第1章 年〜年

三機工業:三井物産機械部を母体とした従業員12名での創立

1925年〜高田商会の倒産と大谷工務所の営業経歴を借りた発足

1920年代半ばの管工事業界で、暖房設備材料の独占的な供給者は高田商会だった。同商会の販売価格が業界に深く浸透し、他の業者はそれを無視して材料を売れなかった。明治末期から工事施工を兼営し、日本最初の管工事業者として経験と技術を握っていたのも同商会である。三井物産機械部は建築材料と機械類の輸入販売を営みながら、この部門では引合いに応じて取り次ぐだけの立場にとどまり、三井の規模をもってしても高田商会に太刀打ちできなかった。ところが1925年2月ごろ、政府が従来の救済政策を打ち切って財政緊縮へ転じたあおりで、高田商会が倒産した。管工事業界が一時虚脱した状態を、三井物産機械部は工事部門へ進出する好機と見た。

  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第一節「創立までの経緯」
    • [1]高田商会は暖房設備材料の面で独占的な供給者だった
    • [2]高田商会の販売価格が業界に深く浸透し、他の業者はそれを無視して材料販売ができなかった
    • [3]高田商会は明治末期から工事施工を兼営し、わが国最初の管工事業者だった
    • [4]三井物産機械部は引合いに応じて取り次ぐだけの立場で、三井の規模でも高田商会に太刀打ちできなかった
    • [5]1925年2月ごろ、政府の救済政策打切りの犠牲となって高田商会が倒産した
    • [6]高田商会の没落で管工事業界が一時虚脱状態に陥り、三井物産機械部はこれを業界進出の好機と考えた

ただし、三井物産が自ら工事請負業へ乗り出すには障害が2つあった。一つは定款で、事業目的を物品販売業・問屋業・運送業・代理業・製材業・造船業とその付帯事業に限っていたため、工事請負業を兼ねるには変更の手続きが要った。もう一つは原価であり、他社より高い三井物産並みの労働条件で工事技術者を抱えれば、工事原価を押し上げる恐れがあった。不況下の競争では原価の切下げが必須とされ、成果の未知数な事業で企業的冒険は避けるという判断に落ち着き、三井物産は直営を退けて別会社の設立を選んだ。さらに官庁工事の入札には3年以上の営業経歴が必要で、会社を新設しただけでは営業を開始されなかった。そこで三井物産機械部は、U・Sラジエーターの特約店だった大谷工務所の営業経歴を基盤に据えた。大谷工務所は大谷義徳氏が1920年12月に設立し、暖房設備の工事施工を専門としていた。

  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第一節「創立までの経緯」
    • [7]三井物産自体が工事請負業に手を出すには困難な問題が幾つかあった
    • [8]三井物産の定款は目的を物品販売業、問屋業、運送業、代理業、製材業、造船業ならびにこれが付帯事業に限り、兼営には定款変更が必要だった
    • [9]三井物産並みの高い労働条件で工事技術者を擁すると工事原価を高くする心配があった
    • [10]事業の成果は未知数で、企業的冒険は避け、別会社を設立して当たらせるほうが合理的と判断された
    • [11]当時は3カ年以上の営業経歴がなければ官庁工事の入札資格がなく、工事会社を新設しても営業を始められなかった
    • [12]三井物産の特約店だった大谷工務所の営業経歴を基盤とする工事会社設立の企画が承認された
    • [13]大谷工務所は大谷義徳氏が1920年12月に設立し、もっぱら暖房設備の工事施工を行っていた

