日本長期信用銀行は、業態を自分で選んでいない。1952年の長期信用銀行法が、預金の受入先を国や地方公共団体と貸付先に限り、その代わりに利付債券と割引債券の発行を認めた。この一行が長銀の設計図だった。241人で始まった組織が開業初日に住友金属や三井鉱山など10社へ9億円を出せたのは、集めた預金があったからではなく、資金運用部が債券を引き受けたからである。当時の政策当局は、長期と短期を機関ごとに分ければ銀行は健全になると考えていた。長銀はその考えを実演するために置かれた銀行であり、電力・鉄鋼・海運・石炭へ貸出の5割を振り向けた配分も、行内の判断であると同時に制度の要請だった。
制度に与えられた業態は、資金の出どころが止まった瞬間に弱点へ変わる。神武景気のさなかに資金運用部の引受けが一時停止されたとき、長銀には預金という逃げ道がなかった。浜口巌根氏が営業畑の杉浦敏介氏を債券部長に据えたのは、貸すことより集めることが銀行の生死を決めると見たからだろう。取扱証券会社を大手4社から中堅へ広げ、行員に一人一枚の割引債を売らせ、1284億円だった発行残高を5年で3700億円にした。同じ時期、政府が引き受けた優先株式は消却を重ね、資本金は一般公募を交えて91億3200万円まで積み上がる。調達と資本の両方を民間へ移すこの作業が、制度の子として生まれた銀行を自立した銀行へ近づけた。
1952年6月、長期信用銀行法が第13回国会で成立した。戦後の長期産業資金をどう確保するかという課題に対し、預金を集める普通銀行とは別に、債券の発行で資金を調達して設備資金を長期に貸す銀行を制度として置く構想だった。同年12月1日、日本長期信用銀行は同法の施行と同時に資本金7億5000万円で設立され、12月5日には政府出資の優先株式を加えた資本金15億円で営業を開始した。本店は東京・九段の旧日本銀行九段分館に置かれ、大蔵省在外財産調査室などが同居していた。設立に参加した役職員は総勢241人だった。男性行員の大部分は日本勧業銀行と北海道拓殖銀行を去った人たちだった。両行が普通銀行へ転換するにあたって分離した長期金融部門が、そのまま新しい銀行の母体になった。初代頭取には大蔵省出身の原邦道氏、副頭取には勧銀副頭取だった浜口巌根氏が就任した。
利付債券と割引債券を出して資金を集め、それを設備資金や長期の運転資金として貸し出すことが、長期信用銀行法の認めた業務だった。預金を受け入れられる相手は国や地方公共団体、貸付先などの取引先に限定された。普通銀行との競合は、法律の側から避ける仕組みになっていた。同法にもとづく銀行としては、同じ1952年12月に興銀が特殊銀行から転じ、1957年4月の日本不動産銀行の設立で3行がそろった。開業初日の設備資金は、住友金属、三井金属、三井鉱山、三菱鉱業、大協石油、日東商船、日本油槽船、太平洋海運、日本セメント、富山共同自家発電の10社に向けた計9億円であった。八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、日本鉱業、東京瓦斯、日本海運の6社には5億5000万円の運転資金を貸した。1953年1月に大阪、2月に札幌へ支店を開設し、全国の地方銀行を貸付事務の代理店とした。
政策当局には、長期と短期の金融を機関ごとに分ければ銀行は健全になるという考えがあった。長期資金の調達と運用を、専門の機関の枠の内側で一致させる発想である。明治期に政府が設けた日本勧業銀行、北海道拓殖銀行、日本興業銀行は戦後に民間銀行へ改まり、このうち興銀が長期信用銀行法の適用を受けた。長期信用銀行が一行だけであれば例外にとどまったが、三行そろったことで制度として固まり、各行が自らの存在理由を主張するようになった。もっとも1950年代の半ばには、普通銀行が短期貸出の更新で実質的な長期貸出を増やし、長信銀の側も短期の資金を集めていた。期間を一致させるという建前は早くから崩れており、残ったのは調達手段を債券に縛る枠だけだった。
