エルピーダメモリ会社更生法の適用申請と、米マイクロン・テクノロジーへの譲渡
自力再建か法的整理か——2000億円の増資条件を前に、坂本幸雄社長は何を待っていたか
- 概要
- 2012年2月27日、エルピーダメモリが東京地方裁判所に会社更生手続の開始を申し立てて経営破綻した経営判断。負債総額4480億円は国内製造業で過去最大の倒産規模となった。坂本幸雄社長が更生管財人となり、支援企業の入札を経て2013年7月末に米マイクロン・テクノロジーの傘下へ入った。
- 背景
- 2012年1月から4月にかけて社債の償還と借入金の返済で1200億円超の資金が必要だった一方、産業活力再生特別措置法の適用期限も3月末に迫っていた。DRAMのスポット価格は1ドルを割り、2011年4〜9月期には567億円の最終赤字を計上している。
- 内容
- 日本政策投資銀行は借り換えの条件として、提携先を見つけて資本金2000億円を積み増すよう求めていた。米マイクロンとの経営統合は2012年2月3日にスキームがまとまったが、直後に同社のスティーブ・アップルトンCEOが小型機の墜落事故で死亡し、交渉は宙に浮いた。
- 含意
- 更生手続の下で行われた入札には、マイクロン・韓国SKハイニックス・東芝・中国のホニー・キャピタルが名乗りを上げた。設備投資に800億円を追加する条件を出したのはマイクロンだけで、日本で唯一のDRAMメーカーは米国企業の傘下へ移り、エルピーダの名は消えた。
「あと1年」を誰が用意するのか
「破綻させたと言うけれども、あと1年待ったらすごい利益を出す会社になっていた。銀行が待てたか待てなかったかの問題だ」。坂本幸雄前社長はそう総括した。数字だけを見れば主張には根拠がある。マイクロン傘下に入った直後の2013年4〜6月期、単体の売上高は1300億円、純利益は390億円に達した。想定した携帯電話市場の立ち上がりが1年遅れただけで、事業そのものは死んでいなかったとみることができる。
ただ、その1年を用意するのは銀行ではなく経営の仕事でもあった。2011年3月期に設立来最高の5143億円を売り上げながら、手元に残った当期純利益は21億円で、有利子負債は3372億円が残っている。市況が戻った2期のあいだに積めなかったものが、価格が落ちた期の待てる時間を決めた。8年間断り続けたマイクロンとの統合が、最も苦しい時期にCEOの死という偶然を挟んで流れた点も含めて、この判断は選べる幅の狭さのなかで下されたといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
期限と返済が重なった4カ月
2012年1月から4月にかけて、社債の償還と借入金の返済で1200億円超の資金が必要だった。産業活力再生特別措置法の適用期限も3月末に来る。2011年9月末に1000億円あった手元資金は、その後の赤字で目減りしていた。DRAMのスポット価格は1ドルを割って原価割れの出荷が続き、2011年4〜9月期の最終赤字は567億円に達している。返済の山と市況の底が、同じ四半期に重なった[1][2]。
交渉の相手も限られていた。エルピーダは取引行と等間隔で付き合ってきたため、支援策をまとめる主力行を持たない。2011年12月上旬には、公的支援に伴う協調融資に応じた4行が連名で書面を出している。同じ12月中旬、日本政策投資銀行は借り換えの条件として、提携先を見つけて資本金2000億円を積み増すよう求めた。2000億円を自力で集められるなら、そもそも借り換えは要らない[3][4]。
8年越しの統合話と、一度の事故
提携交渉そのものは動いていた。2011年9月ごろから米マイクロン・テクノロジーと経営統合の話を進め、2012年2月3日にはスキームがまとまっている。マイクロンのスティーブ・アップルトンCEOは2004年から統合を持ちかけ、2008年にも再び申し入れた相手であった。断り続けてきた話が、双方の経営が厳しくなったところで初めて成立した[5]。
