住友銀行 の歴史

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創業 1670年
創業者 泉屋平兵衛友貞
創業地 大阪
創業
1895年11月、住友吉左衞門氏を行主とする資本金100万円の個人銀行として大阪で開業した。住友家は明治初年の国立銀行設立の勧誘を二度断っており、鉱山業以外へ手を広げる余裕がないという理由だった。それでも倉庫業の付帯業務として米や雑穀を担保に貸し付け、1875年には並合業という本格的な貸付業へ進んでいる。20年続けた貸付が、銀行の中身を先に作った。1912年に株式会社へ改組し、1916年にはサンフランシスコ・ハワイ・上海・ボンベーへ支店を開設して市中銀行の先頭で海外へ出た。1948年の財閥解体で大阪銀行と改称し、1952年に住友の行名を取り戻している。
決断
損失を翌期へ繰り越さない、という処理を二度とも選んだ。1977年9月期、安宅産業の救済で負担した1132億円を全額償却した。1972年3月期の経常利益530億円と比べれば2年分の利益が1期で消えた計算だが、業績は数年で戻り、1982年3月期の経常利益は1,051億円に達している。1986年10月には平和相互銀行を吸収合併し、出店規制のもとで一度に首都圏の店舗網を得て預金量を国内2位へ押し上げた。同じ償却の判断は18年後にも繰り返され、1995年3月期に8000億円超の不良債権を落として都市銀行初の経常赤字を計上した。二度の一括償却は、いずれも損失の規模を認めたうえで翌期の決算を実態へ戻した。
現況
預金量では首位に立てず、利益では都市銀行の先頭に立った。1982年3月期の経常利益1,051億円は同期の第一勧業銀行の810億円を上回り、1985年3月期も1,584億円と1,339億円の差がついている。同期の経常収益は2兆555億円であった。1990年代に入るとイトマンへの融資と不動産の焦げ付きが表面化し、企業文化の立て直しに3年を要している。1999年10月にさくら銀行との全面提携で合意し、2001年4月の合併で三井住友銀行が発足して、1895年から106年続いた住友銀行の商号は破綻でも解散でもなく変更によって消えた。
競合
同じ都市銀行でも、系列企業の数ではなく融資先の選別が利益率を決めた。住友銀行は住友系列の外にある有望企業との取引を開拓し、1960年11月にはプリンス自動車販売との提携で自動車購入資金の貸付を制度化して個人取引の入口を先に開いている。店舗数では他行に劣り、1964年の河内銀行合併と1986年の平和相互銀行合併でその不足を補った。量で先頭に立った第一銀行と日本勧業銀行の対等合併で生まれた第一勧業銀行が収益を中位に留めたのに対し、住友銀行は預金量2位のまま利益で上回っている。ただし選別の速さは選別の甘さと表裏で、安宅産業とイトマンの二件はいずれも自行が主導して抱えた取引であり、その速さがそのまま損失の規模を決めた。
住友銀行:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1971年3月期1985年3月期

創業ストーリー 別子銅山の家が持った銀行が、恐慌のたびに預金を集めて全国首位に立つまで (1670年〜)

別子銅山の家が持った銀行が、恐慌のたびに預金を集めて全国首位に立つまで

別子銅山に賭けた家が、銀行設立を二度断った理由

住友家の金融業は、1670年に泉屋平兵衛友貞氏が大阪で開いた両替商に始まる。ただし家業の中心は銅にあり、元禄四年(1691年)に銅商泉屋吉左衞門氏が愛媛の別子銅山を開発[1]して以来、住友は御用銅山の請負人として輸出銅の供出を担った。1882年の住友家法書は『豫州別子の鉱業は万世不朽の財本にして、この業の盛衰は我が一家の興廃に関し重かつ大なる、他に比すべきものなし』[引用元]と定め、1892年の家法書もほぼ同じ文言を繰り返している[2]。金融の側は長く倉庫業の付帯業務にとどまり、寄託された米や雑穀を担保に貸し付ける並合い業を営んだのち、1875年に並合業という本格的な貸付・金融業へ進んだ[3]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「鉱業-財閥とともに育つ」
    • [1]元禄四年(1691年)泉屋吉左衞門氏による別子銅山の開発
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
    • [2]1882年・1892年の住友家法書の文言
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [3]明治8年(1875年)並合業という本格的な貸付・金融業への進出