当時の政府は重要産業の資金確保とインフレ防止のために強力な融資規制を敷き、全国銀行協会連合会も融資自主規制委員会を設置して、普通銀行は設備資金の新規融資を自粛していた。長信銀には資金運用部が債券を引き受ける形で資金が供給され、これを重点産業へ回す政策がとられた。資金運用部からの調達額は1952年度が46億円、1953年度が180億円、1954年度が140億円にのぼる。金融の常識でいえば、三白景気に沸く砂糖や肥料の関連企業へ貸すほうが効率はよかった。それでも本店営業部次長だった杉浦敏介氏らは、電力・鉄鋼・海運・石炭のいわゆる四重点産業に約5割の資金を配分した。鉄鋼ではストリップミルの導入、電力では大容量火力発電所の着工、海運では外航船の建造と、それぞれの分野で技術革新の投資が始まっていた時期だった。
同じ長期信用銀行でも、興銀は1902年設立の特殊銀行を前身に持ち、産業金融の実績で大きく先行していた。興銀の補完銀行にはならないというのが副頭取の浜口巌根氏や常務の宮崎一雄氏の考えで、長銀は興銀とは別の企業集団へ意識的に接近した。鉄鋼では川崎製鉄の高炉建設を支援し、千葉製鉄所の建設で日本銀行総裁の一万田尚登氏から反対を受けた同社のメインバンクとして融資を続けた。新興勢力だった住友金属工業への融資にも力を入れ、三菱電機、三菱レイヨン、麒麟麦酒、三井鉱山、三井東圧、東芝、三井造船、古河電工、旭電化といった旧財閥系の企業集団に食い込んだ。トヨタ自動車工業と東レの設備資金を引き受けたのもこの時期だった。
1960年5月末の大株主には、優先株を引き受けた大蔵大臣の45万株、北海道拓殖銀行の51万7000株が並び、日本勧業銀行がこれに続いた。その下には八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管が、それぞれ16万5000株を持って横並びに置かれていた。1955年の時点で、民間銀行は長期信用銀行2行、外国為替銀行1行、普通銀行79行という構成だった。同年6月末の全国銀行の預金は3兆2000億円、貸出は2兆9000億円にのぼる。長銀の店舗は1960年3月の時点で東京の本店と札幌・名古屋・大阪・福岡の4支店、従業員は783人にとどまった。四重点産業への配分は、母体行と融資先が出した資本を元手に、この規模の組織が担っていた。
長信銀の資金調達は債券に依存する。神武景気のさなかに資金運用部の新規引受けが一時停止され、長銀は資金難に陥った。浜口巌根氏は営業畑のエリートだった杉浦敏介氏をあえて債券部長に据え、勧銀時代からの人脈を資金集めに使うとともに、融資こそ銀行の本流という行内の意識を変えようとした。杉浦氏はまず割引金融債の販売を広げ、それまで大手4社だった取扱証券会社を大商・玉塚・山叶、日本勧業・角丸、山崎、大井、岡三、日東・江口、大阪屋、第一、光亜・八千代へ拡大した。1957年12月の創業5周年に債券発行残高1500億円を掲げ、1か月1500万円・4か月6000万円の一人一枚消化運動にも取り組んだ。杉浦氏が債券部長に就任したとき1284億円だった発行残高は、5年後の退任時には3700億円に達した。
1955年9月末の債券発行残高は945億円、貸出残高は974億円で、配当は1954年上期から始まった。この時期の債券は都市銀行と地方銀行、それに資金運用部による引受けが中心で、貸出の5割が四重点産業に向かった。1953年12月には民間株の増資で資本金を22億5000万円とし、発足から2年間の産業設備資金供給額は648億円に達した。同じ期間に一般の金融機関が供給した設備資金2464億円の26%を占めた。1956年度から1960年度にかけて業績はさらに伸び、1961年3月末の債券発行残高は3572億円、貸出残高は3525億円となった。債券は相互銀行と信用金庫による消化が加わり、個人貯蓄の増加を背景に割引債の販売が広がって、1955年度で打ち切られた資金運用部引受けの穴を埋めた。
