日本長期信用銀行スイス銀行との業務・資本提携と投資銀行への転換、住友信託銀行への合併申し入れ
主力業務が細るなか、外資との提携はなぜ本体の財務への疑いを消せなかったのか
- 概要
- 1997年7月、日本長期信用銀行がスイス銀行との間で、株式の相互持ち合いと合弁会社の設立を柱とする業務・資本提携を結ぶと発表した経営判断。市場業務で収益を生む投資銀行への転換に活路を求めたもので、大野木克信頭取が主導した。提携から1年後の1998年6月26日、長銀は住友信託銀行との合併に向けた検討に入ると発表した。
- 背景
- 制度に守られてきた長期信用銀行の主力業務は細り、バブル期の融資が関連ノンバンクを経由した不良債権として残っていた。同じ年に日本債券信用銀行は米国のバンカース・トラストと、北海道拓殖銀行は英国のバークレイズ銀行と提携を発表しており、市場では長銀の出方に関心が集まっていた。
- 内容
- 株式の相互持ち合いと、証券・投資顧問・プライベートバンキングの合弁会社設立を柱とする広範な業務・資本提携。提携をてこに投資銀行業務を強化すれば収益力は上がるという構想で、長銀は行内に投資銀行業務室を置き、海外事業の再編にも着手した。
- 含意
- 提携は市場から評価されたが、2か月後にムーディーズは主力業務の継続的な低下を補うまでには至らないとして格下げに踏み切った。国内の営業網と人員に手が入らないまま、市場の目は本体の財務へ戻った。
引き戻された構想と、残された店舗網
第6次長期経営計画で投資銀行への転換を退けた企画部長が、頭取となって同じ構想に戻った。大野木克信氏にとってスイス銀行との提携は、貸出で稼ぐ銀行を市場で稼ぐ銀行へ作り替える手立てであり、主力業務が細っていた長期信用銀行に残された道としては合理的であったとみることができる。狂ったのは構想ではなく順序であった。提携で信用を補ってから負の遺産を処理するという段取りは、隠している損失があると市場に読まれた時点で成り立たなくなる。
ただ、順序の問題だけに還元しきれないものも残る。提携後に長銀が手を入れたのは投資銀行業務室と海外事業までで、国内の営業網と人員はそのままであった。市場で稼ぐ銀行を名乗りながら貸出の銀行の店舗と人員を抱え続けた以上、提携が補えたのは信用力だけであった。1998年3月に健全な銀行と認定して1800億円を注いだ側も、同じ年の10月には一時国有化へ回っている。長銀だけが市場を読み違えていたわけではなかったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
制度に守られた銀行と、頭取が最初に言語化した体質
大野木頭取が就任直後に作成させた内部文書は、制度の保護のなかで家族主義や仲良し経営と呼ばれる企業風土をつくったことが、自らを律する力を弱めたと記していた。行内では経営の革新を嫌う内向きの体質が仲良しクラブと揶揄されており、これを断てなければ長銀は生き残れないという結論が、頭取の眼前に突き出されていた。制度に守られてきたことの代償を、経営の側が先に言葉にしていた[3]。
いったん退けられていた投資銀行構想
市場業務で収益を生む投資銀行への転換は、このとき初めて打ち出された路線ではなかった。長銀は第5次長期経営計画で投資銀行への転換を掲げながら、これを自ら否定し、中堅企業への融資拡大を掲げる第6次長期経営計画へ切り替えていた。その第6次長計を策定した企画部長が、後に頭取となる大野木氏本人であった。提携は、長銀が一度退けた路線を引き戻すものであった[4]。
融資拡大の先で積み上がったのは、関連ノンバンクを経由した債権であった。日本リース、長銀インターナショナルリース、エヌ・イー・ディー、不動産業の日本ランディックといった関連会社向けの不良債権は、外から中身が見えず、市場では隠れた損失を疑う声が絶えなかった。投資銀行への転換を退けて選んだ道が、転換を迫るだけの財務をつくっていた[5]。
決断
1997年7月、スイス銀行との業務・資本提携
1997年7月、長銀はスイス銀行との間で、株式の相互持ち合いや合弁会社の設立を柱にした広範な業務・資本提携を結ぶと発表した。同じ年、日本債券信用銀行は米国の大手投資銀行であるバンカース・トラストと、北海道拓殖銀行は英国のバークレイズ銀行と相次いで提携を発表しており、市場では長銀の出方に関心が集まっていた。多額の不良債権処理で赤字決算を半ば覚悟していた行内にも、ひとまず安堵の空気が流れた[6]。