三機工業という社名は、三井物産機械部の仕事に結びつく会社として生まれることにちなむ。原始定款は1925年4月1日に、南條金雄・鳥羽總治・安本明治郎・矢島房脩・市川純一・佐々田彰夫・大谷義徳の7名を発起人として作られ、資本金は50万円とされた。経営を任されたのは、南條金雄常務取締役の推薦を受けた機械部鉄道掛主任の安本明治郎氏である。4月23日に設立を登記し、5月1日に営業に入った。役員は鳥羽總治氏が取締役会長、安本明治郎氏が専務取締役となった。事務所は麹町区有楽町2丁目の報知ビル旧館の一室25坪で、家賃は300円だった。三井物産の安川雄之助常務取締役が新設小会社には分に過ぎるとして容易に承認せず、大谷義徳氏が説得して了承を得た。大谷工務所から角田義雄・上田武夫・三上謙一・高瀬喜代作・宇都宮清弼・伊藤登の全員が入社し、給仕とタイピストを加えた12名で発足した。

  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第一節「創立までの経緯」
    • [14]社名は三井物産機械部の業務に関連して設立されることから三機工業と名づけられた
    • [15]1925年4月1日、南條金雄ら7名が発起人となり資本金50万円で原始定款を作成した
    • [16]南條金雄常務取締役の推薦で機械部鉄道掛主任の安本明治郎氏が起用され、4月23日に設立登記、5月1日に営業を開始した
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第三節「営業開始」
    • [17]取締役の互選により取締役会長に鳥羽總治、専務取締役に安本明治郎が就任した
    • [18]事務所は麹町区有楽町2丁目の報知ビル旧館の約25坪で、家賃は300円だった
    • [19]三井物産の安川雄之助常務取締役が家賃300円は分に過ぎるとして承認せず、大谷義徳氏が説得して了承を得た
    • [20]大谷工務所から角田義雄ら全員が入社し、給仕とタイピストを加えた12名で発足した
参考文献[1]-[20]
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第一節「創立までの経緯」
    • [1]高田商会は暖房設備材料の面で独占的な供給者だった
    • [2]高田商会の販売価格が業界に深く浸透し、他の業者はそれを無視して材料販売ができなかった
    • [3]高田商会は明治末期から工事施工を兼営し、わが国最初の管工事業者だった
    • [4]三井物産機械部は引合いに応じて取り次ぐだけの立場で、三井の規模でも高田商会に太刀打ちできなかった
    • [5]1925年2月ごろ、政府の救済政策打切りの犠牲となって高田商会が倒産した
    • [6]高田商会の没落で管工事業界が一時虚脱状態に陥り、三井物産機械部はこれを業界進出の好機と考えた
    • [7]三井物産自体が工事請負業に手を出すには困難な問題が幾つかあった
    • [8]三井物産の定款は目的を物品販売業、問屋業、運送業、代理業、製材業、造船業ならびにこれが付帯事業に限り、兼営には定款変更が必要だった
    • [9]三井物産並みの高い労働条件で工事技術者を擁すると工事原価を高くする心配があった
    • [10]事業の成果は未知数で、企業的冒険は避け、別会社を設立して当たらせるほうが合理的と判断された
    • [11]当時は3カ年以上の営業経歴がなければ官庁工事の入札資格がなく、工事会社を新設しても営業を始められなかった
    • [12]三井物産の特約店だった大谷工務所の営業経歴を基盤とする工事会社設立の企画が承認された
    • [13]大谷工務所は大谷義徳氏が1920年12月に設立し、もっぱら暖房設備の工事施工を行っていた
    • [14]社名は三井物産機械部の業務に関連して設立されることから三機工業と名づけられた
    • [15]1925年4月1日、南條金雄ら7名が発起人となり資本金50万円で原始定款を作成した
    • [16]南條金雄常務取締役の推薦で機械部鉄道掛主任の安本明治郎氏が起用され、4月23日に設立登記、5月1日に営業を開始した
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第三節「営業開始」
    • [17]取締役の互選により取締役会長に鳥羽總治、専務取締役に安本明治郎が就任した
    • [18]事務所は麹町区有楽町2丁目の報知ビル旧館の約25坪で、家賃は300円だった
    • [19]三井物産の安川雄之助常務取締役が家賃300円は分に過ぎるとして承認せず、大谷義徳氏が説得して了承を得た
    • [20]大谷工務所から角田義雄ら全員が入社し、給仕とタイピストを加えた12名で発足した

