三機工業:企業再建整備法による第二会社設立と鋼管・窓枠部門の譲渡
1944年〜軍需会社の指定から資本金4,500万円の第二会社への再出発
1943年3月の合併で、三機工業は鋼管・コンベヤ・鋼製窓枠・建築設備工事を一つの法人に抱える製造会社になった。戦時中には朝鮮・満州・中国にも事業を拡大した。国内では1939年6月に鶴見工場を開き、コンベヤを自前で作る体制に移していた。軍需会社の指定は、1943年に川崎製作所と鶴見工場が受け、1944年4月には会社全体に及んだ。1945年1月には需要の伸びに応じて工場を大分県中津市に建て、一般用に加えてガス管・ボイラ用・化学工業用の各種鋼管を造り、資本金も1943年3月の800万円から1945年2月には1,700万円となった。戦時の需要に合わせて設備も資本も膨らませたところで、敗戦を迎えることになった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 34_鉄鋼「三機工業」
- [1]1943年3月に東洋鋼材が三機工業を合併して商号を三機工業と変更し、電縫鋼管・荷役運搬機械・窓枠・暖冷房・建築付帯設備・化学鉱山用設備を事業とした
- [6]1945年1月、増加する需要に応ずるため大分県中津市に工場を建設し、一般用鋼管のほかガス管・ボイラ用・化学工業用等の各種鋼管を製造した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三機工業」
- [2]戦時中に朝鮮・満州・中国へ進出した
- [3]1939年6月に鶴見工場を開設し、コンベアの製作を自営に切り替えた
- [5]1944年4月に軍需会社に指定された
- 三機工業 有価証券報告書【沿革】
- [4]1943年に川崎製作所と鶴見工場が軍需会社に指定された
- 株式会社年鑑 1963年版「三機工業」
- [7]資本金は1943年3月に800万円、1945年2月に1,700万円となった
1949年8月1日、企業再建整備法に基づいて旧三機工業が解散した。同日、その現物出資により資本金4,500万円の第二会社として新しい三機工業株式会社が設立された。解散した法人は、1919年4月にアメリカン・トレーディング会社とトラスコン・スチール会社の共同出資で設立された日米建築材料に始まる。日本トラスコン鋼材・日本鋼材・東洋鋼材と商号を替えたのち、1943年3月に三機工業を合併して社名を引き継いだ会社であった。資本のつながりはこの時点でも切れておらず、連合国財産株式として12万2,900株が1949年の政令第310号により保留されていた。24年前に12名で発足した工事会社は、母体をたたむ側ではなく引き継ぐ側に回った。
- 株式会社年鑑 1951年版「三機工業」
- [8]1949年8月1日、企業再建整備法により旧三機工業は「旧三機工業」と改称して解散した
- [12]連合国財産株式として12万2,900株が1949年の政令第310号により保留されていた
- 株式会社年鑑 1955年版「三機工業」
- [9]旧会社の現物出資により、1949年8月1日に第二会社・三機工業株式会社が資本金4,500万円で設立された
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 34_鉄鋼「三機工業」
- [10]旧会社は1919年4月にアメリカン・トレーディング会社とトラスコン・スチール会社の共同出資により資本金100万円の日米建築材料株式会社として設立された
- [11]日米建築材料は日本トラスコン鋼材、日本鋼材、東洋鋼材と商号を変え、1943年3月に三機工業を合併して三機工業と商号を変更した
第二会社は、製造と請負を一つの会社に同居させた形で出発した。1949年10月に建設業法による建設大臣登録を取得し、1950年9月5日には東京証券取引所へ上場した。営業目的には、電縫鋼管と磨帯鋼の製造、コンベヤーその他の鉱山用機械と化学機械、鋼製窓枠と鋼製品の製造が並んだ。そこへ暖房・衛生・電気工事の請負と、米国ドル会社およびオリバー会社の日本における製作・販売の代理が加わった。工場は川崎・鶴見・中津の三か所で、1950年3月期の売上高は11億4,034万円、当期利益は4,316万円であった。大株主には千代田生命・第一物産・日本生命・日之出貿易・室町物産が各10万株で並んだ。
- 株式会社年鑑 1951年版「三機工業」
- [13]第二会社の営業目的は鋼管・機械の製造と建築設備工事の請負の双方にまたがっていた
- [16]営業目的は、電縫鋼管・磨帯鋼の製造、コンベヤーその他鉱山用機械・化学機械、鋼製窓枠・鋼製品の製造であった
