1920年代半ばの管工事業界で、暖房設備材料の独占的な供給者は高田商会だった[1]。同商会の販売価格が業界に深く浸透し、他の業者はそれを無視して材料を売れなかった[2]。明治末期から工事施工を兼営し、日本最初の管工事業者として経験と技術を握っていたのも同商会である[3]。三井物産機械部は建築材料と機械類の輸入販売を営みながら、この部門では引合いに応じて取り次ぐだけの立場にとどまり、三井の規模をもってしても高田商会に太刀打ちできなかった[4]。ところが1925年2月ごろ、政府が従来の救済政策を打ち切って財政緊縮へ転じたあおりで、高田商会が倒産した[5]。管工事業界が一時虚脱した状態を、三井物産機械部は工事部門へ進出する好機と見た[6]。
ただし、三井物産が自ら工事請負業へ乗り出すには障害が2つあった[7]。一つは定款で、事業目的を物品販売業・問屋業・運送業・代理業・製材業・造船業とその付帯事業に限っていたため、工事請負業を兼ねるには変更の手続きが要った[8]。もう一つは原価であり、他社より高い三井物産並みの労働条件で工事技術者を抱えれば、工事原価を押し上げる恐れがあった[9]。不況下の競争では原価の切下げが必須とされ、成果の未知数な事業で企業的冒険は避けるという判断に落ち着き、三井物産は直営を退けて別会社の設立を選んだ[10]。さらに官庁工事の入札には3年以上の営業経歴が必要で、会社を新設しただけでは営業を始められなかった[11]。そこで三井物産機械部は、U・Sラジエーターの特約店だった大谷工務所の営業経歴を基盤に据えた[12]。大谷工務所は大谷義徳氏が1920年12月に設立し、暖房設備の工事施工を専門としていた[13]。
1925年4月1日、南條金雄・鳥羽總治・安本明治郎・矢島房脩・市川純一・佐々田彰夫・大谷義徳の7名が発起人となり、資本金50万円で原始定款を作成した[14]。社名は三井物産機械部の業務に関連して設立されることから三機工業と定めた[15]。経営には南條金雄常務取締役の推薦で機械部鉄道掛主任の安本明治郎氏が起用され、4月23日の設立登記を経て5月1日から営業を始めた[16]。取締役会長に鳥羽總治氏、専務取締役に安本明治郎氏が就任[17]。事務所は麹町区有楽町2丁目の報知ビル旧館の一室25坪で、家賃は300円だった[18]。三井物産の安川雄之助常務取締役が新設小会社には分に過ぎるとして容易に承認せず、大谷義徳氏が説得して了承を得た[19]。大谷工務所から角田義雄・上田武夫・三上謙一・高瀬喜代作・宇都宮清弼・伊藤登の全員が入社し、給仕とタイピストを加えた12名で発足した[20]。
営業開始後に最初に扱った仕事は、大谷工務所から受け継いだ12口の暖房・給水工事で、契約高は7万2,000円にとどまった[21]。自主受注の第1号は、ライジングサン石油会社の蒸気暖房設備や中野銀行の温水暖房設備など4口の暖房工事約1万4,000円と、小田原駅ほか5口のロバートソン・メタル屋根ぶき工事約3万6,000円である[22]。第1期は1925年5月31日までの1カ月で、完成した工事は一件もなく約3,800円の欠損を計上した[23]。同年11月末の第2期も約3,000円の欠損に終わった[24]。三井物産の名前は建築業界では通用せず、社員が設計事務所や官庁を回っても鼻もひっかけられないあしらいを受けた[25]。三井物産から移った重松傳三郎氏と重金源治郎氏は、当初1〜2年、三井物産に籍を残したまま嘱託として三機工業の業務にあたった[26]。
取り扱う輸入品は、どれも不振だった[27]。U・Sラジエーターもドラバーン社製氷機もラプトン・スチールサッシも国産品に太刀打ちできず、ロバートソン・メタルだけが鉄道省や陸軍省の需要をつかんだ[28]。創業から2〜3年は、この屋根材の売上げが三機工業の経費をまかなった[29]。1926年上期に東洋レーヨン滋賀工場と青森製氷会社の二大工事を受注すると、契約高は前期の約39万9,000円から約112万9,000円へ増えた[30]。第3期には前2期の損失を償却し、1万円余の利益を初めて計上した[31]。販売の柱を優良な国産品へ移すため、三機工業は1927年3月24日、東京建鉄および東京鋼板工業と総代理店契約に調印[32]。建材部長の重松傳三郎氏が三井物産機械部の時代に築いた田島壹號氏との縁が交渉の発端となり、鋼製建具は一躍看板種目となった[33]。
