三機工業は、自分で始めた会社ではなく、始めさせられた会社であった。1925年に高田商会が倒れて管工事の市場が空いたとき、三井物産が選んだのは直営ではなく、別会社の設立であった。定款の変更が要り、三井物産並みの労働条件で技術者を抱えれば工事原価が上がる。官庁工事の入札には3年以上の営業経歴も必要であった。そこで大谷工務所の経歴を借り、資本金50万円・社員12名の別会社を立てた。有楽町の25坪の事務所の家賃300円さえ、新設の小会社には分に過ぎるとして本社に止められている。身銭を切らずに市場へ入るための器が、この会社の出発点だった。
借り物で始めた会社は、借り物の弱さを二度突かれた。輸入品は国産品に対して競争劣位にあり、鋼製建具を看板にした東京建鉄との総代理店契約は、期限を1年余り残して解除される。売る商品を他人が握っているかぎり、取引はいつでも打ち切られる。1929年に三建工業を設立して製造へ回ったのはその答えであり、1933年に日本鋼材の経営権を握ったのは同じ答えの延長であった。そして1943年3月、合併したのは東洋鋼材の側で、三機工業の名だけが残る。社名を継いだのは、三井物産機械部が外へ出した法人ではなかった。
1920年代半ばの管工事業界で、暖房設備材料の独占的な供給者は高田商会だった。同商会の販売価格が業界に深く浸透し、他の業者はそれを無視して材料を売れなかった。明治末期から工事施工を兼営し、日本最初の管工事業者として経験と技術を握っていたのも同商会である。三井物産機械部は建築材料と機械類の輸入販売を営みながら、この部門では引合いに応じて取り次ぐだけの立場にとどまり、三井の規模をもってしても高田商会に太刀打ちできなかった。ところが1925年2月ごろ、政府が従来の救済政策を打ち切って財政緊縮へ転じたあおりで、高田商会が倒産した。管工事業界が一時虚脱した状態を、三井物産機械部は工事部門へ進出する好機と見た。
ただし、三井物産が自ら工事請負業へ乗り出すには障害が2つあった。一つは定款で、事業目的を物品販売業・問屋業・運送業・代理業・製材業・造船業とその付帯事業に限っていたため、工事請負業を兼ねるには変更の手続きが要った。もう一つは原価であり、他社より高い三井物産並みの労働条件で工事技術者を抱えれば、工事原価を押し上げる恐れがあった。不況下の競争では原価の切下げが必須とされ、成果の未知数な事業で企業的冒険は避けるという判断に落ち着き、三井物産は直営を退けて別会社の設立を選んだ。さらに官庁工事の入札には3年以上の営業経歴が必要で、会社を新設しただけでは営業を開始されなかった。そこで三井物産機械部は、U・Sラジエーターの特約店だった大谷工務所の営業経歴を基盤に据えた。大谷工務所は大谷義徳氏が1920年12月に設立し、暖房設備の工事施工を専門としていた。
三機工業という社名は、三井物産機械部の仕事に結びつく会社として生まれることにちなむ。原始定款は1925年4月1日に、南條金雄・鳥羽總治・安本明治郎・矢島房脩・市川純一・佐々田彰夫・大谷義徳の7名を発起人として作られ、資本金は50万円とされた。経営を任されたのは、南條金雄常務取締役の推薦を受けた機械部鉄道掛主任の安本明治郎氏である。4月23日に設立を登記し、5月1日に営業に入った。役員は鳥羽總治氏が取締役会長、安本明治郎氏が専務取締役となった。事務所は麹町区有楽町2丁目の報知ビル旧館の一室25坪で、家賃は300円だった。三井物産の安川雄之助常務取締役が新設小会社には分に過ぎるとして容易に承認せず、大谷義徳氏が説得して了承を得た。大谷工務所から角田義雄・上田武夫・三上謙一・高瀬喜代作・宇都宮清弼・伊藤登の全員が入社し、給仕とタイピストを加えた12名で発足した。
営業開始後に最初に扱った仕事は、大谷工務所から受け継いだ12口の暖房・給水工事で、契約高は7万2,000円にとどまった。建築の業界では三井物産の名が効かず、社員が設計事務所や官庁を訪ね歩いてもまるで相手にされなかった。自主受注の第1号となったのは、ライジングサン石油会社の蒸気暖房設備や中野銀行の温水暖房設備を含む暖房工事4口の約1万4,000円と、小田原駅など5口のロバートソン・メタル屋根ぶき工事の約3万6,000円である。1925年5月31日までの1カ月だった第1期には、完成した工事が一件もなく約3,800円の欠損を出し、同年11月末で締めた第2期も約3,000円の赤字だった。重松傳三郎氏と重金源治郎氏は三井物産から移ってきたが、初めの1〜2年は同社の籍を持ったまま、嘱託の身分で三機工業の仕事に携わった。
