堀威夫氏は明治大学商学部を卒業し、ウエスタンバンド『スウィング・ウエスト』を結成してリーダーを務め、一時は渡辺プロダクションに所属していた[1]。演奏者から経営者へ移り、1960年5月に有限会社堀プロダクションを創業した[2]。ホリプロはこの年を創業年として数え、2010年5月に創業50周年を迎えた[3]。芸能プロダクション事業は口入れ稼業、一代限りの人気商売と呼ばれた[4]。プロダクションという仕組みは1955年に設立された渡辺プロダクションの実績から広まったもので、それ以前のマネジャー業はタレントが個人的に雇った番頭にとどまり、マーケティングの役割までは担っていなかった[5]。
1963年1月、堀氏は資本金250千円で株式会社ホリプロダクションを設立し、東京都港区赤坂田町の本社で演芸の供給と斡旋、演劇・音楽・映画の興行等の業務を始めた[6]。歌手のマネージメントを中心に据えた会社であり、収入は所属タレントの番組出演料と興行収入に頼っていた[7]。設立時の堀氏は取締役で、代表取締役社長に就いたのは1964年6月である[8]。所属タレントで最初に世に出たのは守屋浩氏で、『僕は泣いちっち』が大ヒットとなった[9]。本社は1966年7月に港区赤坂2丁目、1967年9月に同区赤坂3丁目、1971年9月に渋谷区広尾へ移った[10]。
堀社長は、ホリプロダクションのメインテーマを、自分たちの仕事を男子一生の仕事にすることに置いた[11]。投機的な思惑や水商売的な感覚、芸能界であることを理由とした言い訳を全部取り払い、最初から企業として営むこと、企業にできないなら手がけるべきではないという考えを示している[12]。社員の採用でも、楽隊あがり・楽隊くずれのイメージを背負った人物を排除し、身体強健で声の大きい者を選んだ[13]。タレントの若年化が進むなかで、担当する社員には時に兄、時に学校の教師の役割も求めた[14]。バンドの演奏者だった経歴を持ちながら、堀社長は音楽が好きであることやギターを弾けることを採用の決め手とはしなかった[15]。
1965年8月、ホリプロダクションは東京音楽出版株式会社(のちの株式会社ホリミュージック)を設立し、レコード会社への音楽原盤制作の提供と音楽著作権の管理業務を始めた[16]。多くの芸能プロダクションは、所属歌手の楽曲の著作権を放送局系列の音楽出版会社へ譲り渡し、その使用料収入と引き換えにテレビ・ラジオ番組への出演機会を増やしてもらう策を採っていた[17]。堀社長はこの動きに同調せず、楽曲の著作権は自社がこの世に産み落とした財産であり、何年かすれば安定した収益源になると読んだ[18]。ホリプロダクションは、渡辺プロダクション、シンコー・ミュージックと並び、芸能プロダクションとしては最も早い時期に自前の著作権管理事業へ乗り出した[19]。
所属タレントを抱える事業には予測できない事態が起こり、守屋氏はある日事故を起こして1年間の謹慎で仕事から離れた[20]。守屋氏に次いでデビューさせた舟木一夫氏は、父親がかつて興行を手がけた人物で、息子が売れ出すと1年たたないうちに独立した[21]。生身の人間を抱える以上、病気や事故は起こり得る[22]。デビュー曲1本を出して3か月ほどで消える新人も多く、次から次へと有望新人が送り込まれるなかでタレントのライフサイクルは短くなっていた[23]。堀社長はこれらをプロダクションが生来もつアキレス腱と呼び[24]、水商売的な要素が大きいと言われる仕事をいかに長続きさせるかに力を注いだ[25]。
ホリプロダクションは、著作権の活用が収入増につながると見て日本音楽著作権協会の会員となった[26]。所属歌手が新曲を出す際には、作詞・作曲者との交渉で分配率と期間を決めたうえで著作権をすべて自社へ譲渡してもらい、実演やレコード・テープの販売のたびに使用料を受け取り、契約どおりに作詞・作曲者へ分配する[27]。使用時から協会を経由して入金するまでには半年から1年かかり、この時差が次の商品を開発する原資となった[28]。レコードでは自社がマザーテープを作ってレコード会社に納め、原盤印税がレコード会社経由で入る仕組みを敷いたため、1曲ごとに著作権と原盤権が同時に生じた[29]。
