第3章 年〜年

ホリプロ:9,000曲の著作権とサクラヤ商事の再建

1990年〜商号変更とホリックスの設立

1990年、ホリプロダクションは創業30周年を迎えた。1月にロゴマークを定めるCIを導入し、6月28日の株主総会後の社名変更を計画に置いた。商号の変更は同年10月で、株式会社ホリプロダクションから株式会社ホリプロへ改めた。CIの導入と社名の変更は、1989年2月の株式公開を足がかりとするブランドイメージの向上策として打たれた。同年8月にはホリックスを設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組などの映像物全般にわたる企画制作業務を開始した。1990年3月期の売上高は81億6200万円、従業員数は約130人であった。

  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [1]1990年はホリプロダクションの創業30周年にあたる(1960年5月創業)
    • [2]1990年1月にCI(ロゴマーク)を導入し、6月28日の株主総会後に「ホリプロダクション」から「ホリプロ」への社名変更を予定していた
    • [4]CI導入と社名変更は、株式公開をバネにした「ホリプロ」のブランドイメージ向上戦略の一環
    • [6]1990年3月期の売上高81億6200万円、従業員数約130人
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1990年10月に商号を株式会社ホリプロダクションより株式会社ホリプロに変更
    • [5]1990年8月に株式会社ホリックスを設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組等の映像物全般にわたる企画制作業務を開始

芸能プロダクションという既存の枠を抜け出し、人間産業へ転換する。これが堀会長の掲げた方針だった。1984年、51歳の堀威夫氏は社長を退いて会長に就き、2人の部下しか持たない発足直後の文化事業部で事業部長を兼務した。同部は、芸能以外の文化・芸術・スポーツ分野で人材を育ててマネジメントすることを目的とした。滑り出しこそ苦しんだものの、同部はやがてスタッフ30人超、年間売上30億円の規模に育ち、そこで堀会長は事業部長を後任に引き継いだ。人間産業の分野では大量生産や省力化ができない代わりに市場は無限に広がると、堀会長は述べた。1992年4月、ホリプロは大阪営業所を大阪市北区に開設した。

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
    • [7]既成の芸能プロからの脱皮を目指して「人間産業になろう」と旗を掲げている
    • [8]堀威夫は14年前(1984年)51歳のときに社長を退いて会長に就任し、部下が2人しかいない新規部門「文化事業部」の事業部長に就任した
    • [9]文化事業部は芸能界以外の文化、芸術、スポーツなどの分野で人を育て、マネジメントすることを目的にしている
    • [10]文化事業部はスタート時に苦労したが、30人以上のスタッフを抱え年間30億円を売り上げる部門に成長し、事業部長の座はすでに譲った
    • [11]人間産業の分野では大量生産や省力化はできない。その代わり、市場は無限に広がる
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1992年4月に大阪営業所(現大阪支社)を大阪市北区に開設

人間産業を目指す第一弾として、ホリプロは海外タレントの発掘に乗り出した。香港の現地法人を通じて中国人タレントを探し、1993年秋のオーディションでは40万人の応募者から2人を選んで台湾でデビューさせた。対象はテレビタレントに限らず、スポーツ選手や学者、芸術家にも広げ、元体操選手の池谷幸雄氏をスカウトで迎えた。ホリプロは所属タレントをアーチストと呼び、演技力や歌唱力だけでなく社会性を備えたプロであることを求めた。堀会長は1992年11月、ホリプロ設立30周年と自身の還暦に合わせ、半生記"いつだって青春"を東洋経済新報社から刊行した。

  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
    • [13]人間産業を目指す第一弾として海外タレントの発掘に乗り出した
    • [14]香港の現地法人を通じて中国人タレントを見い出し、昨年(1993年)秋のオーディションで40万人の応募者の中から2人を選び台湾でデビューさせた
    • [15]スポーツ選手、学者、芸術家らさまざまの才能を持つ人々がビジネスの対象であり、すでに元体操選手の池谷幸雄をスカウトした
    • [16]ホリプロではタレントのことをアーチストと呼びプロの自覚を促している。演技力や歌唱力だけでは客を満足させられず、タレントの社会性という隠し味があって初めて表の芸が生きる
    • [17]堀威夫は1992年11月、ホリプロ設立30周年と自身の還暦を記念して半生記『いつだって青春』(東洋経済新報社)をまとめた
参考文献[1]-[17]
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
    • [1]1990年はホリプロダクションの創業30周年にあたる(1960年5月創業)
    • [2]1990年1月にCI(ロゴマーク)を導入し、6月28日の株主総会後に「ホリプロダクション」から「ホリプロ」への社名変更を予定していた
    • [4]CI導入と社名変更は、株式公開をバネにした「ホリプロ」のブランドイメージ向上戦略の一環
    • [6]1990年3月期の売上高81億6200万円、従業員数約130人
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1990年10月に商号を株式会社ホリプロダクションより株式会社ホリプロに変更
    • [5]1990年8月に株式会社ホリックスを設立し、コマーシャルフィルム、劇映画、テレビ番組等の映像物全般にわたる企画制作業務を開始
    • [12]1992年4月に大阪営業所(現大阪支社)を大阪市北区に開設
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
    • [7]既成の芸能プロからの脱皮を目指して「人間産業になろう」と旗を掲げている
    • [8]堀威夫は14年前(1984年)51歳のときに社長を退いて会長に就任し、部下が2人しかいない新規部門「文化事業部」の事業部長に就任した
    • [9]文化事業部は芸能界以外の文化、芸術、スポーツなどの分野で人を育て、マネジメントすることを目的にしている
    • [10]文化事業部はスタート時に苦労したが、30人以上のスタッフを抱え年間30億円を売り上げる部門に成長し、事業部長の座はすでに譲った
    • [11]人間産業の分野では大量生産や省力化はできない。その代わり、市場は無限に広がる
  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
    • [13]人間産業を目指す第一弾として海外タレントの発掘に乗り出した
    • [14]香港の現地法人を通じて中国人タレントを見い出し、昨年(1993年)秋のオーディションで40万人の応募者の中から2人を選び台湾でデビューさせた
    • [15]スポーツ選手、学者、芸術家らさまざまの才能を持つ人々がビジネスの対象であり、すでに元体操選手の池谷幸雄をスカウトした
    • [16]ホリプロではタレントのことをアーチストと呼びプロの自覚を促している。演技力や歌唱力だけでは客を満足させられず、タレントの社会性という隠し味があって初めて表の芸が生きる
    • [17]堀威夫は1992年11月、ホリプロ設立30周年と自身の還暦を記念して半生記『いつだって青春』(東洋経済新報社)をまとめた

