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  "title": "第一勧業銀行の歴史概略",
  "sections": [
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      "start_year": 1873,
      "end_year": 1944,
      "main_title": "第一国立銀行と日本勧業銀行——二つの国策銀行が別々に負った役割",
      "subsections": [
        {
          "title": "渋沢栄一と第一国立銀行——制度は米国式、経営は英国式",
          "text": "1873年6月、資本金244万円で第一国立銀行が設立された。前年11月に公布された国立銀行条例に基づくわが国最初の銀行で、条例を立案したのは大蔵省の官吏だった渋沢栄一氏である。「国立」といっても国有でも官庁でもなく、条例に基づく銀行という意味にすぎない。資本金の大半は旧幕時代からの両替商である三井組と小野組が出したうえで、双方の代表が頭取に、渋沢栄一氏が総監役に就いた。制度の下敷きを米国のナショナル・バンクに求めたのは大蔵少輔の伊藤博文氏で、英国式の中央銀行設立を説く吉田清成氏と激しく対立したすえ、大蔵大輔の井上馨氏の裁断で伊藤案が採られている。\n\n制度は米国から借りたが、経営の理念は英国から入った。政府が招いた英国人銀行家のアラン・シャンドは、銀行簿記の実務だけでなく、短期資金の取り扱いを重んじる健全経営の原則を教えている。第一国立銀行はその指導を受けて帳簿と事務の組織を一つずつ整え、後年150を超える国立銀行と多数の私立銀行が生まれる際、そこで体系化された様式が手本になった。他行の行員が机を並べて業務を見習う出向研修の慣行は昭和初期まで残り、1929年に入行した井上薫氏も、自行に第一銀行の行員でない者が混じって同じ仕事をしていたと回想している。\n\n1882年の日本銀行設立で国立銀行は紙幣発行権を失い、第一国立銀行も1896年9月に営業満期を迎えて、資本金450万円の普通銀行「第一銀行」として新発足した。以後は商工業の金融に専念し、1901年の金融恐慌では商工業者の救済にあたって、かえって預金を増やしている。海外では国立銀行時代の釜山支店を足がかりに韓国各地へ店舗を広げ、1909年に韓国銀行が設立されるまで、同地で中央銀行の役割を担った。昭和期には1927年に東海銀行を、1931年に古河銀行を合併して20余の支店を加え、五大銀行の一角を占めるに至った。",
          "references": [
            {
              "title": "会社銀行八十年史（1955年）「第一銀行」",
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              "title": "日本産業史（日経文庫）第1巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行－財閥銀行から近代化」",
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                "fact": "第一国立銀行は1873年6月11日に資本金244万円で設立された、国立銀行条例による日本最初の銀行である",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「第一銀行」",
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                "genbun": "1873年6月、資本金244万円で第一国立銀行が設立された。"
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                "fact": "国立銀行条例を立案したのは大蔵省の渋沢栄一で、第一国立銀行の総監役に就いた",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "「国立」といっても国有でも官庁でもなく、条例に基づく銀行という意味にすぎない。"
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                "fact": "制度を米国式にしたのは伊藤博文の進言で、英国式を説く吉田清成と対立したすえ井上馨の裁断で伊藤案が採られた",
                "source": "日本産業史（日経文庫）第1巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行－財閥銀行から近代化」",
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              {
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                "source": "日本産業史（日経文庫）第1巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行－財閥銀行から近代化」",
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                "genbun": "政府が招いた英国人銀行家のアラン・シャンドは、銀行簿記の実務だけでなく、短期資金の取り扱いを重んじる健全経営の原則を教えている。"
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              {
                "fact": "第一国立銀行で体系化された帳簿組織と事務組織が後発銀行の手本となり、他行員の出向研修が昭和初期まで続いた",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
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                "genbun": "他行の行員が机を並べて業務を見習う出向研修の慣行は昭和初期まで残り、1929年に入行した井上薫氏も、自行に第一銀行の行員でない者が混じって同じ仕事をしていたと回想している。"
              }
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            [
              {
                "fact": "1896年9月に国立銀行としての営業満期を迎え、資本金450万円の普通銀行・第一銀行として新発足した",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「第一銀行」",
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                "genbun": "1882年の日本銀行設立で国立銀行は紙幣発行権を失い、第一国立銀行も1896年9月に営業満期を迎えて、資本金450万円の普通銀行「第一銀行」として新発足した。"
              },
              {
                "fact": "釜山支店を起点に韓国各地へ店舗を広げ、1909年に韓国銀行が設立されるまで韓国における中央銀行の役割を果たした",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「第一銀行」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "海外では国立銀行時代の釜山支店を足がかりに韓国各地へ店舗を広げ、1909年に韓国銀行が設立されるまで、同地で中央銀行の役割を担った。"
              },
              {
                "fact": "1927年に東海銀行、1931年に古河銀行を合併して20余の支店を加え、五大銀行の一角となった",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「第一銀行」",
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                "genbun": "昭和期には1927年に東海銀行を、1931年に古河銀行を合併して20余の支店を加え、五大銀行の一角を占めるに至った。"
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            ]
          ]
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        {