タレントの採否を決める基準として、堀社長は目の輝き、歯の白さと歯ならび、声の大きさの3つを見た[30]。歌のうまさや声の良し悪しよりも声が大きいかどうかを重んじ、健康で快活か、自己主張が強いかという人間としての資質を優先した[31]。スカウト番組のように複数の審査員の多数決で選べば、難点は少なくても個性を訴える力のない平均的な人が残る[32]。1人でもベタほめする者がいれば独善と偏見を行使して採用に踏み切り、和田アキ子氏も山口百恵氏も周囲の反対を押し切って採った[33]。山口氏については健康美あふれる大根足にほれこみ、弱点をどう隠すかという発想からは出発しなかった[34]。
日本テレビの番組『スター誕生』のスタートに協力し、ホリプロダクションは山口氏、森昌子氏をたて続けに獲得した[35]。堀社長はタレントづくりの工程を前編と後編に分けた[36]。新曲がベスト5に入り、俗に天下をとると呼ばれる段階までが前編で、年間600人近い新人歌手がデビューして技量に差がないなかでは偶然の要素も働き、マネジャー業はシロウトでもできる水準にある[37]。後編ではタレントのグレードをどこまで高め、ライフサイクルをどこまで伸ばすかが問われ、山口氏は映画の主演で、森氏は歌舞伎座公演でそれを果たした[38]。
1969年6月、ホリプロダクションは株式会社ホリ企画制作を設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組等の企画制作業務を始めた[39]。マネジメントのホリ・プロダクション、音楽原盤と著作権の東京音楽出版、映像制作のホリ企画制作の3社がホリグループを構成し、堀社長がその代表を務めた[40]。渡辺プロダクションの寡占がナベプロ帝国と呼ばれる業界にあって、ホリグループは第2勢力とされた[41]。未成年のタレントにはマネジャーを付ける一方、どれほど売れても身の回りの世話をする付け人は付けさせず、楽屋でコーラを飲みたいと言えば自動販売機で自分で買わせた[42]。
ホリプロダクションは1976年5月に本社を東京都渋谷区広尾から東京都目黒区下目黒へ移した[43]。同じ年、日本テレビの番組『スター誕生』に頼ってきた新人の発掘を自前でも行うため、タレント志願者を全国から公募するホリプロタレントスカウトキャラバンを始めた[44]。同社は『スター誕生』の開始に協力して山口百恵氏・森昌子氏を相次いで獲得したものの、番組でのスカウト合戦が激しくなっていた[45]。堀威夫社長は責任者に、同社を支えた最初の歌手で1976年に歌手を引退した守屋浩氏を充てた[46]。初回は採算を度外視して1億5,000万円を投じ、第1回のグランプリに選んだ榊原郁恵氏がスターになったことで、その分は回収した[47]。
堀社長はキャラバンの意図を、テレビ局の番組に依存してきた新人発掘を自前の発掘へ移すことと、ホリプロの名を全国へ浸透させることの2つに置いた[48]。キャラバンは榊原氏に続いて堀ちえみ氏・井森美幸氏・鈴木保奈美氏・山瀬まみ氏を世に送り出し、看板タレントが1人欠けてもその穴を埋める人材が次々にデビューする循環をつくった[49]。一方、ホリプロダクションは関連会社を増やしたものの、各社とも管理を担う人材を欠いていた[50]。そこで1977年5月に株式会社ホリグループ本社を設立し、ホリプロダクションを含む関連会社の総務・経理・人事にあたる管理業務の受託を始めた[51]。
ホリプロダクションは、1人のアーチストに売上高の25%以上を依存しない方針を採ってきた[52]。堀社長がこの比率を定めたのは、同社を支えた守屋氏が飲酒運転で逮捕され、次にデビューさせた舟木一夫氏が売れ出して1年たたないうちに独立した経験による[53]。守屋氏は事故のため1年間仕事をせずに謹慎し、舟木氏の独立は、かつて興行を手がけた父親が息子の売れ行きを見て動いた結果だった[54]。生身の人間を抱える仕事では病気も事故も起こり得るため、1人に頼れば、その1件で売上高の大半を失う[55]。堀社長は社内の各ディビジョンについても、それぞれのシェアが25%以下であることが望ましいとした[56]。
1980年、山口氏は三浦友和氏との結婚を理由に歌手を引退した[57]。新聞や雑誌はホリプロはつぶれるにちがいないと書いたが、全盛期の山口氏でも売上高に占めるシェアは22%ほどにとどまり、ホリプロダクションは次の商品の開発へ移れた[58]。堀社長は説得で引退を覆さず、いさぎよい敗戦というプロの美学もあってよいという結論に達したうえで、引退を一大イベントとして送り出した[59]。25%の方針の下では、売上高が突出したタレントの仕事を抑えるのではなく、それに応じて他の売上高を伸ばす手を採っており、1965年設立の東京音楽出版と1969年設立のホリ企画制作もその一環に当たる[60]。著作権使用料は使用から半年から1年ほど遅れて同社に入るため、この時差が次の商品の開発を支えた[61]。