- [17]営業目的には暖房・衛生・電気工事の請負と、ドル会社・オリバー会社の日本における製作・販売の代理が含まれた
- [18]工場は川崎工場・鶴見工場・中津工場の三か所であった
- [19]1950年3月期の売上高は11億4,034万3,000円、当期利益金は4,316万2,000円であった
- [20]大株主は千代田生命・第一物産・日本生命・日之出貿易・室町物産で、いずれも10万株であった
- 三機工業 有価証券報告書【沿革】
- [14]1949年10月に建設業法による建設大臣登録を取得した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三機工業」
- [15]東京証券取引所への上場開始は1950年9月5日である
参考文献[1]-[20]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 34_鉄鋼「三機工業」
- [1]1943年3月に東洋鋼材が三機工業を合併して商号を三機工業と変更し、電縫鋼管・荷役運搬機械・窓枠・暖冷房・建築付帯設備・化学鉱山用設備を事業とした
- [6]1945年1月、増加する需要に応ずるため大分県中津市に工場を建設し、一般用鋼管のほかガス管・ボイラ用・化学工業用等の各種鋼管を製造した
- [10]旧会社は1919年4月にアメリカン・トレーディング会社とトラスコン・スチール会社の共同出資により資本金100万円の日米建築材料株式会社として設立された
- [11]日米建築材料は日本トラスコン鋼材、日本鋼材、東洋鋼材と商号を変え、1943年3月に三機工業を合併して三機工業と商号を変更した
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三機工業」
- [2]戦時中に朝鮮・満州・中国へ進出した
- [3]1939年6月に鶴見工場を開設し、コンベアの製作を自営に切り替えた
- [5]1944年4月に軍需会社に指定された
- [15]東京証券取引所への上場開始は1950年9月5日である
- 三機工業 有価証券報告書【沿革】
- [4]1943年に川崎製作所と鶴見工場が軍需会社に指定された
- [14]1949年10月に建設業法による建設大臣登録を取得した
- 株式会社年鑑 1963年版「三機工業」
- [7]資本金は1943年3月に800万円、1945年2月に1,700万円となった
- 株式会社年鑑 1951年版「三機工業」
- [8]1949年8月1日、企業再建整備法により旧三機工業は「旧三機工業」と改称して解散した
- [12]連合国財産株式として12万2,900株が1949年の政令第310号により保留されていた
- [13]第二会社の営業目的は鋼管・機械の製造と建築設備工事の請負の双方にまたがっていた
- [16]営業目的は、電縫鋼管・磨帯鋼の製造、コンベヤーその他鉱山用機械・化学機械、鋼製窓枠・鋼製品の製造であった
- [17]営業目的には暖房・衛生・電気工事の請負と、ドル会社・オリバー会社の日本における製作・販売の代理が含まれた
- [18]工場は川崎工場・鶴見工場・中津工場の三か所であった
- [19]1950年3月期の売上高は11億4,034万3,000円、当期利益金は4,316万2,000円であった
- [20]大株主は千代田生命・第一物産・日本生命・日之出貿易・室町物産で、いずれも10万株であった
- 株式会社年鑑 1955年版「三機工業」
- [9]旧会社の現物出資により、1949年8月1日に第二会社・三機工業株式会社が資本金4,500万円で設立された
1950年〜朝鮮動乱の特需とドル・オリバー社との提携復活による多角化
朝鮮動乱の勃発以降、生産は特需の波に乗って急速に復活した。都市復興に伴う大ビルディングの建築ラッシュは工事部門の活況を促し、沖縄・台湾・東南アジア方面への進出の道も開けて鋼管と鋼製窓枠の輸出が増えた。資本金は1952年2月に2億円となり、1955年3月期の売上高は35億9,000万円に達した。1954年9月期の内訳をみると、工事が19億4,977万円で最も大きく、電縫鋼管が12億3,285万円、コンベヤー等が2億9,915万円と続く。電縫鋼管の生産能力は年3万5,000屯、生産実績は2万4,584屯で、従業員は1,440人であった。製造会社として再出発した会社の主力事業は、すでに請負のほうへ移っていた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 34_鉄鋼「三機工業」
- [21]朝鮮動乱勃発以来、生産は特需の波に乗って急速に復活した