1926年〜輸入品の不振と東京建鉄との提携解除が生んだ三建工業

営業開始後に最初に扱った仕事は、大谷工務所から受け継いだ12口の暖房・給水工事で、契約高は7万2,000円にとどまった。建築の業界では三井物産の名が効かず、社員が設計事務所や官庁を訪ね歩いてもまるで相手にされなかった。自主受注の第1号となったのは、ライジングサン石油会社の蒸気暖房設備や中野銀行の温水暖房設備を含む暖房工事4口の約1万4,000円と、小田原駅など5口のロバートソン・メタル屋根ぶき工事の約3万6,000円である。1925年5月31日までの1カ月だった第1期には、完成した工事が一件もなく約3,800円の欠損を出し、同年11月末で締めた第2期も約3,000円の赤字だった。重松傳三郎氏と重金源治郎氏は三井物産から移ってきたが、初めの1〜2年は同社の籍を持ったまま、嘱託の身分で三機工業の仕事に携わった。

  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第三節「営業開始」
    • [21]営業開始後に最初に扱ったのは大谷工務所から受け継いだ12口の暖房・給水工事で、契約高は7万2,000円だった
    • [22]三井物産のネームバリューは建築業界では通用せず、設計事務所や官庁を回っても鼻もひっかけられないあしらいを受けた
    • [23]自主受注の第1号はライジングサン石油会社の蒸気暖房設備、中野銀行の温水暖房設備など4口約1万4,000円と、小田原駅ほか5口のロバートソン・メタル屋根ぶき工事約3万6,000円だった
    • [24]第1期決算までの営業期間は1925年5月31日までの1カ月で、完了した工事は一件もなく約3,800円の欠損を計上した
    • [26]重松傳三郎と重金源治郎は当初1〜2年、三井物産に籍を残したまま嘱託として業務に携わった
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第四節「基礎の確立」
    • [25]第2期(1925年11月30日まで)の損益は約3,000円の欠損だった

取り扱う輸入品は、どれも不振だった。U・Sラジエーターもドラバーン社製氷機もラプトン・スチールサッシも国産品に太刀打ちできず、ロバートソン・メタルだけが鉄道省や陸軍省の需要をつかんだ。創業から2〜3年は、この屋根材の売上げが三機工業の経費をまかなった。1926年上期に東洋レーヨン滋賀工場と青森製氷会社の二大工事を受注すると、契約高は前期の約39万9,000円から約112万9,000円へ増えた。第3期には前2期の損失を償却し、1万円余の利益を初めて計上した。主力商品を優良な国産品へ移すため、三機工業は1927年3月24日、東京建鉄および東京鋼板工業と総代理店契約に調印。建材部長の重松傳三郎氏が三井物産機械部の時代に築いた田島壹號氏との縁が交渉の発端となり、鋼製建具は一躍看板種目となった。

  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第四節「基礎の確立」
    • [27]U・Sラジエーター、ドラバーン社製氷機、ラプトン・スチールサッシなど取扱いの輸入製品はいずれも不振だった
    • [28]ロバートソン・メタルは鉄道省のプラットホームや陸軍省の格納庫などの需要をつかみ、取扱営業種目中の首位を占めた
    • [29]当初2〜3年はロバートソン・メタルの売上げで会社の経費をまかなった
    • [30]1926年上期に東洋レーヨン滋賀工場と青森製氷会社の二大工事を受注し、契約高は前期の約39万9,000円から約112万9,000円へ増加した
    • [31]第3期に前2期の損失を償却し、1万円余の利益金を初めて計上した
    • [32]ラプトン社製サッシに見切りをつけ、1927年3月24日に東京建鉄および東京鋼板工業と総代理店契約に調印した
    • [33]重松建材部長と田島壹號氏の縁故が提携の一因となり、サッシによって工事会社としての社名が業界に知られるに至った