1984年3月、堀社長は51歳で社長を退いて代表取締役会長に就き、専務取締役だった小田信吾氏が代表取締役社長に就任した[62]。小田信吾社長は1938年5月7日生まれで、1968年2月に入社し、1975年12月に取締役、1980年10月に常務取締役、1983年4月に専務取締役を務めた生え抜きである[63]。堀会長は会長就任後、部下が2人しかいない新規部門の文化事業部の事業部長に就いた[64]。1985年10月には新会社の東京音楽出版株式会社を設立し、洋楽の音楽著作権の管理業務を始めた[65]。この東京音楽出版は、1965年設立で音楽原盤の制作と著作権管理にあたった同名の会社とは別の法人に当たる[66]。
1987年4月、ホリプロダクションは株式会社ホリミュージック、株式会社ホリ企画制作、株式会社ホリグループ本社および株式会社志津興業の4社を吸収合併した[67]。ホリミュージックは音楽出版、ホリ企画制作は映像、ホリグループ本社はグループ経営の管理部門、志津興業はタレント寮の管理を担っていた[68]。堀会長は合併を、株式の上場に向けて3年ほど前から進めてきた準備の一環と説明した[69]。分けてきた各社をひとつにした理由には、公開して上場するのに頭がなくて胴体ばかりでは通らないことを挙げた[70]。合併後は役員の下に業務・文化事業・プロダクション・AV制作・ファクトリーの5本部を置き、音と映像に分かれていた守備範囲を1つにまとめた[71]。
1989年2月、ホリプロダクションは株式を社団法人日本証券業協会東京地区協会へ店頭銘柄として登録した[72]。芸能プロダクションが株式市場へ株式を公開した前例はなかった[73]。堀会長がこれを求めたのは、長男が私立小学校へ入るときの親子面接で職業を答えた際、試験官の顔が変わった体験による[74]。堀会長は職業を特殊なものと見られることに免疫があるとしたうえで、後輩の社員が将来同じ体験をするなら社会的認知がほしいと考えた[75]。株式公開はホリプロを社会性と永続性を備えた企業に育てる方針に沿って15年前から掲げてきた目標で[76]、堀会長は公開を一番わかりやすい証明書と呼んだ[77]。
1987年11月、ホリプロダクションは『スタジオファクトリー』と新タレント寮を東京都世田谷区用賀に開設した[78]。1988年5月には飲食店を経営する株式会社伊真沁を設立[79]。1989年6月にはホリ・プロダクションズ・アメリカ・インクを米国ロスアンジェルスに設立し、出版業務を始めた[80]。堀会長は1989年を国際化元年と呼び、エンタテイメントの取引が95対5ほどの逆インバランスにあることを踏まえ、日本の芸能の輸出に加えて米国のものを東南アジアへ持っていく事業を挙げた[81]。1989年3月20日の講演では、所属タレント上位10人の収入が総売上高に占める割合を30%ぐらい、原盤印税を含む著作権料収入の割合を20%強と述べた[82]。
1990年、ホリプロダクションは創業30周年を迎えた[83]。1月にロゴマークを定めるCIを導入し、6月28日の株主総会後の社名変更を計画に置いた[84]。商号の変更は同年10月で、株式会社ホリプロダクションから株式会社ホリプロへ改めた[85]。CIの導入と社名の変更は、1989年2月の株式公開を足がかりとするブランドイメージの向上策として打たれた[86]。同年8月にはホリックスを設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組などの映像物全般にわたる企画制作業務を開始した[87]。1990年3月期の売上高は81億6200万円、従業員数は約130人であった[88]。
堀威夫会長は1984年に51歳で社長を退いて会長に就き、部下が2人しかいない新規部門の文化事業部で事業部長を務めた[89]。芸能界以外の文化、芸術、スポーツの分野で人を育ててマネジメントすることが、この部署の目的に据えた[90]。堀会長は既成の芸能プロダクションからの脱皮を目指し、人間産業への転換を掲げた[91]。文化事業部は開始時に苦労したものの、30人以上のスタッフを抱えて年間30億円を売り上げる部門へ育ち、堀会長は事業部長の座を譲った[92]。人間産業の分野では大量生産や省力化ができない代わりに市場は無限に広がると、堀会長は述べた[93]。1992年4月、ホリプロは大阪営業所を大阪市北区に開設した[94]。
