日本興業銀行日本興業銀行法の廃止に伴う普通銀行への転換と、長期信用銀行への移行
預金を持たずに長期金融を続けるか、都市銀行と同じ商売へ移るか——特殊銀行の看板を外された興銀の選択
- 概要
- 1950年4月に日本興業銀行法が廃止されて普通銀行となった日本興業銀行が、債券発行による長期資金の供給という業務を変えず、1952年12月の長期信用銀行法の施行で長期信用銀行へ移った判断。
- 背景
- 戦時補償の打切りで発行済み興業債券の八割を切り捨てた興銀は、1948年に再建整備を終えて債券発行による長期金融機関として再発足した。GHQは銀行をすべて商業銀行にする方針を掲げ、特殊銀行制度そのものが廃絶された。
- 内容
- 1950年3月の日本興業銀行法廃止で普通銀行となり、見返資金引受による優先株10億円の発行で資本金は20億円となった。行内の商業銀行転換論や日本勧業銀行との合併案を退け、債券発行による長期資金の供給を続けた。1951年7月に増資して債券発行限度を広げ、1952年12月の長期信用銀行法でその機能が制度として据えられた。
- 含意
- 判断の中身は、業態を変えなかったことにある。預金を持たず金融債の消化に依存する調達構造はここで固まり、1955年3月末には預金465億円に対して債券発行額1587億円となった。資金不足という制度の前提は1970年代半ばに崩れた。
変えなかったことが、この判断の中身であった
1950年4月、日本興業銀行法は廃止され、興銀は制度のうえで普通銀行になった。特殊銀行の看板を外された以上、預金を集めて都市銀行と同じ商売へ移る道はあった。行内でも支店網の配置や日本勧業銀行との合併が検討されている。それでも興銀は、債券で集めて設備資金を貸すという中身を動かさなかった。1952年12月の長期信用銀行法は、二宮善基副総裁の言う「AでもBでもない道」を2年8カ月続けた実務を、法律の側から追認した。
代償として、調達手段の狭さが残った。1955年3月末の預金465億円に対し、債券発行額は1587億円にのぼる。旧勘定として棚上げされた記憶の残る地方銀行に引受を頼み、災害復旧を機に資金運用部へ働きかけるといった消化の努力が、絶えず要った。資金不足という前提が続くかぎり、この構造は制度と噛み合う。西村正雄頭取が振り返るとおり、その前提のほうが1970年代半ばに先に消えた。制度が長く残ったことは、この判断の正しさを証明しない。1998年に長銀と日債銀が破綻したとき、疑われたのは個々の融資ではなく、金融債で集めて長期に貸すという仕組みだった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
戦時補償の打切りと再建整備
敗戦とインフレは銀行にも打撃を与えた。とりわけ重かったのは戦時補償の打切りだった。帝国・三菱・安田・住友・三和の五大銀行と興銀を合わせて、貸出のうち補償をあてにしたものは八割を超え、打切り額全体の七割を上回った。興銀の損失は膨大な額に達し、発行済みの興業債券の八割を切り捨てた。戦争中に興業債券の引受へ協力を求められていた地方銀行や貯蓄銀行も、そのあおりを受けた[1][2]。
1948年3月、興銀は金融機関再建整備法に基づいて政府補償打切りによる特別損失を整理し、同年12月に資本金を5億円へ増資して、債券発行による長期金融機関として再発足した。再建整備は1949年1月に完了した。同年9月には興業債券の発行も復活したが、旧勘定として棚上げされた債券を多く持つほど地方銀行の支払準備は削られるという事情があり、進んで引き受けてもらえる筋合いのものではなかった[3][4]。
銀行はすべて商業銀行たるべしというGHQの方針
占領当局の立場は明快であった。銀行はすべて商業銀行であるべきであり、長期資金は証券市場でまかなうべきだというのがGHQの方針である。特殊銀行制度そのものが廃絶され、債券を発行してきた日本勧業銀行と北海道拓殖銀行は、債券発行をやめて普通銀行となった。戦時中からすでに普通銀行の要素を高めていた両行と違い、債券発行を柱としてきた興銀は、閉鎖を命ぜられかねない位置に立たされた[5][6]。
GHQが迫ったのは二者択一であった。Aは商業銀行、Bは銀行ではない債券発行会社という選択で、金融債を発行する銀行として生きる道は占領政策から外されていた。二宮善基副総裁と中山素平理事を中心に交渉が続き、数日中に回答をという要請は引き延ばしでかわされた。他行の再建整備が済む1948年秋になってGHQに定見のないことが分かると、興銀側はマーカット経済科学局長に直談判する。同年11月、債券発行銀行としての再建計画書が承認された[7][8]。
