ホリプロ:山口百恵引退を乗り切った25%経営と業界初の株式公開
1976年〜1億5,000万円を投じたタレントスカウトキャラバン
ホリプロダクションは1976年5月に本社を東京都渋谷区広尾から東京都目黒区下目黒へ移した。同じ年、日本テレビの番組"スター誕生"に頼ってきた新人の発掘を自前でも行うため、タレント志願者を全国から公募するホリプロタレントスカウトキャラバンを始めた。同社は"スター誕生"の開始に協力して山口百恵氏・森昌子氏を相次いで獲得したものの、番組でのスカウト合戦が激しくなっていた。堀威夫社長は責任者に、同社を支えた最初の歌手で1976年に歌手を引退した守屋浩氏を充てた。初回は採算を度外視して1億5,000万円を投じ、第1回のグランプリに選んだ榊原郁恵氏がスターになったことで、その分は回収した。
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1976年5月に本社を東京都目黒区下目黒へ移転(前所在地は1971年9月移転の東京都渋谷区広尾)
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [2]「スタ誕」でのスカウト合戦が激しくなるとタレント志願者を全国から公募する「ホリプロ・タレント・スカウト・キャラバン」を企画した
- [3]日本テレビの人気番組「スター誕生」のスタートに協力し、山口百恵・森昌子らをたて続けに獲得した
- バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
- [4]守屋浩が歌手を引退した昭和51年にタレント・スカウト・キャラバンを組み、彼を責任者にした
- [5]初めは採算を度外視して一億五千万円をかけたが、榊原郁恵がスターになってくれたのでその分は十分に回収できた
榊原氏に続いて堀ちえみ氏、井森美幸氏、鈴木保奈美氏、山瀬まみ氏がキャラバンからデビューし、看板の1人が去っても次の新人が後を継ぐ体制が整った。堀社長がキャラバンに託した狙いは、新人発掘の主導権をテレビ局の番組から自社に取り戻すことと、ホリプロの名を全国に広めることの2つだった。人材の面で手薄だったのは関連会社の側で、数は増えたものの、どこにも管理を担える者がいなかった。この手当てとして1977年5月に株式会社ホリグループ本社が設立された。ホリプロダクションをはじめ関連会社の総務・経理・人事などの管理業務は、同社が引き受ける形になった。
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [6]キャラバンは榊原郁恵・堀ちえみ・井森美幸・鈴木保奈美・山瀬まみを世に送り出し、看板タレントがひとり欠けてもその穴を埋める人材が次々にデビューした
- バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
- [7]テレビ局の「スター誕生」式番組に頼っていた新人発掘を自前でもやる、加えてホリプロの名を全国に浸透させるねらいがあった
- [8]関連会社をつくったが各社とも管理に人材がいなかったため、総務・経理・人事を扱うホリグループ本社を作った
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [9]昭和52年5月に株式会社ホリグループ本社を設立し、株式会社ホリプロダクションを含むその関連会社の管理業務受託を開始
参考文献[1]-[9]
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1976年5月に本社を東京都目黒区下目黒へ移転(前所在地は1971年9月移転の東京都渋谷区広尾)
- [9]昭和52年5月に株式会社ホリグループ本社を設立し、株式会社ホリプロダクションを含むその関連会社の管理業務受託を開始
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [2]「スタ誕」でのスカウト合戦が激しくなるとタレント志願者を全国から公募する「ホリプロ・タレント・スカウト・キャラバン」を企画した
- [3]日本テレビの人気番組「スター誕生」のスタートに協力し、山口百恵・森昌子らをたて続けに獲得した
- [6]キャラバンは榊原郁恵・堀ちえみ・井森美幸・鈴木保奈美・山瀬まみを世に送り出し、看板タレントがひとり欠けてもその穴を埋める人材が次々にデビューした
- バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
- [4]守屋浩が歌手を引退した昭和51年にタレント・スカウト・キャラバンを組み、彼を責任者にした
- [5]初めは採算を度外視して一億五千万円をかけたが、榊原郁恵がスターになってくれたのでその分は十分に回収できた
- [7]テレビ局の「スター誕生」式番組に頼っていた新人発掘を自前でもやる、加えてホリプロの名を全国に浸透させるねらいがあった
- [8]関連会社をつくったが各社とも管理に人材がいなかったため、総務・経理・人事を扱うホリグループ本社を作った
1980年〜売上シェア22%の山口百恵引退と小田信吾社長の就任
ホリプロダクションは、1人のアーチストに売上高の25%以上を依存しない方針を採ってきた。堀社長がこの比率を定めたのは、同社を支えた守屋氏が飲酒運転で逮捕され、次にデビューさせた舟木一夫氏が売れ出して1年たたないうちに独立した経験による。人間そのものを抱える商売では病気や事故は避けられず、1人に依存すればその1件で売上高の大半が消える。現に守屋氏は事故を起こし、1年間仕事を控えて謹慎した。舟木氏の独立も、かつて興行を手がけていた父親が息子の売れ行きを見て動いたことによる。社内の各ディビジョンについても、堀社長はどれもシェアを25%以下に抑えるのが望ましいとした。
