大気社:上西威の建材社創立と株式会社への改組
1913年〜レイボルド商館のドイツ建材を継いだ合資会社建材社と、7階建て東京海上ビルの全館温水暖房
合資会社建材社は1913年4月10日、ドイツ製建築資材の輸入販売を担う会社として創立された。構想を立てたのはレイボルド商館のクルト・マイスナー氏で、事業に苦労していた姻戚の建築家デ・ラランデ氏を支える目的があった。当時の国内ではガラスやドア金物、タイル、床材を満足に生産できず、暖房材料もほぼ輸入品に依存していた。経営者に指名されたのは、1909年にエンジン販売の要員として商館に入り、2年ほどで営業部の要職に就任した上西威氏である。資本金5万円は早川芳太郎氏2万円、マイスナー氏1万5,000円、ジュリアス・ゼンガー氏1万円、上西威氏5,000円の出資で賄った。ドイツ商館の資本と日本人の経営を合わせた出発点が、輸入商社としての建材社の性格を決めたと考えられる。
- 大気社80年史 : 環境づくりの記録(大気社、1994年)
- [1]合資会社建材社は大正2年(1913)4月10日に創立
- [2]マイスナーが姻戚デ・ラランデを支援するため建築資材輸入会社を構想。当時は国内に近代建築の材料を生産する技術がなく暖房材料も輸入依存
- [3]マイスナーが姻戚デ・ラランデを支援するため建築資材輸入会社を構想。当時は国内に近代建築の材料を生産する技術がなく暖房材料も輸入依存
- [4]上西威は明治42年にレイボルド商館へ入社しエンジン販売を担当、2年ほどで営業部の要職に。マイスナーが新会社の経営者に選任
- [5]創業時出資: マイスナー15,000円・ゼンガー10,000円・早川芳太郎20,000円・上西威5,000円、計50,000円
1914年8月に日本がドイツへ宣戦すると、資材の大部分をドイツからの輸入に依存していた建材社は仕入れの道を断たれた。発注済みのボイラーやラジエーターは輸送途中で差し止められ、レイボルド商館も業務中止に追い込まれた。開戦直前の8月4日には、納入先の建築を生むはずだったデ・ラランデ氏が東京・信濃町の自邸で急逝した。出資者のクルト・マイスナー氏は青島で日本軍の捕虜となり、5年を超える収容所生活に入った。ボイラーの調達先は、米国のユー・エス・ラジエーター社など。エレベーターの輸入先もスチグラー社から米国のワーナーエレベーター社へ一時切り替えた。仕入れ国を米国へ移した対応が、ドイツ一国への依存を薄める最初の経験になったとみられる。
- 大気社80年史 : 環境づくりの記録(大気社、1994年)
- [6]日独開戦で発注済みのボイラー・ラジエーターが輸送途中で差し止め。レイボルド商館・シモン・エバース商会は業務中止
- [7]日独開戦で発注済みのボイラー・ラジエーターが輸送途中で差し止め。レイボルド商館・シモン・エバース商会は業務中止
- [8]デ・ラランデは大正3年8月4日に信濃町の自邸で急逝。創立時の目論見は彼の建築への資材・設備納入
- [9]マイスナーは青島要塞防衛に参加し捕虜となり、5年を越える捕虜生活
- [10]大戦中はボイラーをユー・エス・ラジエーター社・カナワ社・アメリカン・ラジエーター社など米国から輸入。エレベーターはスチグラー社からワーナーエレベーター社へ一時切替
- [11]大戦中はボイラーをユー・エス・ラジエーター社・カナワ社・アメリカン・ラジエーター社など米国から輸入。エレベーターはスチグラー社からワーナーエレベーター社へ一時切替