1957年12月、長銀は五回にわたる優先株式の消却で資本金を20億2300万円とした。翌1958年3月には1対1.5の割当増資で42億7300万円、11月には全額一般公募で49億6100万円まで積み上げた。政府が引き受けた優先株式はその後も1958年6月と12月、1960年6月に消却された。1960年6月の1対0.3の増資で資本金は91億3200万円、発行済株式数は1826万4000株になった。人為的な低金利政策のもとで短期預金の目減りが進み、預金者は金利の高い商品を求めていた。個人へ割引債を売る作業と、政府の出資を民間資本へ置き換える作業は、同じ時期に並んで進んだ。
1兆円銀行という呼び名は、成長の勲章であると同時に、それしか手がなかったことの記録でもある。1969年9月期の長銀は、経常収益662億円の86.4%を貸出金利息で稼ぎ、経常費用の82%を債券に関わる費用で失っていた。利ざやは0.45%で、都市銀行の0.86%の半分しかない。1966年10月から長期貸出の基準金利が年8.2%に据え置かれ、長短の金利差が縮んだためである。利幅を広げる手段を制度に封じられた銀行が利益を増やすには、貸す金額そのものを増やすほかにない。1967年3月の1兆円到達も、1970年3月末に1兆5026億円へ達した債券残高も、その算術の帰結だった。
量を追う銀行は、貸す相手を選び続けなければならない。1960年代の後半に基礎産業の設備投資が一巡すると、杉浦敏介氏は西武流通グループやイトーヨーカ堂の多店舗化へ、東海興業や鹿島建設の不動産担保金融へと貸出先を移した。1971年に掲げた三つのVのうち、危険をすべて避けようとせず主体性のあるベンチャーであれという一条は、この移動を正当化する言葉でもある。1972年にフィンランド不動産銀行の私募債で幹事に立ち、証券会社との境界へ踏み込んだのも同じ動きの延長にある。貸す先を探し続ける銀行という性格は、このとき長銀の体質になった。
1961年6月、政府が保有していた優先株式の利益消却が完了し、長銀は民間資本だけの銀行になった。同年7月には千代田区大手町に新本店が竣工した。日本の産業はこの時期に技術革新の展開期を迎え、鉄鋼、電気機械、石油化学、自動車といった重化学工業の資金需要が旺盛だった。長銀の貸出もこれらに向かい、設備資金貸出純増額の42%を占めた。1961年度から1962年度にかけては資本市場の混乱で割引債の消化が停滞したものの、1963年度以降は再び拡大に転じ、1967年3月には債券発行残高が1兆円を超えて、日本で10番目の1兆円銀行となった。1968年3月末の債券発行残高は1兆1728億円、貸付残高は1兆1069億円だった。貸出の83%にあたる9195億円が設備資金で、これは全国銀行の設備資金貸出額の20%にあたる。この間の1966年8月、浜口巌根氏が会長に、宮崎一雄氏が頭取に就任した。
支店網は設立時の大阪・札幌に加え、名古屋、福岡、仙台、金沢、高松、広島へ順に広がり、1966年の広島支店開設で国内8支店になった。1964年にはニューヨークに駐在員事務所を置いた。もっとも、この店舗数は普通銀行とは比較にならない。1969年9月末時点の従業員数は1953人で、興銀の3653人より少なく、平均年齢28.4歳、平均勤続年数6.3年と若い組織だった。少数の店舗と行員で全国の産業に資金を配るために、長銀は都市銀行、地方銀行、信託銀行、相互銀行、信用金庫の527行と代理店契約を締結し、その窓口を通じて地方産業へ貸し付けた。1969年9月期の代理貸付は1万4532件で全体の74.3%を占めた。
1962年10月に10億円の公募増資で資本金を100億円とし、1963年9月に120億円、1965年8月に150億円と積み増した。1967年7月には3株に1株の割当で50億円を加え、資本金は200億円に達した。債券の発行残高が1兆円を超えたのは同じ1967年の3月だった。1970年2月には1株に0.1株の半額公募で40億円を加え、240億円となった。同年3月末の債券勘定は1兆5026億円で、資本合計512億円のおよそ29倍にあたる。債券で集めた資金を貸す仕組みは、資本の厚みがそのまま発行の上限を決める構造でもあった。
