1873年6月、資本金244万円で第一国立銀行が設立[1]された。前年11月に公布された国立銀行条例に基づくわが国最初の銀行で、条例を立案したのは大蔵省の官吏だった渋沢栄一氏である。『国立』といっても国有でも官庁でもなく、条例に基づく銀行という意味にすぎない[2]。資本金の大半は旧幕時代からの両替商である三井組と小野組が出したうえで、双方の代表が頭取に、渋沢栄一氏が総監役に就いた。制度の下敷きを米国のナショナル・バンクに求めたのは大蔵少輔の伊藤博文氏で、英国式の中央銀行設立を説く吉田清成氏と激しく対立したすえ、大蔵大輔の井上馨氏の裁断で伊藤案[3]が採られている。
制度は米国から借りたが、経営の理念は英国から入った。政府が招いた英国人銀行家のアラン・シャンドは、銀行簿記[4]の実務だけでなく、短期資金の取り扱いを重んじる健全経営の原則を教えている。第一国立銀行はその指導を受けて帳簿と事務の組織を一つずつ整え、後年150を超える国立銀行と多数の私立銀行が生まれる際、そこで体系化された様式が手本になった。他行の行員が机を並べて業務を見習う出向研修の慣行は昭和初期まで残り[5]、1929年に入行した井上薫氏も、自行に第一銀行の行員でない者が混じって同じ仕事をしていたと回想している。
1882年の日本銀行設立で国立銀行は紙幣発行権を失い、第一国立銀行も1896年9月に営業満期を迎えて、資本金450万円の普通銀行『第一銀行』として新発足した[6]。以後は商工業の金融に専念し、1901年の金融恐慌では商工業者の救済にあたって、かえって預金を増やしている。海外では国立銀行時代の釜山支店を足がかりに韓国各地へ店舗を広げ、1909年に韓国銀行が設立[7]されるまで、同地で中央銀行の役割を担った。昭和期には1927年に東海銀行を、1931年に古河銀行を合併して20余の支店を加え、五大銀行の一角[8]を占めるに至った。
もう一方の源流である日本勧業銀行は、商業銀行とは正反対の設計で生まれている。1897年6月、日本勧業銀行法に基づき資本金1000万円[9](4分の1払込)で設立された特殊銀行で、構想そのものは1881年にさかのぼり、単行法の公布は前年4月であった。設立の趣旨は農工業の改良発達に置かれ、不動産を担保に、あるいは無抵当で、長期低利の資金を供給することを役割とした[10]。資金は預金ではなく勧業債券で集めた。1910年からは預金業務も始めているが、当初は総額と運用の方法に制限のある付随業務にとどまっている。短期資金を商工業に回す第一銀行とは、集め方も貸し方も異なっていた。
業務の幅は法改正のたびに広がった。1905年の工場抵当法で工場財団への融資の道が開け[11]、これが企業担保金融の始まりとなる。1906年には東北の凶作救済を機に、大蔵省預金部の資金を貸し出す機関という役割も加わった。1911年には融資の目的制限が撤廃されて農工業だけの銀行から一般の不動産銀行へと性格が変わり、都市の住宅建設や中小商工業の資金需要にも応じられるようになった。そして1921年から1944年にかけて全国の農工銀行46店を合併し、全国に支店を持つ唯一の不動産銀行[12]となる。この店舗網は、半世紀後に第一勧業銀行が受け継ぐ最大の資産になった。
1943年4月、国家的要請により第一銀行は三井銀行と対等合併し[13]、資本金2億円の帝国銀行が発足した。相手の三井銀行は1876年に開業したわが国最初の私立銀行で、前身の三井両替店は1683年にさかのぼる。第一と三井は明治の初めに第一国立銀行の設立で手を組み、その後は五大銀行として並び立ってきた二行であった。新銀行は旧第一銀行本店を本店とし、会長には明石照男氏が就いている。翌1944年8月には十五銀行も合併して[14]資本金2億2000万円となり、わが国最大の普通銀行として金融界と産業界に指導的な地位を占めた。渋沢栄一氏が最初の一行を開いてから70年、規模では頂点に立った。
だが、規模と融和は別の話であった。旧第一系の行員には、人事の扱いをめぐる不満が合併の当初から残る。井上薫氏は、人事政策に根ざす不満と[15]合併の効率に対する不満が行内にくすぶっていたと書き残している。支店長の数では三井出身者が旧第一出身者を上回るようになり、それも不満の種になった。戦時下の統合そのものは、当時の要請としては筋が通っていた。狂ったのは人事の配分で、対等の名を掲げながら均衡を欠いたことが、旧第一系の行員に記憶として残る。1948年の分離運動も、1971年の合併交渉も、この記憶を出発点にしている。
