1952年〜 長期信用銀行法による発足と四重点産業への傾斜
- 1952年 長期信用銀行法の成立
- 1952年 長期信用銀行法にもとづき資本金7億5000万円で設立
- 1952年 政府出資の優先株式を加えた資本金15億円で営業開始
- 1953年 電力・鉄鋼・海運・石炭への貸出5割の配分と、川崎製鉄・トヨタ自動車工業など後発企業への融資 三白景気に沸く砂糖・肥料へ貸すか、投資負担に苦しむ四重点産業へ貸すか——興銀の補完銀行にはならないという創業期の方針
- 1953年 大阪支店を開設
- 1953年 札幌支店を開設
- 1957年 債券一人一枚消化運動と割引債の販路拡大
勧銀と拓銀の長期金融部門を母体とする設立
1952年6月、長期信用銀行法が第13回国会で成立[1]した。戦後の長期産業資金をどう確保するかという課題に対し、預金を集める普通銀行とは別に[2]、債券の発行で資金を調達して設備資金を長期に貸す銀行を制度として置く構想だった。同年12月1日、日本長期信用銀行は同法の施行と同時に資本金7億5000万円で設立され[3]、12月5日には政府出資の優先株式を加えた資本金15億円で営業を開始[4]した。本店は東京・九段の旧日本銀行九段分館に置かれ、大蔵省在外財産調査室[5]などが同居していた。設立に参加した役職員は総勢241人[6]だった。男性行員の大部分は日本勧業銀行と北海道拓殖銀行を去った人たちだった。両行が普通銀行へ転換するにあたって分離した長期金融部門が、そのまま新しい銀行の母体になった。初代頭取には大蔵省出身の原邦道氏、副頭取には勧銀副頭取だった浜口巌根氏[8]が就いた。 [7]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本長期信用銀行」の項
- [1]1952年6月に長期信用銀行法が第13回国会で成立した
- [2]長期信用銀行法は戦後の長期産業資金の確保と金融機構の機能的分化の必要から第13回国会で成立し、債券発行で得た資金を設備資金・長期運転資金として貸す銀行を制度化した
- [8]初代頭取は原邦道氏、副頭取は勧銀副頭取だった浜口巌根氏
- 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)「新規上場会社紹介 株式会社日本長期信用銀行」
- [3]1952年12月1日に資本金7億5000万円で設立された
- [4]12月5日に政府出資の優先株式を加えた資本金15億円で営業を開始した
- 金融財政事情 35(2)(1638)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆「戦後金融史を動かした人々(VIII)」
- [5]本店は東京・九段の旧日本銀行九段分館に置かれ、大蔵省在外財産調査室が同居していた
- [6]設立に参加した役職員は総勢241人だった
- [7]男性行員の大部分は日本勧業銀行と北海道拓殖銀行の出身者で、両行の長期金融部門が母体となった
長期信用銀行法にもとづく銀行は、興銀が同じ1952年12月に特殊銀行から移行し、1957年4月に日本不動産銀行が設立されて3行になった[9]。同法が認めた業務は、利付債券と割引債券の発行で資金を調達し、それを設備資金または長期運転資金として貸す[10]ことにあった。預金の受入先は国や地方公共団体、貸付先などの取引先に限られ[11]、普通銀行との競合を法律の側から避ける構造になっていた。開業初日に用意した設備資金は住友金属、三井金属、三井鉱山、三菱鉱業、大協石油、日東商船、日本油槽船、太平洋海運、日本セメント、富山共同自家発電の10社に計9億円だった[12]。八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、日本鉱業、東京瓦斯、日本海運の6社には5億5000万円の運転資金を貸した[13]。1953年1月に大阪、2月に札幌へ支店を置き[14]、全国の地方銀行を貸付事務の代理店とした。
- 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)「新規上場会社紹介 株式会社日本長期信用銀行」
- [9]長期信用銀行は興銀・長銀・日本不動産銀行の3行で、日本不動産銀行の設立は1957年4月
- [10]利付債券と割引債券の発行で調達した資金を設備資金・長期運転資金として貸す業務
- [11]預金の受入先が国・地方公共団体・貸付先などに法律で限られていた
- 金融財政事情 35(3)(1639)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆「戦後金融史を動かした人々(VIII)」
- [12]開業初日の設備資金は10社に計9億円
- [13]八幡製鉄など6社へ5億5000万円の運転資金を融資した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本長期信用銀行」の項
- [14]1953年1月に大阪支店、2月に札幌支店を開設し、地方銀行を貸付事務の代理店とした
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本長期信用銀行」の項
- [1]1952年6月に長期信用銀行法が第13回国会で成立した
- [2]長期信用銀行法は戦後の長期産業資金の確保と金融機構の機能的分化の必要から第13回国会で成立し、債券発行で得た資金を設備資金・長期運転資金として貸す銀行を制度化した
- [8]初代頭取は原邦道氏、副頭取は勧銀副頭取だった浜口巌根氏
- [14]1953年1月に大阪支店、2月に札幌支店を開設し、地方銀行を貸付事務の代理店とした
- 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)「新規上場会社紹介 株式会社日本長期信用銀行」
