作権事業だけでグループ全体の人件費をまかなう」と見通した
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [104]1994年11月に当社のレーベル「サウンデイジア」を新設し、レコードの企画・制作・製造及びこれに付帯する業務を開始

身装品と小物を扱う小売販売会社、サクラヤ商事の株式をホリプロが取得したのは1992年11月のことで、同社は今の株式会社ホリ・エンタープライズにあたる。同社の商品は、顧客層こそホリプロと重なるものの生活必需品ではなく、現代人が息の詰まる思いをしたときに求める、生き延びるための必需品という位置づけだった。駅ビルなどで若者向けの小物雑貨を売るこの会社の社長には、堀会長自らが就いた。グループはこれで8社となり、2000年までにあと2、3社を加えてグループ売上高を500億円に乗せることを堀会長は目標としていた。

  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [105]1992年11月に身装品、小物の小売販売会社であるサクラヤ商事株式会社(現株式会社ホリ・エンタープライズ)の株式を取得
    • [106]1992年11月に身装品、小物の小売販売会社であるサクラヤ商事株式会社(現株式会社ホリ・エンタープライズ)の株式を取得
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
    • [107]扱っている商品は顧客層がホリプロと同じで生活必需品ではないが、現代人にとっては息苦しくなったときの「生存必需品」になっている
    • [108]若者向け小物雑貨を駅ビルなどで販売している会社を買収し、堀威夫がその社長に就任した
  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
    • [109]1992年にアクセサリーなどの身装品小物の販売チェーン、サクラヤ商事の経営権を取得し、ホリプログループは計8社になった。堀威夫は「2000年までにはもう二、三社を加え、グループ全体の売上げを500億円にする」と述べた
参考文献[100]-[109]
  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
    • [100]音楽著作権事業のため米国に3社を設立した
    • [101]すでに9,000曲の著作権を獲得し、総投資額10億円に対し年間9,000万円の使用料が入る
    • [102]米国にホリプロ・エンターテイメント・グループ(ナッシュビル)、エメラルド・フォレスト(ロサンゼルス)、デルファイ・キャピタル(ニューヨーク)の3社を設立
    • [103]堀威夫は「2000年には著作権事業だけでグループ全体の人件費をまかなう」と見通した
    • [109]1992年にアクセサリーなどの身装品小物の販売チェーン、サクラヤ商事の経営権を取得し、ホリプログループは計8社になった。堀威夫は「2000年までにはもう二、三社を加え、グループ全体の売上げを500億円にする」と述べた
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [104]1994年11月に当社のレーベル「サウンデイジア」を新設し、レコードの企画・制作・製造及びこれに付帯する業務を開始
    • [105]1992年11月に身装品、小物の小売販売会社であるサクラヤ商事株式会社(現株式会社ホリ・エンタープライズ)の株式を取得
    • [106]1992年11月に身装品、小物の小売販売会社であるサクラヤ商事株式会社(現株式会社ホリ・エンタープライズ)の株式を取得
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
    • [107]扱っている商品は顧客層がホリプロと同じで生活必需品ではないが、現代人にとっては息苦しくなったときの「生存必需品」になっている
    • [108]若者向け小物雑貨を駅ビルなどで販売している会社を買収し、堀威夫がその社長に就任した

第4章 2002-2012 (気が向いたら執筆します!) 東証一部指定と銀河劇場の開場、創業家のMBOによる上場廃止

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歴史年表 1960〜2014年

ホリプロの沿革1960〜2014年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1960〜1975年スウィング・ウエストのリーダーが選んだ男子一生の仕事堀威夫が堀プロダクションを設立★★
ホリプロダクションを設立★★★
堀威夫放送局系列の音楽出版会社への楽曲著作権譲渡の不採用

1965年8月、ホリプロダクションが東京音楽出版株式会社を設立し、所属歌手の楽曲の著作権を放送局系列の音楽出版会社へ譲らず、自社で保有して管理する道を採った経営判断。堀威夫社長の判断による。

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★★★
堀威夫映像の企画制作を担うホリ企画制作を設立★★
1976〜1989年山口百恵引退を乗り切った25%経営と業界初の株式公開堀威夫新人発掘の他社番組依存からの転換と、全国公募オーディションの創設

1976年、ホリプロダクションが日本テレビの番組"スター誕生"に頼ってきた新人発掘を自前へ移し、タレント志願者を全国から公募するホリプロタレントスカウトキャラバンを始めた判断。堀威夫社長は採算を度外視して初回に1億5,000万円を投じ、第1回のグランプリに榊原郁恵氏を選んだ。

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★★★
小田信吾ホリミュージックほかグループ4社を吸収合併★★
小田信吾飲食店経営の伊真沁を設立★
小田信吾日本証券業協会東京地区協会に店頭銘柄として株式を登録★★
1990〜2001年ホリプロへの改称、9,000曲の著作権とサクラヤ商事の再建小田信吾映像の企画制作を担うホリックスを設立★
小田信吾商号をホリプロダクションからホリプロに変更★★
小田信吾小売販売会社サクラヤ商事の株式を取得★★
小田信吾自社レーベル「サウンデイジア」を新設★
小田信吾東京証券取引所市場第二部に上場★
小田信吾関連会社プロダクションパオを子会社化★
小田信吾関連会社大洋音楽を子会社化★
2002〜2012年東証一部指定と銀河劇場の開場、創業家のMBOによる上場廃止堀義貴東京証券取引所市場第一部に指定替★
堀義貴天王洲に自社劇場「銀河劇場」を開場★★
堀義貴教育関連事業をホリプロ・インプルーブメント・アソシエーションに譲渡★
堀義貴創業家の資産管理会社によるMBOと、東京証券取引所市場第一部の上場廃止

2011年12月16日、ホリプロは創業者の堀威夫氏が代表を務める資産管理会社の青春社によるMBOで非公開化すると公表した。青春社は1株1050円で公開買付けを実施し、2012年2月7日に626万7055株の応募を集めて成立させた。ホリプロは同年5月に東京証券取引所市場第一部の上場を廃止し、1989年2月の業界初の株式公開から23年で株式市場を離れた。

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★★★
堀義貴東京証券取引所市場第一部の上場を廃止★★
持株会社ホリプロ・グループ・ホールディングスを設立★★
出典・参考 8件
出典・参考
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【役員の状況】
  • マネジメント 1977年7月号(脇田保)
  • 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
  • バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)

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