- [22]都市復興の機運に伴う大ビルディングの建築ラッシュが工事部門の活況を促した
- [23]沖縄・台湾・東南アジア方面への進出の道も開け、鋼管・鋼製窓枠等の輸出も増加の一途をたどった
- [24]資本金は1952年2月に2億円となった
- [25]1955年3月期の売上高は35億9,000万円であった
- 株式会社年鑑 1955年版「三機工業」
- [26]1954年9月期の売上高は工事19億4,977万8,000円、電縫鋼管12億3,285万8,000円、コンベヤー等2億9,915万2,000円であった
- [27]電縫鋼管の生産能力は3万5,000屯、生産実績は2万4,584屯であった
- [28]従業員は1,440人であった
1952年、三機工業は米国ドル社およびオリバー社との技術提携と代理店契約を復活させた。両社との極東地区総代理店契約は1937年4月に結ばれ、選鉱用・化学工業用の特許機械について日本と満州での一手販売を引き受けていた。この契約は第二次大戦の開戦によって中断していた。復活した契約のもとで、三機工業は選鉱機械・連続苛性化装置・フルオソリッド焙焼炉・廃水と屎尿の処理施設・肥料製造装置を扱った。これらは製紙・化学工業・鉱山の企業合理化と都市計画に欠かせない新設備として業界の注目を集めた。1954年7月には環境衛生工事の施工を目的に三機環衛設備を設立し、1955年2月には鋼管部門がロイド規格の許可を受けた。戦前に築いた外国技術への通路を取り戻したことが、請負の範囲を上下水と廃水の処理まで広げた。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 34_鉄鋼「三機工業」
- [29]1952年に米国ドル会社およびオリバー会社との技術提携ならびに代理店契約を復活した
- [32]選鉱機械、連続苛性化装置、フルオソリッド焙焼炉、廃水ならびに屎尿処理施設、肥料製造装置等を扱った
- [33]これらは製紙・化学工業・鉱山等の企業合理化および都市計画に不可欠な新機械・新設備として業界の注目を浴びた
- [35]鋼管部門は1955年2月にロイド規格の許可を受けた
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三機工業」
- [30]1937年4月に米国ドル社およびオリバー・ユナイテッド・フイルター社と極東地区総代理店契約を締結し、選鉱用・化学工業用の特許諸機械の日本・満州における一手販売を引き受けた
- [31]この総代理店契約は第二次大戦により中断していた
- [34]1954年7月、環境衛生工事施工を目的として三機環衛設備株式会社を設立した
製造は本体から切り出され、工場ごとの子会社に置かれた。1950年7月に川崎工場の金属製建具部門を分離して六郷工場を設立し、1951年3月にはコンベア製造を目的として東京機械製作所を設立した。1956年9月、標準窓枠として6Sサッシの販売を始める。スチールサッシの製造を目的とする九州工場は1958年3月、高槻工場は1959年4月の設立である。窓枠部門が扱ったのは標準窓枠・ドア・金属製建具・付属建具・シヤッターで、大量生産と低コストの標準窓枠に特色があった。資本金は1956年2月に5億円、1958年5月に10億円へ増え、1958年9月期の売上高は67億5,824万円、従業員は1,560人となった。このうち工事部門は40億6,000万円、鋼管は14億2,980万円を占めた。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三機工業」
- [36]窓枠・コンベア・スチールサッシの製造は、いずれも持株比率100%の子会社の工場が担った
- [37]1950年7月に川崎工場の金属製建具部門を分離し、株式会社六郷工場を設立した
- [38]1951年3月、コンベア製造を目的として株式会社東京機械製作所を設立した
- [39]1956年9月、標準窓枠として6Sサッシの販売を開始した
- [40]スチールサッシ製造の目的で1958年3月に株式会社九州工場、1959年4月に株式会社高槻工場を設立した
- [41]窓枠部門は標準窓枠・ドア・金属製建具・付属建具・シヤッター等の製造で、大量生産・低コストの標準窓枠に特色があった
- 株式会社年鑑 1959年版「三機工業」
- [42]資本金は1956年2月に5億円、1958年5月に10億円となった
- [43]1958年9月期の売上高は67億5,823万9,000円、従業員は1,560人であった