- [3]1952年12月1日に資本金7億5000万円で設立された
- [4]12月5日に政府出資の優先株式を加えた資本金15億円で営業を開始した
- [9]長期信用銀行は興銀・長銀・日本不動産銀行の3行で、日本不動産銀行の設立は1957年4月
- [10]利付債券と割引債券の発行で調達した資金を設備資金・長期運転資金として貸す業務
- [11]預金の受入先が国・地方公共団体・貸付先などに法律で限られていた
- 金融財政事情 35(2)(1638)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆「戦後金融史を動かした人々(VIII)」
- [5]本店は東京・九段の旧日本銀行九段分館に置かれ、大蔵省在外財産調査室が同居していた
- [6]設立に参加した役職員は総勢241人だった
- [7]男性行員の大部分は日本勧業銀行と北海道拓殖銀行の出身者で、両行の長期金融部門が母体となった
- 金融財政事情 35(3)(1639)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆「戦後金融史を動かした人々(VIII)」
- [12]開業初日の設備資金は10社に計9億円
- [13]八幡製鉄など6社へ5億5000万円の運転資金を融資した
四重点産業への5割配分と後発企業への接近
当時の政府は重要産業の資金確保とインフレ防止のために強力な融資規制を敷き、全国銀行協会連合会も融資自主規制委員会を設けて、普通銀行は設備資金の新規融資を自粛[15]していた。長信銀には資金運用部が債券を引き受ける形で資金が供給され[16]、これを重点産業へ回す政策がとられた。資金運用部からの調達額は1952年度が46億円、1953年度が180億円、1954年度が140億円[17]にのぼる。金融の常識でいえば、三白景気に沸く砂糖や肥料の関連企業へ貸すほうが効率はよかった[18]。それでも本店営業部次長だった杉浦敏介氏らは、電力・鉄鋼・海運・石炭のいわゆる四重点産業に約5割の資金を配分[19]した。鉄鋼ではストリップミルの導入、電力では大容量火力発電所の着工、海運では外航船の建造[20]と、それぞれの分野で技術革新の投資が始まっていた時期だった。
- 金融財政事情 35(3)(1639)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆「戦後金融史を動かした人々(VIII)」
- [15]融資規制と全銀協の融資自主規制委員会により普通銀行は設備資金の新規融資を自粛していた
- [16]政府は長信銀に資金運用部の債券引受けで資金を供給し、これを重点産業へ融資させる政策をとった
- [17]資金運用部からの調達額は1952年度46億円、1953年度180億円、1954年度140億円
- [18]三白景気の関連企業へ貸すほうが効率はよいという当時の常識
- [19]電力・鉄鋼・海運・石炭の四重点産業へ約5割の資金を配分した
- [20]鉄鋼のストリップミル導入、電力の大容量火力発電所着工、海運の外航船建造が同時期に進んだ
同じ長期信用銀行でも、興銀は1902年設立の特殊銀行を前身に持ち、産業金融の実績で大きく先行[21]していた。興銀の補完銀行にはならないというのが副頭取の浜口巌根氏や常務の宮崎一雄氏の考え[22]で、長銀は興銀とは別の企業集団へ意識的に接近した。鉄鋼では川崎製鉄の高炉建設を支援し、千葉製鉄所の建設で日本銀行総裁の一万田尚登氏から反対を受けた同社のメインバンクとして融資を続けた[23]。新興勢力だった住友金属工業への融資にも力を入れ、三菱電機、三菱レイヨン、麒麟麦酒、三井鉱山、三井東圧、東芝、三井造船、古河電工、旭電化といった旧財閥系の企業集団[24]に食い込んだ。トヨタ自動車工業と東レの設備資金を引き受けた[25]のもこの時期だった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本興業銀行」の項
- [21]興銀は1902年設立の特殊銀行を前身とし産業金融で先行していた
- 金融財政事情 35(3)(1639)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆「戦後金融史を動かした人々(VIII)」
- [22]興銀の補完銀行にはならないという浜口巌根氏・宮崎一雄氏の方針
- [23]川崎製鉄の千葉製鉄所建設は一万田尚登日銀総裁の反対を受けたが長銀はメインバンクとして融資した
- [24]三菱電機・三井鉱山・東芝・古河電工など旧財閥系の企業集団へ融資を広げた
- [25]トヨタ自動車工業と東レの設備資金を引き受けた
- 金融財政事情 35(3)(1639)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆「戦後金融史を動かした人々(VIII)」
- [15]融資規制と全銀協の融資自主規制委員会により普通銀行は設備資金の新規融資を自粛していた
- [16]政府は長信銀に資金運用部の債券引受けで資金を供給し、これを重点産業へ融資させる政策をとった
- [17]資金運用部からの調達額は1952年度46億円、1953年度180億円、1954年度140億円
- [18]三白景気の関連企業へ貸すほうが効率はよいという当時の常識
- [19]電力・鉄鋼・海運・石炭の四重点産業へ約5割の資金を配分した
- [20]鉄鋼のストリップミル導入、電力の大容量火力発電所着工、海運の外航船建造が同時期に進んだ
- [22]興銀の補完銀行にはならないという浜口巌根氏・宮崎一雄氏の方針
- [23]川崎製鉄の千葉製鉄所建設は一万田尚登日銀総裁の反対を受けたが長銀はメインバンクとして融資した
