ホリプロ:堀威夫によるホリプロダクションと東京音楽出版の設立
1960年〜有限会社堀プロダクションから資本金250千円の株式会社へ
堀威夫氏は明治大学商学部を卒業し、ウエスタンバンド"スウィング・ウエスト"を結成してリーダーを務め、一時は渡辺プロダクションに所属していた。演奏者から経営者へ移り、1960年5月に有限会社堀プロダクションを創業した。ホリプロはこの年を創業年として数え、2010年5月に創業50周年を迎えた。芸能プロダクション事業は口入れ稼業、一代限りの人気商売と呼ばれた。プロダクションという仕組みは1955年に設立された渡辺プロダクションの実績から広まったもので、それ以前のマネジャー業はタレントが個人的に雇った番頭にとどまり、マーケティングの役割までは担っていなかった。
- マネジメント 1977年7月号(脇田保)
- [1]堀威夫氏は明治大学商学部を卒業後にウエスタンバンド「スウィング・ウエスト」を結成し、一時は渡辺プロダクションに所属した
- [5]芸能プロダクションのシステムが始まったのは昭和30年に設立された渡辺プロダクションの実績からで、それまでのマネジャー業はタレントが個人的に雇った番頭であり、マーケティング的役割までははたしていなかった
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [2]1960年に有限会社堀プロダクションを創業した(設立1960年5月)
- [4]芸能プロダクション事業は口入れ稼業、一代限りの人気商売と言われ続けた
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [3]2010年5月に創業50周年を迎えた
1963年1月、堀氏は資本金250千円で株式会社ホリプロダクションを設立し、東京都港区赤坂田町の本社で演芸の供給と斡旋、演劇・音楽・映画の興行等の業務を開始した。歌手のマネージメントを中心に据えた会社であり、収入は所属タレントの番組出演料と興行収入に頼っていた。設立時の堀氏は取締役で、代表取締役社長に就任したのは1964年6月である。所属タレントで最初に世に出たのは守屋浩氏で、"僕は泣いちっち"が大ヒットとなった。本社は1966年7月に港区赤坂2丁目、1967年9月に同区赤坂3丁目、1971年9月に渋谷区広尾へ移った。
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [6]1963年1月、堀威夫が株式会社ホリプロダクション(資本金250千円、本社・東京都港区赤坂田町)を設立し、演芸の供給、斡旋及び演劇・音楽・映画の興行等の業務を開始
- [10]1966年7月に本社を東京都港区赤坂2丁目へ、1967年9月に同赤坂3丁目へ、1971年9月に東京都渋谷区広尾へ移転
- 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [7]当社は歌手のマネージメントを中心にスタートした会社であり、芸能プロダクションの収益構造は所属タレントの番組出演料、興行収入に頼る
- [9]所属タレントで最初に「僕は泣いちっち」が大ヒットして有名になったのは守屋浩
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [8]堀威夫は1963年1月の当社設立時に取締役、1964年6月に代表取締役社長
投機的な思惑も、水商売的な感覚も、芸能界だからという言い訳も、堀社長はすべて取り払おうとした。はじめから企業として営み、企業として成り立たないなら手を出すべきではないという考えである。その根にあったのは、この仕事を男が一生を賭けられるものにするという、ホリプロダクションの主題だった。社員の採用でも、楽隊あがり・楽隊くずれのイメージを負う人物を退け、体が丈夫で声の大きい者を採った。タレントの若年化が進むなかで、担当する社員には時に兄、時に学校の教師の役割も求めた。バンドの演奏者だった経歴を持ちながら、堀社長は音楽が好きであることやギターを弾けることを採用の決め手とはしなかった。
- マネジメント 1977年7月号(脇田保)
- [11]投機的な思惑や水商売的な感覚、芸能界だからというエクスキューズを全部とりはらおうとやってきた、最初から企業だと思ってやってきており企業にできないならやってはいけないと堀威夫氏が語った
- [12]うちのメインテーマは、自分たちの仕事を男子一生の仕事にしようということです、と堀威夫氏が語った
- [13]楽隊あがり・楽隊くずれのイメージを背負った人物は社員として排除され、採用ではまず身体強健で声の大きい者を選ぶ