取り扱う輸入品は、どれも不振だった。U・Sラジエーターもドラバーン社製氷機もラプトン・スチールサッシも国産品に太刀打ちできず、ロバートソン・メタルだけが鉄道省や陸軍省の需要をつかんだ。創業から2〜3年は、この屋根材の売上げが三機工業の経費をまかなった。1926年上期に東洋レーヨン滋賀工場と青森製氷会社の二大工事を受注すると、契約高は前期の約39万9,000円から約112万9,000円へ増えた。第3期には前2期の損失を償却し、1万円余の利益を初めて計上した。主力商品を優良な国産品へ移すため、三機工業は1927年3月24日、東京建鉄および東京鋼板工業と総代理店契約に調印。建材部長の重松傳三郎氏が三井物産機械部の時代に築いた田島壹號氏との縁が交渉の発端となり、鋼製建具は一躍看板種目となった。
しかし東京建鉄製品は原価が高く、価格では大和サッシや栄進社に一歩を譲ることがしばしばあり、1928年上期の契約高は見積高の1割8分強にとどまった。同年9月、東京建鉄の内紛で大阪工場が閉鎖され、同工場製品を基盤に設立された三機工業大阪支店は苦境に立った。1929年5月、東京建鉄は契約期限を1年余残したまま販売契約の解除を申し出て、両社は6月6日に契約を正式解除した。生産的基盤を自ら持たない販売業者の弱さが表に出た。安本明治郎専務は、東京建鉄を離れて大森の新井宿で工場建設を進めていた糸永文古氏と瀬川勝平氏に提携を申し出た。三機工業は設備の大半が完成していた大森工場を買収し、1929年9月19日に資本金125万円・4分の1払込で三建工業株式会社を創立した。取締役社長に糸永文古氏、常務取締役に川人芳男氏と瀬川勝平氏が就任し、三建工業が鋼製建具を製作して三機工業が一手販売する分担を敷いた。
日本鋼材は1919年4月、アメリカン・トレーディング会社とトラスコン・スチール会社の共同出資により、資本金100万円の日米建築材料株式会社として設立された。同年8月に日本トラスコン鋼材、1930年9月に日本鋼材へ商号を変更し、資本は全額がアメリカ側の出資だった。満州事変以降に排外思想が強まると、アメリカ人で占められた幹部への従業員の不信が募り、労働争議が頻発した。川崎工場のストライキは川崎地区でも知られ、日本で最初とみられる職員のストライキも同社で起きた。外人会社の製品を敬遠する空気も重なり、経営者は日本資本の導入と日本人による経営を迫られた。
1932年晩秋、三機工業の社員だった山田熊男氏は、三井高長氏のお供で出向いたゴルフ練習場の帰り道、同乗した有賀輝氏から、争議に嫌気がさしたR・F・モス社長が工場の買い手を探していると持ちかけられた。提携を実現するには、作る品目の重なる日本鋼材と三建工業をまず一つにしておかなければならなかった。申し出を受けたその場で、山田熊男氏は、三機工業のサッシ部門も業績が振るわず実現は難しかろうと何気なく返し、すぐさま安本明治郎専務の自宅へ行って報告した。報告を受けた安本明治郎専務は険しい顔で申し出への返事の中身を問いただし、答えを聞いてようやく顔つきを和らげた。1933年10月10日付の東京日日新聞川崎版が、日本鋼材が三建工業を有利な条件で買い取るという記事を載せると、三建工業の従業員は動揺し、怠業に入った。従業員側は人員整理をしないことなどを要求書で求めた。両社は11月25日に合併契約書に調印し、28日の同じ時刻に合併を公表するとともに要求へも回答して、事態を収めた。
合併後の日本鋼材の資本構成は、三井資本38%・アメリカ資本43%・その他19%となった。取締役会長に南條金雄氏、取締役社長に安本明治郎氏、常務取締役に川人芳男氏が就任し、三機工業が実質的に経営権を掌握した。三建工業の存続はわずか4年余だったが、三機工業が製造部門に初めて関与したのは同社の設立による。日本鋼材は1934年3月に三建工業を合併して東洋鋼材へ改称した。東洋鋼材は米国で発明された電気抵抗利用の製管法の特許権を買い、1935年から川崎工場で電縫鋼管の製造を開始した。1936年にはコンベヤの製造に入り、1937年には米国ドル・オリバー社と技術提携して鉱山・化学工業機械へ進んだ。そして1943年3月、東洋鋼材が三機工業を合併して資本金807万7,000円となり、商号を三機工業へ変更した。三機工業の名を継いだのは、買収した側ではなく買収された側の法人だった。