人間産業を目指す第一弾として、ホリプロは海外タレントの発掘に乗り出した[95]。香港の現地法人を通じて中国人タレントを探し、1993年秋のオーディションでは40万人の応募者から2人を選んで台湾でデビューさせた[96]。対象はテレビタレントに限らず、スポーツ選手や学者、芸術家にも広げ、元体操選手の池谷幸雄氏をスカウトで迎えた[97]。ホリプロは所属タレントをアーチストと呼び、演技力や歌唱力だけでなく社会性を備えたプロであることを求めた[98]。堀会長は1992年11月、ホリプロ設立30周年と自身の還暦に合わせ、半生記『いつだって青春』を東洋経済新報社から刊行した[99]。
ホリプロは音楽著作権事業のために米国へ3社を設けた[100]。ナッシュビルのホリプロ・エンターテイメント・グループ、ロサンゼルスのエメラルド・フォレスト、ニューヨークのデルファイ・キャピタルである[101]。1994年までに買い付けた著作権は9,000曲に達し、総投資額10億円に対して年間9,000万円の使用料が入った[102]。堀会長は2000年には著作権事業だけでグループ全体の人件費をまかなえるとの見通しを示した[103]。1994年11月にはレーベル『サウンデイジア』を新設し、レコードの企画・制作・製造とこれに付帯する業務を始めた[104]。
1992年11月、ホリプロは身装品と小物の小売販売会社であるサクラヤ商事の株式を取得した[105]。同社は現在の株式会社ホリ・エンタープライズにあたる[106]。サクラヤ商事は若者向けの小物雑貨を駅ビルなどで販売しており、堀会長は買収した会社の社長を自ら引き受けた[107]。扱う商品は顧客層がホリプロと同じで生活必需品ではないが、堀会長は現代人にとって息苦しくなったときの生存必需品になっていると説明した[108]。取得によってホリプログループは計8社となり、堀会長は2000年までにもう2、3社を加えてグループ全体の売上高を500億円にする目標を掲げた[109]。
経営を引き受けた時点のサクラヤ商事は借金過多で経営が苦しくなっており、堀会長は左前の企業の再建がマイナスからの出発で創業より難しいと思い知らされた[110]。堀会長は一部店舗の閉鎖と財務体質の改善を進め、芸能マネジメントとは別の事業で自ら立て直しに当たった[111]。日常の生活と行動で自己研鑽を積み、自らの生き様が客観的に社会から認めてもらえるようになれば、ある程度の乱暴はした方がよいと堀会長は語った[112]。
1997年3月、ホリプロは東京証券取引所市場第二部に上場した[113]。1989年2月の株式の店頭登録から8年で、売買の場を取引所へ移した[114]。1994年の時点でホリプロが抱えるタレントは約100人で、1,800あるプロダクションの頂点に立っていた[115]。堀会長は、芸能界に関わるビジネスが一見華やかに見えるだけに社員は自分自身が特別な存在だと勘違いしがちであり、それは間違いだと社内を戒めた[116]。
東証2部上場から2か月後の1997年5月、ホリプロは関連会社である株式会社プロダクションパオの株式を追加取得し、子会社とした[117]。2000年12月には関連会社である大洋音楽株式会社の株式を追加取得して、これも子会社に加えた[118]。2001年4月、ホリプロは株式会社ホリプロ・ブッキング・エージェンシーを設立した[119]。芸能マネジメントの本体は、1984年3月に就任した小田信吾社長が2002年6月まで担った[120]。堀会長はホリプロがすでに守備範囲としている分野の仕事をすべて社長に任せ、自身はそうでない領域に挑む分担を敷いた[121]。
ホリプロは2002年6月、常務取締役の堀義貴氏を代表取締役社長に選任した[122]。堀義貴氏は1993年6月にホリプロへ入社し、1996年6月に取締役、1997年10月に取締役制作・宣伝事業担当、1999年6月に取締役プロダクション事業担当、2000年6月に常務取締役を務めた[123]。1984年3月から社長を務めた小田信吾氏は、同じ2002年6月に代表取締役会長へ移った[124]。堀義貴氏は2008年6月から2011年6月まで代表取締役会長兼社長を務め、2011年6月に代表取締役社長へ戻った[125]。