1970年4月1日、長銀は東京証券取引所第二部に株式を上場した。銘柄コードは8303、上場時の資本金は240億円、上場株式数は4800万株で、公開価格は820円だった。1969年9月末の大株主には北海道拓殖銀行が3.38%、日本勧業銀行が2.34%と、母体となった2行が並んだ。以下は三菱重工業、川崎製鉄、大阪瓦斯、古河電気工業、第一銀行、日本鋼管、富士製鉄、八幡製鉄が1%台で続いた。上位10社を合わせても14.70%にとどまり、株主構成は融資先の事業会社に広く分散していた。大口貸出先も東京電力を筆頭に川崎製鉄、石川島播磨重工業、日本鋼管、東京芝浦電気、八幡製鉄、三菱重工業、富士製鉄、住友金属工業、日新製鋼と重工業が並び、上位10社で貸出金残高1兆3515億円の約13%を占めた。
収益構造は制度に強く規定されていた。1969年9月期の経常収益662億円のうち86.4%が貸出金利息で、経常費用618億円の57.6%が債券利息、債券発行差金と発行費用の償却を加えると債券関係費用が82%を占めた。長信銀3行の貸出・証券利回りは8.18%、資金調達コストは7.73%で、利ざやは0.45%だった。同じ期の都市銀行は利回り7.21%、コスト6.36%で利ざやは0.86%あり、倍の開きがある。低金利政策のもとで長期貸出の基準金利が1966年10月から年8.2%に据え置かれ、長短金利の差が縮んだことがこの薄さの背景にある。経常収支率は長銀93.4%、興銀94.4%と、都市銀行の86.6%に比べて悪い。
1970年3月末の株主は1万8366名で、その他の法人808名が58.98%、金融機関246名が30.84%を持っていた。一般の株主は1万7281名を数えながら持株比率は8.30%にとどまり、外国人の保有はなかった。10万株以上を持つ株主は112名で、発行済み4800万株の63.62%を保有していた。公開価格820円に対し、上場した1970年4月の株価は1150円から1245円の間で動いた。幹事証券会社は野村を筆頭に大和、山一、日興、日本勧業角丸など8社が並び、上場市場は東京と大阪だった。株式に値段が付いたあとも、資金の調達を債券に頼る構造は動かなかった。
1960年代の後半、日本経済は開放体制を完成させ、基礎産業に代わって自動車や電気機器の機械産業が伸び、その下では建設、流通、運輸、サービスの第三次産業が興っていた。長銀も融資基盤の入れ替えを迫られる。業務部長として資金調達と運用の両方を見た杉浦敏介氏は、西武流通グループ、高島屋、そごう、丸井、長崎屋、イトーヨーカ堂、ジャスコ、ニチイの多店舗化を支援し、この分野では興銀を上回った。東海興業、佐藤工業、フジタ工業、鹿島建設、東急建設を中心に不動産担保金融も広げた。当時の行内では、1950年代の金融緩和は技術革新投資による一時的なもので、1960年代後半には長銀の存立基盤が崩れるのではないかという議論があった。
1971年5月、杉浦敏介氏が頭取に就任した。就任にあたって掲げたのが三つのVで、従来の路線に固執せず変化に対応する先見性を持つこと、行員がバイタリティを発揮すること、危険をすべて避けようとせず主体性のあるベンチャーであることの3点を指す。まもなく日本経済はニクソン・ショックと円切り上げ、1973年の石油危機に見舞われた。長銀が得意とした社会開発金融は杉浦氏の頭取就任時点で総貸出残高の4.6%を占めていたが、円切り上げと石油危機で地価が急騰したため、住宅と土地関連の融資を抑え、関連会社の再編に着手した。第一住宅金融の設立や日本ランドシステムへの人材派遣がその一例である。頭取として最も力を入れたのは国際業務で、外国部を国際業務部、国際金融部、外国営業部の3部制に改め、ロンドンとニューヨークの事務所を支店に昇格させた。1978年、杉浦氏は頭取を吉村勘兵衛氏に譲り、会長に就任した。