敗戦後、旧第一系の行員のあいだで、帝国銀行を分割すべきだとする声が高まった。当時の調査課長だった井上薫氏は分離すべき理由を八項目にまとめて役員に持ち込み[16]、支店長からは分離を求める連判状が次々に届いた。行内では旧第一系の大部分が賛成し、三井系は反対に回り、大蔵省もまた分離に反対していた。同じ屋根の下で机を並べながら一方が分離を望む状況を、井上氏自身が『完全な造反』[引用元]と書いている[17]。分離が実現しなければ処分は免れず、処分されなくとも銀行にはとどまれないと覚悟したうえでの行動であった。
頼みの綱であったGHQの方針も一様ではなかった。反トラスト課は大銀行の分割に強く賛成し、西ドイツでは三大銀行が約30行に分けられつつあった。ところが経済科学局の銀行担当は[18]、経済再建の要である銀行を弱体化させるべきではないとして、集中排除法の適用除外に傾いていく。担当官から『君は一体、日本の金融界の安定の方が大事なのか、帝国銀行が大事なのか』[引用元]と問われ、井上氏は『預金の一割を占める帝銀の効率化が実現されなければならない』[引用元]と答えたが、相手は椅子を回して背を向けたきり黙り込んだ。1947年末には大蔵省から分離運動を[19]差し控えるよう申し渡されている。
それでも流れは止まらず、1948年1月の役員会で佐藤喜一郎頭取が分離を決断した[20]。GHQは『分離するならイーブンで』[引用元]という条件を付け、旧第一系76店と、三井系に旧十五銀行を加えた80店という線引きが行われた。帝国銀行の名称は三井側が引き継ぎ、第一側は名称にこだわらなかった。1948年10月1日、資本金10億2000万円・預金152億円・営業店舗82[21]・行員4600人で第一銀行が再発足する。同じ時期の富士銀行は189店舗を持っており、その半分に満たない。荻野正孝頭取は『相当のへだたりがあり、これを元の第一銀行に戻すためには並々ならぬ覚悟が必要である』[引用元]と訓示した[22]。
同じ時期、日本勧業銀行は存立の前提そのものを失っていた。貨幣価値の低落で債券による長期資金の吸収は困難になり、農地解放と土地建物の賃借権保護によって、農耕地や市街地の不動産を担保とする金融にも法律上の制約が加わる。特殊銀行から普通銀行へ、不動産銀行から商業銀行へ転換[23]するほかなかった。1948年の再建整備で預金銀行化の方針を決め、1950年2月に『銀行等の債券発行等に関する法律』[引用元]が制定[24]されて債券発行と長期融資を再開する一方、日本勧業銀行法は廃止されて法的に完全な普通銀行となった。
1952年12月、長期信用銀行法の施行に伴って債券発行業務を停止し[25]、資金の調達を預金だけに絞った。業務の主力を短期金融に置くため地方の店舗を廃して都市の店舗を増やし、融資対象も重要産業のほぼ全般に広がった。1955年3月末の預金残高は1415億円で[26]、同時期の第一銀行の1505億円と大差ない。特殊銀行時代から続く堅実な経営により、戦後の金融機関再建整備で唯一無傷の大銀行として存続したという評価も残る。全国各府県の農工銀行を合併して支店とした経緯から、店舗網が全国[27]に及ぶことが、この銀行の際立った特色であった。
1963年秋、銀行協会の昼食会に招かれた田中角栄蔵相[28]が『こういう時代だから銀行もそろそろ合併して規模を拡大することを考えたらどうか』[引用元]と述べた。戦後、銀行の新設は認められても合併はご法度とされてきたため、当時の銀行協会長であった井上薫頭取は耳を疑ったという。ところが翌1964年の新春にも蔵相は同じ問いを繰り返す。一度なら思いつきとも受け取れるが、二度となれば話が違う。金融政策が大きく変わったと確信した井上氏は、銀行局長にも真意を確かめたうえで、その足で朝日銀行に向かった。相手は決めてあった。
朝日銀行は十五銀行の信託部門を前身とし、1939年に第一銀行が経営を引き受けた姉妹関係の銀行で、中小企業金融を使命として東京を中心に営業していた。合併には障害が少なく、融資先のすそ野を広げる利点もある。1964年3月に覚書へ調印し、8月1日に合併が実現[29]した。形式は吸収合併だが、朝日銀行の従業員をそのまま引き継ぎ、株主にも一対一の割合で第一銀行株を割り当てている。帝国銀行での苦い経験から、不満が残らないよう十分に配慮したと井上氏は書いている。戦後の金融界では初の本格的な合併であり、1965年の住友・河内[30]、1968年の三井・東都と続く再編の先例になった。