しかし東京建鉄製品は原価が高く、価格では大和サッシや栄進社に一歩を譲ることがしばしばあり、1928年上期の契約高は見積高の1割8分強にとどまった[34]。同年9月、東京建鉄の内紛で大阪工場が閉鎖され、同工場製品を基盤に設立された三機工業大阪支店は苦境に立った[35]。1929年5月、東京建鉄は契約期限を1年余残したまま販売契約の解除を申し出て、両社は6月6日に契約を正式解除した[36]。生産的基盤を自ら持たない販売業者の弱さが表に出た[37]。安本明治郎専務は、東京建鉄を離れて大森の新井宿で工場建設を進めていた糸永文古氏と瀬川勝平氏に提携を申し出た[38]。三機工業は設備の大半が完成していた大森工場を買収し、1929年9月19日に資本金125万円・4分の1払込で三建工業株式会社を創立した[39]。取締役社長に糸永文古氏、常務取締役に川人芳男氏と瀬川勝平氏が就き、三建工業が鋼製建具を製作して三機工業が一手販売する分担を敷いた[40]。
日本鋼材は1919年4月、アメリカン・トレーディング会社とトラスコン・スチール会社の共同出資により、資本金100万円の日米建築材料株式会社として設立された[41]。同年8月に日本トラスコン鋼材、1930年9月に日本鋼材へ商号を改め、資本は全額がアメリカ側の出資だった[42]。満州事変以降に排外思想が強まると、アメリカ人で占められた幹部への従業員の不信が募り、労働争議が頻発した[43]。川崎工場のストライキは川崎地区でも知られ、日本で最初とみられる職員のストライキも同社で起きた[44]。外人会社の製品を敬遠する空気も重なり、経営者は日本資本の導入と日本人による経営を迫られた[45]。
1932年晩秋、三機工業の社員だった山田熊男氏は、三井高長氏のお供で出向いたゴルフ練習場の帰り道、同乗した有賀輝氏から、争議に嫌気がさしたR・F・モス社長が工場の買い手を探していると持ちかけられた[46]。山田熊男氏はその場では、三機工業もサッシ部門の業績が悪く実現は難しいだろうとさりげなく答え、直後に安本明治郎専務の自宅へ駆けつけて報告した[47]。安本明治郎専務は表情を険しくして申し出にどう答えたかを詰問し、返答を聞いて初めて表情を緩めた[48]。提携には、製作種目が重なる日本鋼材と三建工業を先に合併させる必要があった[49]。1933年10月10日付の東京日日新聞川崎版に日本鋼材が有利な条件で三建工業を買収するという記事が載ると、三建工業の従業員は動揺して怠業に陥った[50]。人員整理を行わないことなどを求める要求書が出され、11月25日の合併契約書調印を経て、両社は28日の同時刻に合併を発表し、要求にも回答して収拾した[51]。
合併後の日本鋼材の資本構成は、三井資本38%・アメリカ資本43%・その他19%となった[52]。取締役会長に南條金雄氏、取締役社長に安本明治郎氏、常務取締役に川人芳男氏が就き、三機工業が実質的に経営権を掌握した[53]。三建工業の存続はわずか4年余だったが、三機工業が製造部門に初めて関与したのは同社の設立による[54]。日本鋼材は1934年3月に三建工業を合併して東洋鋼材へ改称した[55]。東洋鋼材は米国で発明された電気抵抗利用の製管法の特許権を買い、1935年から川崎工場で電縫鋼管の製造を始めた[56]。1936年にはコンベヤの製造に入り、1937年には米国ドル・オリバー社と技術提携して鉱山・化学工業機械へ進んだ[57]。そして1943年3月、東洋鋼材が三機工業を合併して資本金807万7,000円となり、商号を三機工業へ変更した[58]。三機工業の名を継いだのは、買収した側ではなく買収された側の法人だった[59]。