- [14]タレントは若年化しており、若年タレントのマネジャーは時にお兄さん、時には学校の先生の役割もはたせるようでなければならない
- [15]ギターがひける、音楽が好きだからというのはマイナス要因にはならないが、それがきめ手になるとはいえない、と堀威夫氏が語った
参考文献[1]-[15]
- マネジメント 1977年7月号(脇田保)
- [1]堀威夫氏は明治大学商学部を卒業後にウエスタンバンド「スウィング・ウエスト」を結成し、一時は渡辺プロダクションに所属した
- [5]芸能プロダクションのシステムが始まったのは昭和30年に設立された渡辺プロダクションの実績からで、それまでのマネジャー業はタレントが個人的に雇った番頭であり、マーケティング的役割までははたしていなかった
- [11]投機的な思惑や水商売的な感覚、芸能界だからというエクスキューズを全部とりはらおうとやってきた、最初から企業だと思ってやってきており企業にできないならやってはいけないと堀威夫氏が語った
- [12]うちのメインテーマは、自分たちの仕事を男子一生の仕事にしようということです、と堀威夫氏が語った
- [13]楽隊あがり・楽隊くずれのイメージを背負った人物は社員として排除され、採用ではまず身体強健で声の大きい者を選ぶ
- [14]タレントは若年化しており、若年タレントのマネジャーは時にお兄さん、時には学校の先生の役割もはたせるようでなければならない
- [15]ギターがひける、音楽が好きだからというのはマイナス要因にはならないが、それがきめ手になるとはいえない、と堀威夫氏が語った
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [2]1960年に有限会社堀プロダクションを創業した(設立1960年5月)
- [4]芸能プロダクション事業は口入れ稼業、一代限りの人気商売と言われ続けた
- [8]堀威夫は1963年1月の当社設立時に取締役、1964年6月に代表取締役社長
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [3]2010年5月に創業50周年を迎えた
- [6]1963年1月、堀威夫が株式会社ホリプロダクション(資本金250千円、本社・東京都港区赤坂田町)を設立し、演芸の供給、斡旋及び演劇・音楽・映画の興行等の業務を開始
- [10]1966年7月に本社を東京都港区赤坂2丁目へ、1967年9月に同赤坂3丁目へ、1971年9月に東京都渋谷区広尾へ移転
- 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [7]当社は歌手のマネージメントを中心にスタートした会社であり、芸能プロダクションの収益構造は所属タレントの番組出演料、興行収入に頼る
- [9]所属タレントで最初に「僕は泣いちっち」が大ヒットして有名になったのは守屋浩
1965年〜東京音楽出版の設立と楽曲著作権の自己保有
所属歌手の曲の著作権を放送局系の音楽出版社に渡し、見返りにテレビ・ラジオでの出番を確保するのが当時の芸能プロダクションの多くに共通するやり方だったが、堀社長はそれに倣わず、曲の著作権は自社がつくった財産であり、将来は安定収入の柱に育つと考えていた。そこでホリプロダクションは1965年8月、東京音楽出版株式会社(のちの株式会社ホリミュージック)を設け、レコード会社に音楽原盤の制作を提供する事業と著作権管理の業務に乗り出した。芸能プロダクションで自社による著作権管理に着手したのは、渡辺プロダクション、シンコー・ミュージックと並んでホリプロダクションが最も早かった。
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [16]多くの芸能プロダクションは所属歌手の楽曲の著作権を放送局系列の音楽出版会社に譲り渡し、著作権使用料収入を放送局に譲る見返りにテレビ・ラジオ番組への出演機会を増やしてもらう作戦を採り始めた
- [17]堀会長はこうした動きには同調せず、楽曲の著作権は我々がこの世に産み落としたかけがえのない財産、何年かすれば必ず安定した収益源になるとの読みがあった
- [19]渡辺プロダクション、シンコー・ミュージックなどと並んで、芸能プロダクションとしては最も早い時期から自前の著作権管理事業に乗り出した
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [18]1965年8月に東京音楽出版株式会社(のちの株式会社ホリミュージック)を設立し、レコード会社への音楽原盤制作の提供と音楽著作権の管理業務を開始