          "title": "農工業に長期低利の資金を——日本勧業銀行という別の設計",
          "text": "もう一方の源流である日本勧業銀行は、商業銀行とは正反対の設計で生まれている。1897年6月、日本勧業銀行法に基づき資本金1000万円（4分の1払込）で設立された特殊銀行で、構想そのものは1881年にさかのぼり、単行法の公布は前年4月であった。設立の趣旨は農工業の改良発達に置かれ、不動産を担保に、あるいは無抵当で、長期低利の資金を供給することを役割とした。資金は預金ではなく勧業債券で集めた。1910年からは預金業務も始めているが、当初は総額と運用の方法に制限のある付随業務にとどまっている。短期資金を商工業に回す第一銀行とは、集め方も貸し方も異なっていた。\n\n業務の幅は法改正のたびに広がった。1905年の工場抵当法で工場財団への融資の道が開け、これが企業担保金融の始まりとなる。1906年には東北の凶作救済を機に、大蔵省預金部の資金を貸し出す機関という役割も加わった。1911年には融資の目的制限が撤廃されて農工業だけの銀行から一般の不動産銀行へと性格が変わり、都市の住宅建設や中小商工業の資金需要にも応じられるようになった。そして1921年から1944年にかけて全国の農工銀行46店を合併し、全国に支店を持つ唯一の不動産銀行となる。この店舗網は、半世紀後に第一勧業銀行が受け継ぐ最大の資産になった。",
          "references": [
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              "title": "会社銀行八十年史（1955年）「第一銀行」",
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              "title": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
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                "fact": "日本勧業銀行は1897年6月7日、日本勧業銀行法に基づき資本金1000万円（4分の1払込）で設立された",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「日本勧業銀行」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "1897年6月、日本勧業銀行法に基づき資本金1000万円（4分の1払込）で設立された特殊銀行で、構想そのものは1881年にさかのぼり、単行法の公布は前年4月であった。"
              },
              {
                "fact": "設立趣旨は農工業の改良発達で、不動産担保または無抵当で長期低利の資金を供給し、資金は債券で集めた",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「日本勧業銀行」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "設立の趣旨は農工業の改良発達に置かれ、不動産を担保に、あるいは無抵当で、長期低利の資金を供給することを役割とした。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1905年の工場抵当法で工場財団への融資が可能になり、これが同行の企業担保金融の始まりとなった",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「日本勧業銀行」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "1905年の工場抵当法で工場財団への融資の道が開け、これが企業担保金融の始まりとなる。"
              },
              {
                "fact": "1921年から1944年にかけて全国の農工銀行46店を合併し、全国に支店を持つ唯一の不動産銀行となった",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「日本勧業銀行」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "そして1921年から1944年にかけて全国の農工銀行46店を合併し、全国に支店を持つ唯一の不動産銀行となる。"
              }
            ]
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        },
        {
          "title": "帝国銀行——戦時下の対等合併が残したもの",
          "text": "1943年4月、国家的要請により第一銀行は三井銀行と対等合併し、資本金2億円の帝国銀行が発足した。相手の三井銀行は1876年に開業したわが国最初の私立銀行で、前身の三井両替店は1683年にさかのぼる。第一と三井は明治の初めに第一国立銀行の設立で手を組み、その後は五大銀行として並び立ってきた二行であった。新銀行は旧第一銀行本店を本店とし、会長には明石照男氏が就いている。翌1944年8月には十五銀行も合併して資本金2億2000万円となり、わが国最大の普通銀行として金融界と産業界に指導的な地位を占めた。渋沢栄一氏が最初の一行を開いてから70年、規模では頂点に立った。\n\nだが、規模と融和は別の話であった。旧第一系の行員には、人事の扱いをめぐる不満が合併の当初から残る。井上薫氏は、人事政策に根ざす不満と合併の効率に対する不満が行内にくすぶっていたと書き残している。支店長の数では三井出身者が旧第一出身者を上回るようになり、それも不満の種になった。戦時下の統合そのものは、当時の要請としては筋が通っていた。狂ったのは人事の配分で、対等の名を掲げながら均衡を欠いたことが、旧第一系の行員に記憶として残る。1948年の分離運動も、1971年の合併交渉も、この記憶を出発点にしている。",
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              "title": "会社銀行八十年史（1955年）「第一銀行」",
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              "title": "会社銀行八十年史（1955年）「日本勧業銀行」",
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              "title": "日本産業史（日経文庫）第1巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行－財閥銀行から近代化」",
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                "fact": "1943年4月、第一銀行は三井銀行と対等合併して帝国銀行を設立し、旧第一銀行本店を本店として明石照男が会長に就いた",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「第一銀行」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "1943年4月、国家的要請により第一銀行は三井銀行と対等合併し、資本金2億円の帝国銀行が発足した。"
              },
              {
                "fact": "翌1944年8月に十五銀行を合併し、わが国最大の普通銀行となった",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「三井銀行」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "翌1944年8月には十五銀行も合併して資本金2億2000万円となり、わが国最大の普通銀行として金融界と産業界に指導的な地位を占めた。"
              }
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                "fact": "井上薫は帝国銀行時代に人事政策に根ざす不満と合併効率への不満が行内にくすぶっていたと記し、後年の合併判断の根拠とした",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "井上薫氏は、人事政策に根ざす不満と合併の効率に対する不満が行内にくすぶっていたと書き残している。"
              }
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          ]