1994年〜米国3社の音楽著作権とサクラヤ商事の再建

ホリプロは音楽著作権事業のために米国へ3社を設けた。1994年までに買い付けた著作権は9,000曲に上った。投じた総額10億円に対し、入ってくる使用料は年9,000万円だった。関わったのは、ナッシュビルのホリプロ・エンターテイメント・グループ、ロサンゼルスのエメラルド・フォレスト、ニューヨークのデルファイ・キャピタルである。堀会長の見通しでは、2000年になれば著作権の事業ひとつでグループの人件費全体を賄える。1994年11月にはレーベル"サウンデイジア"を新たに設け、レコードの企画・制作・製造と付帯する業務に乗り出した。

  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
    • [18]音楽著作権事業のため米国に3社を設立した
    • [19]すでに9,000曲の著作権を獲得し、総投資額10億円に対し年間9,000万円の使用料が入る
    • [20]米国にホリプロ・エンターテイメント・グループ(ナッシュビル)、エメラルド・フォレスト(ロサンゼルス)、デルファイ・キャピタル(ニューヨーク)の3社を設立
    • [21]堀威夫は「2000年には著作権事業だけでグループ全体の人件費をまかなう」と見通した
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1994年11月に当社のレーベル「サウンデイジア」を新設し、レコードの企画・制作・製造及びこれに付帯する業務を開始

身装品と小物を扱う小売販売会社、サクラヤ商事の株式をホリプロが取得したのは1992年11月のことで、同社は今の株式会社ホリ・エンタープライズにあたる。同社の商品は、顧客層こそホリプロと重なるものの生活必需品ではなく、現代人が息の詰まる思いをしたときに求める、生き延びるための必需品という位置づけだった。駅ビルなどで若者向けの小物雑貨を売るこの会社の社長には、堀会長自らが就いた。グループはこれで8社となり、2000年までにあと2、3社を加えてグループ売上高を500億円に乗せることを堀会長は目標としていた。

  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1992年11月に身装品、小物の小売販売会社であるサクラヤ商事株式会社(現株式会社ホリ・エンタープライズ)の株式を取得
    • [24]1992年11月に身装品、小物の小売販売会社であるサクラヤ商事株式会社(現株式会社ホリ・エンタープライズ)の株式を取得
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
    • [25]扱っている商品は顧客層がホリプロと同じで生活必需品ではないが、現代人にとっては息苦しくなったときの「生存必需品」になっている
    • [26]若者向け小物雑貨を駅ビルなどで販売している会社を買収し、堀威夫がその社長に就任した
  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
    • [27]1992年にアクセサリーなどの身装品小物の販売チェーン、サクラヤ商事の経営権を取得し、ホリプログループは計8社になった。堀威夫は「2000年までにはもう二、三社を加え、グループ全体の売上げを500億円にする」と述べた
参考文献[18]-[27]
  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
    • [18]音楽著作権事業のため米国に3社を設立した
    • [19]すでに9,000曲の著作権を獲得し、総投資額10億円に対し年間9,000万円の使用料が入る
    • [20]米国にホリプロ・エンターテイメント・グループ(ナッシュビル)、エメラルド・フォレスト(ロサンゼルス)、デルファイ・キャピタル(ニューヨーク)の3社を設立
    • [21]堀威夫は「2000年には著作権事業だけでグループ全体の人件費をまかなう」と見通した
    • [27]1992年にアクセサリーなどの身装品小物の販売チェーン、サクラヤ商事の経営権を取得し、ホリプログループは計8社になった。堀威夫は「2000年までにはもう二、三社を加え、グループ全体の売上げを500億円にする」と述べた
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1994年11月に当社のレーベル「サウンデイジア」を新設し、レコードの企画・制作・製造及びこれに付帯する業務を開始
    • [23]1992年11月に身装品、小物の小売販売会社であるサクラヤ商事株式会社(現株式会社ホリ・エンタープライズ)の株式を取得
    • [24]1992年11月に身装品、小物の小売販売会社であるサクラヤ商事株式会社(現株式会社ホリ・エンタープライズ)の株式を取得
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)
    • [25]扱っている商品は顧客層がホリプロと同じで生活必需品ではないが、現代人にとっては息苦しくなったときの「生存必需品」になっている
    • [26]若者向け小物雑貨を駅ビルなどで販売している会社を買収し、堀威夫がその社長に就任した

出典・参考

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出典・参考
  • 株式会社ホリプロ 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
  • オムニマネジメント 1994年4月号「芸能プロダクションを"人間産業"として確立し一流企業に押し上げる」(徳永卓三)
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号(堀威夫・有訓無訓)

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