建材社が暖房工事業者として名を得たのは、1918年9月に完成した東京海上ビルの工事である。地上7階地下1階、延面積1万9,630m2の建物で、設計は曾禰中條建築事務所の担当。曾禰達蔵氏から方式の検討を頼まれた技師長のテーテンス氏は温水暖房を推し、建材社が約5万円で設計施工を請け負った。1914年2月の着工後にドイツ製ラジエーターが途絶え、上西威氏は埼玉県川口市の鋳物業者に国産品の試作を託した。水漏れが続いて辞退を申し出た上西威氏と早川芳太郎氏を曾禰達蔵氏が引き留め、最終的に402組を納めた。7階建て全館の強制循環式温水暖房は国内で初めての規模で、完成まで4年7か月を要した。
- 大気社80年史 : 環境づくりの記録(大気社、1994年)
- [12]東京海上ビル(海上ビルデング)は大正7年9月、4年7か月かけて完成。当社はこの工事で暖房工事業者としての社会的地位を確立
- [13]東京海上ビルは地上7階地下1階・延面積1万9,630m2、設計は曾禰中條建築事務所(担当高松政雄)
- [14]曾禰博士がテーテンスに方式検討を依頼し温水暖房を採用、設備の設計施工を当社に。受注額約5万円
- [15]大正3年2月着工。ドイツ製ラジエーター途絶で川口の今井忠興に国産化を依頼、辞退申入れを曾禰博士が激励し、ラジエーター402組を納入
- [16]大正3年2月着工。ドイツ製ラジエーター途絶で川口の今井忠興に国産化を依頼、辞退申入れを曾禰博士が激励し、ラジエーター402組を納入
- [17]曾禰博士がテーテンスに方式検討を依頼し温水暖房を採用、設備の設計施工を当社に。受注額約5万円
参考文献[1]-[17]
- 大気社80年史 : 環境づくりの記録(大気社、1994年)
- [1]合資会社建材社は大正2年(1913)4月10日に創立
- [2]マイスナーが姻戚デ・ラランデを支援するため建築資材輸入会社を構想。当時は国内に近代建築の材料を生産する技術がなく暖房材料も輸入依存
- [3]マイスナーが姻戚デ・ラランデを支援するため建築資材輸入会社を構想。当時は国内に近代建築の材料を生産する技術がなく暖房材料も輸入依存
- [4]上西威は明治42年にレイボルド商館へ入社しエンジン販売を担当、2年ほどで営業部の要職に。マイスナーが新会社の経営者に選任
- [5]創業時出資: マイスナー15,000円・ゼンガー10,000円・早川芳太郎20,000円・上西威5,000円、計50,000円
- [6]日独開戦で発注済みのボイラー・ラジエーターが輸送途中で差し止め。レイボルド商館・シモン・エバース商会は業務中止
- [7]日独開戦で発注済みのボイラー・ラジエーターが輸送途中で差し止め。レイボルド商館・シモン・エバース商会は業務中止
- [8]デ・ラランデは大正3年8月4日に信濃町の自邸で急逝。創立時の目論見は彼の建築への資材・設備納入
- [9]マイスナーは青島要塞防衛に参加し捕虜となり、5年を越える捕虜生活
- [10]大戦中はボイラーをユー・エス・ラジエーター社・カナワ社・アメリカン・ラジエーター社など米国から輸入。エレベーターはスチグラー社からワーナーエレベーター社へ一時切替
- [11]大戦中はボイラーをユー・エス・ラジエーター社・カナワ社・アメリカン・ラジエーター社など米国から輸入。エレベーターはスチグラー社からワーナーエレベーター社へ一時切替
- [12]東京海上ビル(海上ビルデング)は大正7年9月、4年7か月かけて完成。当社はこの工事で暖房工事業者としての社会的地位を確立
- [13]東京海上ビルは地上7階地下1階・延面積1万9,630m2、設計は曾禰中條建築事務所(担当高松政雄)
- [14]曾禰博士がテーテンスに方式検討を依頼し温水暖房を採用、設備の設計施工を当社に。受注額約5万円