        }
      ]
    },
    {
      "start_year": 1945,
      "end_year": 1970,
      "main_title": "戦後再建と二行それぞれの歩み——分離した第一、転換した勧銀",
      "subsections": [
        {
          "title": "帝国銀行からの分離——造反として始まった再建",
          "text": "敗戦後、旧第一系の行員のあいだで、帝国銀行を分割すべきだとする声が高まった。当時の調査課長だった井上薫氏は分離すべき理由を八項目にまとめて役員に持ち込み、支店長からは分離を求める連判状が次々に届いた。行内では旧第一系の大部分が賛成し、三井系は反対に回り、大蔵省もまた分離に反対していた。同じ屋根の下で机を並べながら一方が分離を望む状況を、井上氏自身が「完全な造反」と書いている。分離が実現しなければ処分は免れず、処分されなくとも銀行にはとどまれないと覚悟したうえでの行動であった。\n\n頼みの綱であったGHQの方針も一様ではなかった。反トラスト課は大銀行の分割に強く賛成し、西ドイツでは三大銀行が約30行に分けられつつあった。ところが経済科学局の銀行担当は、経済再建の要である銀行を弱体化させるべきではないとして、集中排除法の適用除外に傾いていく。担当官から「君は一体、日本の金融界の安定の方が大事なのか、帝国銀行が大事なのか」と問われ、井上氏は「預金の一割を占める帝銀の効率化が実現されなければならない」と答えたが、相手は椅子を回して背を向けたきり黙り込んだ。1947年末には大蔵省から分離運動を差し控えるよう申し渡されている。\n\nそれでも流れは止まらず、1948年1月の役員会で佐藤喜一郎頭取が分離を決断した。GHQは「分離するならイーブンで」という条件を付け、旧第一系76店と、三井系に旧十五銀行を加えた80店という線引きが行われた。帝国銀行の名称は三井側が引き継ぎ、第一側は名称にこだわらなかった。1948年10月1日、資本金10億2000万円・預金152億円・営業店舗82・行員4600人で第一銀行が再発足する。同じ時期の富士銀行は189店舗を持っており、その半分に満たない。荻野正孝頭取は「相当のへだたりがあり、これを元の第一銀行に戻すためには並々ならぬ覚悟が必要である」と訓示した。",
          "references": [
            {
              "title": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
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            {
              "title": "会社銀行八十年史（1955年）「日本勧業銀行」",
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            {
              "title": "日本産業史（日経文庫）第3巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」",
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                "fact": "井上薫は帝銀分割の理由を八項目にまとめて役員に持ち込み、支店長からは分離を求める連判状が届いた",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "当時の調査課長だった井上薫氏は分離すべき理由を八項目にまとめて役員に持ち込み、支店長からは分離を求める連判状が次々に届いた。"
              },
              {
                "fact": "行内では旧第一系が賛成、三井系が反対、大蔵省も分離に反対しており、井上は自らの立場を「完全な造反」と記した",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "同じ屋根の下で机を並べながら一方が分離を望む状況を、井上氏自身が「完全な造反」と書いている。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "GHQ反トラスト課は大銀行分割に賛成したが、経済科学局の銀行担当は銀行を集中排除法の適用除外にすべきという立場に傾いた",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "ところが経済科学局の銀行担当は、経済再建の要である銀行を弱体化させるべきではないとして、集中排除法の適用除外に傾いていく。"
              },
              {
                "fact": "1947年12月31日、井上は大蔵省から分離運動を差し控えるよう強く申し渡された",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "1947年末には大蔵省から分離運動を差し控えるよう申し渡されている。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1948年1月の役員会で佐藤喜一郎頭取が分離を決断し、GHQは「イーブンで」という条件を付けた",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "それでも流れは止まらず、1948年1月の役員会で佐藤喜一郎頭取が分離を決断した。"
              },
              {
                "fact": "1948年10月1日、資本金10億2000万円・預金152億円・82店舗・行員4600人で第一銀行が再発足し、同時期の富士銀行は189店舗だった",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "1948年10月1日、資本金10億2000万円・預金152億円・営業店舗82・行員4600人で第一銀行が再発足する。"
              },
              {
                "fact": "荻野正孝頭取は再出発にあたり「相当のへだたりがあり並々ならぬ覚悟が必要」と訓示した",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "荻野正孝頭取は「相当のへだたりがあり、これを元の第一銀行に戻すためには並々ならぬ覚悟が必要である」と訓示した。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "特殊銀行から都市銀行へ——日本勧業銀行の転換",
          "text": "同じ時期、日本勧業銀行は存立の前提そのものを失っていた。貨幣価値の低落で債券による長期資金の吸収は困難になり、農地解放と土地建物の賃借権保護によって、農耕地や市街地の不動産を担保とする金融にも法律上の制約が加わる。特殊銀行から普通銀行へ、不動産銀行から商業銀行へ転換するほかなかった。1948年の再建整備で預金銀行化の方針を決め、1950年2月に「銀行等の債券発行等に関する法律」が制定されて債券発行と長期融資を再開する一方、日本勧業銀行法は廃止されて法的に完全な普通銀行となった。\n\n1952年12月、長期信用銀行法の施行に伴って債券発行業務を停止し、資金の調達を預金だけに絞った。業務の主力を短期金融に置くため地方の店舗を廃して都市の店舗を増やし、融資対象も重要産業のほぼ全般に広がった。1955年3月末の預金残高は1415億円で、同時期の第一銀行の1505億円と大差ない。特殊銀行時代から続く堅実な経営により、戦後の金融機関再建整備で唯一無傷の大銀行として存続したという評価も残る。全国各府県の農工銀行を合併して支店とした経緯から、店舗網が全国に及ぶことが、この銀行の際立った特色であった。",
          "references": [
            {
              "title": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
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            {
              "title": "会社銀行八十年史（1955年）「日本勧業銀行」",
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            {
              "title": "日本産業史（日経文庫）第3巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」",
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              {
