三機工業日本鋼材の経営権掌握と三建工業の合併

提携相手を取り込むか、取り込まれるか ── 経営権と社名が別々に動いた10年

時期 1933年11月
意思決定者(推定) 安本明治郎 専務取締役
論点 製造部門の確保と提携相手の統合
概要
1933年、三機工業が労働争議と排外思想に行き詰まった日本鋼材へ日本資本を入れ、子会社の三建工業を同社へ合併させて経営権を握った判断。安本明治郎専務が日本鋼材の取締役社長に就き、製品の販売権も三機工業が一手におさめた。
背景
看板種目の鋼製建具は東京建鉄との総代理店契約に依存し、原価高で価格競争に劣った。1928年上期の契約高は見積高の1割8分強にとどまり、翌年には東京建鉄から契約解除を申し出られて、製造部門を自前で抱える必要が高まっていた。
内容
製作種目が重なる日本鋼材と三建工業を先に合併させる手順をとり、1933年11月25日に合併契約書へ調印した。合併後の資本構成は三井38%・アメリカ43%・その他19%で、取締役社長に安本明治郎氏、常務取締役に川人芳男氏が就いた。
含意
日本鋼材は1934年3月に東洋鋼材へ改称し、電縫鋼管・コンベヤ・鉱山化学機械へ製造を広げた。1943年3月にはその東洋鋼材が三機工業を合併して資本金807万7,000円となり、商号を三機工業へ変更している。
筆者の見解

名を継いだ側と、法人が残った側

1928年上期の契約高は見積高の1割8分強にとどまり、翌年には契約期限を1年余り残したまま東京建鉄から解除を申し出られた。安本明治郎専務が三建工業を創立し、さらに日本鋼材の経営権まで取りにいった動きは、価格でも納期でも供給元の都合に振り回される立場から抜け出すための一続きの手であったとみられる。ゴルフ練習場の帰りに持ち込まれた話へ即座に反応できたのも、製造部門を自前で抱える算段が4年前からできていたためであろう。

掌握した相手へ法人格を明け渡した経緯を、乗っ取られたと読むのは正確ではない。電縫鋼管の製造設備を備えた東洋鋼材の側に法人を寄せ、社名だけを三機工業へ揃えた整理とみるほうが自然といえる。ただし三建工業は4年余りで解散し、大森工場も売却されている。1949年8月の第二会社設立で法人はもう一度切れており、1943年の商号継承をもって現在の三機工業へ直結すると読むことはできない。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

代理販売と施工しか持たない会社の弱さ

三機工業は1925年5月、三井物産機械部の子会社として営業を始め、輸入建築設備材料の販売と工事の施工を業とした。1927年3月24日に東京建鉄・東京鋼板工業と総代理店契約を結ぶと、鋼製建具は一躍看板種目となり、外国製品を駆逐して著名な建築物の多くで指定を受けるまでになった。ただし三機工業自身は生産の基盤を持たず、他社の製品を売るか、それを材料に工事を請け負うかの二筋しか手がなかった[1]

もっとも、東京建鉄製品は原価が高く、価格では同業の大和サッシや栄進社に一歩を譲ることがしばしばあった。1928年上期の契約高は見積高の1割8分強にとどまり、三機工業が再三の注意を重ね、東京建鉄も生産費の切下げに努めたが、期待する水準には届かなかった。品質では類似の他社製品を圧倒していたため成績そのものは保てたものの、総代理店の看板一本で企業の安定を保つことの危うさは、この時点ですでに数字へ出ていた[2]

二度の打撃と三建工業の設立

危うさが現実になったのは1928年9月であった。東京建鉄の本社側と大阪側の内紛が再燃し、大阪側の糸永文古氏と瀬川勝平氏が田島壹號氏と袂を分かった結果、大阪工場が閉鎖された。同工場の製品を基盤に設立された三機工業大阪支店は取扱量の大幅な減少と納期の遅延に見舞われ、将来の受注もひかえめにせざるを得なくなった。さらに1929年5月、東京建鉄は総代理店契約の期限を1年余り残したまま、販売契約の解除を申し出た[3]

両社は1929年6月6日に契約を正式解除した。供給源を失った安本明治郎専務が向かった先は、東京建鉄を離れて大森の新井宿に工場を建てていた糸永文古氏と瀬川勝平氏であった。工場経営の経験がない三機工業にとって、単独で工場を持つよりその道の権威者と組むほうが得策と判断し、設備の大半が完成していた大森工場を買収する。1929年9月19日、資本金125万円・4分の1払込で三建工業が創立され、鋼製建具の製作を担った[4]