- [15]大正3年2月着工。ドイツ製ラジエーター途絶で川口の今井忠興に国産化を依頼、辞退申入れを曾禰博士が激励し、ラジエーター402組を納入
- [16]大正3年2月着工。ドイツ製ラジエーター途絶で川口の今井忠興に国産化を依頼、辞退申入れを曾禰博士が激励し、ラジエーター402組を納入
- [17]曾禰博士がテーテンスに方式検討を依頼し温水暖房を採用、設備の設計施工を当社に。受注額約5万円
1919年〜関東大震災から日本橋通3丁目の新社屋へ、キャリア社提携の冷房と昭和恐慌の争議
1923年9月の関東大震災で、建材社は在庫と工事中の物件、社の備品を合わせて6万1,321円39銭の損害を受けた。損害額は資本金のおよそ4分の1に達し、受注が震災前の水準まで回復したのは1928年である。上西威氏は震災直後に徒歩で得意先を回り、箱根の富士屋ホテルまで出向いて暖房設備の無事を確かめた。この行動が評価され、富士屋ホテルの増築や日光金谷ホテルの工事では真っ先に建材社へ照会が来るようになった。建材社は1924年6月に日本橋区檜物町12番地の地上権を1万2,500円で取得した。菅原栄蔵氏の設計による新社屋の完成は同年8月。1927年の区画整理では隣地を借り増して社屋を改造した。顧客の信頼を先に回復した対応が、復興期の受注の土台になったと推察される。
- 大気社80年史 : 環境づくりの記録(大気社、1994年)
- [18]震災被害は在庫6,872円90銭、工事中物件5万1,501円08銭、家具備品2,947円41銭、計6万1,321円39銭(資本金の約4分の1)。受注の回復は昭和3年
- [19]震災被害は在庫6,872円90銭、工事中物件5万1,501円08銭、家具備品2,947円41銭、計6万1,321円39銭(資本金の約4分の1)。受注の回復は昭和3年
- [20]威は震災後に得意先を徒歩で回り富士屋ホテルを見舞い設備を検査。以後同ホテル増築や日光金谷ホテルの工事でまず当社に照会
- [21]威は震災後に得意先を徒歩で回り富士屋ホテルを見舞い設備を検査。以後同ホテル増築や日光金谷ホテルの工事でまず当社に照会
- [22]大正13年6月に日本橋区檜物町12番地の地上権を1万2,500円で取得、菅原栄蔵設計の社屋が8月完成。昭和2年の区画整理で敷地拡大・全面改造
- [23]大正13年6月に日本橋区檜物町12番地の地上権を1万2,500円で取得、菅原栄蔵設計の社屋が8月完成。昭和2年の区画整理で敷地拡大・全面改造
- [24]大正13年6月に日本橋区檜物町12番地の地上権を1万2,500円で取得、菅原栄蔵設計の社屋が8月完成。昭和2年の区画整理で敷地拡大・全面改造
建材社は暖房を主力としつつ、1920年代に冷房の実績を積み始めた。1924年竣工の星製薬大崎工場では、テーテンス氏の設計でキャリア型エアワッシャーを使う蒸発冷却式の温湿度調整装置を納めた。冷凍機による冷房は同業の高砂煖房工事が先行し、建材社の事例は1929年のナショナルシティバンク大阪支店とライジングサン石油の2件にとどまる。同じ1929年、万国工業会議で来日したW.H.キャリア氏が建材社と技術提携を結んだ。ところがキャリア氏は翌1930年に三井物産の仲介で三機工業と合弁の東洋キヤリア工業を設立した。東洋キヤリア工業はのちに紡績空調で建材社と受注を争う相手となる。冷房の理論を自前で持たなかったことが、提携先を競合に取られる結果を招いたと思われる。
- 大気社80年史 : 環境づくりの記録(大気社、1994年)
- [25]大正13年竣工の星製薬大崎工場にテーテンス設計の温風暖房・蒸発冷却方式の温湿度調整装置(キャリア型エアワッシャー)を施工