                "fact": "戦後の貨幣価値低落と農地解放・賃借権保護により債券発行と不動産担保金融が行き詰まり、特殊銀行から普通銀行への転換を余儀なくされた",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「日本勧業銀行」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/3043712",
                "genbun": "特殊銀行から普通銀行へ、不動産銀行から商業銀行へ転換するほかなかった。"
              },
              {
                "fact": "1950年2月に銀行等の債券発行等に関する法律が制定され、同時に日本勧業銀行法が廃止されて法的に完全な普通銀行となった",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「日本勧業銀行」",
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                "genbun": "1948年の再建整備で預金銀行化の方針を決め、1950年2月に「銀行等の債券発行等に関する法律」が制定されて債券発行と長期融資を再開する一方、日本勧業銀行法は廃止されて法的に完全な普通銀行となった。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "1952年12月の長期信用銀行法施行に伴い債券発行業務を停止し、地方店舗を廃して都市店舗を増やした",
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                "genbun": "1952年12月、長期信用銀行法の施行に伴って債券発行業務を停止し、資金の調達を預金だけに絞った。"
              },
              {
                "fact": "1955年3月末の預金残高は日本勧業銀行1415億円、第一銀行1505億円であった",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「日本勧業銀行」",
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                "genbun": "1955年3月末の預金残高は1415億円で、同時期の第一銀行の1505億円と大差ない。"
              },
              {
                "fact": "全国の農工銀行を合併して支店としたため店舗網が全国的であり、金融機関再建整備で唯一無傷の大銀行として存続したと評された",
                "source": "会社銀行八十年史（1955年）「日本勧業銀行」",
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                "genbun": "全国各府県の農工銀行を合併して支店とした経緯から、店舗網が全国に及ぶことが、この銀行の際立った特色であった。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "合併時代の到来——蔵相の一言と朝日銀行合併",
          "text": "1963年秋、銀行協会の昼食会に招かれた田中角栄蔵相が「こういう時代だから銀行もそろそろ合併して規模を拡大することを考えたらどうか」と述べた。戦後、銀行の新設は認められても合併はご法度とされてきたため、当時の銀行協会長であった井上薫頭取は耳を疑ったという。ところが翌1964年の新春にも蔵相は同じ問いを繰り返す。一度なら思いつきとも受け取れるが、二度となれば話が違う。金融政策が大きく変わったと確信した井上氏は、銀行局長にも真意を確かめたうえで、その足で朝日銀行に向かった。相手は決めてあった。\n\n朝日銀行は十五銀行の信託部門を前身とし、1939年に第一銀行が経営を引き受けた姉妹関係の銀行で、中小企業金融を使命として東京を中心に営業していた。合併には障害が少なく、融資先のすそ野を広げる利点もある。1964年3月に覚書へ調印し、8月1日に合併が実現した。形式は吸収合併だが、朝日銀行の従業員をそのまま引き継ぎ、株主にも一対一の割合で第一銀行株を割り当てている。帝国銀行での苦い経験から、不満が残らないよう十分に配慮したと井上氏は書いている。戦後の金融界では初の本格的な合併であり、1965年の住友・河内、1968年の三井・東都と続く再編の先例になった。\n\n合併の翌1965年9月末、第一銀行の預金残高は1兆311億円に達した。昭和40年代に入るころ、大蔵省銀行局長となった澄田智氏は、国債発行と資本自由化のなかで金融構造は変革を求められていると訴え、金融の効率化を掲げた。護送船団と呼ばれた行政のもとで安易な経営に流れた銀行に、競争原理を持ち込もうという試みであった。1968年6月には金融機関の合併及び転換に関する法律が制定され、異種の金融機関どうしの合併や転換にも道が開かれる。中小金融機関の再編を刺激した効率化の号令は、やがて都市銀行にも及んだ。",
          "references": [
            {
              "title": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
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            {
              "title": "会社銀行八十年史（1955年）「日本勧業銀行」",
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            {
              "title": "日本産業史（日経文庫）第3巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」",
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                "fact": "1963年秋と1964年新春の銀行協会昼食会で田中角栄蔵相が銀行の合併を促す発言を繰り返し、当時銀行協会長だった井上薫が真意を確認した",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "1963年秋、銀行協会の昼食会に招かれた田中角栄蔵相が「こういう時代だから銀行もそろそろ合併して規模を拡大することを考えたらどうか」と述べた。"
              }
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            [
              {
                "fact": "1964年3月10日に合併覚書へ調印し、8月1日に第一銀行と朝日銀行の合併が実現した",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
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                "genbun": "1964年3月に覚書へ調印し、8月1日に合併が実現した。"
              },
              {
                "fact": "形式は吸収合併だが従業員を全員引き継ぎ株式も一対一で割り当てる実質対等の合併とし、戦後初の本格的な銀行合併として住友・河内、三井・東都へ続いた",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "戦後の金融界では初の本格的な合併であり、1965年の住友・河内、1968年の三井・東都と続く再編の先例になった。"
              }
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            [
              {
                "fact": "1965年9月末の決算で第一銀行の預金残高は1兆311億円となった",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "合併の翌1965年9月末、第一銀行の預金残高は1兆311億円に達した。"
              },
              {
                "fact": "大蔵省銀行局長の澄田智が金融効率化を掲げ、競争原理の導入を金融構造改革の突破口にしようとした",
                "source": "日本産業史（日経文庫）第3巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823",