ホリプロは2002年9月、株式を東京証券取引所市場第二部から市場第一部へ指定替した[126]。1989年2月に日本証券業協会東京地区協会へ店頭銘柄として株式を登録し、1997年3月に東京証券取引所市場第二部へ上場して以来、3度目の市場変更となった[127]。指定替は、堀義貴氏が社長に就いてから3か月後にあたる[128]。2003年1月にはホリプロコムを設立し、堀義貴氏が代表取締役会長を兼ねた[129]。2007年12月にはホリプロ・インプルーブメント・アソシエーションを子会社として設立し、ホリプロが手がけていた教育関連事業をこの新会社へ譲渡した[130]。
ホリプロは2006年1月に株式会社銀河劇場を設立し、東京・品川の旧アートスフィアの運営権を取得したうえで、同年10月に天王洲 銀河劇場として開場した[131]。
ホリプロは2010年5月に創業50周年を迎えた[132]。
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|---|---|---|---|---|
| 1960〜1975年スウィング・ウエストのリーダーが選んだ男子一生の仕事 | 堀威夫が堀プロダクションを設立 | ★★ | ||
| ホリプロダクションを設立 | ★★★ | |||
| 堀威夫 | 放送局系列の音楽出版会社への楽曲著作権譲渡の不採用と、東京音楽出版の設立 1965年8月、ホリプロダクションが東京音楽出版株式会社を設立し、所属歌手の楽曲の著作権を放送局系列の音楽出版会社へ譲らず、自社で保有して管理する道を採った経営判断。堀威夫社長の判断による。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 堀威夫 | 映像の企画制作を担うホリ企画制作を設立 | ★★ | ||
| 1976〜1989年山口百恵引退を乗り切った25%経営と業界初の株式公開 | 堀威夫 | 新人発掘の他社番組依存からの転換と、全国公募オーディションの創設 1976年、ホリプロダクションが日本テレビの番組『スター誕生』に頼ってきた新人発掘を自前へ移し、タレント志願者を全国から公募するホリプロタレントスカウトキャラバンを始めた判断。堀威夫社長は採算を度外視して初回に1億5,000万円を投じ、第1回のグランプリに榊原郁恵氏を選んだ。 詳細を読む | ★★★ | |
| 小田信吾 | ホリミュージックほかグループ4社を吸収合併 | ★★ | ||
| 小田信吾 | 飲食店経営の伊真沁を設立 | ★ | ||
| 小田信吾 | 日本証券業協会東京地区協会に店頭銘柄として株式を登録 | ★★ | ||
| 1990〜2001年ホリプロへの改称、9,000曲の著作権とサクラヤ商事の再建 | 小田信吾 | 映像の企画制作を担うホリックスを設立 | ★ | |
| 小田信吾 | 商号をホリプロダクションからホリプロに変更 | ★★ | ||
| 小田信吾 | 小売販売会社サクラヤ商事の株式を取得 | ★★ | ||
| 小田信吾 | 自社レーベル「サウンデイジア」を新設 | ★ | ||
| 小田信吾 | 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 小田信吾 | 関連会社プロダクションパオを子会社化 | ★ | ||
| 小田信吾 | 関連会社大洋音楽を子会社化 | ★ | ||
| 2002〜2014年天王洲 銀河劇場の開場と、上場23年目のMBO | 堀義貴 | 東京証券取引所市場第一部に指定替 | ★ | |
| 堀義貴 | 天王洲に自社劇場「銀河劇場」を開場 | ★★ | ||
| 堀義貴 | 教育関連事業をホリプロ・インプルーブメント・アソシエーションに譲渡 | ★ | ||
| 堀義貴 | 創業家の資産管理会社によるMBOと、東京証券取引所市場第一部の上場廃止 2011年12月16日、ホリプロは創業者の堀威夫氏が代表を務める資産管理会社の青春社によるMBOで非公開化すると公表した。青春社は1株1050円で公開買付けを実施し、2012年2月7日に626万7055株の応募を集めて成立させた。ホリプロは同年5月に東京証券取引所市場第一部の上場を廃止し、1989年2月の業界初の株式公開から23年で株式市場を離れた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 堀義貴 | 東京証券取引所市場第一部の上場を廃止 | ★★ | ||
| 持株会社ホリプロ・グループ・ホールディングスを設立 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ホリプロ)