三機工業鋼管部門の分離と、富士三機鋼管株式の富士製鉄への売却
一流の鋼管メーカーという看板と引き換えに得た25億円を、山田熊男社長はどこへ回したか
- 概要
- 1960年7月、三機工業が鋼管部門を分離して富士三機鋼管株式会社を設立し、営業を譲渡した経営判断。その後2回にわたって富士三機鋼管の株式を富士製鉄へ売却し、価格は1株2,500円(額面500円)、総額25億円に達した。
- 背景
- 三機工業は1935年から川崎工場で電縫鋼管をつくり、1945年1月には大分県中津市にも工場を建て、ガス管・ボイラ用・化学工業用の各種鋼管を製造する一流の鋼管メーカーとされていた。一方で鉄鋼は資金を食う産業であり、建築設備工事・鋼管・サッシ・荷役運搬機械が同居する多角経営のなかで最も設備資金を要する部門でもあった。
- 内容
- 鋼管部門を切り出した富士三機鋼管の株式を、鋼管を本業とする富士製鉄へ2回に分けて渡した。回収した25億円で借入金は実質的にゼロとなり、逆に10億円以上の現金預金が手元に残った。
- 含意
- 分離後の業態は工事部門42%、サッシ30%、荷役運搬機械30%弱。1961年3月期は売上高が175億3,500万円から145億3,900万円へ減る一方、経常利益は6億1,600万円から12億4,500万円へ倍増した。三機工業はこの資金を守りに使わず、1962年度に33億円の設備投資を計画した。
売上を減らして利益を増やした年
1961年3月期に三機工業が示したのは、売上高を30億円減らしながら経常利益を倍にした決算であった。売るほどに設備資金の要る鋼管を外し、工事・サッシ・荷役運搬機械という受注と据付を軸にした商売を残したことが、この形をつくったとみられる。山田熊男社長は前年の対談で、月商15億円に対する資本金10億円は少なすぎるとし、増資の狙いを借入金の返済に置いていた。その返済を果たしたのは5億円の増資ではなく、鋼管を売って得た25億円であった。
この整理で製造をすべて手放したわけではない。規格化で先鞭をつけたサッシは分離後も売上の30%を占め続け、その部門が手を離れるのは1973年12月である。売り先が富士製鉄という鋼管の本業者であった点も見落とせない。自社では持ちきれない設備を、より重い資本を投じられる相手へ移したかたちといえる。もっとも、なぜ1960年という時期に踏み切ったのかを会社の側から語った資料は残っておらず、動機は決算と対談の断片から推し量るほかない。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
川崎と中津で各種鋼管をつくった一流の鋼管メーカー
三機工業の鋼管は、戦前に買った特許から始まっている。1934年に米国で発明された電気抵抗利用の製管法の特許権を購入し、翌1935年から川崎工場で製管に入った。1945年1月には増える需要に応じて大分県中津市にも工場を建て、一般用鋼管のほかガス管、ボイラ用、化学工業用へと品種を広げた。1955年2月には鋼管部門がロイド規格の許可を受けた。わが国一流の鋼管メーカーとしての基礎は、この二つの工場に置かれていた[1][2]。
もっとも、鋼管は資金の要る商売でもあった。三機工業の株式は1960年7月まで東証の仲値表で第一次金属に分類され、鋼管をつくる会社として扱われていた。鉄鋼業は資金を食う産業であり、三機工業もその例外ではなかった。三井系の同社は金融機関とのつながりが厚く、資金調達力では建設業界で最も強いといえたが、その信用をどの部門へ振り向けるかは、多角経営を続ける以上いつか決めなければならない問題であった[3][4]。
年間売上180億円の大企業体と、中小企業の使い分け
1960年1月の対談で、山田熊男社長は三機工業を年間売上180億円の大企業体でありながら、暖冷房・衛生工事・電気工事が合体した中小企業の集まりのような会社でもあると述べた。大企業をデパートにたとえれば、三機工業のやり方は小売店の集まった昔の勧工場に近いとし、大企業と中小企業のよさをどう使い分けるかに一番の苦心があると語っている。工場は鋼管の川崎と中津、コンベヤの鶴見、サッシの六郷ほか東京3カ所と大阪・博多に分かれていた[5][6]。
同じ対談で、山田熊男社長は1960年2月払込みの増資にも触れている。資本金は10億円から15億円へ増えるが、当初は20億円への倍額増資も検討していた。会社が大きくなるのに人間が追いつかず水ぶくれになっては困るとして半額にとどめ、狙いを借入金の返済による自己資本の増強に置いた。月商15億円に対して資本金10億円はあまりに少ないという見立てが、その前提にある[7]。