所属タレントを抱える事業には予測できない事態が起こり、守屋氏はある日事故を起こして1年間の謹慎で仕事から離れた。守屋氏に次いでデビューさせた舟木一夫氏は、父親がかつて興行を手がけた人物で、息子が売れ出すと1年たたないうちに独立した。生身の人間を抱える以上、病気や事故は起こり得る。デビュー曲1本を出して3か月ほどで消える新人も多く、次から次へと有望新人が送り込まれるなかでタレントのライフサイクルは短くなっていた。堀社長はこれらをプロダクションが生来もつアキレス腱と呼び、水商売的な要素が大きいと言われる仕事をいかに長続きさせるかに力を注いだ。
- 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [20]守屋浩がある日事故を起こし、1年間、仕事をしないで謹慎することになった
- [21]守屋に次いでデビューさせた舟木一夫は、父親がかつて興行をやった人だったため、息子が売れ出すと1年たたないうちに独立した
- [22]生身の人間を抱えているので、病気とか事故とか、予測できないことが起こり得る性格をもっている
- [24]予測できない不慮の事態の発生というプロダクションが生来もっているアキレス腱
- [25]水商売的な要素が大きいといわれている仕事を、いかにして長続きさせるかに全力を注いできた
- マネジメント 1977年7月号(脇田保)
- [23]ワンクール歌手と呼ばれるデビュー曲1本、3ヵ月くらいで消えていってしまう新人も多く、次から次と有望新人が送りこまれるためタレントのライフサイクルも短縮化してきている
ホリプロダクションは、著作権の活用が収入増につながると見て日本音楽著作権協会の会員となった。所属歌手が新曲を出す際には、作詞・作曲者との交渉で分配率と期間を決めたうえで著作権をすべて自社へ譲渡してもらい、実演やレコード・テープの販売のたびに使用料を受け取り、契約どおりに作詞・作曲者へ分配する。使用時から協会を経由して入金するまでには半年から1年かかり、この時差が次の商品を開発する原資となった。レコードでは自社がマザーテープを作ってレコード会社に納め、原盤印税がレコード会社経由で入る仕組みを敷いたため、1曲ごとに著作権と原盤権が同時に生じた。
- 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [26]歌手のマネージメントを中心にスタートした会社として著作権の活用が収入増につながると気付き、(社)日本音楽著作権協会の会員になった
- [27]所属歌手が新曲を出す際、発売時点で著作権は一定の分配率を決めたうえですべて当社に譲渡してもらい、実演されると著作権使用料が入り、契約どおりに作詞・作曲者へ分配する。分配率と期間は個々の交渉で決める
- [28]著作権使用料は使用時からジャスラックを経由して入るまでに半年から1年ぐらいかかり、この間の時差が次の商品を開発するのに重要な役割を果たしている
- [29]当社がマザーテープを作ってレコード会社に納め、原盤印税がレコード会社経由で入るため、レコードを出すと著作権と原盤権が同時に発生する
参考文献[16]-[29]
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [16]多くの芸能プロダクションは所属歌手の楽曲の著作権を放送局系列の音楽出版会社に譲り渡し、著作権使用料収入を放送局に譲る見返りにテレビ・ラジオ番組への出演機会を増やしてもらう作戦を採り始めた
- [17]堀会長はこうした動きには同調せず、楽曲の著作権は我々がこの世に産み落としたかけがえのない財産、何年かすれば必ず安定した収益源になるとの読みがあった
- [19]渡辺プロダクション、シンコー・ミュージックなどと並んで、芸能プロダクションとしては最も早い時期から自前の著作権管理事業に乗り出した
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [18]1965年8月に東京音楽出版株式会社(のちの株式会社ホリミュージック)を設立し、レコード会社への音楽原盤制作の提供と音楽著作権の管理業務を開始
- 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [20]守屋浩がある日事故を起こし、1年間、仕事をしないで謹慎することになった