- [26]大正13年竣工の星製薬大崎工場にテーテンス設計の温風暖房・蒸発冷却方式の温湿度調整装置(キャリア型エアワッシャー)を施工
- [27]冷凍機冷房は高砂煖房工事が先行。当社は昭和4年にナショナルシティバンク大阪支店とライジングサン石油でサブロ社製炭酸ガス冷凍機を使用
- [28]昭和4年、キャリアが万国工業会議で来日し当社と技術提携。翌5年、三井物産仲介で三機工業と合弁の東洋キヤリア工業を設立
- [29]昭和4年、キャリアが万国工業会議で来日し当社と技術提携。翌5年、三井物産仲介で三機工業と合弁の東洋キヤリア工業を設立
- [30]昭和10年の東洋毛糸紡績四日市工場の空調受注で競争相手は東洋キヤリア工業と松田平八商店
1927年の金融恐慌から続く不況で、建材社の一般建物向け暖房・空調工事の受注高は1929年に前年比11.1%、1930年に6.9%減少した。建材社は作業能率の低い常傭の配管工約50人を1931年夏にいったん全員解雇し、同業者と同じ請負制へ切り替える方針を決めた。これを機に社内で労働組合が結成され、同年7月に業界初の労働争議が起きた。争議には工員36名が加わり、退職金の提示額約4,000円に対し組合は約7,000円を要求した。11月には参加者36名の全員解雇と争議費用1万5,000円の支給で決着。争議の過程では本社技術部の中心社員も相次いで社を去った。恐慌下の合理化は、技術者の離散という代償を伴ったのだろう。
- 大気社80年史 : 環境づくりの記録(大気社、1994年)
- [31]一般建物の暖房・空調工事受注高は昭和4年に前年比11.1%減、5年に6.9%減
- [32]昭和6年夏、常傭配管工約50人を全員解雇し請負制に切替える方針。社内に労働組合が結成され7月に業界初の労働争議
- [33]昭和6年夏、常傭配管工約50人を全員解雇し請負制に切替える方針。社内に労働組合が結成され7月に業界初の労働争議
- [34]争議参加は工員36名、退職金提示約4,000円・要求約7,000円。11月に36名全員解雇・争議費用1万5,000円支給で解決
- [35]争議参加は工員36名、退職金提示約4,000円・要求約7,000円。11月に36名全員解雇・争議費用1万5,000円支給で解決
- [36]争議のため山田善右衛門ら本社技術部の中心社員が退社
参考文献[18]-[36]
- 大気社80年史 : 環境づくりの記録(大気社、1994年)
- [18]震災被害は在庫6,872円90銭、工事中物件5万1,501円08銭、家具備品2,947円41銭、計6万1,321円39銭(資本金の約4分の1)。受注の回復は昭和3年
- [19]震災被害は在庫6,872円90銭、工事中物件5万1,501円08銭、家具備品2,947円41銭、計6万1,321円39銭(資本金の約4分の1)。受注の回復は昭和3年
- [20]威は震災後に得意先を徒歩で回り富士屋ホテルを見舞い設備を検査。以後同ホテル増築や日光金谷ホテルの工事でまず当社に照会
- [21]威は震災後に得意先を徒歩で回り富士屋ホテルを見舞い設備を検査。以後同ホテル増築や日光金谷ホテルの工事でまず当社に照会
- [22]大正13年6月に日本橋区檜物町12番地の地上権を1万2,500円で取得、菅原栄蔵設計の社屋が8月完成。昭和2年の区画整理で敷地拡大・全面改造
- [23]大正13年6月に日本橋区檜物町12番地の地上権を1万2,500円で取得、菅原栄蔵設計の社屋が8月完成。昭和2年の区画整理で敷地拡大・全面改造
- [24]大正13年6月に日本橋区檜物町12番地の地上権を1万2,500円で取得、菅原栄蔵設計の社屋が8月完成。昭和2年の区画整理で敷地拡大・全面改造