決断
富士三機鋼管の設立と、富士製鉄への2回の株式売却
1960年7月、三機工業は鋼管部門を分離して富士三機鋼管株式会社を設立し、営業を譲渡した。1935年に川崎工場で製管を始めてから25年、一流の鋼管メーカーと呼ばれた看板が別会社の側へ移った。分離の直前にあたる1960年3月期でみると、半期の売上高のうち鋼管を除いた部分は53億円にとどまっていた。譲り渡したのは、売上の一角を占めながら設備に資金を要し続ける部門であった[8][9]。
譲り渡した会社の株式も、三機工業の手元には残らなかった。設立の後、三機工業は2回にわたって富士三機鋼管の株式を富士製鉄へ売却している。価格は1株2,500円、額面500円の5倍にあたり、総額は25億円に達した。買い手の富士製鉄は鋼管を本業とする高炉メーカーで、分離した事業は資本の面でも三機工業の手を離れた[10]。
工事・サッシ・荷役運搬機械の三本立てへ
鋼管が抜けた後の三機工業は、三つの部門で立つ会社になった。売上の42%は暖冷房・環境衛生・汚水処理などの工事部門が占め、30%がサッシ、残る30%弱が荷役運搬機械である。工事部門は東京オリンピックを控えて仕事が絶えず、サッシは1956年に規格化で先鞭をつけた老舗として安定した需要を持っていた。荷役運搬機械はコンベヤを主体とする合理化機械で、景気が落ちても合理化投資までは細らないと見込まれた[11][12]。
入れ替わったのは事業の並びだけではない。25億円の回収によって借入金は実質的にゼロとなり、逆に10億円以上の現金預金が手元に残った。1960年2月の増資で山田熊男社長が掲げた借入金の返済による自己資本の増強は、増資分の5億円ではなく、鋼管を売った代金によって果たされた。金融引締めが建設業を締め上げた1961年秋に、三機工業だけは資金の心配をせずに済む位置にいた[13]。
結果
30億円減った売上高と、倍増した経常利益
鋼管を外した効果は、1961年3月期の数字にはっきり出た。売上高は前年の175億3,500万円から145億3,900万円へ、30億円近く減っている。ところが経常利益は6億1,600万円から12億4,500万円へ倍増した。減収と増益が同じ期に並んだ形からは、抜けた部門が売上を厚く積みながら利益の薄い商売であったことがうかがえる。売上の見かけを失う代わりに、三機工業は利益の出方を変えた[14]。
半期でみても伸びは続いた。1961年9月期の売上は81億円強、営業による利益は4億6,000万円で、これに富士三機鋼管の株式売却益を加えた実質利益は11億円に達した。鋼管を分離する直前の1960年3月期に鋼管を除く半期の売上が53億円であったことと比べれば、1年半で5割以上増えた計算になる。9月末の受注残は180億円に積み上がっていた[15]。
25億円への増資と、1962年度の設備投資33億円
手元に積んだ資金を、三機工業は守りに使わなかった。1961年11月29日の定期株主総会で授権資本の拡大が認められるのを前提に、資本金を25億円へ引き上げる3分の2増資を発表する。割当ては12月15日、申込み期間は1962年1月6日から26日までとした。説明の場では、他社が資金の関係で積極策をとれないときに逆に一気に販売シェアを拡大するとし、そのために1962年度に33億円の設備投資を行うと述べている[16]。
増資は予定どおり運び、資本金25億円は1968年時点でも変わっていない。業績は、1962年3月期に売上高181億1,400万円・経常利益16億4,600万円、1963年3月期に売上高221億200万円・経常利益11億5,100万円である。鋼管を抱えていた1960年3月期の175億3,500万円を、鋼管なしの売上高が2年で追い越した。三部門のうち工場を持つのはサッシだけとなり、その営業を三井軽金属加工へ譲るのは1973年12月である[17][18][19]。
- 野田経済 1961年11月13日号
- 野田経済 1960年1月25日号(山田熊男・対談)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「三機工業」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 34_鉄鋼「三機工業」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版(半期合算)
- 三機工業 有価証券報告書【沿革】