                "genbun": "護送船団と呼ばれた行政のもとで安易な経営に流れた銀行に、競争原理を持ち込もうという試みであった。"
              },
              {
                "fact": "1968年6月に金融機関の合併及び転換に関する法律（合併転換法）が制定され、異種金融機関間の合併・転換が認められた",
                "source": "日本産業史（日経文庫）第3巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823",
                "genbun": "1968年6月には金融機関の合併及び転換に関する法律が制定され、異種の金融機関どうしの合併や転換にも道が開かれる。"
              }
            ]
          ]
        }
      ]
    },
    {
      "start_year": 1971,
      "end_year": 1990,
      "main_title": "1971年の合併と、預金量日本一という看板の裏側",
      "subsections": [
        {
          "title": "中立を守るために、合併に反対する",
          "text": "1969年1月1日、読売新聞が「三菱銀行・第一銀行合併」の構想を報じた。大銀行どうしの合併時代の幕開けと受け取られたこの構想を、内側から止めたのが会長の井上薫氏である。反対の理由は一点に絞られていた。最初は対等合併であっても、株主に三菱グループの企業が並べば、いずれ三菱色に塗りつぶされる。それでは渋沢栄一氏以来、特定の財閥に属さずに来た第一銀行の特色が失われる。金融制度調査会の委員として再編の必要を説いてきた井上氏にとって、この反対は表向き矛盾した行動でもあった。後日、調査会の席で自ら発言を求めて説明したが、問題が問題だけに具体的には話せず、苦しい弁明に終わったと本人が書いている。\n\n井上氏は主要株主15、6社を自ら回った。筆頭株主の朝日生命は「三菱グループには三菱系の生命保険会社がある。今まで一緒に仕事をしてきた第一銀行が三菱グループに入ったら、一体われわれはどこに行けばいいのですか」と反対の理由を述べ、岡田完二郎富士通社長、砂野仁川崎重工社長ら訪ねた先はすべて反対だった。報道を機に行内の反対も燃え広がり、1月10日の全国支店長会議で反対派が多数を占め、11日には従業員組合の拡大執行委員会も反対を決議する。13日、長谷川重三郎頭取は「機いまだ熟さず」として白紙還元を表明した。頭取以下数人の役員が辞任し、井上氏が頭取に復帰している。",
          "references": [
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              "title": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
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              "title": "日本産業史（日経文庫）第3巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」",
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              "title": "日経ビジネス 1974年9月30日号（No.119）「第一勧業銀行——人の和守って企業合併の王道走る」",
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              "title": "日経ビジネス 1981年2月23日号（No.286）「第一勧業銀行——合併10年『双頭銀行』の潜在力を探る」",
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                "fact": "1969年1月1日の読売新聞が三菱銀行と第一銀行の合併構想を報じ、大銀行同士の合併時代の幕開けと受け取られた",
                "source": "日本産業史（日経文庫）第3巻 金融・商業（日本経済新聞社、1994年）「銀行・生損保－銀行再編成の時代」",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/13095823",
                "genbun": "1969年1月1日、読売新聞が「三菱銀行・第一銀行合併」の構想を報じた。"
              },
              {
                "fact": "井上薫は財閥系の三菱と組めば第一銀行の中立的な性格が失われるという一点で反対した",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "最初は対等合併であっても、株主に三菱グループの企業が並べば、いずれ三菱色に塗りつぶされる。"
              }
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            [
              {
                "fact": "井上薫は主要株主15、6社を回り、筆頭株主の朝日生命をはじめ岡田完二郎富士通社長・砂野仁川崎重工社長ら全員が合併に反対した",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "井上氏は主要株主15、6社を自ら回った。"
              },
              {
                "fact": "1969年1月10日の全国支店長会議で反対派が多数を占め、11日に従業員組合も反対を決議、13日に長谷川重三郎頭取が白紙還元を表明した",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
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                "genbun": "13日、長谷川重三郎頭取は「機いまだ熟さず」として白紙還元を表明した。"
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        },
        {
          "title": "対等合併の成立——似た者どうしを選ぶという判断",
          "text": "三菱の一件が片付いたあと、井上氏は部長や課長との会食の席で、合併するとしたら相手はどこがよいかを尋ねて回った。最も多く挙がったのが日本勧業銀行である。当時の勧銀は預金高・支店数・従業員数のどの指標をとっても第一銀行と似通い、特定の財閥を背景に持たない点も共通していた。1969年12月、渋沢倉庫社長の八十島親義氏の仲介で、東京・六本木の旅館で横田郁頭取と初めて席を同じくする。以後ほぼ月に一度の会談を重ね、新銀行の名称・本店の所在地・役員の割り振り・合併比率を、すべて対等という観点から詰めていった。\n\n1971年3月11日、日本経済新聞が一面で「第一・勧銀が対等合併」と報じ、両行はその日のうちに発表へ踏み切った。10月1日、第一勧業銀行が発足する。前年9月末の預金量は第一銀行1兆7395億円で都銀6位、日本勧業銀行1兆5786億円で同8位、合わせて国内首位となった。井上氏は「都銀中位行として、第一銀行は単独でもそれなりに生きていく道はあった」と前置きしたうえで、合併の理由を規模の拡大による経営効率と、自由化のなかでの競争力に求めている。三菱との合併に反対した理由も、勧銀との合併を選んだ理由も、特定の財閥に属さないという一点にあった。",
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              "title": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
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                "fact": "行内で挙がった合併相手の第一位が日本勧業銀行で、預金高・支店数・従業員数が第一銀行と似通い、いずれも特定の財閥を背景に持たなかった",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "当時の勧銀は預金高・支店数・従業員数のどの指標をとっても第一銀行と似通い、特定の財閥を背景に持たない点も共通していた。"
              },
