1913年にクルト・マイスナー氏の構想で上西威氏が東京に創立した、ドイツ製建材の輸入販売会社である建材社が起源。
1918年に東京海上ビルの全館温水暖房を完成させ、1952年には塗装プラント事業を始めた。ビル・工場の空調と自動車の塗装ラインを両輪とする設備工事会社で、売上の半分を国外が占める。
合資会社建材社は1913年4月10日、ドイツ製建築資材の輸入販売を担う会社として創立された。構想を立てたのはレイボルド商館のクルト・マイスナー氏で、事業に苦労していた姻戚の建築家デ・ラランデ氏を支える目的があった。当時の国内ではガラスやドア金物、タイル、床材を満足に生産できず、暖房材料もほぼ輸入品に依存していた。経営者に指名されたのは、1909年にエンジン販売の要員として商館に入り、2年ほどで営業部の要職に就任した上西威氏だった。資本金5万円は早川芳太郎氏2万円、マイスナー氏1万5,000円、ジュリアス・ゼンガー氏1万円、上西威氏5,000円の出資で賄った。ドイツ商館の資本と日本人の経営を合わせた出発点が、輸入商社としての建材社の性格を決めたと考えられる。
1914年8月に日本がドイツへ宣戦すると、資材の大部分をドイツからの輸入に依存していた建材社は仕入れの道を断たれた。発注済みのボイラーやラジエーターは輸送途中で差し止められ、レイボルド商館も業務中止に追い込まれた。開戦直前の8月4日には、納入先の建築を生むはずだったデ・ラランデ氏が東京・信濃町の自邸で急逝した。出資者のクルト・マイスナー氏は青島で日本軍の捕虜となり、5年を超える収容所生活に入った。建材社はボイラーを米国のユー・エス・ラジエーター社などから調達した。エレベーターの輸入先もスチグラー社から米国のワーナーエレベーター社へ一時切り替えた。仕入れ国を米国へ移した対応が、ドイツ一国への依存を薄める最初の経験になったとみられる。
建材社が暖房工事業者として名を得たのは、1918年9月に完成した東京海上ビルの工事だった。地上7階地下1階、延面積1万9,630m2の建物で、設計は曾禰中條建築事務所が担当した。曾禰達蔵氏から方式の検討を頼まれた技師長のテーテンス氏は温水暖房を推し、建材社は約5万円で設計施工を受注した。1914年2月の着工後にドイツ製ラジエーターが途絶え、上西威氏は埼玉県川口市の鋳物業者に国産品の試作を託した。水漏れが続いて辞退を申し出た上西威氏と早川芳太郎氏を曾禰達蔵氏が引き留め、最終的に402組を納めた。7階建て全館の強制循環式温水暖房は国内で初めての規模で、完成まで4年7か月を要した。
1923年9月の関東大震災で、建材社は在庫と工事中の物件、社の備品を合わせて6万1,321円39銭の損害を受けた。損害額は資本金のおよそ4分の1に達し、受注が震災前の水準まで回復したのは1928年だった。上西威氏は震災直後に徒歩で得意先を回り、箱根の富士屋ホテルまで出向いて暖房設備の無事を確かめた。この行動が評価され、富士屋ホテルの増築や日光金谷ホテルの工事では真っ先に建材社へ照会が来るようになった。建材社は1924年6月に日本橋区檜物町12番地の地上権を1万2,500円で取得した。菅原栄蔵氏の設計による新社屋は同年8月に完成した。1927年の区画整理では隣地を借り増して社屋を改造した。顧客の信頼を先に回復した対応が、復興期の受注の土台になったと推察される。
建材社は暖房を主力としつつ、1920年代に冷房の実績を積み始めた。1924年竣工の星製薬大崎工場では、テーテンス氏の設計でキャリア型エアワッシャーを使う蒸発冷却式の温湿度調整装置を納めた。冷凍機による冷房は同業の高砂煖房工事が先行し、建材社の事例は1929年のナショナルシティバンク大阪支店とライジングサン石油にとどまった。同じ1929年、万国工業会議で来日したW.H.キャリア氏が建材社と技術提携を結んだ。ところがキャリア氏は翌1930年に三井物産の仲介で三機工業と合弁の東洋キヤリア工業を設立した。東洋キヤリア工業はのちに紡績空調で建材社と受注を争う相手となった。冷房の理論を自前で持たなかったことが、提携先を競合に取られる結果を招いたと思われる。
1927年の金融恐慌から続く不況で、建材社の一般建物向け暖房・空調工事の受注高は1929年に前年比11.1%、1930年に6.9%減少した。建材社は作業能率の低い常傭の配管工約50人を1931年夏にいったん全員解雇し、同業者と同じ請負制へ切り替える方針を決めた。これを機に社内で労働組合が結成され、同年7月に業界初の労働争議が起きた。争議には工員36名が加わり、退職金の提示額約4,000円に対し組合は約7,000円を要求した。11月には参加者36名の全員解雇と争議費用1万5,000円の支給で決着した。争議の過程で本社技術部の中心社員も相次いで退社した。恐慌下の合理化は、技術者の離散という代償を伴ったのだろう。
建材社の紡績空調は、1933年に東京本社が受注し大阪出張所が施工した近江帆布三瓶工場を第1号とした。翌1934年には大阪出張所に冷房部が生まれ、産業空調へ進む体制が整った。温湿度調整装置の工事は、同じ1934年の錦華紡績佐賀工場の受注を境に急増した。背景には綿布輸出の拡大に伴う綿紡工場の増産と、1933年ごろからのレーヨン新工場の建設ラッシュがあった。綿花や羊毛の輸入減少で1936年からはスフの生産が急増し、これらの工場は温湿度調整装置を必ず要した。大阪出張所では1932年4月に東京から移った上西圭治氏が三木貞雄氏とともに受注を担った。ビル暖房に偏っていた事業に、繊維工場向けの産業空調という第2の収益源が加わった可能性が高い。
統制が強まった1938年以降、建材社の民間ビルと繊維工場の空調受注は激減した。代わって陸海軍の施設と軍需関連産業の工事が中心となり、業績はむしろ拡大した。1941年以降は名古屋以西の陸海軍工廠と大阪出張所に重点が移り、広島や小倉、仁川、豊川にも出張所を開設した。1943年7月2日には社員14名が新たに出資者に加わり、社員の出資で成り立つ会社への改組を進めた。同年10月28日には上西圭治氏と代田冬蛙氏が企画した航空熱科学工業を株式会社として設立した。チリ硝石の輸入難で航空機部品の焼入れ方式の転換が迫られ、建材社の噴霧焼入装置に需要が集まっていた。空調の送風技術を焼入れへ転用した点が、戦時下の受注を支えたと推測される。
戦後の建材社は、1946年7月の戦時補償打ち切りで約81万円の戦時補償特別税を課された。同年9月にはドイツ系資本を含む合資会社建材社が敵国財産の該当会社とされ、営業活動が実質的に止まった。上西威氏は熱科学工業へ社名を変えていた旧航空熱科学工業の事業目的を冷暖房工事の請負に改め、事業を移した。上西威氏は1948年1月21日に代表社員を弟の上西圭治氏へ譲り、3日後に66歳で亡くなった。建材社は企業再建整備法の認可を得て、1949年7月7日に第2会社として資本金300万円の株式会社建材社を設立し、合資会社は清算に入った。代表取締役は上西二郎氏で、1950年11月28日に上西圭治氏が代表取締役社長に就任した。
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事実根拠:出所(大気社)