大野木頭取は会見で、銀行同士が手をつないでよい合弁会社をつくる新しい方式で可能性を徹底して追求したいと述べ、外資との初の戦略提携に胸を張った。長銀は提携を契機に、証券業務や投資顧問業務など、金融ビッグバンで需要が広がるとみられていた分野を強化する方針であった。過去への反省の末に行き着いたのは、市場業務で収益を生む投資銀行という、日本では新しい業態への再出発であった[7][8]。
提携が補ったもの、補わなかったもの
提携から2か月後、米国の格付け会社であるムーディーズ・インベスターズ・サービスは、長銀とスイス銀行の提携は長銀の主力業務の継続的な低下を補うまでには至らないとして、社債と財務の格付け引き下げに踏み切った。長銀はこの格下げに強い不満を持った。提携をてこに投資銀行業務を強化することで収益力は上がると信じていたためである[9]。
提携後、長銀は行内に投資銀行業務室を設置し、海外事業の再編成にも着手した。しかし、国内の営業網や人員の見直しといった本体のリストラには十分踏み込めなかった。株式の相互持ち合いも、当初の見通しである10%ずつから、年内にまず1%ずつ取得するという内容へ修正された。信用力を補うはずの提携は、貸出の銀行としての店舗と人員をそのまま残したまま、外側だけを組み替えていた[10][11]。
結果
提携が薄れ、市場が長銀を試した
1997年11月、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券が相次いで破綻し、市場の目が長銀に向かった。スイス銀行が提携を解消するといううわさが流れ、長銀の株価は急落した。長銀は記者会見を開いてうわさに根拠はないと訴えたが、スイス銀行の側は、スイス・ユニオン銀行との合併が決まった直後から長銀と距離を置き始めていた。相手の事情によって、提携の意味は静かに変わっていた[12][13]。
決定的だったのは、合弁会社である長銀ウォーバーグ証券の動きであった。1998年6月、同社は多数の長銀株を市場で売却した。顧客からの注文をつないだだけという説明にもかかわらず、市場参加者はこれを提携解消への動きと受け止め、長銀株を売り浴びせた。スイス銀行がプライベートバンキングの合弁では協力を緩めなかったという事実は、市場の判断を変えなかった[14][15]。
住友信託銀行への合併申し入れと、噛み合わない前提
1998年6月26日、長銀は住友信託銀行との合併に向けて検討に入ると発表した。合併後の行名は住友信託銀行とし、経営も住友信託の経営者が握る内容で、事実上の救済合併であることは誰の目にも明らかであった。それでも大野木頭取は会見で、両行の強みを生かした通常の合併であると強調した。同年3月に健全な銀行と認定され、1800億円の公的資金を受けていた前提が、その主張を支えていた[16][17]。
一方、住友信託銀行の高橋温社長は、正常債権しか引き取らないことが合併の前提であると主張し、両行の言い分は噛み合わなかった。1998年3月期末の公表不良債権は1兆3785億円、引当率は53.5%で上位行のなかで最も低く、業務純益1646億円を全額償却に充てても終了までに8年余りかかる計算であった。コメルツ証券の幾代雄四郎氏は、営業拠点の多くが重複する両行の合併に利点は見いだせないと述べた[18][19][20]。
合併の不成立と一時国有化
交渉は不良債権の中身がはっきりしないまま行き詰まり、株式市場が先に答えを出した。長銀の株価は8月に額面50円を割り込み、8月21日には37円まで下落した。住友信託銀行の株価も、救済合併は不良債権を抱えて負担が増えるという見方から、600円から400円へ下げていた。小渕首相が高橋社長と直接会談するなど政治の側が交渉をつないだが、合併は成立しなかった[21][22]。
1998年10月、長銀は特別公的管理を申請し、一時国有化された。その後の金融監督庁の検査で、不良債権は長銀の自己査定より約1兆4000億円多いことが判明する。健全な銀行と認定して公的資金を注いだ審査は、半年余りで前提を失った。のちに破綻の経緯をまとめた総括報告書には、長銀が長年にわたり情報開示を避けて経営実態について市場を欺き続け、最後には市場から暴力的に報復されたと書き添えられた。長銀は翌1999年に外資へ譲り渡され、2000年に新生銀行へ行名を変えた[23][24][25]。
- 日経ビジネス 1998年7月6日号「長銀の蹉跌外資との提携成功に安住、市場読めず明確なビジョンなく46年の歴史に幕」
- 日経ビジネス 2000年4月3日号「泡沫(バブル)第5部崩壊――3 長銀破綻の真相」
- Decide 1998年 16巻6号(通巻176号)「素人が無責任にいじりまわす『長銀処理』の危険」
- Decide 1999年 17巻3号(通巻185号)「検察の壁にも阻まれて未だ一歩を踏み出せない長銀解体」