日本長期信用銀行電力・鉄鋼・海運・石炭への貸出5割の配分と、川崎製鉄・トヨタ自動車工業など後発企業への融資

三白景気に沸く砂糖・肥料へ貸すか、投資負担に苦しむ四重点産業へ貸すか——興銀の補完銀行にはならないという創業期の方針

時期 1952年12月
意思決定者(推定) 浜口巌根・杉浦敏介・矢野二郎 副頭取・本店営業部次長・営業部長
論点 貸出資金の配分と、興銀との関係
概要
1952年12月に営業を開始した日本長期信用銀行が、創業期の貸出のおよそ5割を電力・鉄鋼・海運・石炭の四重点産業へ配分し、あわせて川崎製鉄や住友金属工業など後発・新興の企業へ融資して、興銀とは異なる取引先を開いた判断。
背景
政府は重要産業の資金確保とインフレ防止のために強力な融資規制を決め、普通銀行は設備資金の新規融資を自粛していた。長期信用銀行には資金運用部が債券を引き受けて資金を供給し、これを重点産業へ融資させる政策がとられた。長銀は勧銀と拓銀が普通銀行へ転換する際に分離した長期金融部門を継承して発足した。
内容
開業初日に住友金属工業など10社へ計9億円の設備資金、八幡製鉄など6社へ5億5,000万円の運転資金を実行した。三白景気に沸く砂糖や肥料へ貸すほうが効果的であったが、四重点分野へ約5割を配分し、千葉製鉄所の建設で日銀総裁の反対を受けた川崎製鉄にはメインバンクとして融資した。
含意
興銀の補完銀行にはならないという方針は、三菱・三井・第一など興銀系と異なる企業集団への接近となって表れた。トヨタ自動車工業と東レの設備資金も引き受け、1950年代後半には石油化学・紙パルプへの脱四重点産業に着手した。
筆者の見解

制約が先にあり、そこから融資先が選ばれた

三白景気に沸く砂糖や肥料へ貸すほうが効果的である、というのが当時の金融の常識であった。資金量が約90億円で第1期に赤字が見込まれていた新銀行にとって、過重な投資負担で経営が困難を極める電力・鉄鋼・海運・石炭へ貸出の半分を回す配分は、採算の面では不利にみえる。それでも杉浦敏介次長らがそこへ約5割を置いたのは、資金運用部の債券引受という政府資金を預かる立場が、貸出先の選定そのものを新銀行の存在理由に変えていたからだとみられる。

ただし、四重点産業への集中は長くは続かなかった。後発の銀行が電力や鉄鋼でリーディングバンクの座を得るのは難しく、長銀は1950年代後半には石油化学や紙パルプ、斜陽とみられた繊維へ資金を移している。千葉製鉄所で日銀総裁の反対を受けた川崎製鉄や、自立を疑われていたトヨタ自動車工業への融資も、興銀と同じ相手を追えないという後発の制約があってこそ選ばれた面がある。制約が先にあり、そこから独自の融資先が決まったとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

長期信用銀行法と、勧銀・拓銀から分かれた長期金融部門

1952年2月、臨時金融制度懇談会が長期信用銀行法を制定する大蔵省案を了承し、政府は3月に法案を閣議決定して国会へ提出、6月に成立させた。構想の中心にいたのは蔵相の池田勇人氏である。産業資金が極度に不足し、銀行がオーバーローンに苦しむなかで、長期信用銀行に金融債を発行させ、集めた資金を重要産業へ融資する仕組みを描いていた。金融債を引き受けるのは銀行だが、その保有分は日銀が成長通貨の供給として買い上げるため、銀行の資金を圧迫しない設計であった[1][2]

この法律の施行と同時に、興銀は同法による専門銀行へ移り、日本勧業銀行と北海道拓殖銀行が普通銀行へ転換する際に分離した長期金融部門を継承して、長銀が1952年12月1日に資本金7億5,000万円で設立された。拓銀については、地域の特殊性を理由に長短金融の兼営を望む声もあったが、池田氏は別の銀行を設立して重点的に資金を供給するほうが効果的であると退けている。同月5日、政府出資の優先株式を加えた資本金15億円で営業が始まった[3][4][5]

寄合い世帯の新銀行と、政府が用意した資金の通り道

設立に参加した役職員は総勢241人で、男性行員の大部分は勧銀や拓銀を去った人たちであった。頭取には原邦道氏が就き、勧銀の筆頭理事として普銀転換に奔走した浜口巌根氏が、事実上の設立発起人代表となって副頭取に就いた。拓銀や朝鮮銀行の出身者に大蔵省・日銀のOB、地方銀行の代表も加わる寄合い世帯であった。資金量は資本金を含めて約90億円、第1期の営業収入は1億3,415万円にとどまり、6,775万円の赤字が見込まれていた[6][7][8]