合併の翌1965年9月末、第一銀行の預金残高は1兆311億円[31]に達した。昭和40年代に入るころ、大蔵省銀行局長となった澄田智氏は、国債発行と資本自由化のなかで金融構造は変革を求められていると訴え、金融の効率化を掲げた。護送船団と呼ばれた行政のもとで安易な経営に流れた銀行に、競争原理を持ち込もうという試みであった[32]。1968年6月には金融機関の合併及び転換に関する法律が制定され[33]、異種の金融機関どうしの合併や転換にも道が開かれる。中小金融機関の再編を刺激した効率化の号令は、やがて都市銀行にも及んだ。
1969年1月1日、読売新聞が『三菱銀行・第一銀行合併』[34]の構想を報じた。大銀行どうしの合併時代の幕開けと受け取られたこの構想を、内側から止めたのが会長の井上薫氏である。反対の理由は一点に絞られていた。最初は対等合併であっても、株主に三菱グループの企業が並べば、いずれ三菱色に塗りつぶされる[35]。それでは渋沢栄一氏以来、特定の財閥に属さずに来た第一銀行の特色が失われる。金融制度調査会の委員として再編の必要を説いてきた井上氏にとって、この反対は表向き矛盾した行動でもあった。後日、調査会の席で自ら発言を求めて説明したが、問題が問題だけに具体的には話せず、苦しい弁明に終わったと本人が書いている。
井上氏は主要株主15、6社を自ら回った[36]。筆頭株主の朝日生命は『三菱グループには三菱系の生命保険会社がある。今まで一緒に仕事をしてきた第一銀行が三菱グループに入ったら、一体われわれはどこに行けばいいのですか』[引用元]と反対の理由を述べ、岡田完二郎富士通社長、砂野仁川崎重工社長ら訪ねた先はすべて反対だった。報道を機に行内の反対も燃え広がり、1月10日の全国支店長会議で反対派が多数を占め、11日には従業員組合の拡大執行委員会も反対を決議する。13日、長谷川重三郎頭取は『機いまだ熟さず』[37]として白紙還元を表明した。頭取以下数人の役員が辞任し、井上氏が頭取に復帰している。
三菱の一件が片付いたあと、井上氏は部長や課長との会食の席で、合併するとしたら相手はどこがよいかを尋ねて回った。最も多く挙がったのが日本勧業銀行である。当時の勧銀は預金高・支店数・従業員数のどの指標をとっても第一銀行と似通い、特定の財閥を背景に[38]持たない点も共通していた。1969年12月、渋沢倉庫社長の八十島親義氏の仲介で[39]、東京・六本木の旅館で横田郁頭取と初めて席を同じくする。以後ほぼ月に一度の会談を重ね、新銀行の名称・本店の所在地・役員の割り振り・合併比率を、すべて対等という観点から詰めていった。
1971年3月11日、日本経済新聞が[40]一面で『第一・勧銀が対等合併』[引用元]と報じ、両行はその日のうちに発表へ踏み切った。10月1日、第一勧業銀行が発足する。前年9月末の預金量は第一銀行1兆7395億円で都銀6位[41]、日本勧業銀行1兆5786億円で同8位、合わせて国内首位となった。井上氏は『都銀中位行として、第一銀行は単独でもそれなりに生きていく道はあった』[引用元]と前置きしたうえで、合併の理由を規模の拡大による経営効率と、自由化[42]のなかでの競争力に求めている。三菱との合併に反対した理由も、勧銀との合併を選んだ理由も、特定の財閥に属さないという一点にあった。
第一勧業銀行は、対等という理念をそのまま組織の二重構造に落とした。頭取は旧第一と旧勧銀から交互に選ばれ、部長や支店長の後任は同じ出身行から充てる原則が敷かれた。日銀が指示する融資枠さえ四半期ごとにほぼ二分し[43]、それぞれの流儀で運用している。合併から3年を経た1974年になっても、この原則は崩れていない。急がないという判断は意図的なもので、井上氏は『こういった問題は三十年もたてば一〇〇%片づく問題なので、そんなに急ぐことはない』[引用元]と述べた。[44]摩擦を避けるという意味では、この選択は当初の目的を果たしている。
だが代償もあった。1980年9月期の預金は13兆1900億円で国内首位[45]に立ちながら、収益力は中位行並みにとどまると評され、人事の二元管理が経営効率を押し下げているとして『双頭銀行』と呼ばれている。量の首位と収益の中位が同居する状態は、非財閥系という中立性の裏返しでもあった。特定の企業集団に寄りかからない代わりに、どの集団からも厚い支援を受けにくい。