- 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [10]1人のアーチストに売り上げの25%以上を依存するのは注意信号だという「25%」の考え方を生活の知恵として重視してきた
- [12]生身の人間を抱えているので病気とか事故とか予測できないことが起こり得る性格をもっている
- [13]守屋浩は事故を起こして1年間仕事をせず謹慎し、舟木一夫は興行をやっていた父親が息子の売れ行きを見て1年たたないうちに独立させた
- [14]社内の各ディビジョンもそれぞれのシェアが25%以下であることが望ましいという考え方だった
- オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
- [11]舟木一夫が独立し守屋浩が飲酒運転で逮捕された時、特定のタレントに頼ることの危険性を痛感し「一人のタレントの売上げが全体の25%を超えない経営」を唱えた
堀社長は山口氏を説き伏せて引退を撤回させる道を取らず、潔く負けを受け入れるのもプロの美学のうちだと結論づけた。山口氏が三浦友和氏との結婚を理由に歌手を退いたのは1980年で、その引退は一大イベントに仕立てて送り出された。新聞や雑誌はホリプロの倒産は必至と書いた。だが全盛期でさえ山口氏が売上高に占める割合は22%前後にすぎず、ホリプロダクションは次の商品の開発に移ることができた。25%の方針のもとでは、売上の突出したタレントがいても、その仕事を減らすのでなく、ほかの売上高を伸ばして釣り合いを取った。1965年設立の東京音楽出版、1969年設立のホリ企画制作も、その手立ての一つである。著作権使用料は使われてから半年から1年ほど遅れて入ってくるため、その時間差が次の商品の開発を支えた。
- バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
- [15]山口百恵が三浦友和と結婚したいと申し出、それを機会に歌手をやめたいと述べて引退した
- [16]綿々と口説き落とそうとせず「いさぎよい敗戦」というプロの美学もあっていいという結論に落ち着き、妙な問題にせずむしろ一大イベントとして送り出した
- [18]一人のタレントが全売り上げの二割五分を超さないようにする方針で、彼女の売り上げを押さえるのではなく他の売り上げを伸ばす努力をした。昭和40年の東京音楽出版と昭和44年設立のホリ企画制作もその一環
- 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [17]山口百恵引退時に新聞や雑誌に「ホリプロはつぶれるにちがいない」と書かれたが、全盛期でも売上高に占めるシェアは22%ぐらいだったため次の商品を開発できた
- [19]著作権使用料は使用時からジャスラックを経由して当社に入るまで半年から1年ぐらいかかり、この時差が次の商品を開発するのに重要な役割を果たしている
専務取締役だった小田信吾氏が代表取締役社長に就いたのは1984年3月で、51歳の堀社長は代表取締役会長に退いた。会長となった堀氏が率いたのは、2人の部下しか持たない新設部署の文化事業部で、肩書は事業部長だった。一方の小田社長は1938年5月7日生まれで、1968年2月の入社後、1975年12月に取締役、1980年10月に常務取締役、1983年4月に専務取締役と階段を上った生え抜きである。1985年10月には洋楽の音楽著作権を扱う新会社として東京音楽出版株式会社を設けたが、これは1965年に設立されて音楽原盤の制作と著作権管理を担った同名の会社とは別法人である。
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【役員の状況】
- [20]1984年3月に堀威夫が代表取締役会長、小田信吾が代表取締役社長に就任(小田は1983年4月に専務取締役)
- [22]小田信吾は1938年5月7日生まれ、1968年2月入社、1975年12月取締役、1980年10月常務取締役、1983年4月専務取締役
- 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
- [21]14年前・51歳のときに社長を退いて会長に就任し、会長になってからまずやったのは部下が2人しかいない新規部門「文化事業部」の事業部長に就任したことだった
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [23]昭和60年10月に新会社東京音楽出版株式会社(現株式会社ホリウッド)を設立し、洋楽の音楽著作権の管理業務を開始
- [24]昭和40年8月に設立した東京音楽出版株式会社(のちの株式会社ホリミュージック)はレコード会社への音楽原盤制作の提供と音楽著作権の管理業務を行った別会社
参考文献[10]-[24]
- 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [10]1人のアーチストに売り上げの25%以上を依存するのは注意信号だという「25%」の考え方を生活の知恵として重視してきた
- [12]生身の人間を抱えているので病気とか事故とか予測できないことが起こり得る性格をもっている
- [13]守屋浩は事故を起こして1年間仕事をせず謹慎し、舟木一夫は興行をやっていた父親が息子の売れ行きを見て1年たたないうちに独立させた
- [14]社内の各ディビジョンもそれぞれのシェアが25%以下であることが望ましいという考え方だった
- [17]山口百恵引退時に新聞や雑誌に「ホリプロはつぶれるにちがいない」と書かれたが、全盛期でも売上高に占めるシェアは22%ぐらいだったため次の商品を開発できた