政府は重要産業の資金確保とインフレの防止のために強力な融資規制を決め、全国銀行協会も融資自主規制委員会を設けて、普通銀行は設備資金の新規融資を自粛していた。そのうえで長期信用銀行には、資金運用部が債券を引き受けて資金を供給し、これを重点産業へ融資させる政策がとられた。長銀が資金運用部から調達した資金は1952年度が46億円、1953年度が180億円、1954年度が140億円にのぼり、この政府資金が四重点産業への融資の源泉となった[9][10]

決断

四重点産業への約5割

創業期の本店営業部が最初に手がけた仕事は、株主に約束した融資の実行であった。初年度4カ月の申込みは400億円を超えたが、事業計画では75億円しか融資を予定しておらず、大部分は次年度への繰延べという約束で処理されている。開業初日に用意した設備資金は、住友金属工業や三井鉱山、三菱鉱業、太平洋海運、富山共同自家発電など10社への計9億円であった。八幡製鉄や日本鋼管、東京瓦斯など6社へは、5億5,000万円の運転資金を融資している[11][12]

当時はいわゆる四重点産業の時代であった。鉄鋼にはストリップミルが導入され、電力では大容量の火力発電所が着工し、海運は外航船の建造に着手したものの、過重な投資負担で企業経営は困難を極めていた。金融の常識でいえば、三白景気に沸く砂糖や肥料の関連企業へ融資したほうが効果的であったが、杉浦敏介次長らは四重点分野へ約5割の資金を配分した。1955年9月末の貸出残高974億円のうち、その5割が電力・鉄鋼・海運・石炭へ投入されている[13][14]

興銀の補完銀行にはならない

国策への協力を課題としながらも、杉浦氏らは意識して後発企業への接近をはかった。鉄鋼では川崎製鉄の高炉建設を支え、千葉製鉄所の建設にあたって日銀総裁の一万田尚登氏の反対を受けた同社に、メインバンクとして積極的に融資している。同じく新興勢力であった住友金属工業への融資にも力を入れた。既存の系列に組み込まれていない相手をあえて選ぶこの融資戦略は、長信銀の大先輩である興銀を明らかに意識したものであった[15]

興銀の補完銀行にはならないというのが浜口氏や宮崎一雄氏の考えであり、矢野二郎営業部長や杉浦氏らの意地でもあった。大企業向けでは、興銀グループとは別の企業集団を形成する三菱・三井・第一などの旧財閥系へ接近し、三菱電機、三菱レイヨン、麒麟麦酒、三井鉱山、三井東圧、東芝、三井造船、古河電工、旭電化への積極的な融資がその実例となった。矢野氏は常務大阪支店長に転じるまで7年間も営業部長を務め、産業界における長銀の基盤をつくった[16][17]

結果

自動車と合繊への融資、そして脱四重点産業

当時の融資戦略で特筆されるのは、トヨタ自動車工業と東レの設備資金を引き受けたことである。日本で自動車産業が自立するとみる人は少なく、合成繊維が繊維業界の中心になると考える人も少なかった。東レ社長の田代茂樹氏やトヨタ自工経理部長の花井正八氏らの気迫に押されたこともあって、長銀は融資申請を受け入れた。株主に名を連ねた大企業から始まった取引先は、実績の乏しい産業へも広がっている[18]

戦後に設立された後発の銀行である長銀には、主要な産業分野でリーディングバンクの地位を築きにくいという弱みがあった。この弱点を克服するため、1950年代後半には早くも脱四重点産業に着手し、石油化学と紙パルプへ接近している。三井石油化学や電気化学工業は長銀の融資を元手に成長し、信越化学工業も同じ時期に無機化学工業から有機化学工業への転換を実現した。斜陽産業とみられていた繊維でも、東洋紡や富士紡、敷島紡へ資金を注いだ[19][20]

設備資金供給の四分の一を担う銀行へ

創業期の業績は設立時の見込みを上回った。1953年1月に大阪、2月に札幌へ支店を設け、全国各地の地方銀行を地方産業向け貸付の代理店としている。1954年3月末の債券発行残高は498億円、貸付残高は511億円に達し、代理店を通じた地方産業への貸付は総貸付額の13%を占めた。1953年12月には民間株の増資で資本金を22億5,000万円へ引き上げ、1954年4月に始まる期から5分の配当を開始している[21][22]

発足から2年間、すなわち1954年11月末までに長銀が供給した産業設備資金は648億円にのぼり、同じ期間に一般の金融機関が供給した2,464億円の26%を占めた。民間の長期金融機関として長期産業資金の供給に占める位置は、設立から2年で動かしがたいものとなっている。1955年9月末には債券発行残高が945億円に達し、四重点産業への配分を保ったまま規模が広がった[23][24]

出典・参考
  • 金融財政事情 35(2)(1638)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆「戦後金融史を動かした人々(VIII)」
  • 金融財政事情 35(3)(1639)(金融財政事情研究会、1984年)五十畑隆「戦後金融史を動かした人々(VIII)」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本長期信用銀行」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「日本長期信用銀行」
  • 証券 22(4)(253)(1970年)「新規上場会社紹介 株式会社日本長期信用銀行」

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