三機工業の戦後は、持ち物を減らしながら売上を増やした30年である。1949年8月に企業再建整備法で立ち上がった第二会社の資本金は4,500万円にすぎなかったが、その一社のなかに電縫鋼管も鋼製窓枠もコンベヤも建築設備工事も同居していた。米国資本と三井資本が合流してできた製造会社の設備一式を、そのまま引き継いだためである。朝鮮動乱の特需と都市復興のビル建築ラッシュは四つの部門を同時に押し上げ、1958年9月期の売上高は67億円に達した。ただし部門ごとに要る金の重さは違う。鋼管は売れるほど設備投資を呼ぶ商売であり、工事は人と手形で回る商売であった。
1960年7月に鋼管部門を富士三機鋼管へ切り出し、その株式を25億円で富士製鉄へ渡した判断は、重い設備を軽い受注へ替える取引であった。借入金は実質ゼロになり、10億円を超える現金が残る。翌1961年の金融引締めで建設株が総崩れになったとき、三機工業だけは33億円の設備投資を発表して受注を伸ばす側へ回った。手元に金があることが、工事という商売では競争の焦点になる。1973年12月に窓枠部門を三井軽金属加工へ渡したことで、製造部門は機械だけとなった。第二会社として引き継いだ四つの部門のうち二つを外へ出した末に、ビルの中の設備を請け負う会社が残った。
1943年3月の合併で、三機工業は鋼管・コンベヤ・鋼製窓枠・建築設備工事を一つの法人に抱える製造会社になった。戦時中には朝鮮・満州・中国にも手を広げた。国内では1939年6月に鶴見工場を開き、コンベヤを自前で作る体制に移していた。軍需会社の指定は、1943年に川崎製作所と鶴見工場が受け、1944年4月には会社全体に及んだ。1945年1月には需要の伸びに応じて工場を大分県中津市に建て、一般用に加えてガス管・ボイラ用・化学工業用の各種鋼管を造り、資本金も1943年3月の800万円から1945年2月には1,700万円となった。戦時の需要に合わせて設備も資本も膨らませたところで、敗戦を迎えることになった。
1949年8月1日、企業再建整備法に基づいて旧三機工業が解散した。同日、その現物出資により資本金4,500万円の第二会社として新しい三機工業株式会社が設立された。解散した法人は、1919年4月にアメリカン・トレーディング会社とトラスコン・スチール会社の共同出資で設立された日米建築材料に始まる。日本トラスコン鋼材・日本鋼材・東洋鋼材と商号を替えたのち、1943年3月に三機工業を合併して社名を引き継いだ会社であった。資本のつながりはこの時点でも切れておらず、連合国財産株式として12万2,900株が1949年の政令第310号により保留されていた。24年前に12名で発足した工事会社は、母体をたたむ側ではなく引き継ぐ側に回った。
第二会社は、製造と請負を一つの会社に同居させた形で出発した。1949年10月に建設業法による建設大臣登録を取得し、1950年9月5日には東京証券取引所へ上場した。営業目的には、電縫鋼管と磨帯鋼の製造、コンベヤーその他の鉱山用機械と化学機械、鋼製窓枠と鋼製品の製造が並んだ。そこへ暖房・衛生・電気工事の請負と、米国ドル会社およびオリバー会社の日本における製作・販売の代理が加わった。工場は川崎・鶴見・中津の三か所で、1950年3月期の売上高は11億4,034万円、当期利益は4,316万円であった。大株主には千代田生命・第一物産・日本生命・日之出貿易・室町物産が各10万株で並んだ。
朝鮮動乱の勃発以降、生産は特需の波に乗って急速に復活した。都市復興に伴う大ビルディングの建築ラッシュは工事部門の活況を促し、沖縄・台湾・東南アジア方面への進出の道も開けて鋼管と鋼製窓枠の輸出が増えた。資本金は1952年2月に2億円となり、1955年3月期の売上高は35億9,000万円に達した。1954年9月期の内訳をみると、工事が19億4,977万円で最も大きく、電縫鋼管が12億3,285万円、コンベヤー等が2億9,915万円と続く。電縫鋼管の生産能力は年3万5,000屯、生産実績は2万4,584屯で、従業員は1,440人であった。製造会社として再出発した会社の主力事業は、すでに請負のほうへ移っていた。