量を収益に変える課題に対して、同行は個人取引の開拓で応えようとした。1983年12月、大蔵省は銀行の関連会社に消費者金融を含む貸金専門業[46]を認める方針を伝える。それまで貸金・預金・為替という基本業務では関連会社の設立が認められていなかった。第一勧業銀行はこの緩和にまっ先に応じ、1984年10月、資本金3億円で消費者金融専門会社[47]のハートファイナンスを設立した。都市銀行としては初の例で、翌年1月28日に営業を始めている。羽倉信也頭取は『銀行の窓口で貸しにくい人のために設立するのがねらいなんです』[引用元]と述べた。もっとも、当時の同行の消費者ローンは住宅ローンを除けば665億円[48]、国内貸出量のわずか0.6%にとどまっていた。
発端は1985年3月にさかのぼる。取引先の元出版社社長だった木島力也氏の紹介で、総務部が小池嘉矩氏に1億円を融資した。[49]総会屋として知られた小池隆一氏の実弟である。その時点の担保時価は8700万円である。融資は延べ69回を数え、株価が上昇した1987年に急拡大し、1989年に残高のピークを迎えた[50]。ノンバンクを迂回した分まで含めれば、実行された融資の総額は約475億円にのぼる。小池氏側はこの資金で野村証券など四大証券の株式を30万株ずつ買い集め、株主総会の議案提案権を持つ株主として振る舞った。融資の窓口は最後まで営業や審査の部門ではなく、総務部であり続けている。
異常だったのは担保のとり方である。株式を担保に貸す場合、大手都銀は優良株でも7割までしか融資しない掛け目を置くが[51]、小池氏側には当初から10割が適用された。1990年10月に実行した山梨県のゴルフ場開発資金15億7000万円の担保は、用地買収も終わっていないゴルフ場の、まだ発行されてもいない会員権の引換証にすぎない。この融資を境に大幅な担保割れとなり、1992年には融資と担保の差が70億円[52]に達した。
なぜ止められなかったのか。木島氏は1969年に第一銀行と三菱銀行の合併計画が表面化した際[53]、合併に反対する側の総会屋として動いた一人で、そこから歴代の首脳との関係が生まれた。1993年に木島氏が死去したあとも、小池氏側への融資は続いた。ここで問うべきは個人の資質ではなく、組織のかたちである。旧第一と旧勧銀の人事は相互不干渉とされながら、一方で不満を抱えた勢力が他方の協力を得れば結果を覆せた。1976年ごろの頭取人事をめぐる争いでは、収拾のために外部の人物[54]が頼られたと当時の首脳経験者が語っている。強い指導力よりも双方が担ぎやすいトップが続いたことが、断れない関係を長らえさせた。
23日、近藤克彦頭取と奥田正司会長が退任を表明する。6月10日には審査を担当していた金澤元副頭取ら4人が逮捕され、ノンバンクを迂回した不正融資に審査部門まで関与していた組織ぐるみの構図が明らかになった。相談役5名も顧問に就かずに退いた。捜査は経営の最上層まで達し、奥田正司前会長は7月4日に逮捕されている。6月には宮崎邦次元会長が自ら命を絶[55]っている。
1966年に日本勧業銀行へ入行した国内業務畑で、都市銀行では最年少である。銀行は『第三者を参画させた行内調査をもとに、事件への関与が認められない人材を選任し、いわゆる『たすき掛け』人事も排した』[引用元]と説明し、相談役制度そのものを廃止した。総務部は廃止され、5、6人が務めていた総会屋との接触窓口は消えた。
相手側から見ると、第一勧銀は補い合う相手であった。1998年11月、富士銀行・安田信託銀行との提携が発表される。芙蓉グループだけでは支えきれず富士銀行が第一勧銀を引き込んだ形であり、有力な信託を持たない第一勧銀にも意味があった。その翌年、両行は興銀を加えた三行統合を発表した。
2000年9月、第一勧業銀行は富士銀行・日本興業銀行[56]とともに株式移転でみずほホールディングスを設立し、株式の上場を廃止した。2002年4月には同行を存続会社とする再編でみずほ銀行となり、第一勧業銀行という商号も消える。1873年の第一国立銀行から127年、1971年の合併から29年であった。全国に広がる店舗網と個人取引の厚み、非財閥系という中立性は、統合後の銀行に引き継がれている。井上薫氏が30年もたてば片づくと語った問題は、30年後に別の名前の銀行で繰り返し指摘されることになる。