しかし東京建鉄製品は原価が高く、価格では大和サッシや栄進社に一歩を譲ることがしばしばあり、1928年上期の契約高は見積高の1割8分強にとどまった。同年9月、東京建鉄の内紛で大阪工場が閉鎖され、同工場製品を基盤に設立された三機工業大阪支店は苦境に立った。1929年5月、東京建鉄は契約期限を1年余残したまま販売契約の解除を申し出て、両社は6月6日に契約を正式解除した。生産的基盤を自ら持たない販売業者の弱さが表に出た。安本明治郎専務は、東京建鉄を離れて大森の新井宿で工場建設を進めていた糸永文古氏と瀬川勝平氏に提携を申し出た。三機工業は設備の大半が完成していた大森工場を買収し、1929年9月19日に資本金125万円・4分の1払込で三建工業株式会社を創立した。取締役社長に糸永文古氏、常務取締役に川人芳男氏と瀬川勝平氏が就任し、三建工業が鋼製建具を製作して三機工業が一手販売する分担を敷いた。

  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第二節「製造部門への進出」
    • [34]原価の高い東京建鉄製品は価格で大和サッシや栄進社に一歩を譲ることがしばしばで、1928年上期の契約高は見積高の1割8分強に過ぎなかった
    • [35]1928年9月、東京建鉄本社側と大阪側の内紛で大阪工場が閉鎖され、同工場製品を基盤に設立された大阪支店は苦境に立った
    • [36]1929年5月、契約期限を1年余残して東京建鉄から販売契約解除の申し出があり、同年6月6日に正式解除した
    • [37]自らは生産的基盤を持たず、他社製品の販売とそれを材料とする工事施工に当たるだけの事業形態だった
    • [38]東京建鉄大阪工場閉鎖時に同社を離れ、東京大森の新井宿で工場設備の建設を始めていた糸永文古氏と瀬川勝平氏に安本明治郎専務が企業提携を申し出た
    • [39]設備の大半が完成していた大森工場を買収し、1929年9月19日に資本金125万円・4分の1払込で三建工業株式会社を創立した
    • [40]三建工業の取締役社長に糸永文古、常務取締役に川人芳男・瀬川勝平が就き、同社が鋼製建具を製作し三機工業がその一手販売を行った
参考文献[21]-[40]
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第三節「営業開始」
    • [21]営業開始後に最初に扱ったのは大谷工務所から受け継いだ12口の暖房・給水工事で、契約高は7万2,000円だった
    • [22]三井物産のネームバリューは建築業界では通用せず、設計事務所や官庁を回っても鼻もひっかけられないあしらいを受けた
    • [23]自主受注の第1号はライジングサン石油会社の蒸気暖房設備、中野銀行の温水暖房設備など4口約1万4,000円と、小田原駅ほか5口のロバートソン・メタル屋根ぶき工事約3万6,000円だった
    • [24]第1期決算までの営業期間は1925年5月31日までの1カ月で、完了した工事は一件もなく約3,800円の欠損を計上した
    • [26]重松傳三郎と重金源治郎は当初1〜2年、三井物産に籍を残したまま嘱託として業務に携わった
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第四節「基礎の確立」
    • [25]第2期(1925年11月30日まで)の損益は約3,000円の欠損だった
    • [27]U・Sラジエーター、ドラバーン社製氷機、ラプトン・スチールサッシなど取扱いの輸入製品はいずれも不振だった
    • [28]ロバートソン・メタルは鉄道省のプラットホームや陸軍省の格納庫などの需要をつかみ、取扱営業種目中の首位を占めた
    • [29]当初2〜3年はロバートソン・メタルの売上げで会社の経費をまかなった
    • [30]1926年上期に東洋レーヨン滋賀工場と青森製氷会社の二大工事を受注し、契約高は前期の約39万9,000円から約112万9,000円へ増加した
    • [31]第3期に前2期の損失を償却し、1万円余の利益金を初めて計上した
    • [32]ラプトン社製サッシに見切りをつけ、1927年3月24日に東京建鉄および東京鋼板工業と総代理店契約に調印した
    • [33]重松建材部長と田島壹號氏の縁故が提携の一因となり、サッシによって工事会社としての社名が業界に知られるに至った
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第二節「製造部門への進出」
    • [34]原価の高い東京建鉄製品は価格で大和サッシや栄進社に一歩を譲ることがしばしばで、1928年上期の契約高は見積高の1割8分強に過ぎなかった
    • [35]1928年9月、東京建鉄本社側と大阪側の内紛で大阪工場が閉鎖され、同工場製品を基盤に設立された大阪支店は苦境に立った
    • [36]1929年5月、契約期限を1年余残して東京建鉄から販売契約解除の申し出があり、同年6月6日に正式解除した
    • [37]自らは生産的基盤を持たず、他社製品の販売とそれを材料とする工事施工に当たるだけの事業形態だった
    • [38]東京建鉄大阪工場閉鎖時に同社を離れ、東京大森の新井宿で工場設備の建設を始めていた糸永文古氏と瀬川勝平氏に安本明治郎専務が企業提携を申し出た
    • [39]設備の大半が完成していた大森工場を買収し、1929年9月19日に資本金125万円・4分の1払込で三建工業株式会社を創立した
    • [40]三建工業の取締役社長に糸永文古、常務取締役に川人芳男・瀬川勝平が就き、同社が鋼製建具を製作し三機工業がその一手販売を行った