決断
特殊銀行の看板が外れた1950年4月
1949年9月に資本金を10億円としたのち、1950年3月に「銀行等の債券発行等に関する法律」が公布施行され、あわせて日本興業銀行法が廃止された。1902年の設立以来の根拠法を失った興銀は、同年4月に普通銀行となる。見返資金の引受によって優先株10億円を発行し、資本金は20億円となった。同年10月には甲種外国為替銀行の指定も受けている。制度のうえでは、都市銀行と横並びに置かれた[9]。
普通銀行への転換が決まる前から、行内には商業銀行へ移るべきだという意見があった。神奈川県鵠沼の社寮に幹部が集まった協議では、一握りの支店しか持たない興銀が全国へ支店網をどう配置するかまで検討され、日本勧業銀行との合併も議題に上っている。合併すれば興銀が吸収されることは見えていたが、それでも構わないという声まで出た。二宮副総裁はこれらを退け、進むべき道を「AでもBでもない道」と呼んだ[10]。
業態を変えないという選択
普通銀行へ移ったあとも、興銀は債券発行によって諸産業に長期の事業資金を供給することを主要業務として続けた。1950年4月には総裁を頭取、理事を取締役へと役員の職名も改め、外形は普通銀行にそろえている。1951年7月には10億円を増資して債券発行の限度を広げた。法律上の看板は普通銀行に変わったが、資金の集め方と貸し方は特殊銀行の時代のまま据え置かれた[11][12]。
1952年12月、長期信用銀行法の施行によって、興銀が続けてきた金融の機能が制度として据えられた。同法のもとで興銀は民間の長期金融機構の中核となり、当時もっとも急がれた長期事業資金の融通にあたる。同じ月には日本長期信用銀行が設立され、1956年3月には日本不動産銀行も加わった。2年8カ月にわたり普通銀行の看板のまま長期金融を続けた実務に、法律の側が後から合わせた[13][14]。
結果
長期信用銀行としての姿
1955年3月末の興銀は、債券発行額1587億円、預金465億円、貸出2049億円という残高を抱えていた。貸出のうち62%が設備資金、38%が運転資金である。資本金は優先株を数回にわたって償却した結果22億9000万円となり、頭取は川北禎一氏が務めていた。預金の3倍を超える債券で資金を集め、その過半を設備資金へ回す銀行の姿が、ここで数字として現れている[15]。
長期資金を供給する担い手は、興銀だけではなかった。1951年に日本開発銀行と日本輸出銀行、1953年に中小企業金融公庫と農林漁業金融公庫が相次いで設立され、政府の金融機関が長期資金の供給に加わる。民間でも、戦前は分業が確立していた金融機関の機能が戦後は近づき、どの金融機関も銀行と似た業務を営むに至った。都市銀行は日銀信用に支えられて力を蓄え、金融機関の間の競争は激しさを増した[16][17]。
預金を持たない銀行という構造
預金を持たない銀行にとって、金融債を誰に持ってもらうかは経営そのものであった。再建整備で興業債券が旧勘定として棚上げされた経緯があり、地方銀行にとっては保有するほど支払準備が削られる債券でもある。1950年9月にジェーン台風が近畿を直撃した際、大阪支店長だった日高輝氏は大蔵省資金運用部による興業債券の引受を働きかけ、戦後初めてこれを実現させた。調達した一億数千万円は災害復旧の資金に回った[18]。
この制度が何を前提としていたかは、のちの頭取の言葉が端的に示している。西村正雄頭取は1999年に、長期信用銀行制度を戦後の資金不足の時代に産業の育成のため長期の設備資金を供給するのが目的であったと振り返った。その前提は1970年代半ばに崩れ、資金は余剰へ転じて商業銀行も長期資金を供給する。1998年に日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が破綻したとき、長期信用銀行という業態そのものへの疑いが表に出た[19][20]。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日本興業銀行」
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
- 私の履歴書 経済人16「日高輝」(日本経済新聞社、1981年)
- 週刊東洋経済 1999年1月23日号「特集 興銀「非常事態」インタビュー 日本興業銀行頭取 西村正雄」