私募債を斡旋し取りまとめる仕事は、証券取引法の上で引受業務とはされず、証券会社にしか許されない仕事でもなかった。長銀は1970年の時点で、証券市場と多方面で関わり、国際金融業務にも積極的に近づこうとしていると評された。1972年4月からは、外国企業のドル建て私募債を国内で売る動きが活発になった。1972年8月、長銀はフィンランド不動産銀行の私募債で幹事として販売を引き受けた。翌9月には興銀もテキサコ社の私募債で同じ役割に就いた。証券界はこれを銀行の参入と捉え、対立はのちに垣根論争と呼ばれるまでに広がった。貸出先を広げる動きは、業務の領域そのものを外へ押し出していた。
1980年代に入ると、長銀から資金を借りる企業の側が変わった。鉄鋼をはじめとする基幹産業は社債市場から低利で資金を調達できるようになり、長信銀からの借入依存度を下げた。長期の産業資金を安定して供給するという設立の趣旨は、その供給先が自力で市場から調達するようになった時点で成り立たなくなる。1987年、ムーディーズは邦銀の長期債格付けを相次いで引き下げ、最上級のAaaだった長銀を2段階下のAa2とした。ムーディーズが挙げた理由は3つある。日本の金融システムにおける長信銀の将来の役割が不透明であること。債券市場の自由化と資金調達の証券化で、国内金融に占める長銀の重要性が下がること。国内の支店網が都市銀行に比べて限られ、小口や中堅企業の市場に入りにくいこと。
格付けの引き下げと同時に、自己資本の薄さも外から指摘された。1987年3月期の自己資本比率は本則基準で長銀2.80%、興銀2.90%、日債銀2.70%で、大蔵省が示した4%程度以上という目標に届かない。欧米の一流銀行は6%程度を持っており、この差は国際業務を続けるうえで不利に働いた。長信銀3行はこの年、時価発行増資と海外転換社債で資本を積み増し、長銀と日債銀はそれぞれ700億円から900億円を集めた。もっとも、転換社債の転換がすべて済んだとしても自己資本比率の改善は0.2%から0.3%程度にとどまる計算だった。株式の含み益を自己資本に算入することがBISのクック委員会で認められ、邦銀は翌年度から実施した。この年の邦銀全体の時価発行増資は1兆5000億円に達し、長信銀では興銀が中間発行だけで2177億円を集めた。
制度に守られた貸出が減るなかで、長銀は手数料と新規取引先を同時に得る手立てとしてM&Aの仲介に力を入れた。1985年にこの分野へ参入し、1989年の日本企業による海外企業買収の仲介ランキングでは買収総額で日本勢の首位に立った。長銀はこの分野に入って5年のうちに、60件、合計60億ドルの案件を手がけた。助言役を務めた案件には、1988年9月に西武セゾングループがインターコンチネンタル・ホテルズを買収した件や、1990年に日本航空・ルフトハンザ航空・日商岩井がDHLに資本参加した件がある。長銀の設立は1952年で銀行としては新しく、取引先は大企業が中心で7000社から8000社にとどまっていた。そのためM&Aは、新しい取引先を開拓する手段と位置づけられた。長銀が重視したのは仲介料の収入よりも、買収資金を融資する機会と、企業の内部事情を知る機会だった。
1989年6月、堀江鐵彌氏が頭取に就任した。1953年に東京大学経済学部を出て長銀に入った第一期生で、審査部を振り出しに主に国際畑を歩み、1973年に国際業務部長、1986年3月に副頭取を務めた。国際業務部長のときには石油危機でユーロ市場が混乱し、長期の貸出をユーロダラーの短期資金で賄っていた長銀は資金調達と為替の両面で損失を抱えかけた。堀江氏のもとで長銀は第6次の長期経営計画を始め、資金為替業務やマーチャントバンキングの充実に続いて、資産業務の収益性を高める方針を掲げた。長銀は、単なる商業銀行でも投資銀行でもないクオリティー・バンクを目指すと掲げた。
産業向けの貸出が減るなかで、長銀が新しい貸出先としたのはノンバンクと不動産だった。ノンバンクの多くは銀行や商社の系列企業で、以前から取引があり、信用度の高い借り手と見なされていた。1985年10月に東京支店内へ新規取引専門部を置き、翌1986年1月にイ・アイ・イ・インターナショナルとの取引を始めた。同社を率いた高橋治則氏を、長銀の役員は次の世代を担う企業を育てるという方針に合う経営者と見ていた。1988年4月には役員を派遣した。1989年11月には新規プロジェクトの抑制を申し入れ、1990年11月には同社の資金繰りが悪化した。1994年3月末、長信銀3行はいずれも不動産業と金融保険業向けの融資比率を高めており、長銀の金融保険業向けは23.6%に達した。