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                "fact": "1969年12月、渋沢倉庫社長の八十島親義の仲介で六本木の旅館で井上薫と横田郁が会い、以後ほぼ月1回の会談を重ねた",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
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                "genbun": "1969年12月、渋沢倉庫社長の八十島親義氏の仲介で、東京・六本木の旅館で横田郁頭取と初めて席を同じくする。"
              }
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            [
              {
                "fact": "1971年3月11日に日本経済新聞が対等合併を報じ、同日発表、10月1日に第一勧業銀行が発足した",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
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                "genbun": "1971年3月11日、日本経済新聞が一面で「第一・勧銀が対等合併」と報じ、両行はその日のうちに発表へ踏み切った。"
              },
              {
                "fact": "1970年9月末の預金量は第一銀行1兆7395億円（都銀6位）、日本勧業銀行1兆5786億円（同8位）で、合併により国内首位となった",
                "source": "日経ビジネス 1981年2月23日号（No.286）「第一・勧銀——金融大合併の舞台裏」",
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                "genbun": "前年9月末の預金量は第一銀行1兆7395億円で都銀6位、日本勧業銀行1兆5786億円で同8位、合わせて国内首位となった。"
              },
              {
                "fact": "井上薫は合併の理由を、規模拡大による経営効率と自由化のなかでの競争力に求め、単独でも生きる道はあったと述べている",
                "source": "私の履歴書 経済人22（日本経済新聞社、1987年）井上薫",
                "url": "https://dl.ndl.go.jp/pid/11938805",
                "genbun": "井上氏は「都銀中位行として、第一銀行は単独でもそれなりに生きていく道はあった」と前置きしたうえで、合併の理由を規模の拡大による経営効率と、自由化のなかでの競争力に求めている。"
              }
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          ]
        },
        {
          "title": "双頭銀行——量の首位と、収益の中位",
          "text": "第一勧業銀行は、対等という理念をそのまま組織の二重構造に落とした。頭取は旧第一と旧勧銀から交互に選ばれ、部長や支店長の後任は同じ出身行から充てる原則が敷かれた。日銀が指示する融資枠さえ四半期ごとにほぼ二分し、それぞれの流儀で運用している。合併から3年を経た1974年になっても、この原則は崩れていない。急がないという判断は意図的なもので、井上氏は「こういった問題は三十年もたてば一〇〇％片づく問題なので、そんなに急ぐことはない」と述べた。摩擦を避けるという意味では、この選択は当初の目的を果たしている。\n\nだが代償もあった。1980年9月期の預金は13兆1900億円で国内首位に立ちながら、収益力は中位行並みにとどまると評され、人事の二元管理が経営効率を押し下げているとして「双頭銀行」と呼ばれている。量の首位と収益の中位が同居する状態は、非財閥系という中立性の裏返しでもあった。特定の企業集団に寄りかからない代わりに、どの集団からも厚い支援を受けにくい。第一勧銀グループ（三金会）は六大企業集団の一つに数えられたものの、財閥系の企業集団に比べれば、結束の度合いはあくまで緩やかであった。\n\n量を収益に変える課題に対して、同行は個人取引の開拓で応えようとした。1983年12月、大蔵省は銀行の関連会社に消費者金融を含む貸金専門業を認める方針を伝える。それまで貸金・預金・為替という基本業務では関連会社の設立が認められていなかった。第一勧業銀行はこの緩和にまっ先に応じ、1984年10月、資本金3億円で消費者金融専門会社のハートファイナンスを設立した。都市銀行としては初の例で、翌年1月28日に営業を始めている。羽倉信也頭取は「銀行の窓口で貸しにくい人のために設立するのがねらいなんです」と述べた。もっとも、当時の同行の消費者ローンは住宅ローンを除けば665億円、国内貸出量のわずか0.6%にとどまっていた。",
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                "source": "日経ビジネス 1981年2月23日号（No.286）「第一勧業銀行——合併10年『双頭銀行』の潜在力を探る」",
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              },
              {
                "fact": "第一勧業銀行を中心とする第一勧銀グループは三菱・三井・住友・芙蓉・三和と並ぶ六大企業集団の一つに数えられた",
                "source": "週刊東洋経済 2010年11月20日号「特集 異形の百年企業 財閥系老舗はなぜ強い？」",
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              },
              {
                "fact": "第一勧業銀行を中心とする企業集団は「三金会グループ」と呼ばれた",
                "source": "週刊東洋経済 1999年10月9日号「金融大再編「最終章」」",
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            [
              {
                "fact": "1983年12月に大蔵省が銀行の関連会社に消費者金融を含む貸金専門業を認める方針を伝え、それまで貸金・預金・為替では関連会社の設立が認められていなかった",
                "source": "日経ビジネス 1985年1月21日号（No.396）「第一勧業銀行の“サラ金”会社、企業向け提携ローンが軸」",
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                "genbun": "1983年12月、大蔵省は銀行の関連会社に消費者金融を含む貸金専門業を認める方針を伝える。"
              },
              {
                "fact": "1984年10月に資本金3億円（第一勧銀5%・関連会社95%）で都銀初の消費者金融専門会社ハートファイナンスを設立し、1985年1月28日に営業を開始した",
                "source": "日経ビジネス 1985年1月21日号（No.396）「第一勧業銀行の“サラ金”会社、企業向け提携ローンが軸」",
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                "genbun": "第一勧業銀行はこの緩和にまっ先に応じ、1984年10月、資本金3億円で消費者金融専門会社のハートファイナンスを設立した。"
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              {
                "fact": "1984年3月末の同行の消費者ローンは住宅ローンを除くと665億円で、国内貸出量の0.6%にすぎなかった",
                "source": "日経ビジネス 1985年1月21日号（No.396）「第一勧業銀行の“サラ金”会社、企業向け提携ローンが軸」",
                "url": null,
                "genbun": "もっとも、当時の同行の消費者ローンは住宅ローンを除けば665億円、国内貸出量のわずか0.6%にとどまっていた。"