- [25]大正13年竣工の星製薬大崎工場にテーテンス設計の温風暖房・蒸発冷却方式の温湿度調整装置(キャリア型エアワッシャー)を施工
- [26]大正13年竣工の星製薬大崎工場にテーテンス設計の温風暖房・蒸発冷却方式の温湿度調整装置(キャリア型エアワッシャー)を施工
- [27]冷凍機冷房は高砂煖房工事が先行。当社は昭和4年にナショナルシティバンク大阪支店とライジングサン石油でサブロ社製炭酸ガス冷凍機を使用
- [28]昭和4年、キャリアが万国工業会議で来日し当社と技術提携。翌5年、三井物産仲介で三機工業と合弁の東洋キヤリア工業を設立
- [29]昭和4年、キャリアが万国工業会議で来日し当社と技術提携。翌5年、三井物産仲介で三機工業と合弁の東洋キヤリア工業を設立
- [30]昭和10年の東洋毛糸紡績四日市工場の空調受注で競争相手は東洋キヤリア工業と松田平八商店
- [31]一般建物の暖房・空調工事受注高は昭和4年に前年比11.1%減、5年に6.9%減
- [32]昭和6年夏、常傭配管工約50人を全員解雇し請負制に切替える方針。社内に労働組合が結成され7月に業界初の労働争議
- [33]昭和6年夏、常傭配管工約50人を全員解雇し請負制に切替える方針。社内に労働組合が結成され7月に業界初の労働争議
- [34]争議参加は工員36名、退職金提示約4,000円・要求約7,000円。11月に36名全員解雇・争議費用1万5,000円支給で解決
- [35]争議参加は工員36名、退職金提示約4,000円・要求約7,000円。11月に36名全員解雇・争議費用1万5,000円支給で解決
- [36]争議のため山田善右衛門ら本社技術部の中心社員が退社
1931年〜スフ・レーヨンの紡績空調から航空熱科学工業へ、資本金300万円の株式会社建材社
建材社の紡績空調は、1933年に東京本社が受注し大阪出張所が施工した近江帆布三瓶工場を第1号とする。翌1934年には大阪出張所に冷房部が生まれ、産業空調へ進む体制が整った。温湿度調整装置の工事は、同じ1934年の錦華紡績佐賀工場の受注を境に急増した。背景には綿布輸出の拡大に伴う綿紡工場の増産と、1933年ごろからのレーヨン新工場の建設ラッシュがあった。綿花や羊毛の輸入減少で1936年からはスフの生産が急増し、これらの工場は温湿度調整装置を必ず要した。大阪出張所では1932年4月に東京から移った上西圭治氏が三木貞雄氏とともに受注を担った。ビル暖房に偏っていた事業に、繊維工場向けの産業空調という第2の収益源が加わった可能性が高い。
- 大気社80年史 : 環境づくりの記録(大気社、1994年)
- [37]紡績空調第1号は昭和8年受注の近江帆布三瓶工場(大阪出張所の土井口豊次郎が施工)。翌年大阪出張所に冷房部が誕生
- [38]紡績空調第1号は昭和8年受注の近江帆布三瓶工場(大阪出張所の土井口豊次郎が施工)。翌年大阪出張所に冷房部が誕生
- [39]昭和9年の錦華紡績佐賀工場受注を皮切りに温湿度調整装置工事が急増
- [40]綿紡工場の空調工事が9年から増大、8年ごろからレーヨン新工場建設が急増、11年からスフ生産ラッシュ。これらの工場は温調装置を必要とした
- [41]綿紡工場の空調工事が9年から増大、8年ごろからレーヨン新工場建設が急増、11年からスフ生産ラッシュ。これらの工場は温調装置を必要とした
- [42]上西圭治は昭和7年4月に大阪出張所へ転勤。争議以後は大阪出張所冷房部の活躍でビル空調と産業空調の2本柱ができた