1993年の時点で、長信銀の存在理由は業界の内側から否定されていた。基幹産業である鉄鋼メーカーの財務担当役員の目にも、長期信用銀行の存在理由はとうになくなっていた。金融制度改革によって中長期の定期預金が解禁され、期間4年物が1993年10月、5年物が1994年中に導入されることで、長短金融の垣根は事実上消えた。大蔵省は金融債を長信銀の既得権として扱い、証券業務と信託業務への参入を都市銀行より1年早く認めたが、それは制度そのものの寿命を延ばすものではなかった。同じ時期に長銀は証券子会社を設立した。大企業の長信銀離れ、金融自由化、バブルの後遺症という3つが重なり、店舗数は大手都銀の20分の1以下、行員数は4分の1以下という規模で都市銀行と競った。
1993年7月、長銀はイ・アイ・イ・インターナショナルへの支援を打ち切った。1991年4月から2次にわたるリストラ計画を進めたうえでの判断だった。ところが撤退の後も同社との関係は残り、1995年3月には東京協和信用組合と安全信用組合の問題に関連して、堀江鐵彌頭取が国会に参考人として招致された。支援打ち切りの経緯をめぐる答弁が事実と食い違い、証人喚問へ発展した。同月31日、長銀は堀江氏の辞任と副頭取だった大野木克信氏の頭取昇格を発表した。長銀の行内には、何かあれば日本興業銀行の後ろについていけばよいという意識があり、自ら危機を回避する経験を積んでこなかった。
大野木克信氏が頭取に就任した直後の1995年4月、スタンダード・アンド・プアーズは長銀の格付けを引き下げる方針を伝えてきた。1993年からシングルAマイナスまで下がっていた格付けは、通告どおりトリプルBプラスに落ちた。国際金融の世界でトリプルBは一流の銀行ではないという評価にあたり、ドルの短期調達で長期運用を賄う邦銀にとって、格付けの低下はそのまま流動性の問題に直結した。長銀が示した回答は、1998年度に業務純益1200億円以上を確保するという計画だった。1995年3月期の809億円の1.5倍にあたる。高利回りの利付金融債約5兆円が低い利回りへ乗り換われば2000億円以上の収益改善が見込め、これに中堅企業の新規開拓を年500社から600社上積みし、デリバティブ取引で収益の4分の1を稼ぐ構想を立てた。
1997年7月、長銀はスイス銀行と株式の相互持ち合いや合弁会社の設立を柱とする業務・資本提携を結んだ。同年3月に日本債券信用銀行がバンカース・トラストと、4月に北海道拓殖銀行がバークレイズ銀行と提携を発表しており、市場は長銀の出方を注視していた。市場業務で収益を上げる投資銀行への転換は、産業金融が細った長信銀にとって残された道であり、提携そのものは市場から評価された。長銀が投資銀行への転換を初めて掲げたのは第5次長期経営計画だった。これを否定し、中堅企業への融資拡大を掲げる第6次長期経営計画を策定したのが、当時の企画部長だった大野木氏である。提携はいったん退けた路線を引き戻すもので、その間に処理すべき不良債権が積み上がった。
1997年8月、提携がまとまってから2か月もたたないうちに、ムーディーズは長銀の社債格付けと財務格付けをともに下げ、提携によっても本業の地盤沈下は埋め合わせられないとの判断を示した。株式の持ち合い比率も、当初取り決めた互いに10%から、年内は互いに1%で始める形に改められていた。11月に入って三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券が相次いで破綻し市場の目が長銀へ集まると、スイス銀行が提携を解消するという噂まで出回り、株価は急激に下落した。1998年6月には合弁会社の長銀ウォーバーグ証券が長銀株を市場で売却し、提携解消の動きと受け止められて株価は額面の50円に迫った。長銀は風説の流布として証券取引等監視委員会に調査を依頼し、信用不安を報じた雑誌を提訴したが、市場の評価は戻らなかった。