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      "start_year": 1991,
      "end_year": 2000,
      "main_title": "総会屋事件から統合へ——本業のなかに闇を抱えた銀行の終わり",
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        {
          "title": "275億円——融資という本業のなかで進んだ利益供与",
          "text": "発端は1985年3月にさかのぼる。取引先の元出版社社長だった木島力也氏の紹介で、総務部が小池嘉矩氏に1億円を融資した。総会屋として知られた小池隆一氏の実弟である。その時点の担保時価は8700万円である。融資は延べ69回を数え、株価が上昇した1987年に急拡大し、1989年に残高のピークを迎えた。直接の融資は累計275億円に達し、そのうち70億7900万円が1997年3月期までに有税で償却された。ノンバンクを迂回した分まで含めれば、実行された融資の総額は約475億円にのぼる。小池氏側はこの資金で野村証券など四大証券の株式を30万株ずつ買い集め、株主総会の議案提案権を持つ株主として振る舞った。融資の窓口は最後まで営業や審査の部門ではなく、総務部であり続けている。\n\n異常だったのは担保のとり方である。株式を担保に貸す場合、大手都銀は優良株でも7割までしか融資しない掛け目を置くが、小池氏側には当初から10割が適用された。1990年10月に実行した山梨県のゴルフ場開発資金15億7000万円の担保は、用地買収も終わっていないゴルフ場の、まだ発行されてもいない会員権の引換証にすぎない。この融資を境に大幅な担保割れとなり、1992年には融資と担保の差が70億円に達した。銀行はさらに、大蔵省検査の前に融資を不動産会社へ肩代わりさせ、延滞した金利を関係の深いノンバンクから融資させて検査後に肩代わりするという工作を二度行っている。\n\nなぜ止められなかったのか。近藤克彦前頭取は辞任会見で「元出版社社長の呪縛が解けなかった」と説明し、歴代のトップと親密な「大事な客」という認識が行内にあったことを認めている。木島氏は1969年に第一銀行と三菱銀行の合併計画が表面化した際、合併に反対する側の総会屋として動いた一人で、そこから歴代の首脳との関係が生まれた。1993年に木島氏が死去したあとも、小池氏側への融資は続いた。ここで問うべきは個人の資質ではなく、組織のかたちである。旧第一と旧勧銀の人事は相互不干渉とされながら、一方で不満を抱えた勢力が他方の協力を得れば結果を覆せた。1976年ごろの頭取人事をめぐる争いでは、収拾のために外部の人物が頼られたと当時の首脳経験者が語っている。強い指導力よりも双方が担ぎやすいトップが続いたことが、断れない関係を長らえさせた。",
          "references": [
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              "title": "週刊東洋経済 1997年6月7日号「一勧・野村をつなぐ深い闇の構図」",
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            {
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        {
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          "text": "1997年5月14日に野村証券の元常務ら3人が、翌15日に小池兄弟が逮捕された。23日、近藤克彦頭取と奥田正司会長が退任を表明する。6月10日には審査を担当していた金澤元副頭取ら4人が逮捕され、ノンバンクを迂回した不正融資に審査部門まで関与していた組織ぐるみの構図が明らかになった。逮捕・起訴は11名に及び、役員40名のうち21名が退任する。相談役5名も顧問に就かずに退いた。捜査は経営の最上層まで達し、奥田前会長は7月4日に逮捕されている。6月には宮崎邦次元会長が自ら命を絶っている。\n\n新頭取には54歳の杉田力之常務が就いた。1966年に日本勧業銀行へ入行した国内業務畑で、都市銀行では最年少である。銀行は「第三者を参画させた行内調査をもとに、事件への関与が認められない人材を選任し、いわゆる『たすき掛け』人事も排した」と説明し、相談役制度そのものを廃止した。7月31日には常務会を廃して経営会議を置き、その下に業務を担う業務運営委員会と、それを検査する行内業務監査委員会を分けている。総務部は廃止され、5、6人が務めていた総会屋との接触窓口は消えた。総務部を窓口とする雑誌の定期購読650誌と広告出稿も、すべて取りやめている。\n\n8月6日から大蔵省の行政処分が実施された。法令違反を理由に銀行が行政処分を受けるのは戦後初である。国内営業所での新規融資の開拓と公共債の引き受け・入札を年末まで禁じられ、翌年8月まで営業拠点の新設も認められない。加えて、日本版ビッグバンで解禁される投資信託の窓口販売と金融持株会社の活用が1年間禁止された。持株会社に強い関心を示していた同行にとって、この一年は重い。もっとも、格付けは引き下げられず、収益への影響は軽微というのがアナリストの一致した見方でもあった。処分の重さが業績に表れないことこそ、再生を遠ざけるという指摘が当時からあった。",
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                "genbun": "6月には宮崎邦次元会長が自ら命を絶っている。"
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            [
              {
                "fact": "新頭取に就いた杉田力之は1942年生まれの54歳、1966年に旧日本勧業銀行に入行した国内業務畑で、都銀では最年少だった",
                "source": "週刊東洋経済 1997年6月21日号「第一勧銀 首脳「全取り替え」の刷新」",
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                "genbun": "新頭取には54歳の杉田力之常務が就いた。"
              },
              {
                "fact": "常務会を廃して経営会議を新設し、その下に業務運営委員会と行内業務監査委員会を置き、相談役制度も廃止した",
                "source": "週刊東洋経済 1997年11月22日号「第一勧銀 信用回復に向け組織刷新」",
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                "genbun": "7月31日には常務会を廃して経営会議を置き、その下に業務を担う業務運営委員会と、それを検査する行内業務監査委員会を分けている。"
              },
              {
                "fact": "総務部を廃止して総会屋との接触窓口をなくし、総務部を窓口とする雑誌の定期購読650誌と広告出稿をすべて取りやめた",
                "source": "週刊東洋経済 1997年11月22日号「第一勧銀 信用回復に向け組織刷新」",
                "url": null,
                "genbun": "総務部を窓口とする雑誌の定期購読650誌と広告出稿も、すべて取りやめている。"
              }
            ],
            [
              {
                "fact": "法令違反を理由に銀行が行政処分を受けるのは戦後初で、新規融資の開拓と公共債引受を年末まで、投資信託の窓販と金融持株会社の活用を1年間禁じられた",
                "source": "週刊東洋経済 1997年8月23日号「大蔵省は野村証券・第一勧銀の制裁バランスを優先」",
                "url": null,
                "genbun": "法令違反を理由に銀行が行政処分を受けるのは戦後初である。"
              },
              {
                "fact": "行政処分後もムーディーズは格付けを引き下げず、収益への影響は軽微というのがアナリストの一致した見方だった",
                "source": "週刊東洋経済 1997年8月23日号「第一勧銀再生への３つの課題」",
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                "genbun": "もっとも、格付けは引き下げられず、収益への影響は軽微というのがアナリストの一致した見方でもあった。"