住友家は明治初年の銀行設立ブームに加わらず、国立銀行条例の制定にあたって受けた勧誘を『住友家では手を鉱山業以外に拡げる余裕がなく……時機尚早と認めたから』[引用元]として固辞[4]した。三井が第一国立銀行の大株主となり、安田が第三国立銀行の主要出資者になった[5]のとは別の道である。1895年11月、住友家は雑穀担保の貸付業を廃し、資本金100万円で住友銀行を開業[6]した。家長の住友吉左衞門氏を行主とする個人銀行で、店舗は大阪本店・神戸支店と川口・兵庫の両出張所の4カ店[7]だった。開業の主目的は、住友企業の資金の出納を円滑にすること[8]にある。同じ1895年9月には三菱合資会社も資本金100万円で銀行部の設立認可を受け[9]、10月に開業している。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-財閥銀行から近代化」
    • [4]住友家が国立銀行設立の勧誘を固辞した理由
    • [5]三井は第一国立銀行の大株主、安田は第三国立銀行の主要出資者
    • [8]開業の主目的は住友企業の資金の出納を円滑にすること
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [6]1895年11月 雑穀担保の貸付業を廃し資本金100万円で住友銀行を開業
    • [7]住友吉左衞門氏を行主とする個人銀行・大阪本店ほか4カ店
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [9]1895年9月 三菱合資会社の銀行部設立認可(資本金100万円)・10月開業
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「鉱業-財閥とともに育つ」
    • [1]元禄四年(1691年)泉屋吉左衞門氏による別子銅山の開発
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
    • [2]1882年・1892年の住友家法書の文言
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [3]明治8年(1875年)並合業という本格的な貸付・金融業への進出
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-財閥銀行から近代化」
    • [4]住友家が国立銀行設立の勧誘を固辞した理由
    • [5]三井は第一国立銀行の大株主、安田は第三国立銀行の主要出資者
    • [8]開業の主目的は住友企業の資金の出納を円滑にすること
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [6]1895年11月 雑穀担保の貸付業を廃し資本金100万円で住友銀行を開業
    • [7]住友吉左衞門氏を行主とする個人銀行・大阪本店ほか4カ店
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [9]1895年9月 三菱合資会社の銀行部設立認可(資本金100万円)・10月開業

株式会社への改組と、市中銀行の先頭を切った海外展開

1906年には貸出残高2000万円・預金残高3000万円[10]に達し、わが国第三位の銀行になった。1912年2月、住友銀行は資本金1500万円の株式会社へ改組[11]した。同年3月末の総貸金は4400万円で、創業年次末の20倍[12]にあたる。大正期には六十一銀行・本所貯金銀行・田中興業銀行・若松銀行を買収[13]し、国内の店舗を厚くした。1910年には三井合名会社の設立と同時に三井銀行が株式組織へ改められ、資本金は500万円から2000万円へ増えて[14]いる。三菱銀行が独立の株式会社として発足したのは1919年[15]で、財閥の機関銀行は三井・住友・三菱の順に法人格を整えた。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [10]1906年 貸出残高2000万円・預金残高3000万円で全国3位
    • [13]大正期の六十一銀行・本所貯金銀行・田中興業銀行・若松銀行の買収
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [11]1912年2月 個人経営から資本金1500万円の株式会社住友銀行へ改組
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [12]1912年3月末の総貸金4400万円(創業年次末の20倍)
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-中小銀行に苦難」
    • [14]1910年 三井合名会社の設立と同時に三井銀行が株式組織へ改組し資本金500万円→2000万円
    • [15]1919年 三菱銀行が独立の株式会社として発足