- [24]三菱電機・三井鉱山・東芝・古河電工など旧財閥系の企業集団へ融資を広げた
- [25]トヨタ自動車工業と東レの設備資金を引き受けた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本興業銀行」の項
- [21]興銀は1902年設立の特殊銀行を前身とし産業金融で先行していた
割引債の販路拡大と債券の自主消化体制
長信銀の資金調達は債券に依存する。神武景気のさなかに資金運用部の新規引受けが一時停止され、長銀は資金難に陥った[27]。浜口巌根氏は営業畑のエリートだった杉浦敏介氏をあえて債券部長に据え[28]、勧銀時代からの人脈を資金集めに使うとともに、融資こそ銀行の本流という行内の意識を変えようとした。杉浦氏はまず割引金融債の販売を広げ、それまで大手4社だった取扱証券会社[29]を大商・玉塚・山叶、日本勧業・角丸、山崎、大井、岡三、日東・江口、大阪屋、第一、光亜・八千代へ拡大した。1957年12月の創業5周年に債券発行残高1500億円を掲げ、1か月1500万円・4か月6000万円の一人一枚消化運動[30]にも取り組んだ。杉浦氏が債券部長に就いたとき1284億円だった発行残高は、5年後の退任時には3700億円に達した[31]。 [26]
- 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)「新規上場会社紹介 株式会社日本長期信用銀行」
- [26]受信業務に占める債券の比重は90数%と高く、預金の受入先は普通銀行との競合を避けるため法律で限られていた
- 金融財政事情 35(4)(1640)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆「戦後金融史を動かした人々(VIII)」
- [27]資金運用部の新規債券引受けが一時停止され資金難に陥ったことが債券部長人事の契機となった
- [28]浜口巌根氏が杉浦敏介氏を債券部長に起用し行員の意識改革も狙った
- [29]割引金融債の取扱証券会社を大手4社から中堅証券へ広げた
- [30]1957年12月の創業5周年に債券発行残高1500億円を目標とし一人一枚消化運動を展開した
- [31]債券発行残高は1284億円から5年後に3700億円へ増えた
1955年9月末の債券発行残高は945億円、貸出残高は974億円で、配当は1954年上期から[32]始まった。この時期の債券は都市銀行と地方銀行、それに資金運用部による引受けが中心で、貸出の5割が四重点産業に向かった[33]。1953年12月には民間株の増資で資本金を22億5000万円とし[34]、発足から2年間の産業設備資金供給額は648億円に達した。同じ期間に一般の金融機関が供給した設備資金2464億円の26%を占めた。1956年度から1960年度にかけて業績はさらに伸び、1961年3月末の債券発行残高は3572億円、貸出残高は3525億円[36]となった。債券は相互銀行と信用金庫による消化が加わり、個人貯蓄の増加を背景に割引債の販売が広がって[37]、1955年度で打ち切られた資金運用部引受けの穴を埋めた。 [35]
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)
- [32]1955年9月末の債券発行残高945億円・貸出残高974億円、配当は1954年上期から
- [33]貸出の5割が四重点産業に投入された
- [36]1961年3月末の債券発行残高3572億円・貸出残高3525億円
- [37]相互銀行・信用金庫の消化と割引債の個人販売が資金運用部引受け停止を補った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本長期信用銀行」の項
- [34]1953年12月の民間株増資で資本金22億5000万円となった
- [35]発足2年間の産業設備資金供給額648億円は一般金融機関の供給額2464億円の26%にあたる
- 証券 22(4)(253)(日本証券経済研究所、1970年)「新規上場会社紹介 株式会社日本長期信用銀行」
- [26]受信業務に占める債券の比重は90数%と高く、預金の受入先は普通銀行との競合を避けるため法律で限られていた
- 金融財政事情 35(4)(1640)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆「戦後金融史を動かした人々(VIII)」
- [27]資金運用部の新規債券引受けが一時停止され資金難に陥ったことが債券部長人事の契機となった
- [28]浜口巌根氏が杉浦敏介氏を債券部長に起用し行員の意識改革も狙った
- [29]割引金融債の取扱証券会社を大手4社から中堅証券へ広げた
- [30]1957年12月の創業5周年に債券発行残高1500億円を目標とし一人一枚消化運動を展開した
- [31]債券発行残高は1284億円から5年後に3700億円へ増えた
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968年)
- [32]1955年9月末の債券発行残高945億円・貸出残高974億円、配当は1954年上期から
- [33]貸出の5割が四重点産業に投入された
- [36]1961年3月末の債券発行残高3572億円・貸出残高3525億円
- [37]相互銀行・信用金庫の消化と割引債の個人販売が資金運用部引受け停止を補った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本長期信用銀行」の項
- [34]1953年12月の民間株増資で資本金22億5000万円となった
- [35]発足2年間の産業設備資金供給額648億円は一般金融機関の供給額2464億円の26%にあたる