日活ゴルフ場3カ所への80億円投資の行き詰まりと、会社更生法の適用申請

縮小均衡か、映画会社ののれんか——若松正雄社長が本業の外に求めた次の柱の行方

時期 1993年7月
意思決定者(推定) 若松正雄 社長
論点 本業の収益喪失と多角化投資の破綻
概要
1993年7月1日、にっかつが東京地裁に会社更生法の適用を申請し、事実上倒産した。ロマンポルノの衰退後に次代の柱として据えた通信衛星とゴルフ場のうち、3カ所へ総額約80億円を投じたゴルフ場開発が行き詰まり、資金繰りが破綻した。若松正雄社長は申請と同時に社長を辞した。
背景
ロマンポルノは1985年の風俗営業法の施行とビデオの普及で商品価値を落とし、1985年1月期にはビデオ収入が売上の36%へ拡大して劇場収入の31%を上回った。1988年に「ロッポニカ」で一般映画へ路線を戻したが客が入らず、配給・興行で年間60億円あった収入が失われた。
内容
1989年からの5カ年計画で、通信衛星を使った映像ソフト供給とゴルフ場を柱に据えた。配給・興行から完全に撤退して縮小均衡を目指す選択肢もあったが、映画会社であるというのれんにこだわって選ばなかった。函館・秋田・土佐に計画したゴルフ場は、秋田・土佐で開発認可が取れないまま遅れた。
含意
倒産時に資産価値を認められたのは、1993年1月期に売上高37億5003万円・利益10億6437万円を上げた東京・調布の撮影所であった。管財人にはナムコの中村雅哉社長が就き、1996年に更生計画が認可されて社名は日活へ戻り、1997年にナムコの子会社となった。
筆者の見解

のれんが倒したもの、のれんが残したもの

ゴルフ場投資でバブルに踊った末の倒産、という説明では足りない。若松正雄氏自身が「この25年間、楽だった年はほとんどありません。本業の映画だけで食えたのは、ロマンポルノが隆盛を極めた、ほんの1、2年だけ」と振り返っている。本業が稼げない状態が四半世紀続き、その穴を本業の外で埋め続けた——1971年のロマンポルノも、1988年のロッポニカも、1989年の通信衛星とゴルフ場も、映画を撮り続けるための資金繰りであったとみられる。

もっとも、その固執が残したものもあった。倒産時に値がついた唯一の資産は調布の撮影所であり、年間に映画約30本、テレビ約90本を作る量産能力と、そこに集まる人材が評価された。そこに価値が残ったのは、赤字を抱えながら映画を作り続けたからである。管財人にナムコの中村雅哉社長が就いたのも、実写映像を扱える撮影所との接点があったからだとみられる。映画会社であることをやめない判断が会社を倒し、同時に倒れた後に何が残るかを決めていたといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

ロマンポルノの衰退とビデオの奔流

日活は1971年、成人映画路線への全面転換に踏み切った。堀久作社長時代の拡大が残した負債を、低予算の量産で埋める道であった。ただ、転換後の10期のうち経常黒字は2期にとどまり、売上高は1970年7月期の31億円から1974年7月期には19億9000万円まで縮んだ。路線の切り替えは黒字化ではなく、赤字の幅を抑える手段として働いた。1978年には減資と第三者割当で資本を組み替え、社名を「にっかつ」へ改めた[1][2]

収入の構成は1980年代半ばに入れ替わった。1984年1月期に売上の23%であったビデオ収入は、1985年1月期に36%へ拡大し、31%へ落ちた劇場収入を上回った。映像を見る場が映画館から家庭へ移り始めていた。若松正雄氏は後年、ロマンポルノが衰えた原因を1985年の風俗営業法の施行とビデオの普及に求めている。新法の施行後は劇場映画の性表現への規制が厳しくなり、商品としての価値が落ちていった[3][4]

一般映画への復帰と「ロッポニカ」の不発

1988年、にっかつはロマンポルノを打ち切り、もう一度一般映画へ路線を戻した。「ロッポニカ」の名で公開した10作品がそれであった。製作費を抑え、興行では宣伝費と現像代が賄えればよいという戦略で臨んだが、若松正雄氏によれば「とにかく客が来ませんでした」。劇場公開の後にビデオ化して元を取る算段も、劇場の維持費すら出ない興行成績では成り立たなかった[5]

配給と興行で年間60億円ほどあった収入は、短い間に失われた。若松氏は映画会社の収入の性質を、作った映画がまったく振るわなければある日突然ゼロになると説明している。1989年、経営陣は向こう5年間の計画を立て直し、通信衛星を使った映像ソフト供給事業とゴルフ場事業を次代の柱に据えた。手元には過去に撮った3000本の映像ソフトがあり、これを全国へ配信できれば大きな売上が見込めるとみていた[6]