- [44]1958年9月期の工事部門の売上高は40億6,000万円、鋼管は14億2,979万7,000円であった
参考文献[21]-[44]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 34_鉄鋼「三機工業」
- [21]朝鮮動乱勃発以来、生産は特需の波に乗って急速に復活した
- [22]都市復興の機運に伴う大ビルディングの建築ラッシュが工事部門の活況を促した
- [23]沖縄・台湾・東南アジア方面への進出の道も開け、鋼管・鋼製窓枠等の輸出も増加の一途をたどった
- [24]資本金は1952年2月に2億円となった
- [25]1955年3月期の売上高は35億9,000万円であった
- [29]1952年に米国ドル会社およびオリバー会社との技術提携ならびに代理店契約を復活した
- [32]選鉱機械、連続苛性化装置、フルオソリッド焙焼炉、廃水ならびに屎尿処理施設、肥料製造装置等を扱った
- [33]これらは製紙・化学工業・鉱山等の企業合理化および都市計画に不可欠な新機械・新設備として業界の注目を浴びた
- [35]鋼管部門は1955年2月にロイド規格の許可を受けた
- 株式会社年鑑 1955年版「三機工業」
- [26]1954年9月期の売上高は工事19億4,977万8,000円、電縫鋼管12億3,285万8,000円、コンベヤー等2億9,915万2,000円であった
- [27]電縫鋼管の生産能力は3万5,000屯、生産実績は2万4,584屯であった
- [28]従業員は1,440人であった
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三機工業」
- [30]1937年4月に米国ドル社およびオリバー・ユナイテッド・フイルター社と極東地区総代理店契約を締結し、選鉱用・化学工業用の特許諸機械の日本・満州における一手販売を引き受けた
- [31]この総代理店契約は第二次大戦により中断していた
- [34]1954年7月、環境衛生工事施工を目的として三機環衛設備株式会社を設立した
- [36]窓枠・コンベア・スチールサッシの製造は、いずれも持株比率100%の子会社の工場が担った
- [37]1950年7月に川崎工場の金属製建具部門を分離し、株式会社六郷工場を設立した
- [38]1951年3月、コンベア製造を目的として株式会社東京機械製作所を設立した
- [39]1956年9月、標準窓枠として6Sサッシの販売を開始した
- [40]スチールサッシ製造の目的で1958年3月に株式会社九州工場、1959年4月に株式会社高槻工場を設立した
- [41]窓枠部門は標準窓枠・ドア・金属製建具・付属建具・シヤッター等の製造で、大量生産・低コストの標準窓枠に特色があった
- 株式会社年鑑 1959年版「三機工業」
- [42]資本金は1956年2月に5億円、1958年5月に10億円となった
- [43]1958年9月期の売上高は67億5,823万9,000円、従業員は1,560人であった
- [44]1958年9月期の工事部門の売上高は40億6,000万円、鋼管は14億2,979万7,000円であった
1960年〜鋼管25億円の売却による工事部門への集中
富士製鉄は1958年9月末の時点で、すでに50万株を保有する大株主の立場にあった。鉄鋼業は多額の資金を要する産業で、三機工業もその例に漏れなかった。1960年7月に鋼管部門を切り離して富士三機鋼管をつくり、それまで手がけていた鋼管の製造・加工・販売と付帯事業をすべて移したうえで、その株式を2回に分けて富士製鉄へ売り、額面500円に対し1株2,500円、合計25億円を得た。この売却によって借入金は実質的になくなり、10億円を超える現金預金がかえって手元に残った。同年1月の誌上対談では、三機工業は年間売上が180億円に届く一方で、衛生工事・電気工事・暖冷房工事の寄り合った中小企業の集合体という面を残す会社と評されていた。山田熊男社長にとって経営上の最大の苦心は、大企業と中小企業の使い分けにあった。
- 株式会社年鑑 1959年版「三機工業」
- [45]1958年9月30日現在の大株主に富士製鉄が50万株で名を連ねていた
- 野田経済 1961年11月13日号
- [46]鉄鋼業は資金を食う産業であり、三機工業も例外ではなかった
- [48]富士三機鋼管の株式を2回にわたり富士製鉄へ売却した。価格は1株2,500円(額面500円)、総額25億円であった
- [49]借入金は実質的にゼロとなり、逆に10億円以上の現金預金を持った
- 日本企業要覧 1970年版「三機工業」