1943年〜日本鋼材の経営権掌握と法人格の逆転

日本鋼材は1919年4月、アメリカン・トレーディング会社とトラスコン・スチール会社の共同出資により、資本金100万円の日米建築材料株式会社として設立された。同年8月に日本トラスコン鋼材、1930年9月に日本鋼材へ商号を変更し、資本は全額がアメリカ側の出資だった。満州事変以降に排外思想が強まると、アメリカ人で占められた幹部への従業員の不信が募り、労働争議が頻発した。川崎工場のストライキは川崎地区でも知られ、日本で最初とみられる職員のストライキも同社で起きた。外人会社の製品を敬遠する空気も重なり、経営者は日本資本の導入と日本人による経営を迫られた。

  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第二節「日本鋼材との提携」
    • [41]日本鋼材は1919年4月、アメリカン・トレーディング会社とトラスコン・スチール会社の共同出資により資本金100万円の日米建築材料株式会社として設立された
    • [42]1919年8月に日本トラスコン鋼材、1930年9月に日本鋼材と改称し、資本全額はアメリカ側の出資だった
    • [43]満州事変以降に排外思想が盛んになり、アメリカ人で占められた幹部への従業員の不信・不満が高まって労働争議が頻発した
    • [44]日本鋼材川崎工場のストライキは川崎地区でも有名で、わが国最初と思われる職員のストライキも同社で発生した
    • [45]外人会社への製品ボイコットを避けるためにも、経営者は日本資本の導入と日本人による経営で時勢に対処せざるを得なくなった

1932年晩秋、三機工業の社員だった山田熊男氏は、三井高長氏のお供で出向いたゴルフ練習場の帰り道、同乗した有賀輝氏から、争議に嫌気がさしたR・F・モス社長が工場の買い手を探していると持ちかけられた。提携を実現するには、作る品目の重なる日本鋼材と三建工業をまず一つにしておかなければならなかった。申し出を受けたその場で、山田熊男氏は、三機工業のサッシ部門も業績が振るわず実現は難しかろうと何気なく返し、すぐさま安本明治郎専務の自宅へ行って報告した。報告を受けた安本明治郎専務は険しい顔で申し出への返事の中身を問いただし、答えを聞いてようやく顔つきを和らげた。1933年10月10日付の東京日日新聞川崎版が、日本鋼材が三建工業を有利な条件で買い取るという記事を載せると、三建工業の従業員は動揺し、怠業に入った。従業員側は人員整理をしないことなどを要求書で求めた。両社は11月25日に合併契約書に調印し、28日の同じ時刻に合併を公表するとともに要求へも回答して、事態を収めた。