- [21]守屋に次いでデビューさせた舟木一夫は、父親がかつて興行をやった人だったため、息子が売れ出すと1年たたないうちに独立した
- [22]生身の人間を抱えているので、病気とか事故とか、予測できないことが起こり得る性格をもっている
- [24]予測できない不慮の事態の発生というプロダクションが生来もっているアキレス腱
- [25]水商売的な要素が大きいといわれている仕事を、いかにして長続きさせるかに全力を注いできた
- [26]歌手のマネージメントを中心にスタートした会社として著作権の活用が収入増につながると気付き、(社)日本音楽著作権協会の会員になった
- [27]所属歌手が新曲を出す際、発売時点で著作権は一定の分配率を決めたうえですべて当社に譲渡してもらい、実演されると著作権使用料が入り、契約どおりに作詞・作曲者へ分配する。分配率と期間は個々の交渉で決める
- [28]著作権使用料は使用時からジャスラックを経由して入るまでに半年から1年ぐらいかかり、この間の時差が次の商品を開発するのに重要な役割を果たしている
- [29]当社がマザーテープを作ってレコード会社に納め、原盤印税がレコード会社経由で入るため、レコードを出すと著作権と原盤権が同時に発生する
- マネジメント 1977年7月号(脇田保)
- [23]ワンクール歌手と呼ばれるデビュー曲1本、3ヵ月くらいで消えていってしまう新人も多く、次から次と有望新人が送りこまれるためタレントのライフサイクルも短縮化してきている
1969年〜独善と偏見による発掘とホリ企画制作を加えた3社
タレントの採否を決める基準として、堀社長は目の輝き、歯の白さと歯ならび、声の大きさの3つを見た。歌のうまさや声の良し悪しよりも声が大きいかどうかを重んじ、健康で快活か、自己主張が強いかという人間としての資質を優先した。和田アキ子氏も山口百恵氏も、周囲の反対を押し切っての採用だった。1人でも手放しでほめる者がいれば、独善と偏見をあえて振るって採ると決めていたからである。複数の審査員が多数決で選ぶスカウト番組のやり方では、欠点こそ少ないが個性で訴える力のない平均的な人しか残らない。山口氏の場合、弱点をいかに隠すかから考えるのではなく、健康美に満ちたその大根足に惚れ込んだところが出発点だった。
- マネジメント 1977年7月号(脇田保)
- [30]タレントをスカウトする時には第1に目の輝き、第2に歯の白さと歯ならび、第3に声の大きさを見て採否を決める
- [31]声がいいか悪いかよりも大きいかどうかのほうが大事で、声が大きければ健康で快活明朗、自己主張も強い。歌のうまさよりも人間としての本質的な資質を重視する
- [32]複数の審査員の多数決では平均的な人が選ばれ個性を訴える力がないため、1人でもベタほめする人があれば独善と偏見を行使して採用に踏み切る。和田アキ子のときも山口百恵のときも周囲の反対を押し切って採用した
- [33]タレント・スカウト番組などは複数の審査員の多数決によるため平均的な人が選ばれる可能性が強く、難点は少なくても個性を訴える力がない
- [34]山口百恵を発掘した時は健康美あふれる大根足にほれこんで採用し、大根足をどうかくすかは最初から考えなかった
日本テレビの番組"スター誕生"のスタートに協力し、ホリプロダクションは山口氏、森昌子氏をたて続けに獲得した。堀社長はタレントづくりの工程を前編と後編に分けた。新曲がベスト5に入り、俗に天下をとると呼ばれる段階までが前編で、年間600人近い新人歌手がデビューして技量に差がないなかでは偶然の要素も働き、マネジャー業はシロウトでもできる水準にある。後編ではタレントのグレードをどこまで高め、ライフサイクルをどこまで伸ばすかが問われ、山口氏は映画の主演で、森氏は歌舞伎座公演でそれを果たした。
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [35]日本テレビの人気番組「スター誕生」のスタートに協力し、山口百恵、森昌子らをたて続けに獲得した
- マネジメント 1977年7月号(脇田保)
- [36]堀氏の表現によるとタレントづくりの工程には前編と後編があり、そう分けてとらえることが重要である
- [37]タレントづくりの工程には前編と後編があり、新曲がベスト5ぐらいに入り俗に天下をとるまでが前編。年間600人近い新人歌手がデビューし技量的な差はほとんどなく、偶然の要素でスターになることもあり、マネジャー業もシロウトでできるレベルにある
- [38]後編ではタレントのグレードをいかに高め、ライフサイクルをいかに伸ばすかが問われる。山口百恵は映画に主演することでそれを果たし、森昌子は歌舞伎座公演への出演でハクをつけた