- [47]1960年7月に富士三機鋼管株式会社を設立し、従来行っていた鋼管の製造加工販売ならびにこれらに付帯する事業一切を移譲した
- 野田経済 1960年1月25日号(山田熊男・対談)
- [50]山田熊男社長は1960年1月の対談で、年間売上180億円の大企業体でありながら衛生工事・電気工事・暖冷房工事が合体した中小企業の集まりのような一面が残っていると述べた
- [51]山田熊男社長は、大企業経営者のようになっても困り、中小企業に終始しても伸びないとし、その二つの使い分けに一番の苦心があると語った
当時、建設業は金融が引き締まると打撃を受けやすい商売だった。工事の量が増えるほど運転資金がかさみ、施主の資金繰りが苦しくなれば前受金はおろか工程表どおりの支払いさえ滞るうえ、見込みで作りためられない建設は、工事を途中で止めると運転資金が回収できなくなる。大工の日給も、1961年初めには700円から800円だったものが、1,500円を超えないと人手が集まらない水準にまで上がっていた。こうしたなか、三機工業は1961年11月29日の定期株主総会で、25億円への3分の2増資を打ち出した。資金の事情で他社が攻めに出られない時期に販売シェアを一気に広げるという方針で、1962年度の設備投資は33億円と見込まれた。鋼管を手放して現金を手にした会社だからこそ、この局面で受注を伸ばす側に立てた。
- 野田経済 1961年11月13日号
- [52]金融引締めを軸とする景気調整策が強行されると建設株が一斉に売られ、建設業にとって金融逼迫は最大の悪材料とされた
- [53]工事が増加すれば増加運転資金が必要となり、発注者の資金繰りが悪化すれば前受金どころか工程表にのっとった支払いも遅れる
- [54]建設は見込み生産ができず他に買手を見つけて転売できないため、中途で工事を中止すれば運転資金が焦げつく
- [55]大工を中心とする労賃は1961年の年初に日給700円から800円であったが、1,500円を越えないと人が集まらないようになった
- [56]1961年11月29日の定期株主総会で、授権資本の拡大を前提に25億円への3分の2増資を発表した
- [57]他社が資金の関係で積極策をとれないときに逆に一気に販売シェアを拡大するとし、そのために1962年度に33億円の設備投資を行うと説明した
1963年3月期の販売実績は、工事が58億1,698万円、窓枠が28億1,214万円、機械が24億5,632万円であった。工事の内訳は冷暖房35億8,663万円、衛生水道12億8,612万円、電気9億4,422万円で、ビル内の冷暖房・換気・衛生水道・電気工事の分野では業界第1位とされた。1964年には国立代々木競技場やNHK放送センターなど東京オリンピック関連の工事に参画している。1970年3月期の半期売上高は272億5,252万円、経常利益は8億141万円であった。事業の構成は建築設備工事58%・窓ワク23%・機械19%で、従業員は2,593名を数えた。そして1973年12月、窓枠部門の営業が三井軽金属加工へ譲渡された。第二会社が引き継いだ四つの柱のうち、鋼管に続いて窓枠も会社の外へ出た。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三機工業」
- [58]1963年3月期の販売実績は工事58億1,698万1,000円、窓枠28億1,214万3,000円、機械24億5,632万5,000円であった
- [59]1963年3月期の工事の内訳は冷暖房工事35億8,663万2,000円、衛生水道工事12億8,612万9,000円、電気工事9億4,422万円であった
- [60]主体は工事部門で、ビル内の冷暖房・換気・衛生水道・電気工事を行い、この分野では業界第1位であった
- 三機工業 有価証券報告書【沿革】
- [61]1964年に国立代々木競技場、NHK放送センターなど東京オリンピック関連工事に参画した
- [64]1973年12月、三井軽金属加工に窓枠部門の営業を譲渡した
- 日本企業要覧 1970年版「三機工業」
- [62]1970年3月期の売上高は272億5,252万7,000円、経常利益は8億141万9,000円であった
- [63]事業内容は建築設備工事58%・窓ワク23%・機械19%で、在籍人員は男2,088名・女505名の計2,593名であった
参考文献[45]-[64]
- 株式会社年鑑 1959年版「三機工業」
- [45]1958年9月30日現在の大株主に富士製鉄が50万株で名を連ねていた
- 野田経済 1961年11月13日号
- [46]鉄鋼業は資金を食う産業であり、三機工業も例外ではなかった
