堀久作社長の映画斜陽論否定とホテル・不動産・株式への多角化拡大
1961年実施映画は斜陽ではないと言い切った経営者は、なぜ本業でなくホテルと株に資金を投じ続けたのか
- 概要
- 1955年から1967年にかけて、日活社長の堀久作氏が「映画は斜陽産業ではない」と斜陽論を否定し、石原裕次郎ブームで得た体力を映画製作の再開とホテル・不動産・株式へ投じ続けた拡大路線の経営判断。観客動員が減り始めた後も膨張を止めず、業績転落と資産の切り売りを招いた。
- 背景
- 戦時統制で製作・配給機能を失い興行専業となった日活は、戦後に劇場網とホテル・不動産で高収益を上げ、その体力で1953年に6億円を投じた撮影所を建設し、1954年に14年ぶりの製作再開で一貫経営へ復帰した。石原裕次郎の登場で一時の活況を取り戻す。
- 内容
- 堀社長は映画斜陽論を正面から否定し、映画製作に加えて登別・天城・小倉のホテルや株式へ資金を投じ、1961年6月には資本金を50億円へ引き上げた。増資は未収入金や売掛金がいずれ回収できるとの見通しを前提とし、観客減の時期に拡大を続けた。
- 含意
- 1957年以降に計上利益が急減して無配・欠損が常態化し、ホテルと株への巨額投資は回収できず14億8700万円の赤字を生んだ。売上の8割超を占める映画部門は江守清樹郎専務任せで、1967年1月には撮影所幹部の総入れ替えと重役の辞任が取り沙汰される内紛へ発展した。
斜陽を否定した者が沈めた本業
この判断の核心は、財務の危機そのものより、斜陽論を否定した経営者が本業でなく多角化と株に会社を託した点にある。堀氏は倒産寸前の日活をトーキー化と撮影所建設で立て直し、戦後は洋画興行とホテル・不動産で高収益を築いた実力者だった。その成功があったからこそ、テレビに客を奪われた米国映画界の惨状を自ら見ながらも、日本ではまだ大丈夫だと信じ込み、観客が減り始めた後も拡大を止められなかった。過去の成功体験が、環境の変化を認める目を鈍らせたとみることができる。
拡大の原資となったホテルと株は、映画の不振を補う収益源には育たず、逆に回収できない投資として本業ごと会社を沈めた。堀氏の退任後、日活は1971年にロマンポルノへ転じ、1978年に社名を「にっかつ」へ改め、1993年に会社更生法を申請して81年の歴史にいったん幕を下ろす。斜陽産業ではないという断定は、映画そのものへの信念であると同時に、多角化と株で膨らませた財務を正当化する言葉でもあった。本業の地力を見極めるより先に規模を追った経営が何を残すのか——この転落は、その問いを今日にも突きつけている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
戦時統制と興行・不動産で蓄えた体力
日活は1912年に映画4商社の合同で創立された古参の映画会社だが、1941年末の戦時統制で製作機構を大日本映画製作(後の大映)へ、配給機構を映画配給社へ移し、以後は興行だけを担う会社として戦後を迎えた。終戦直後の1945年11月に社名を日活と改め、直営館の大部分を米国映画の専門劇場へ転換すると、洋画人気を追い風に興行成績は急回復する。1946年の博多日活買収を皮切りに劇場網を全国へ広げ、興行会社としての基盤を固めた[1]。
興行に加えて、日活は不動産とホテルへも進出した。1950年2月に日本スポーツを、1953年8月には日活国際会館を吸収合併し、室数188・賃貸面積5000坪を抱えるホテル・不動産会社の顔も併せ持つ。興行と不動産を合わせた収益力は高く、会社年鑑によれば1950年代前半の日活は半期ごとの対平均払込資本利益率が29〜76%、配当は2割に達した。この体力が、次の大投資の原資となる[2][3]。
「東洋一」の撮影所と一貫経営の復帰
蓄えた体力を、堀社長は映画製作の再開へ振り向けた。1953年9月、東京都下の多摩川畔に6億円を投じて「東洋一」と称される大撮影所の建設に着手し、1954年3月の一部竣工と同時に製作を再開する。戦時統制で製作・配給を手放してから14年ぶりの復帰だった。1955年1月には自社作品による全プログラム配給を始め、製作・配給・興行の一貫経営を取り戻した[4]。
製作再開の当初はかつてのファンを呼び戻せずに苦しんだが、1956年公開の『太陽の季節』とそれに続く石原裕次郎の登場で流れが変わる。現代劇とアクションを軸にしたスター中心の量産が定着し、1959年1月期には1割3分の復配を実現、以後1962年1月期まで配当を続けた。裕次郎ブームの活況が、堀社長の強気をさらに後押しした[5]。
決断
「映画というものは決して斜陽産業では絶対にない」
観客動員が1950年代末をピークに減り始めても、堀社長は映画斜陽論を正面から否定した。1961年の経済誌インタビューで、堀氏は映画を斜陽産業と呼ぶ声を「不思議でしょうがない」として退けている。皮肉なのは、その否定が自らの見聞と裏腹だった点である。堀氏は1951年の渡米でテレビに観客を奪われた米国の大劇場を26か所も歩き、夕方でも空席の目立つ惨状をこの目で見ていた。それでも日本ではテレビとの共存を説き、映画の将来を疑わなかった[6]。
ホテルと株への「膨張政策」
斜陽論の否定は、資金の使い道に直結した。堀社長は映画製作に加え、1959年の登別を皮切りに天城・小倉へ相次いでホテルを建て、1961年6月には株主割当増資と公募で資本金を50億円へ引き上げる。増資は未収入金や売掛金がいずれ回収できるとの見通しを前提とし、株式への投資にも巨額の資金を割いた。映画の観客が減っていく時期に拡大を続けたこの路線を、当時の経済誌は「膨張政策」と呼んだ[7]。
結果
無配と欠損への転落
拡大の裏で、業績はすでに崩れ始めていた。会社年鑑によれば、日活の計上利益は1957年1月期に前の期の半分以下へ落ち込み、同年7月期には無配へ転じる。裕次郎ブームを映した1959年1月期の1割3分復配で一度は持ち直したものの、以後は無配と欠損が繰り返され、黒字を出せた期でも配当は途絶えたままだった。1966年7月期には14億9千万円の欠損を計上した[8][9]。
「相場師」の拡大が残したもの
1967年の経済誌は堀社長を「相場師的経営者」と呼び、ホテル建設と株式への巨額の資金投下が14億8700万円の赤字を生んだと総括した。復配の裏には多額の回収不能の未収入金が隠れていたとも指摘している。売上の8割超を占める映画部門は江守清樹郎専務に委ね、堀氏は俳優と配役を確かめるだけだったという。同年1月、株主総会を前に撮影所幹部が総入れ替えとなり、江守専務以下の辞任も取り沙汰される内紛へ発展した[10][11]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- 会社年鑑 1955年版(日本経済新聞社)
- 会社年鑑 1959年版(日本経済新聞社)
- 会社年鑑 1963年版(日本経済新聞社)
- 会社年鑑 1967年版(日本経済新聞社)
- 経済展望 1961年6月号「映画を限りなく伸ばすもの」(経済展望社)
- 新日本経済 1967年3月号(新日本経済社)