              }
            ]
          ]
        },
        {
          "title": "統合で幕——何が残り、何が消えたか",
          "text": "体力の低下は、事件の摘発より先に始まっていた。1997年3月期は赤字決算となって自己資本を食い、自己資本比率が低下する。そこへ事件が重なった。1998年3月期の決算を修正Tier1比率で見ると、第一勧銀は日債銀・富士・さくら・あさひ・大和とともに4%を割り、国際業務の基準を満たさない6行に数えられた。1999年2月、ムーディーズは資産内容の悪化を懸念して同行を格下げする。同じ月、不良債権の償却を増額して業績見通しを大幅に下方修正し、公的資金の注入を申請した主要15行の一つとなった。個人預金の流出も続いていた。単独で立つ体力が、事件から二年で目に見えて細っている。\n\n相手側から見ると、第一勧銀は補い合う相手であった。1998年11月、富士銀行・安田信託銀行との提携が発表される。富士銀行と信託子会社を合併して第一勧業富士信託銀行を折半出資で設立し、そこへ安田信託が年金運用・カストディー・証券代行の財産管理業務を1400億円で売却するという枠組みで、経営危機にあった安田信託は事実上の解体によって破綻を免れた。芙蓉グループだけでは支えきれず富士銀行が第一勧銀を引き込んだ形であり、有力な信託を持たない第一勧銀にも意味があった。杉田力之頭取は当時「第一勧銀と富士の合併はない」と述べ、提携は信託分野に限ると強調している。その翌年、両行は興銀を加えた三行統合を発表した。\n\n2000年9月、第一勧業銀行は富士銀行・日本興業銀行とともに株式移転でみずほホールディングスを設立し、株式の上場を廃止した。2002年4月には同行を存続会社とする再編でみずほ銀行となり、第一勧業銀行という商号も消える。1873年の第一国立銀行から127年、1971年の合併から29年であった。全国に広がる店舗網と個人取引の厚み、非財閥系という中立性は、統合後の銀行に引き継がれている。同時に、旧行の別を人事に持ち込む習慣も残った。井上薫氏が「三十年もたてば片づく」と語った問題は、三十年後に別の名前の銀行で繰り返し指摘されることになる。",
          "references": [
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              "title": "週刊東洋経済 1997年6月7日号「一勧・野村をつなぐ深い闇の構図」",
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            {
              "title": "週刊東洋経済 1997年6月21日号「第一勧銀 首脳「全取り替え」の刷新」",
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            {
              "title": "週刊東洋経済 1997年8月23日号「第一勧銀再生への３つの課題」",
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              "title": "週刊東洋経済 1997年8月23日号「大蔵省は野村証券・第一勧銀の制裁バランスを優先」",
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            {
              "title": "週刊東洋経済 1997年11月22日号「第一勧銀 信用回復に向け組織刷新」",
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            {
              "title": "週刊東洋経済 1998年11月21日号「金融再編第２幕のシナリオ」",
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            {
              "title": "週刊東洋経済 1999年2月27日号「今月の格付け情報」",
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            {
              "title": "日経ビジネス 1997年7月28日号（No.901）「第一勧銀に巣食った大物総会屋の『呪縛』」",
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            {
              "title": "日経ビジネス 1997年6月16日号（No.895）「総会屋を育てた第一勧銀の墓穴」",
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                "fact": "1998年3月期の修正Tier1比率で第一勧銀は日債銀・富士・さくら・あさひ・大和とともに4%を割り、国際業務の基準を満たさない6行に含まれた",
                "source": "週刊東洋経済 1998年6月27日号「長信銀・都銀・信託１９行決算分析」",
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              },
              {
                "fact": "1999年2月、ムーディーズは資産内容の悪化を懸念して第一勧業銀行を格下げし、同行は不良債権償却を増額して業績見通しを下方修正、公的資金の注入を申請した15行の一つとなった",
                "source": "週刊東洋経済 1999年2月27日号「今月の格付け情報」",
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                "genbun": "1999年2月、ムーディーズは資産内容の悪化を懸念して同行を格下げする。"
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                "fact": "1997年3月期は赤字決算となり自己資本を食って自己資本比率が低下した",
                "source": "週刊東洋経済 1997年6月14日号「都銀 一強八弱一脱落の格差銀行決算」",
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                "genbun": "1997年3月期は赤字決算となって自己資本を食い、自己資本比率が低下する。"
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                "source": "週刊東洋経済 1998年11月21日号「金融再編第２幕のシナリオ」",
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                "fact": "杉田力之頭取は当時「第一勧銀と富士の合併はない」と述べ、提携を信託分野に限ると強調した",
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                "source": "公正取引委員会 平成12年度 主要な企業結合事例（事例1）「（株）第一勧業銀行，（株）富士銀行及び（株）日本興業銀行の持株会社の設立による事業統合」",
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                "genbun": "2000年9月、第一勧業銀行は富士銀行・日本興業銀行とともに株式移転でみずほホールディングスを設立し、株式の上場を廃止した。"
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              {
                "fact": "対等合併に由来する「たすき掛け人事・縦割り組織」は統合後のみずほでも問題として指摘され続けた",
                "source": "ダイヤモンド・オンライン 2021年12月20日「みずほの『たすき掛け人事・縦割り組織』問題は、前身の第一勧銀から続く呪縛だった」",
                "url": "https://diamond.jp/articles/-/286919",
                "genbun": "同時に、旧行の別を人事に持ち込む習慣も残った。"
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