- [48]富士三機鋼管の株式を2回にわたり富士製鉄へ売却した。価格は1株2,500円(額面500円)、総額25億円であった
- [49]借入金は実質的にゼロとなり、逆に10億円以上の現金預金を持った
- [52]金融引締めを軸とする景気調整策が強行されると建設株が一斉に売られ、建設業にとって金融逼迫は最大の悪材料とされた
- [53]工事が増加すれば増加運転資金が必要となり、発注者の資金繰りが悪化すれば前受金どころか工程表にのっとった支払いも遅れる
- [54]建設は見込み生産ができず他に買手を見つけて転売できないため、中途で工事を中止すれば運転資金が焦げつく
- [55]大工を中心とする労賃は1961年の年初に日給700円から800円であったが、1,500円を越えないと人が集まらないようになった
- [56]1961年11月29日の定期株主総会で、授権資本の拡大を前提に25億円への3分の2増資を発表した
- [57]他社が資金の関係で積極策をとれないときに逆に一気に販売シェアを拡大するとし、そのために1962年度に33億円の設備投資を行うと説明した
- 日本企業要覧 1970年版「三機工業」
- [47]1960年7月に富士三機鋼管株式会社を設立し、従来行っていた鋼管の製造加工販売ならびにこれらに付帯する事業一切を移譲した
- [62]1970年3月期の売上高は272億5,252万7,000円、経常利益は8億141万9,000円であった
- [63]事業内容は建築設備工事58%・窓ワク23%・機械19%で、在籍人員は男2,088名・女505名の計2,593名であった
- 野田経済 1960年1月25日号(山田熊男・対談)
- [50]山田熊男社長は1960年1月の対談で、年間売上180億円の大企業体でありながら衛生工事・電気工事・暖冷房工事が合体した中小企業の集まりのような一面が残っていると述べた
- [51]山田熊男社長は、大企業経営者のようになっても困り、中小企業に終始しても伸びないとし、その二つの使い分けに一番の苦心があると語った
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三機工業」
- [58]1963年3月期の販売実績は工事58億1,698万1,000円、窓枠28億1,214万3,000円、機械24億5,632万5,000円であった
- [59]1963年3月期の工事の内訳は冷暖房工事35億8,663万2,000円、衛生水道工事12億8,612万9,000円、電気工事9億4,422万円であった
- [60]主体は工事部門で、ビル内の冷暖房・換気・衛生水道・電気工事を行い、この分野では業界第1位であった
- 三機工業 有価証券報告書【沿革】
- [61]1964年に国立代々木競技場、NHK放送センターなど東京オリンピック関連工事に参画した
- [64]1973年12月、三井軽金属加工に窓枠部門の営業を譲渡した
筆者考察
三機工業の戦後は、持ち物を減らしながら売上を増やした30年である。1949年8月に企業再建整備法で立ち上がった第二会社の資本金は4,500万円にすぎなかったが、その一社のなかに電縫鋼管も鋼製窓枠もコンベヤも建築設備工事も同居していた。米国資本と三井資本が合流してできた製造会社の設備一式を、そのまま引き継いだためである。朝鮮動乱の特需と都市復興のビル建築ラッシュは四つの部門を同時に押し上げ、1958年9月期の売上高は67億円に達した。ただし部門ごとに要る金の重さは違う。鋼管は売れるほど設備投資を呼ぶ商売であり、工事は人と手形で回る商売であった。
1960年7月に鋼管部門を富士三機鋼管へ切り出し、その株式を25億円で富士製鉄へ渡した判断は、重い設備を軽い受注へ替える取引であった。借入金は実質ゼロになり、10億円を超える現金が残る。翌1961年の金融引締めで建設株が総崩れになったとき、三機工業だけは33億円の設備投資を発表して受注を伸ばす側へ回った。手元に金があることが、工事という商売では競争の焦点になる。1973年12月に窓枠部門を三井軽金属加工へ渡したことで、製造部門は機械だけとなった。第二会社として引き継いだ四つの部門のうち二つを外へ出した末に、ビルの中の設備を請け負う会社が残った。