1952年、三機工業は米国ドル社およびオリバー社との技術提携と代理店契約を復活させた。両社との極東地区総代理店契約は1937年4月に結ばれ、選鉱用・化学工業用の特許機械について日本と満州での一手販売を引き受けていた。この契約は第二次大戦の開戦によって中断していた。復活した契約のもとで、三機工業は選鉱機械・連続苛性化装置・フルオソリッド焙焼炉・廃水と屎尿の処理施設・肥料製造装置を扱った。これらは製紙・化学工業・鉱山の企業合理化と都市計画に欠かせない新設備として業界の注目を集めた。1954年7月には環境衛生工事の施工を目的に三機環衛設備を設立し、1955年2月には鋼管部門がロイド規格の許可を受けた。戦前に築いた外国技術への通路を取り戻したことが、請負の範囲を上下水と廃水の処理まで広げた。
製造は本体から切り出され、工場ごとの子会社に置かれた。1950年7月に川崎工場の金属製建具部門を分離して六郷工場を設立し、1951年3月にはコンベア製造を目的として東京機械製作所を設立した。1956年9月、標準窓枠として6Sサッシの販売を始める。スチールサッシの製造を目的とする九州工場は1958年3月、高槻工場は1959年4月の設立である。窓枠部門が扱ったのは標準窓枠・ドア・金属製建具・付属建具・シヤッターで、大量生産と低コストの標準窓枠に特色があった。資本金は1956年2月に5億円、1958年5月に10億円へ増え、1958年9月期の売上高は67億5,824万円、従業員は1,560人となった。このうち工事部門は40億6,000万円、鋼管は14億2,980万円を占めた。
富士製鉄は1958年9月末の時点で、すでに50万株を保有する大株主の立場にあった。鉄鋼業は多額の資金を要する産業で、三機工業もその例に漏れなかった。1960年7月に鋼管部門を切り離して富士三機鋼管をつくり、それまで手がけていた鋼管の製造・加工・販売と付帯事業をすべて移したうえで、その株式を2回に分けて富士製鉄へ売り、額面500円に対し1株2,500円、合計25億円を得た。この売却によって借入金は実質的になくなり、10億円を超える現金預金がかえって手元に残った。同年1月の誌上対談では、三機工業は年間売上が180億円に届く一方で、衛生工事・電気工事・暖冷房工事の寄り合った中小企業の集合体という面を残す会社と評されていた。山田熊男社長にとって経営上の最大の苦心は、大企業と中小企業の使い分けにあった。
当時、建設業は金融が引き締まると打撃を受けやすい商売だった。工事の量が増えるほど運転資金がかさみ、施主の資金繰りが苦しくなれば前受金はおろか工程表どおりの支払いさえ滞るうえ、見込みで作りためられない建設は、工事を途中で止めると運転資金が回収できなくなる。大工の日給も、1961年初めには700円から800円だったものが、1,500円を超えないと人手が集まらない水準にまで上がっていた。こうしたなか、三機工業は1961年11月29日の定期株主総会で、25億円への3分の2増資を打ち出した。資金の事情で他社が攻めに出られない時期に販売シェアを一気に広げるという方針で、1962年度の設備投資は33億円と見込まれた。鋼管を手放して現金を手にした会社だからこそ、この局面で受注を伸ばす側に立てた。
1963年3月期の販売実績は、工事が58億1,698万円、窓枠が28億1,214万円、機械が24億5,632万円であった。工事の内訳は冷暖房35億8,663万円、衛生水道12億8,612万円、電気9億4,422万円で、ビル内の冷暖房・換気・衛生水道・電気工事の分野では業界第1位とされた。1964年には国立代々木競技場やNHK放送センターなど東京オリンピック関連の工事に参画している。1970年3月期の半期売上高は272億5,252万円、経常利益は8億141万円であった。事業の構成は建築設備工事58%・窓ワク23%・機械19%で、従業員は2,593名を数えた。そして1973年12月、窓枠部門の営業が三井軽金属加工へ譲渡された。第二会社が引き継いだ四つの柱のうち、鋼管に続いて窓枠も会社の外へ出た。
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|---|---|---|---|---|
| 1925〜1943年三井物産機械部が外に出した12人の工事会社 | 旧三井物産機械部を母体に三機工業を創立(資本金50万円、従業員12名) | ★★★ | ||