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|---|---|---|---|---|
| 1873〜1944年第一国立銀行と日本勧業銀行——二つの国策銀行が別々に負った役割 | 第一国立銀行が開業 | ★ | ||
| 渋沢栄一氏が総監役に就任 | ★ | |||
| 普通銀行の第一銀行として再発足 | ★ | |||
| 日本勧業銀行法に基づき日本勧業銀行が設立 | ★ | |||
| 第一銀行が韓国で中央銀行の役割を担う | ★ | |||
| 日本勧業銀行が全国の農工銀行の合併に着手 | ★ | |||
| 第一銀行が東海銀行を、1931年に古河銀行を合併し五大銀行の一角を占める | ★ | |||
| 三井銀行と対等合併し帝国銀行が発足 | ★★ | |||
| 1945〜1970年戦後再建と二行それぞれの歩み——分離した第一、転換した勧銀 | 帝国銀行から分離し第一銀行として再発足 | ★★ | ||
| 日本勧業銀行法が廃止 | ★ | |||
| 日本勧業銀行が普通銀行に転換 | ★ | |||
| 日本勧業銀行が債券発行業務を停止 | ★ | |||
| 第一銀行が印鑑不要のサイン式個人小切手を商品化 | ★ | |||
| 第一銀行が朝日銀行を合併 | ★ | |||
| 第一銀行の預金残高が1兆円を突破 | ★ | |||
| 三菱銀行との合併構想が表面化し1月13日に白紙還元 | ★★ | |||
| 1971〜1990年1971年の合併と、預金量日本一という看板の裏側 | 第一銀行と日本勧業銀行の合併による第一勧業銀行の成立(1971年) 1971年、第一銀行と日本勧業銀行が対等合併し、預金量で国内首位となる第一勧業銀行が発足した。都市銀行同士の合併は第二次世界大戦後初であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 都市銀行初の消費者金融専門会社ハートファイナンスの設立と、取引先企業との提携ローンの導入 1984年10月11日、第一勧業銀行が消費者金融専門会社ハートファイナンスの設立を発表し、翌1985年1月28日に営業を始めた。都市銀行が自前の消費者金融会社を持つ最初の例で、資本金3億円のうち同行の直接出資は5%、残る95%を関連会社が持つ構成であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 総務部が元出版社社長の紹介で小池嘉矩への融資を始める | ★★ | |||
| 麹町支店の不正融資事件が発覚 | ★★ | |||
| 藤森鉄雄氏と羽倉信也氏が引責退任 | ★ | |||
| 1991〜2000年総会屋事件から統合へ——本業のなかに闇を抱えた銀行の終わり | 総会屋関係先への融資と大蔵省検査時の隠蔽、経営陣の総退陣と総務部の廃止 1997年、第一勧業銀行が総会屋への利益供与に問われ、役員40名のうち21名が退任した経営判断。1985年3月に総務部を窓口として始まった融資は延べ69回・総額275億円に達し、二度の大蔵省検査の前には残高を圧縮する工作が行われていた。6月10日、杉田力之常務を新頭取とする首脳の総入れ替えを発表した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 近藤克彦氏と奥田正司氏が退任を表明 | ★★ | |||
| 大蔵省の行政処分を受け、総務部を廃止して行内業務監査委員会を新設 | ★ | |||
| 富士銀行・安田信託銀行との信託分野での提携を発表 | ★ | |||
| 資産内容の悪化を理由に格下げされ、不良債権の償却増額で業績見通しを下方修正 | ★ | |||
| 第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の経営統合とみずほ誕生(2000年成立) 1999年8月、第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の3行が全面統合を発表し、2000年9月に株式移転で持株会社みずほホールディングスを設立。国内初のメガバンクが誕生した案件。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(第一勧業銀行)