統制が強まった1938年以降、建材社の民間ビルと繊維工場の空調受注は激減した。代わって陸海軍の施設と軍需関連産業の工事が中心となり、業績はむしろ伸びた。1941年以降は名古屋以西の陸海軍工廠と大阪出張所に重点が移り、広島や小倉、仁川、豊川にも出張所を新設した。1943年7月2日には社員14名が新たに出資者に加わり、社員の出資で成り立つ会社への改組を進めた。同年10月28日には上西圭治氏と代田冬蛙氏が企画した航空熱科学工業を株式会社として設立した。チリ硝石の輸入難で航空機部品の焼入れ方式の転換が迫られ、建材社の噴霧焼入装置に需要が集まっていた。空調の送風技術を焼入れへ転用した点が、戦時下の受注を支えたと推測される。
- 大気社80年史 : 環境づくりの記録(大気社、1994年)
- [43]昭和13年以降民間ビル・繊維工場の空調受注は激減、軍関係施設と軍需産業の工事で業績は伸長。16年以降は名古屋以西の陸海軍工廠と大阪出張所に重点、出張所を広島・小倉・仁川・名古屋・豊川に開設
- [44]昭和13年以降民間ビル・繊維工場の空調受注は激減、軍関係施設と軍需産業の工事で業績は伸長。16年以降は名古屋以西の陸海軍工廠と大阪出張所に重点、出張所を広島・小倉・仁川・名古屋・豊川に開設
- [45]昭和13年以降民間ビル・繊維工場の空調受注は激減、軍関係施設と軍需産業の工事で業績は伸長。16年以降は名古屋以西の陸海軍工廠と大阪出張所に重点、出張所を広島・小倉・仁川・名古屋・豊川に開設
- [46]昭和18年7月2日に資本更新し社員14名が出資者に。同年10月28日、上西圭治・代田冬蛙らの企画で航空熱科学工業を設立
- [47]昭和18年7月2日に資本更新し社員14名が出資者に。同年10月28日、上西圭治・代田冬蛙らの企画で航空熱科学工業を設立
- [48]チリ硝石の輸入難で電気炉転換が要請され噴霧焼入装置が注目。当社は16年に昭和飛行機へ納入済み、基本特許を出願
戦後の建材社は、1946年7月の戦時補償打ち切りで約81万円の戦時補償特別税を課された。同年9月にはドイツ系資本を含む合資会社建材社が敵国財産の該当会社とされ、営業活動が実質的に止まった。上西威氏は熱科学工業へ社名を変えていた旧航空熱科学工業の事業目的を冷暖房工事の請負に改め、事業を移した。上西威氏は1948年1月21日に代表社員を弟の上西圭治氏へ譲り、3日後に66歳で亡くなった。建材社は企業再建整備法の認可を得て、1949年7月7日に第2会社として資本金300万円の株式会社建材社を設立し、合資会社は清算に入った。代表取締役は上西二郎氏で、1950年11月28日に上西圭治氏が代表取締役社長に就任した。
- 大気社80年史 : 環境づくりの記録(大気社、1994年)
- [49]昭和21年7月の戦時補償打切りで、(資)建材社は10月に約81万円の戦時補償特別税を課された
- [50]21年9月、ドイツ系資本のため(資)建材社は敵国財産管理令の該当会社とされ営業が実質停止。熱科学工業(航空熱科学工業を20年11月に商号変更)の事業目的を配管設備工事請負等に変更し事業を引継ぐ
- [51]21年9月、ドイツ系資本のため(資)建材社は敵国財産管理令の該当会社とされ営業が実質停止。熱科学工業(航空熱科学工業を20年11月に商号変更)の事業目的を配管設備工事請負等に変更し事業を引継ぐ
- [52]昭和23年1月21日に威は代表社員を退任し弟の上西圭治が代表社員に。1月24日に66歳で死去
- [53]23年5月31日に再建整備計画が認可。24年7月7日に第2会社として株式会社建材社(資本金300万円、代表取締役上西二郎)を設立し(資)建材社は清算へ。25年11月28日に上西圭治が代表取締役社長