決断

縮小均衡を選ばなかった5カ年計画

5カ年計画をまとめる際、映画の配給・興行から完全に撤退し、縮小均衡を目指す選択肢も検討された。にっかつはその道を選ばなかった。あくまでも映画会社であるというのれんにこだわったためであると、若松正雄氏は説明している。映画だけでは存続できない。それでも映画を撮り続けて「映画のにっかつ」「映像のにっかつ」ののれんを守るために、ほかに事業の柱が要る——ゴルフ場はその一つであった[7][8]

ゴルフ場を選んだ背景には二つの事情があった。一つは関連会社の天城カントリー倶楽部で30年の経営経験を持っていたこと、もう一つは当時ゴルフ場の計画に銀行が積極的に融資したことであった。にっかつの含み資産を1200億円と試算し、700億円まで貸せると告げた銀行もあったという。若松氏は後年、映画事業が順風満帆であればゴルフ場に取り組むことはなかったと振り返っている[9][10]

銀行の離反と7月1日の申請

1989年以降、にっかつは函館・秋田・土佐の3カ所にゴルフ場の建設を計画し、投資資金は総額で約80億円に上った。ところが秋田と土佐の2カ所は開発認可が取れないまま、計画が予想以上に遅れた。途中でゴルフ場の開発規制が強まり、投資にブレーキをかけるつもりでいたものの間に合わなかった。1992年半ばから、若松正雄氏と根本淑二前会長は資金繰りに強い危機感を抱き、1993年2月に銀行との話し合いへ移った[11][12]

銀行の担当者と徹夜で資料を作り、資産の売却を前提にすれば再建は可能と判断できる材料をそろえたつもりであった。しかし3月、主力都銀5行から再建には協力できないと返事があり、それが全取引銀行に波及した。10月まで待てば株を引き受けるという企業を1社見つけ、物件の売却で100億円を作る算段も、買い手の資金計画の狂いで流れた。7月1日、にっかつは東京地裁に会社更生法の適用を申請し、若松正雄氏は社長を辞した[13][14]

結果

値がついたのは撮影所だけであった

保全管理人の三宅省三氏は、本社・撮影所・ビデオ・通信衛星の映像4部門をまとめて立て直す方針を掲げた。だが個々の部門の評価は低かった。1993年1月期の版権収入は国内外を合わせて6億円に満たず、ビデオ部門の売上高20億9460万円は5年前の40億3952万円の半分であった。1988年から50億円を投じた衛星放送事業も、売上高は数年にわたり2億円前後で単年度収支は赤字のままであった[15]

資産価値があるとみられたのは、東京・調布の撮影所であった。1993年1月期の売上高37億5003万円は総売上高の35.6%を占めて最も高く、利益も10億6437万円を計上していた。自社製作こそ少ないものの、他社作品の受注製作で年間に映画約30本、テレビ約90本、CM約100本を作る量産能力を持ち、所内のにっかつ芸術学院が製作現場の人材を育てていた。映像ソフトの製作部門を求める企業には魅力があった[16]

ナムコの管財人就任と社名の復帰

支援企業として名が挙がったのは、放送衛星のチャンネル獲得を狙いながら撮影所を持たないセゾングループ、撮影所で実写映像を使ったゲームソフトを作れるナムコ、2年前ににっかつ株の第三者割当増資を引き受けたセガなどであった。反応は総じて否定的で、セガは引き受けた50万株をすでに売却したとし、ナムコも前年に支援を請われて一度は断っていた。それでも9月30日の更生手続開始決定にあたり、管財人にはナムコの中村雅哉社長が就いた[17][18]

1996年、更生計画の認可が決定し、社名は「日活株式会社」へ戻った。1997年にはナムコから資本を受け入れて同社の子会社となり、2001年に東京地裁で更生手続の終結が決定した。その後も親会社は移り変わり、2005年にインデックスの子会社となり、2009年には株式の異動で日本テレビ放送網が筆頭株主になった。2021年、日活は映画興行事業を終えている[19]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1993年7月26日号「にっかつ再建に『撮影所だけなら』の声」
  • 日経ビジネス 1993年11月1日号「敗軍の将、兵を語る 25年間いつも経営危機 多角化に存続かけたが…」
  • 会社年鑑 1976年版(日本経済新聞社, 1975)日活の項
  • 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社, 1986)にっかつの項
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982)9606 にっかつの項
  • 日活 公式サイト「沿革」

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