- [19]著作権使用料は使用時からジャスラックを経由して当社に入るまで半年から1年ぐらいかかり、この時差が次の商品を開発するのに重要な役割を果たしている
- オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
- [11]舟木一夫が独立し守屋浩が飲酒運転で逮捕された時、特定のタレントに頼ることの危険性を痛感し「一人のタレントの売上げが全体の25%を超えない経営」を唱えた
- バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
- [15]山口百恵が三浦友和と結婚したいと申し出、それを機会に歌手をやめたいと述べて引退した
- [16]綿々と口説き落とそうとせず「いさぎよい敗戦」というプロの美学もあっていいという結論に落ち着き、妙な問題にせずむしろ一大イベントとして送り出した
- [18]一人のタレントが全売り上げの二割五分を超さないようにする方針で、彼女の売り上げを押さえるのではなく他の売り上げを伸ばす努力をした。昭和40年の東京音楽出版と昭和44年設立のホリ企画制作もその一環
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【役員の状況】
- [20]1984年3月に堀威夫が代表取締役会長、小田信吾が代表取締役社長に就任(小田は1983年4月に専務取締役)
- [22]小田信吾は1938年5月7日生まれ、1968年2月入社、1975年12月取締役、1980年10月常務取締役、1983年4月専務取締役
- 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
- [21]14年前・51歳のときに社長を退いて会長に就任し、会長になってからまずやったのは部下が2人しかいない新規部門「文化事業部」の事業部長に就任したことだった
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [23]昭和60年10月に新会社東京音楽出版株式会社(現株式会社ホリウッド)を設立し、洋楽の音楽著作権の管理業務を開始
- [24]昭和40年8月に設立した東京音楽出版株式会社(のちの株式会社ホリミュージック)はレコード会社への音楽原盤制作の提供と音楽著作権の管理業務を行った別会社
1989年〜グループ4社の吸収合併と株式公開
1987年4月、ホリプロダクションは株式会社ホリミュージック、株式会社ホリ企画制作、株式会社ホリグループ本社および株式会社志津興業の4社を吸収合併した。ホリミュージックは音楽出版、ホリ企画制作は映像、ホリグループ本社はグループ経営の管理部門、志津興業はタレント寮の管理を担っていた。合併は株式の上場に向けて3年ほど前から進めてきた準備の一環だった。分けてきた各社をひとつにした理由には、公開して上場するのに頭がなくて胴体ばかりでは通らないことを挙げた。合併後は役員の下に業務・文化事業・プロダクション・AV制作・ファクトリーの5本部を開設し、音と映像に分かれていた守備範囲を1つにまとめた。
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [25]昭和62年4月に株式会社ホリプロダクションが株式会社ホリミュージック、株式会社ホリ企画制作、株式会社ホリグループ本社及び株式会社志津興業を吸収合併
- バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
- [26]タレントのマネージメントのホリプロダクションを中心に、音楽出版のホリミュージック、映像のホリ企画制作、グループ経営の管理部門のホリグループ本社、タレント寮を管理する志津興業の五社が合併した
- [27]合併は含みというより上場のために三年ほど前から準備してきた、その一環だった
- [28]合併した理由は、株式を公開し上場するのにこのままでは頭がなくて胴体ばかりではないかということだった
- [29]役員の下に業務、文化事業、プロダクション、AV制作、ファクトリーの五本部を置いた。東京音楽出版は音、ホリ企画は映像というフォーメーションではビデオディスクなど新しい映像分野に対応できなかった
1989年2月、ホリプロダクションは株式を社団法人日本証券業協会東京地区協会へ店頭銘柄として登録した。芸能プロダクションが株式市場へ株式を公開した前例はなかった。堀会長がこれを求めたのは、長男が私立小学校へ入るときの親子面接で職業を答えた際、試験官の顔が変わった体験による。堀会長は職業を特殊なものと見られることに免疫があるとしたうえで、後輩の社員が将来同じ体験をするなら社会的認知がほしいと考えた。株式公開はホリプロを社会性と永続性を備えた企業に育てる方針に沿って15年前から掲げてきた目標で、堀会長は公開を一番わかりやすい証明書と呼んだ。
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [30]平成元年2月に株式を(社)日本証券業協会東京地区協会へ店頭銘柄として登録
- バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
- [31]プロダクションという分野では株式市場への上場の前例はなかった
- [32]長男が小学校へ入るときの親子面接で職業を聞かれた段になって相手の顔が変わった
- [33]職業として特殊なものだと思われるのは仕方がないと割切って免疫はあるが、面接の体験から後輩の社員たちが将来同じ体験をするならなんとしても社会的認知がほしいという気持ちが芽生えた
- [35]公開は一番わかり易い証明書であり悲願だった