決断

争議に疲れたアメリカ資本からの申し出

相手方の日本鋼材は、1919年4月にアメリカン・トレーディング会社とトラスコン・スチール会社の共同出資で資本金100万円の日米建築材料として設立され、1930年9月に日本鋼材へ改称した会社で、資本は全額がアメリカ側の出資であった。満州事変以降に排外思想が強まると、アメリカ人で占められた幹部への従業員の不信が高まり、労働争議が頻発する。川崎工場のストライキは川崎地区でも知られ、日本で最初とみられる職員のストライキも同社で起きた[5]

外人会社の製品を敬遠する空気も重なり、R・F・モス社長ら経営陣は、日本資本の導入と日本人による経営で時勢に対処するほかなくなっていた。1932年晩秋の日曜、三井高長氏のお供で等々力のゴルフ練習場へ出向いた三機工業の山田熊男氏は、帰路に同乗した有賀輝氏から、争議に嫌気がさしたモス社長が工場の買い手を探していると持ちかけられる。山田熊男氏は、三機工業もサッシ部門の業績が悪く実現は難しかろうと、表面はさりげなく答えている[6]

専務の詰問から合併契約の調印まで

山田熊男氏はその足で夕食の誘いを振り切り、安本明治郎専務の自宅へ円タクを飛ばして、車中談の一部始終と絶好の機会だという自説を報告した。安本明治郎専務は表情を険しくして申し出にどう答えたかを詰問し、返答を聞いてはじめて顔をほころばせている。中州の松本での四者会談を経て話は具体化したが、製作種目が重なる以上、まず日本鋼材と三建工業を合併させる必要があった。合併の方針は1933年10月7日、三建工業の従業員にも伝えられた[7]

ところが3日後の10月10日、東京日日新聞川崎版が、日本鋼材が有利な条件で三建工業を買収するという記事を載せた。日本鋼材川崎工場の工場型サッシの製造能力は業界随一で、創立満4年・職員約60名・工員約180名の三建工業とは比較にならない。従業員は買収こそ真相と信じ込み、工場は怠業に陥る。人員整理を行わないことや移転引越手当の確保を求める要求書が出され、会社は11月25日の合併契約書調印を経て、28日の同時刻に両社で正式発表を行い、要求にも回答して収拾した[8]

結果

三井38%・アメリカ43%となった資本構成

合併後の日本鋼材の資本構成は、三井資本38%、アメリカ資本43%、その他19%となった。三井物産から南條金雄常務取締役、三機工業から安本明治郎専務取締役と川人芳男取締役、三建工業から糸永文古社長が経営陣へ入り、取締役会長に南條金雄氏、取締役社長に安本明治郎氏、常務取締役に川人芳男氏が就いた。臨時株主総会で合併契約書が承認されると三建工業は解散し、創立から4年余りの短い存続に終わる[9]

1933年11月25日にはトラスコン・スチール会社との契約も締結され、三機工業が日本鋼材製品の販売権を一手におさめ、日本鋼材は製作だけに従事する分担となった。株式の売買、役員の変更、他社との合併、定款の変更、両社間の販売契約の変更は、いずれも事前に三機工業とトラスコン・スチール会社の了解を要した。日米両社の共同管理という建前のもとで、実質的に経営権を握ったのは三機工業であった[10]

電縫鋼管への進出と1943年の商号継承

日本鋼材は1934年3月に三建工業を合併して資本金150万円へ増資し、東洋鋼材へ改称した。旧三建工業の大森工場は、1934年1月に設計部が川崎工場へ移り、1935年6月には機械設備の移転を終えて工場建築物が売却される。東洋鋼材は米国で発明された電気抵抗利用の製管法の特許権を購入し、1935年から川崎工場で製管を始めた。1936年にはコンベヤの製造に入り、1937年には米国ドル・オリバー社と技術提携して鉱山・化学工業機械の分野へ進んだ[11][12]

東洋鋼材はその後も数次の増資を重ね、やがて親会社を吸収する側に回る。そして1943年3月、東洋鋼材が三機工業を合併して資本金807万7,000円となり、商号を三機工業へ変更した。1933年に経営権を取ったのは三機工業だったが、10年後に法人として残ったのは相手方であり、三機工業の名はその法人へ移された。後年、1949年8月には企業再建整備法に基づく第二会社が設立され、旧会社は解散している[13][14]

出典・参考
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第二節「製造部門への進出」
  • 三機工業三十五年史(三機工業、1960年)第二節「日本鋼材との提携」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 34_鉄鋼「三機工業」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社、1968年)3編 企業の歴史「三機工業」

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