1998年6月26日、長銀は住友信託銀行との合併に向けた検討に入ると発表した。合併時期は翌年4月をめどとし、行名も経営も住友信託が引き継ぐ内容で、実質は救済合併だった。1998年3月期の公表不良債権は1兆3785億円、引当率は53.5%で上位行のなかでは低い。当時の業務純益1646億円を全額償却に充てても、処理の完了までに8年余りかかる計算だった。市場が疑ったのは公表値そのものより、日本リース、長銀インターナショナルリース、エヌ・イー・ディー、日本ランディックといった関連会社に不良債権が隠れていないかという点にある。長銀は必要な支援を終えたとの立場をとったが、関連ノンバンク3社を法的に整理して損失額を確定させた日債銀と比べ、支援終了という言葉は市場に届かなかった。
長銀は1998年3月に健全な銀行と認められて1800億円の公的資金を受けていたため、合併を救済と位置づければ、資金を注入した根拠を自ら覆すことになる。大野木克信頭取が思い描いていたのは、互いの得意分野を合わせる対等な形の統合だったが、住友信託の高橋温社長は正常債権のほかは引き受けないとの立場を崩さず、協議は最後まで折り合わなかった。8月に入って額面50円を下回った株価は、8月21日に37円まで下げ、合併を通じた再建の道は閉ざされた。長銀の扱いは与野党の争点となり、数か月の攻防を経て特別公的管理による一時国有化が決まった。1998年10月、長銀は一時国有化を申請した。債務超過の穴埋めと譲渡までの引当金の積み増しで、1行の破綻処理に投じられた公的資金は4兆円を超えた。国有化後の金融監督庁の検査では、不良債権が長銀の自己査定より約1兆4000億円多いことが判明した。
一時国有化された長銀の頭取には、日本銀行出身の安斎隆氏が就任した。譲渡先の選定は難航した。名乗りを上げたのはリップルウッド・ホールディングス、中央信託銀行と三井信託銀行、モルガンとオリックスの連合、パリバ銀行の4グループで、うち3つが外資系だったこともあり、金融界には国内勢を推す動きが目立った。譲り受け後に融資先が倒産して生じる二次損失の負担が争点となり、欧米で一般的な損失分担方式の導入を再生委員会は認めなかった。最終的には譲渡前に貸倒引当金を積み増す形で決着し、1999年、リップルウッド陣営への譲渡が決まった。前シティバンク在日代表の八城政基氏が最高経営責任者に就任する体制で、2年後の再上場を目指すとされた。2000年6月、長銀は行名を新生銀行に改めた。
破綻の原因を経営陣の資質だけに帰すことはできない。長銀が置かれた構造は、設立の時点から収益性の低さを内包していた。制度が保証したのは債券発行という調達手段であって、貸出先ではない。基幹産業が自ら市場から調達を始めた1980年代以降、長信銀は普通銀行の20分の1の店舗で新しい借り手を探すほかなく、その先にノンバンクと不動産があった。同じ構造に置かれた日債銀も破綻し、興銀も単独では残らなかった。長銀は最後まで経営の実態を市場へ開示しなかった。1999年、旧経営陣の刑事訴追を目指す東京地検特捜部の事情聴取を受けた元副頭取の上原隆氏が自殺した。
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|---|---|---|---|---|
| 1952〜1960年長期信用銀行法による発足と四重点産業への傾斜 | 原邦道 | 長期信用銀行法の成立 | ★★ | |
| 原邦道 | 長期信用銀行法にもとづき資本金7億5000万円で設立 | ★★★ | ||
| 原邦道 | 政府出資の優先株式を加えた資本金15億円で営業開始 | ★★ | ||