1949年8月1日、企業再建整備法に基づき資本金4,500万円の第二会社として三機工業株式会社が設立され、旧会社は解散した[60]。本社を東京都千代田区有楽町1の10に置き、電縫鋼管・荷役運搬機械・窓枠・暖冷房・建築付帯設備・化学鉱山用設備を事業に据えた[61]。同年10月に建設業法による建設大臣登録を取得し、1950年9月には東京証券取引所へ上場した[62]。製造の中身は戦前から引き継いだ。1935年に川崎工場で電縫鋼管の製造を始め、1945年1月には増加する需要に応じて大分県中津市に工場を建設していた[63]。1943年の三機工業との合併に伴い、鶴見工場のベルトコンベヤなど荷役運搬機械の製造も継承した[64]。
朝鮮動乱の勃発以来、生産は特需の波に乗って急速に復活し、都市復興による大ビルディングの建築ラッシュが工事部門の活況を促した[65]。沖縄・台湾・東南アジア方面への進出の道も開け、鋼管と鋼製窓枠の輸出も増えた[66]。1952年には米国ドル会社およびオリバー会社との技術提携と代理店契約を復活させ、両社の日本総代理店として鉱山・化学工業・電源開発方面へ事業の範囲を広げた[67]。選鉱機械、連続苛性化装置、フルオソリッド焙焼炉、廃水・屎尿処理施設、肥料製造装置は、製紙・化学工業・鉱山の企業合理化と都市計画に不可欠な新機械・新設備として業界の注目を浴びた[68]。ドルオリバー社との技術提携は1937年にさかのぼる[69]。
資本金は1952年2月に2億円となり、1955年3月期の売上高は35億9,000万円に達した[70]。半期を合算した売上高でみれば、1951年3月期の28億6,200万円が1954年3月期には76億1,800万円へ伸びている[71]。鋼管部門は1955年2月にロイド規格の許可を受け、技術と製品の優秀性を内外に示した[72]。1956年、三機工業は建築業界の常識を破ってサッシの規格化に成功し、レディーメードサッシ全盛時代の発端をつくった[73]。標準化した6Sサッシは不燃建築用のスティールサッシにあたる[74]。1957年7月には大阪証券取引所へ上場した[75]。この時期に社長を務めたのは山田熊男氏である[76]。1932年に日本鋼材の売却話を安本明治郎専務へ取り次いだ社員が、戦後の経営を預かった[77]。
1960年7月、三機工業は鋼管部門を分離して富士三機鋼管株式会社を設立し、営業を譲渡した[78]。その後2回にわたって富士三機鋼管の株式を富士製鉄へ売却し、価格は1株2,500円(額面500円)、総額は25億円にのぼった[79]。この結果、借入金は実質的にゼロとなり、逆に10億円以上の現金預金を抱えた[80]。金融引締めで建設株が一斉に売り叩かれた1961年秋に、三機工業だけは金融逼迫と無縁であり、積極的に業態を拡大する絶好の機会を迎えていた[81]。1961年11月29日の定期株主総会で授権資本の拡大を前提に25億円への3分の2増資を発表[82]。他社が資金の関係で積極策をとれないときに逆に一気に販売シェアを拡大するとして、1962年度に33億円の設備投資を行うと説明した[83]。
鋼管部門の分離は、売上高の見かけを30億円近く減らした。1960年3月期に175億3,500万円だった売上高は、1961年3月期には145億3,900万円へ減っている[84]。しかし経常利益は6億1,600万円から12億4,500万円へ増えており、業績の悪化ではない[85]。1962年3月期は売上高181億1,400万円・経常利益16億4,600万円、1963年3月期は売上高221億200万円・経常利益11億5,100万円[86]。1961年9月期の売上は81億円強、営業による利益は4億6,000万円で、富士三機鋼管の株式売却益を含めた実質利益は11億円に達した[87]。9月末の受注残は180億円に積み上がっていた[88]。分離後の業態は工事部門が42%、サッシが30%、荷役運搬機械が30%弱を占めた[89]。