1944年〜1973年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | 28 | n/a | 2 | n/a | 1 | 5.8% | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | 49 | +72.0% | 5 | n/a | 2 | 4.2% | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 63 | +28.7% | 3 | n/a | 1 | 2.3% | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 76 | +20.3% | 3 | n/a | 1 | 1.9% | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 68 | ▲9.5% | 2 | n/a | 0 | 1.2% | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 76 | +10.6% | 3 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 100 | +31.1% | n/a | 2 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 125 | +25.1% | n/a | 3 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 131 | +5.2% | n/a | 4 | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 175 | +33.2% | n/a | 6 | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 145 | ▲17.1% | n/a | 12 | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 181 | +24.6% | n/a | 16 | 9 | 5.5% | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 221 | +22.0% | n/a | 11 | 7 | 3.4% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 240 | +8.8% | n/a | n/a | 9 | 4.1% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 277 | +15.3% | n/a | n/a | 8 | 3.0% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 292 | +5.4% | n/a | n/a | 7 | 2.6% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 293 | +0.5% | n/a | n/a | 7 | 2.6% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 344 | +17.4% | n/a | n/a | 8 | 2.6% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 439 | +27.5% | n/a | n/a | 14 | 3.3% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 512 | +16.6% | n/a | n/a | 15 | 3.0% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:上場会社総覧 1956年版、1959年版、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑 1967年版、会社年鑑 1971年版
出典・参考
10件
- 三機工業 有価証券報告書【沿革】
- 株式会社年鑑 1951年版「三機工業」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 34_鉄鋼「三機工業」
- 株式会社年鑑 1955年版「三機工業」
- 株式会社年鑑 1959年版「三機工業」
- 株式会社年鑑 1963年版「三機工業」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「三機工業」
- 野田経済 1960年1月25日号(山田熊男・対談)
- 野田経済 1961年11月13日号
- 日本企業要覧 1970年版「三機工業」