  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第二節「日本鋼材との提携」
    • [46]1932年晩秋、山田熊男社員は三井高長氏のお供でゴルフ練習場へ行った帰りの車中で、有賀輝氏からR・F・モス社長が工場を売りたがっていると持ちかけられた
    • [47]製作種目を同じくする日本鋼材と三建工業をまず合併させる必要があった
    • [48]山田熊男社員はサッシ部門の業績が悪く実現は難しいだろうとさりげなく答え、直後に安本明治郎専務宅へ駆けつけて報告した
    • [49]安本明治郎専務は表情を険しくして申し出にどう答えたかを詰問し、返答を聞いて初めて表情を緩めた
    • [50]1933年10月10日付の東京日日新聞川崎版に日本鋼材が有利な条件で三建工業を買収する内容の記事が載り、三建工業の従業員は動揺して怠業状態に陥った
    • [51]人員整理を行わないこと、川崎工場への移転引越手当の確保などの要求書が提出され、11月25日に合併契約書へ調印、28日の同じ時刻に両社が正式発表して要求にも回答し、紛争は解決した

合併後の日本鋼材の資本構成は、三井資本38%・アメリカ資本43%・その他19%となった。取締役会長に南條金雄氏、取締役社長に安本明治郎氏、常務取締役に川人芳男氏が就任し、三機工業が実質的に経営権を掌握した。三建工業の存続はわずか4年余だったが、三機工業が製造部門に初めて関与したのは同社の設立による。日本鋼材は1934年3月に三建工業を合併して東洋鋼材へ改称した。東洋鋼材は米国で発明された電気抵抗利用の製管法の特許権を買い、1935年から川崎工場で電縫鋼管の製造を開始した。1936年にはコンベヤの製造に入り、1937年には米国ドル・オリバー社と技術提携して鉱山・化学工業機械へ進んだ。そして1943年3月、東洋鋼材が三機工業を合併して資本金807万7,000円となり、商号を三機工業へ変更した。三機工業の名を継いだのは、買収した側ではなく買収された側の法人だった。