- [54]23年5月31日に再建整備計画が認可。24年7月7日に第2会社として株式会社建材社(資本金300万円、代表取締役上西二郎)を設立し(資)建材社は清算へ。25年11月28日に上西圭治が代表取締役社長
参考文献[37]-[54]
- 大気社80年史 : 環境づくりの記録(大気社、1994年)
- [37]紡績空調第1号は昭和8年受注の近江帆布三瓶工場(大阪出張所の土井口豊次郎が施工)。翌年大阪出張所に冷房部が誕生
- [38]紡績空調第1号は昭和8年受注の近江帆布三瓶工場(大阪出張所の土井口豊次郎が施工)。翌年大阪出張所に冷房部が誕生
- [39]昭和9年の錦華紡績佐賀工場受注を皮切りに温湿度調整装置工事が急増
- [40]綿紡工場の空調工事が9年から増大、8年ごろからレーヨン新工場建設が急増、11年からスフ生産ラッシュ。これらの工場は温調装置を必要とした
- [41]綿紡工場の空調工事が9年から増大、8年ごろからレーヨン新工場建設が急増、11年からスフ生産ラッシュ。これらの工場は温調装置を必要とした
- [42]上西圭治は昭和7年4月に大阪出張所へ転勤。争議以後は大阪出張所冷房部の活躍でビル空調と産業空調の2本柱ができた
- [43]昭和13年以降民間ビル・繊維工場の空調受注は激減、軍関係施設と軍需産業の工事で業績は伸長。16年以降は名古屋以西の陸海軍工廠と大阪出張所に重点、出張所を広島・小倉・仁川・名古屋・豊川に開設
- [44]昭和13年以降民間ビル・繊維工場の空調受注は激減、軍関係施設と軍需産業の工事で業績は伸長。16年以降は名古屋以西の陸海軍工廠と大阪出張所に重点、出張所を広島・小倉・仁川・名古屋・豊川に開設
- [45]昭和13年以降民間ビル・繊維工場の空調受注は激減、軍関係施設と軍需産業の工事で業績は伸長。16年以降は名古屋以西の陸海軍工廠と大阪出張所に重点、出張所を広島・小倉・仁川・名古屋・豊川に開設
- [46]昭和18年7月2日に資本更新し社員14名が出資者に。同年10月28日、上西圭治・代田冬蛙らの企画で航空熱科学工業を設立
- [47]昭和18年7月2日に資本更新し社員14名が出資者に。同年10月28日、上西圭治・代田冬蛙らの企画で航空熱科学工業を設立
- [48]チリ硝石の輸入難で電気炉転換が要請され噴霧焼入装置が注目。当社は16年に昭和飛行機へ納入済み、基本特許を出願
- [49]昭和21年7月の戦時補償打切りで、(資)建材社は10月に約81万円の戦時補償特別税を課された
- [50]21年9月、ドイツ系資本のため(資)建材社は敵国財産管理令の該当会社とされ営業が実質停止。熱科学工業(航空熱科学工業を20年11月に商号変更)の事業目的を配管設備工事請負等に変更し事業を引継ぐ
- [51]21年9月、ドイツ系資本のため(資)建材社は敵国財産管理令の該当会社とされ営業が実質停止。熱科学工業(航空熱科学工業を20年11月に商号変更)の事業目的を配管設備工事請負等に変更し事業を引継ぐ
- [52]昭和23年1月21日に威は代表社員を退任し弟の上西圭治が代表社員に。1月24日に66歳で死去
- [53]23年5月31日に再建整備計画が認可。24年7月7日に第2会社として株式会社建材社(資本金300万円、代表取締役上西二郎)を設立し(資)建材社は清算へ。25年11月28日に上西圭治が代表取締役社長
- [54]23年5月31日に再建整備計画が認可。24年7月7日に第2会社として株式会社建材社(資本金300万円、代表取締役上西二郎)を設立し(資)建材社は清算へ。25年11月28日に上西圭治が代表取締役社長
出典・参考
1件
- 大気社80年史 : 環境づくりの記録(大気社、1994年)