| 原邦道 | 電力・鉄鋼・海運・石炭へ貸出の5割を振り向ける配分と、後発企業への肩入れ 1952年12月に営業を開始した日本長期信用銀行が、創業期の貸出のおよそ5割を電力・鉄鋼・海運・石炭の四重点産業へ配分し、あわせて川崎製鉄や住友金属工業など後発・新興の企業へ融資して、興銀とは異なる取引先を開拓した判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 原邦道 | 大阪支店を開設 | ★ | ||
| 原邦道 | 札幌支店を開設 | ★ | ||
| 原邦道 | 外国為替公認銀行の認可を取得 | ★ | ||
| 原邦道 | 民間株の増資で資本金22億5000万円へ | ★ | ||
| 原邦道 | 5分の初配当 | ★ | ||
| 原邦道 | 債券一人一枚消化運動と割引債の販路拡大 | ★★ | ||
| 原邦道 | 本店を千代田区丸ノ内の東京ビルへ移転 | ★ | ||
| 1961〜1978年1兆円銀行への成長と東証二部への株式上場 | 原邦道 | 政府保有の優先株式を利益消却で全額消却 | ★★ | |
| 原邦道 | 千代田区大手町に新本店が竣工 | ★ | ||
| 原邦道 | ニューヨーク駐在員事務所を開設 | ★ | ||
| 原邦道 | 債券発行残高が1兆円を突破し10番目の一兆円銀行へ | ★★ | ||
| 宮崎一雄 | 東京証券取引所第二部に株式を上場 | ★ | ||
| 杉浦敏介 | 杉浦敏介氏が頭取に就任し「三つのV」を掲げる | ★★ | ||
| 杉浦敏介 | ロンドン支店を開設 | ★ | ||
| 吉村勘兵衛 | 吉村勘兵衛氏が頭取に就任 | ★ | ||
| 1979〜1992年存在理由が問われた1980年代と融資先の変質 | 吉村勘兵衛 | 東京支店内に新規取引専門部を設置 | ★★ | |
| 吉村勘兵衛 | 取引開始から深入りし、1993年に至って関係を断つまでの経緯 1986年1月、日本長期信用銀行が高橋治則氏の率いるイ・アイ・イ・インターナショナルとの取引を開始し、1988年4月に役員を派遣し、1993年7月に支援を打ち切るまで7年半にわたって関係を続けた経営判断。前年の1985年10月に東京支店内へ置いた新規取引専門部が、その入り口にあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 吉村勘兵衛 | ムーディーズが長期債格付けを2段階引き下げ | ★★ | ||
| 吉村勘兵衛 | イ・アイ・イ・インターナショナルへ役員を派遣 | ★ | ||
| 堀江鐵彌 | 堀江鐵彌氏が頭取に就任 | ★★ | ||
| 堀江鐵彌 | イ・アイ・イ・インターナショナルの資金繰りが悪化 | ★★ | ||
| 1993〜2000年不良債権処理の遅れと特別公的管理による幕引き | 堀江鐵彌 | イ・アイ・イ・インターナショナルへの支援を打ち切り | ★★ | |
| 大野木克信 | 堀江鐵彌氏が辞任し大野木克信氏が頭取に就任 | ★★ | ||
| 大野木克信 | 業務・資本の両面で組む投資銀行への転換と、住友信託銀行への合併申し入れ 1997年7月、日本長期信用銀行がスイス銀行との間で、株式の相互持ち合いと合弁会社の設立を柱とする業務・資本提携を締結すると発表した経営判断。市場業務で収益を生む投資銀行への転換に活路を求めたもので、大野木克信頭取が主導した。提携から1年後の1998年6月26日、長銀は住友信託銀行との合併に向けた検討に入ると発表した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 安斎隆 | 健全な銀行と認定され1800億円の公的資金が注入 | ★★ | ||
| 安斎隆 | 住友信託銀行へ合併を申し入れ | ★★ | ||
| 安斎隆 | 特別公的管理により一時国有化 | ★★★ | ||
| リップルウッド陣営への譲渡が決定 | ★★ | |||
| 新生銀行へ行名を変更 | ★★★ |
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事実根拠:出所(日本長期信用銀行)