  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第二節「日本鋼材との提携」
    • [52]日本鋼材と三建工業の合併の結果、日本鋼材の資本構成は三井資本38%、アメリカ資本43%、その他19%となった
    • [53]取締役会長に南條金雄、取締役社長に安本明治郎、常務取締役に川人芳男が就任し、実質的に三機工業が経営権を掌握した
    • [54]三建工業の存続期間は1929年9月の創立以来わずか4年余で、三機工業が初めて製造部門に関与したのも同社の設立による
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 34_鉄鋼「三機工業」
    • [55]日本鋼材は1934年3月に子会社の三建工業を合併して150万円に増資し、東洋鋼材と改称した
    • [56]1934年に米国で発明された電気抵抗利用の製管法の特許権を購入し、1935年から川崎工場で製管を開始した
    • [58]1943年3月に東洋鋼材が三機工業を合併して資本金807万7,000円となり、商号を三機工業と変更した
    • [59]1943年3月の合併では東洋鋼材が三機工業を合併し、東洋鋼材が三機工業へ商号を変更した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「三機工業」
    • [57]1936年にコンベヤの製造を開始し、1937年に米国ドル・オリバー社と技術提携して鉱山・化学工業機械の分野に進出した
参考文献[41]-[59]
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第二節「日本鋼材との提携」
    • [41]日本鋼材は1919年4月、アメリカン・トレーディング会社とトラスコン・スチール会社の共同出資により資本金100万円の日米建築材料株式会社として設立された
    • [42]1919年8月に日本トラスコン鋼材、1930年9月に日本鋼材と改称し、資本全額はアメリカ側の出資だった
    • [43]満州事変以降に排外思想が盛んになり、アメリカ人で占められた幹部への従業員の不信・不満が高まって労働争議が頻発した
    • [44]日本鋼材川崎工場のストライキは川崎地区でも有名で、わが国最初と思われる職員のストライキも同社で発生した
    • [45]外人会社への製品ボイコットを避けるためにも、経営者は日本資本の導入と日本人による経営で時勢に対処せざるを得なくなった
    • [46]1932年晩秋、山田熊男社員は三井高長氏のお供でゴルフ練習場へ行った帰りの車中で、有賀輝氏からR・F・モス社長が工場を売りたがっていると持ちかけられた
    • [47]製作種目を同じくする日本鋼材と三建工業をまず合併させる必要があった
    • [48]山田熊男社員はサッシ部門の業績が悪く実現は難しいだろうとさりげなく答え、直後に安本明治郎専務宅へ駆けつけて報告した
    • [49]安本明治郎専務は表情を険しくして申し出にどう答えたかを詰問し、返答を聞いて初めて表情を緩めた
    • [50]1933年10月10日付の東京日日新聞川崎版に日本鋼材が有利な条件で三建工業を買収する内容の記事が載り、三建工業の従業員は動揺して怠業状態に陥った
    • [51]人員整理を行わないこと、川崎工場への移転引越手当の確保などの要求書が提出され、11月25日に合併契約書へ調印、28日の同じ時刻に両社が正式発表して要求にも回答し、紛争は解決した
    • [52]日本鋼材と三建工業の合併の結果、日本鋼材の資本構成は三井資本38%、アメリカ資本43%、その他19%となった
    • [53]取締役会長に南條金雄、取締役社長に安本明治郎、常務取締役に川人芳男が就任し、実質的に三機工業が経営権を掌握した
    • [54]三建工業の存続期間は1929年9月の創立以来わずか4年余で、三機工業が初めて製造部門に関与したのも同社の設立による
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 34_鉄鋼「三機工業」
    • [55]日本鋼材は1934年3月に子会社の三建工業を合併して150万円に増資し、東洋鋼材と改称した
    • [56]1934年に米国で発明された電気抵抗利用の製管法の特許権を購入し、1935年から川崎工場で製管を開始した
    • [58]1943年3月に東洋鋼材が三機工業を合併して資本金807万7,000円となり、商号を三機工業と変更した
    • [59]1943年3月の合併では東洋鋼材が三機工業を合併し、東洋鋼材が三機工業へ商号を変更した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「三機工業」
    • [57]1936年にコンベヤの製造を開始し、1937年に米国ドル・オリバー社と技術提携して鉱山・化学工業機械の分野に進出した

筆者考察

三機工業は、自分で始めた会社ではなく、始めさせられた会社であった。1925年に高田商会が倒れて管工事の市場が空いたとき、三井物産が選んだのは直営ではなく、別会社の設立であった。定款の変更が要り、三井物産並みの労働条件で技術者を抱えれば工事原価が上がる。官庁工事の入札には3年以上の営業経歴も必要であった。そこで大谷工務所の経歴を借り、資本金50万円・社員12名の別会社を立てた。有楽町の25坪の事務所の家賃300円さえ、新設の小会社には分に過ぎるとして本社に止められている。身銭を切らずに市場へ参入するための別会社が、この会社の出発点だった。

借り物で始めた会社は、借り物の弱さを二度突かれた。輸入品は国産品に対して競争劣位にあり、鋼製建具を看板にした東京建鉄との総代理店契約は、期限を1年余り残して解除される。売る商品を他人が握っているかぎり、取引はいつでも打ち切られる。1929年に三建工業を設立して製造へ回ったのはその答えであり、1933年に日本鋼材の経営権を握ったのは同じ答えの延長であった。そして1943年3月、合併したのは東洋鋼材の側で、三機工業の名だけが残る。社名を継いだのは、三井物産機械部が外へ出した法人ではなかった。

出典・参考

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出典・参考
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第一節「創立までの経緯」
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第三節「営業開始」
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第一章 創業期 第四節「基礎の確立」
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第二節「製造部門への進出」
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第二節「日本鋼材との提携」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 34_鉄鋼「三機工業」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「三機工業」

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