山田熊男社長は1960年1月の対談で、三機工業を年間売上180億円の大企業体でありながら暖冷房・衛生工事・電気工事が合体した中小企業の集まりのような会社だと述べ、両者のよさを織り込んだ経営に一番の苦心があると語った[90]。大企業をデパートにたとえれば、三機工業のやり方は昔の勧工場の感覚だとした[91]。山田熊男社長は学校を出てすぐ三機工業に入った子飼いの第一回生で、現場監督もトラックの積み下ろしも経験している[92]。大企業的な経営は三井銀行の重役を3年がかりで招いた門野常務が受け持った[93]。1960年2月払込みの増資で資本金は10億円から15億円になった[94]。倍額増資も検討したが半額にとどめ、狙いを借入金の返済による自己資本の増強に置いた[95]。拠点は本店の東京のほか、支店が札幌・名古屋・大阪・福岡、出張所が仙台・金沢・富山・広島[96]。工場は鋼管の川崎と中津、コンベヤの鶴見、サッシの六郷ほか東京3カ所と大阪・博多に構えた[97]。
1962年1月に資本金を25億円へ増やしたのち、三機工業は1969年まで増資しなかった[98]。相模工場(現・大和プロダクトセンター)は1963年に竣工し、コンベヤの量産設備を備えた[99]。東京オリンピック関連では、1964年に国立代々木競技場やNHK放送センターの工事へ参画した[100]。従業員は1968年時点で2,327名を数え、社長は大前玉男氏である[101]。売上構成比は1969年に建築設備工事50%、窓枠25%、機械25%となった[102]。半期を合算した売上高は1964年3月期の240億4,300万円から1967年3月期の293億6,700万円へ伸び[103]、1969年3月期は439億7,400万円、1970年3月期は512億5,900万円に達した[104]。
窓枠以外の2部門は伸びた。建築設備工事部門は暖冷房・換気・衛生水道・厨房・電気を総合的に設計施工し、総建築費に占める設備工事費の比率は通常30%、高級化した建築物では50%に達するものも出ていた[105]。霞ケ関三井ビル、帝国ホテル、皇居新宮殿、NHK放送センターを施工し、銀行・保険会社のコンピューター関係の設備工事は特命で受けることが多かった[106]。冷暖房と衛生水道工事では業界第一位のシェアを持ち、部門全体としては業界で群を抜いてトップに立った[107]。機械部門では省力投資と流通近代化でコンベヤの売上高が3年間に2倍強へ増えた[108]。1969年6月5日には新東京国際空港の日本航空貨物センターの貨物運搬システムを、東京芝浦電気・石川島播磨重工業とともに三井グループとして受注した[109]。1970年の万博でも動く歩道の一部、約1億円を請け負っている[110]。1971年7月には熱供給事業子会社の苫小牧熱サービスを設立した[111]。
窓枠部門は逆の道をたどった。6Sサッシは1956年に業界の常識を破って標準化に成功したもので、1969年には不燃建築用スティールサッシの代名詞となり、シェアは20%を超えて業界第一位にあった[112]。しかしアルミサッシの開発は1965年と後発で、窓枠部門でのウエイトは高くなかった[113]。市場の需要構成はすでにアルミ60%、スティール40%へ傾いた[114]。大前玉男社長は1969年6月の講演で、スティールの短所を矯める努力を続けてきたが伸びは鈍化していると認め、成長を担うのはアルミサッシだとして鶴見・守山両工場の増強を進めると述べた[115]。1966年にはアルミサッシの量産を始め、住宅用サッシの需要に応じて守山工場を増設し、6SKサッシの月産能力を2万枚から倍増した[116]。先行各社に追いつけないまま、規格化で先鞭をつけたスティールサッシの市場は縮んだ。1973年12月、三機工業は三井軽金属加工に窓枠部門の営業を譲渡した[117]。
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|---|---|---|---|---|
| 1925〜1943年三井物産機械部が外に出した12人の工事会社 | 旧三井物産機械部を母体に三機工業を創立(資本金50万円、従業員12名) | ★★★ | ||
| 東京日本生命館の設備工事を竣工、満州に大連支店を開設 | ★ | |||