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [34]ホリプロを社会性・永続性を備えた企業らしい企業に育てる方針に沿って株式公開を15年前から目標にしてきた
堀会長は1989年を国際化元年と位置づけた。それに先立つ1987年11月、ホリプロダクションは東京都世田谷区用賀に"スタジオファクトリー"と新しいタレント寮を開き、1988年5月には飲食店を営む株式会社伊真沁を設けている。1989年6月には米国ロスアンジェルスにホリ・プロダクションズ・アメリカ・インクを置き、出版の業務を始めた。エンタテイメントの取引は95対5ほどの逆インバランスだった。そこで堀会長は、日本の芸能を輸出するだけでなく、米国の作品を東南アジアへ運ぶ事業も挙げた。収入の構成を1989年3月20日時点で見ると、所属タレント上位10人の稼ぎが総売上高の30%ほど、原盤印税を含む著作権料収入が20%強を占めていた。
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [36]昭和62年11月に「スタジオファクトリー」及び新タレント寮を東京都世田谷区用賀に開設
- [37]昭和63年5月に株式会社伊真沁を設立し飲食店の経営を開始
- [38]平成元年6月にホリ・プロダクションズ・アメリカ・インクを米国ロスアンジェルスに設立し出版業務を開始
- 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [39]エンタテイメントのビジネスは95対5ぐらいの比率で大幅な逆インバランスになっており、日本の芸能の輸出だけでなくアメリカのものを東南アジアへ持っていく事業を展開したい。その意味で今年を「国際化元年」と呼んでいる
- [40]所属タレントのうちトップ10人の収入が総売上高に占める割合は30%ぐらい、著作権料収入はレコードの原盤印税を含めて20%強(1989年3月20日の講演)
参考文献[25]-[40]
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- [25]昭和62年4月に株式会社ホリプロダクションが株式会社ホリミュージック、株式会社ホリ企画制作、株式会社ホリグループ本社及び株式会社志津興業を吸収合併
- [30]平成元年2月に株式を(社)日本証券業協会東京地区協会へ店頭銘柄として登録
- [36]昭和62年11月に「スタジオファクトリー」及び新タレント寮を東京都世田谷区用賀に開設
- [37]昭和63年5月に株式会社伊真沁を設立し飲食店の経営を開始
- [38]平成元年6月にホリ・プロダクションズ・アメリカ・インクを米国ロスアンジェルスに設立し出版業務を開始
- バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)
- [26]タレントのマネージメントのホリプロダクションを中心に、音楽出版のホリミュージック、映像のホリ企画制作、グループ経営の管理部門のホリグループ本社、タレント寮を管理する志津興業の五社が合併した
- [27]合併は含みというより上場のために三年ほど前から準備してきた、その一環だった
- [28]合併した理由は、株式を公開し上場するのにこのままでは頭がなくて胴体ばかりではないかということだった
- [29]役員の下に業務、文化事業、プロダクション、AV制作、ファクトリーの五本部を置いた。東京音楽出版は音、ホリ企画は映像というフォーメーションではビデオディスクなど新しい映像分野に対応できなかった
- [31]プロダクションという分野では株式市場への上場の前例はなかった
- [32]長男が小学校へ入るときの親子面接で職業を聞かれた段になって相手の顔が変わった
- [33]職業として特殊なものだと思われるのは仕方がないと割切って免疫はあるが、面接の体験から後輩の社員たちが将来同じ体験をするならなんとしても社会的認知がほしいという気持ちが芽生えた
- [35]公開は一番わかり易い証明書であり悲願だった
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- [34]ホリプロを社会性・永続性を備えた企業らしい企業に育てる方針に沿って株式公開を15年前から目標にしてきた
- 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- [39]エンタテイメントのビジネスは95対5ぐらいの比率で大幅な逆インバランスになっており、日本の芸能の輸出だけでなくアメリカのものを東南アジアへ持っていく事業を展開したい。その意味で今年を「国際化元年」と呼んでいる
- [40]所属タレントのうちトップ10人の収入が総売上高に占める割合は30%ぐらい、著作権料収入はレコードの原盤印税を含めて20%強(1989年3月20日の講演)
出典・参考
7件
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
- 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【役員の状況】
- 証券アナリストジャーナル 1989年5月号(堀威夫・日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
- 日経ビジネス 1990年6月18日号
- オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
- 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
- バンガード 1988年「"文化をプロモートする人間産業"への脱皮」(堀威夫・聞き手 野田一夫)