合意の直後、アップルトンCEOは自ら操縦する小型機の墜落事故で死亡した。統合交渉は宙に浮き、2月末までに2000億円を調達するという条件だけが残る。坂本幸雄社長は毎週のように海外へ飛んで提携相手を探したが、借入は集まっても出資は集まらなかった。2月後半には経済産業省からも増資について言及があり、政投銀との間で話が通じているのだろうと受け止めている[6]。
決断
2月27日午前10時に待っていた電話
最後に残った望みは、広島工場の半分を買うと伝えてきた企業だった。返事の期限は2012年2月27日の午前10時である。10時になっても電話は来ず、坂本社長が10時半に自ら連絡すると、金額で折り合わなかった。同日午後、エルピーダは東京地方裁判所に会社更生手続の開始を申し立てた。数カ月にわたって続いた資金繰りの作業が、この一本の電話で終わった[7]。
負債総額4480億円は、国内の製造業で過去最大の倒産規模となった。同日夜の記者会見で、坂本社長は「最終的なオファーが出てくるのを今日まで待っていたが、具体的な提携案ではなかった」と経緯を語っている。2日後の債権者説明会に集まった取引先の一人は「いつ潰れてもおかしくないと思っていた」と話し、前年末に支払いを1カ月延期する通知を受けて取引を絞っていたと明かした[8][9]。
二度目の公的支援という道が消えていた
法的整理を選んだ理由は、他の道がすべて閉じていたことにある。銀行は借り換えについて、政投銀を通じた従来の支援スキームが実質的に維持されることなど複数の前提条件を示していた。再建案の軸となる提携交渉が進まない以上、その前提は満たされない。赤字を出し続け再建の見通しが立たない会社に、銀行が借り換えへ応じる理由はなかった[10]。
国の側も動けなくなっていた。2009年に民間の協調融資がまとまったのは経済産業省の旗振りがあったからだが、前回の支援に関与した官僚がエルピーダ株のインサイダー取引で逮捕され、省は身動きが取りにくくなる。主力行の首脳も「先導しておきながら民間にツケを回すのか」と不快感を示していた。二度目の公的支援は、制度としても心情としても選択肢から外れていた[11]。
結果
4陣営の入札とマイクロンの条件
更生手続の下で行われた支援企業の入札には、マイクロン、韓国SKハイニックス、東芝、中国のホニー・キャピタルが名乗りを上げた。第1次入札は2012年3月末、第2次は4月末である。工場運営の経験がないホニー・キャピタルは2次入札の途中で降りた。ハイニックスは親会社のSKテレコムが負債を整理したうえで1〜2年内に再上場し現経営陣を残す案を示したものの、締切の30分後に辞退を伝えてきた[12]。
東芝が関心を寄せていたのは、広島工場ではなく台湾のレックスチップだった。「広島にはまったく興味を感じていない」と東芝首脳は語り、NAND型フラッシュメモリへ転用できる台湾の工場を評価している。結局、条件で上回ったのはマイクロンであった。2000億円を用意すると伝えてきた企業は他にもあったが、設備投資に800億円を追加する条件を出したのはマイクロンだけだった[13][14]。
消えた社名と、残された人員
2012年3月、東京証券取引所は株式の上場を廃止した。2004年11月の上場から7年4カ月であった。2013年7月末、エルピーダはマイクロン・テクノロジーの傘下に入り、社名はのちにマイクロンメモリ ジャパンへ変わる。1999年の設立から14年で、日本のDRAMメーカーとしての歴史は終わった[15]。
譲渡にあたって坂本前社長が契約に入れたのは、人員と工場の扱いであった。「エルピーダの優秀な人材はマイクロン本社で使って工場もいじるな」と条件を明記したと後に語っている。会社勤めを始めて44年間、一度も人員削減をしていないという自負が、その条項の背景にあった。社長就任直後に減らしたのは親会社からの出向者であり、技術者と現場の作業者は残していた[16]。
- 週刊東洋経済 2011年11月12日号「赤字転落のエルピーダ 迫る巨額返済の重圧」
- 週刊東洋経済 2012年3月10日号「エルピーダついに倒産 支援先探しは難航必至」
- 週刊東洋経済 2012年4月21日号「広島工場は救われるのか エルピーダ争奪戦」
- 週刊東洋経済 2013年10月19日号「エルピーダ倒産の全貌 今だからすべて語ろう」
- エルピーダメモリ 有価証券報告書(2011年3月期)