| 日本鋼材の経営権掌握と三建工業の合併 1933年、三機工業が労働争議と排外思想に行き詰まった日本鋼材へ日本資本を入れ、子会社の三建工業を同社へ合併させて経営権を握った判断。安本明治郎専務が日本鋼材の取締役社長に就き、製品の販売権も三機工業が一手におさめた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 川崎製作所と鶴見工場が軍需会社に指定 | ★★ | |||
| 1944〜1973年4,500万円で再出発した第二会社と、手放した鋼管とサッシ | 企業再建整備法に基づき旧三機工業の第二会社として設立 | ★★★ | ||
| 建設業法による建設大臣登録を取得 | ★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| 大阪証券取引所に上場 | ★ | |||
| 資本金が10億円を超える | ★ | |||
| 鋼管部門の分離と、富士三機鋼管株式の富士製鉄への売却 1960年7月、三機工業が鋼管部門を分離して富士三機鋼管株式会社を設立し、営業を譲渡した経営判断。その後2回にわたって富士三機鋼管の株式を富士製鉄へ売却し、価格は1株2,500円(額面500円)、総額25億円に達した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 名古屋証券取引所に上場 | ★ | |||
| 相模工場(現・大和プロダクトセンター)が竣工、コンベヤの量産設備を保有 | ★ | |||
| 国立代々木競技場、NHK放送センターなど東京オリンピック関連工事に参画 | ★ | |||
| 熱供給事業子会社の苫小牧熱サービスを設立 | ★ | |||
| 三井軽金属加工に窓枠部門の営業を譲渡 | ★★★ | |||
| 1974〜2006年玉置純治郎社長が説いたベクトル管理と、クリーンルーム | 三機空調センターなど事業別子会社4社を設立 | ★ | ||
| 神奈川県大和市に技術研究所を建設 | ★ | |||
| 環境システム子会社サンキ環境サービスを設立 | ★ | |||
| 宅清光 | 建築設備子会社の三机建筑工程(上海)有限公司を中国・上海に設立 | ★ | ||
| 宅清光 | オーストリアの散気装置製造・販売会社AQUACONSULT Anlagenbau GmbHの経営権を取得 | ★★ | ||
| 2007〜2026年創業以来初の経常赤字87億円と、量から採算への転換 | 宅清光 | 受注拡大策の撤回と、規模に見合った採算重視受注への転換 2007年3月期に三機工業グループが創業以来はじめての経常損失87億8,200万円を計上し、業績の悪化が顕著になった第4四半期になって、仕事量を最大限確保することによって利益を確保するという戦略を降ろし、利益重視への方針転換を明確にした経営判断。翌2008年3月期からは受注量の拡大を追わず、規模に見合った採算重視の受注へ改めた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 有馬修一郎 | 総合設備4社を統合し三機テクノサポートに商号変更 | ★ | ||
| 有馬修一郎 | タイ・バンコクに建築設備子会社THAI SANKIを設立 | ★ | ||
| 有馬修一郎 | 大阪証券取引所、名古屋証券取引所の上場を廃止 | ★ | ||
| 有馬修一郎 | 東京都中央区明石町に本店を移転 | ★ | ||
| 長谷川勉 | 神奈川県大和市に総合研修・研究施設の三機テクノセンターを建設 | ★ | ||
| 長谷川勉 | 機械システム事業の主力生産拠点「大和プロダクトセンター」を本格稼働 | ★★ | ||
| 石田博一 | 東京証券取引所プライム市場へ移行 | ★ | ||
| 石田博一 | 創立100周年、経営ビジョン"MIRAI 2030"と中期経営計画2027を発表 | ★ | ||
| 石田博一 | 三機グリーンテックが邦英商興の全株式を取得し子会社化 | ★ |
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事実根拠:出所(三機工業)