| 東京日本生命館の設備工事を竣工、満州に大連支店を開設 | ★ | |||
| 三建工業との合併による鋼材事業の本体への取り込み 1933年、三機工業が労働争議と排外思想に行き詰まった日本鋼材へ日本資本を入れ、子会社の三建工業を同社へ合併させて経営権を掌握した判断。安本明治郎専務が日本鋼材の取締役社長に就任し、製品の販売権も三機工業が一手におさめた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 川崎製作所と鶴見工場が軍需会社に指定 | ★★ | |||
| 1944〜1973年4,500万円で再出発した第二会社と、手放した鋼管とサッシ | 企業再建整備法に基づき旧三機工業の第二会社として設立 | ★★★ | ||
| 建設業法による建設大臣登録を取得 | ★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 大阪証券取引所に上場 | ★ | |||
| 資本金が10億円を超える | ★ | |||
| 合弁で持った製造部門の切り離しと、本業への経営資源の集中 1960年7月、三機工業が鋼管部門を分離して富士三機鋼管株式会社を設立し、営業を譲渡した経営判断。その後2回にわたって富士三機鋼管の株式を富士製鉄へ売却し、価格は1株2,500円(額面500円)、総額25億円に達した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 名古屋証券取引所に上場 | ★ | |||
| 相模工場(現・大和プロダクトセンター)が竣工、コンベヤの量産設備を保有 | ★ | |||
| 国立代々木競技場、NHK放送センターなど東京オリンピック関連工事に参画 | ★ | |||
| 熱供給事業子会社の苫小牧熱サービスを設立 | ★ | |||
| 三井軽金属加工に窓枠部門の営業を譲渡 | ★★★ | |||
| 1974〜2006年玉置純治郎社長が説いたベクトル管理と、クリーンルーム | 三機空調センターなど事業別子会社4社を設立 | ★ | ||
| 神奈川県大和市に技術研究所を建設 | ★ | |||
| 環境システム子会社サンキ環境サービスを設立 | ★ | |||
| 宅清光 | 建築設備子会社の三机建筑工程(上海)有限公司を中国・上海に設立 | ★ | ||
| 宅清光 | オーストリアの散気装置製造・販売会社AQUACONSULT Anlagenbau GmbHの経営権を取得 | ★★ | ||
| 2007〜2026年創業以来初の経常赤字87億円と、量から採算への転換 | 宅清光 | 規模を超える受注拡大策の撤回と、身の丈に見合った量への引き下げ 2007年3月期に三機工業グループが創業以来はじめての経常損失87億8,200万円を計上し、業績の悪化が顕著になった第4四半期になって、仕事量を最大限確保することによって利益を確保するという戦略を降ろし、利益重視への方針転換を明確にした経営判断。翌2008年3月期からは受注量の拡大を追わず、規模に見合った採算重視の受注へ改めた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 有馬修一郎 | 総合設備4社を統合し三機テクノサポートに商号変更 | ★ | ||
| 有馬修一郎 | タイ・バンコクに建築設備子会社THAI SANKIを設立 | ★ | ||
| 有馬修一郎 | 大阪証券取引所、名古屋証券取引所の上場を廃止 | ★ | ||
| 有馬修一郎 | 東京都中央区明石町に本店を移転 | ★ | ||
| 長谷川勉 | 神奈川県大和市に総合研修・研究施設の三機テクノセンターを建設 | ★ | ||
| 長谷川勉 | 機械システム事業の主力生産拠点「大和プロダクトセンター」を本格稼働 | ★★ | ||
| 石田博一 | 東京証券取引所プライム市場へ移行 | ★ | ||
| 石田博一 | 創立100周年、経営ビジョン"MIRAI 2030"と中期経営計画2027を発表 | ★ | ||
| 石田博一 | 三機グリーンテックが邦英商興の全株式を取得し子会社化 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(三機工業)