1969年6月、ホリプロダクションは株式会社ホリ企画制作を設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組等の企画制作業務を開始した。マネジメントのホリ・プロダクション、音楽原盤と著作権の東京音楽出版、映像制作のホリ企画制作の3社がホリグループを構成し、堀社長がその代表を務めた。渡辺プロダクションの寡占がナベプロ帝国と呼ばれる業界にあって、ホリグループは第2勢力とされた。未成年のタレントにはマネジャーを付ける一方、どれほど売れても身の回りの世話をする付け人は付けさせず、楽屋でコーラを飲みたいと言えば自動販売機で自分で買わせた。
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [39]1969年6月に株式会社ホリ企画制作を設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組等の企画制作業務を開始
- マネジメント 1977年7月号(脇田保)
- [40]堀威夫氏はホリグループ(ホリ・プロダクション、東京音楽出版、ホリ企画制作)の代表である
- [41]この業界はナベプロ帝国と呼ばれるほど渡辺プロダクションの寡占的支配がつづいており、ホリグループは芸能業界の第2勢力である
- [42]未成年のタレントにマネジャーはつけるが、身の回りの世話をする付け人はどんな売れっ子でもつけさせず、楽屋でコーラを飲みたいといっても自動販売機で自分で買わせる
参考文献[30]-[42]
- マネジメント 1977年7月号(脇田保)
- [30]タレントをスカウトする時には第1に目の輝き、第2に歯の白さと歯ならび、第3に声の大きさを見て採否を決める
- [31]声がいいか悪いかよりも大きいかどうかのほうが大事で、声が大きければ健康で快活明朗、自己主張も強い。歌のうまさよりも人間としての本質的な資質を重視する
- [32]複数の審査員の多数決では平均的な人が選ばれ個性を訴える力がないため、1人でもベタほめする人があれば独善と偏見を行使して採用に踏み切る。和田アキ子のときも山口百恵のときも周囲の反対を押し切って採用した
- [33]タレント・スカウト番組などは複数の審査員の多数決によるため平均的な人が選ばれる可能性が強く、難点は少なくても個性を訴える力がない
- [34]山口百恵を発掘した時は健康美あふれる大根足にほれこんで採用し、大根足をどうかくすかは最初から考えなかった
- [36]堀氏の表現によるとタレントづくりの工程には前編と後編があり、そう分けてとらえることが重要である
- [37]タレントづくりの工程には前編と後編があり、新曲がベスト5ぐらいに入り俗に天下をとるまでが前編。年間600人近い新人歌手がデビューし技量的な差はほとんどなく、偶然の要素でスターになることもあり、マネジャー業もシロウトでできるレベルにある
- [38]後編ではタレントのグレードをいかに高め、ライフサイクルをいかに伸ばすかが問われる。山口百恵は映画に主演することでそれを果たし、森昌子は歌舞伎座公演への出演でハクをつけた
- [40]堀威夫氏はホリグループ(ホリ・プロダクション、東京音楽出版、ホリ企画制作)の代表である
- [41]この業界はナベプロ帝国と呼ばれるほど渡辺プロダクションの寡占的支配がつづいており、ホリグループは芸能業界の第2勢力である
- [42]未成年のタレントにマネジャーはつけるが、身の回りの世話をする付け人はどんな売れっ子でもつけさせず、楽屋でコーラを飲みたいといっても自動販売機で自分で買わせる
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [35]日本テレビの人気番組「スター誕生」のスタートに協力し、山口百恵、森昌子らをたて続けに獲得した
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [39]1969年6月に株式会社ホリ企画制作を設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組等の企画制作業務を開始
出典・参考
4件
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- マネジメント 1977年7月号(脇田保)
- 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- 日経ビジネス 1990年6月18日号