住友銀行は開業から数年で九州と東京に店舗を開き、大阪に本店を置く銀行の首位[16]に立った。外国取引にも早く出て、1903年にロンドンへ代理店[17]を設けている。1916年にサンフランシスコ・ハワイ・上海・ボンベーへ支店を開き[18]、1917年に漢口、1918年にシアトル・ニューヨーク・ロンドンへ拠点を並べ、大正期にはロサンゼルスとカリフォルニアにも置いた[19]。国内の店舗数は1917年に全国第一位[20]となった。1917年には3000万円へ増資し、あわせて株式を一般に公開して独占的色彩を薄めた[21]。1920年には7000万円へ増資し、貸金は3億円を突破[22]している。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [16]開業数年で九州・東京へ出店し大阪の銀行で首位
    • [17]1903年 ロンドンに代理店を設置
    • [20]1917年 国内店舗数が全国第一位
    • [21]1917年 3000万円への増資と株式の一般公開
    • [22]1920年 7000万円への増資と貸金3億円突破
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
    • [18]1916年 サンフランシスコ・ハワイ・上海・ボンベーへの支店開設
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [19]大正期のロサンゼルス・カリフォルニア拠点

中小銀行の破綻は明治期から続き、普通銀行の数は1901年の1890行を頂点に減って1914年には1595行[23]になっている。1901年の恐慌では大阪府で17行、京都府で5行、熊本県で4行など、全国で34行が支払い停止[24]に追い込まれた。取り付けが起きるたびに預金が大銀行へ移る構造は日露戦争のころには固まっており、1900年末から1901年末にかけて六大都市の中小銀行の預金が2200万円減ったのに対し、大銀行の預金は1000万円増えて[25]いる。1920年の反動恐慌、1923年の関東大震災、1927年の昭和金融恐慌[26]と、10年足らずのあいだに金融界はさらに三度の動揺を経験した。

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-中小銀行に苦難」
    • [23]普通銀行数が1901年1890行から1914年1595行へ減少
    • [24]1901年の恐慌で全国34行が支払い停止(大阪府17行・京都府5行・熊本県4行など)
    • [25]1900年末から1901年末の預金移動(中小銀行▲2200万円/大銀行+1000万円)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [26]1920年の反動恐慌・1923年の関東大震災・1927年の昭和金融恐慌
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [10]1906年 貸出残高2000万円・預金残高3000万円で全国3位
    • [13]大正期の六十一銀行・本所貯金銀行・田中興業銀行・若松銀行の買収
    • [19]大正期のロサンゼルス・カリフォルニア拠点
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [11]1912年2月 個人経営から資本金1500万円の株式会社住友銀行へ改組
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [12]1912年3月末の総貸金4400万円(創業年次末の20倍)
    • [16]開業数年で九州・東京へ出店し大阪の銀行で首位
    • [17]1903年 ロンドンに代理店を設置
    • [20]1917年 国内店舗数が全国第一位
    • [21]1917年 3000万円への増資と株式の一般公開
    • [22]1920年 7000万円への増資と貸金3億円突破
    • [26]1920年の反動恐慌・1923年の関東大震災・1927年の昭和金融恐慌
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-中小銀行に苦難」
    • [14]1910年 三井合名会社の設立と同時に三井銀行が株式組織へ改組し資本金500万円→2000万円
    • [15]1919年 三菱銀行が独立の株式会社として発足
    • [23]普通銀行数が1901年1890行から1914年1595行へ減少
    • [24]1901年の恐慌で全国34行が支払い停止(大阪府17行・京都府5行・熊本県4行など)
    • [25]1900年末から1901年末の預金移動(中小銀行▲2200万円/大銀行+1000万円)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
    • [18]1916年 サンフランシスコ・ハワイ・上海・ボンベーへの支店開設

恐慌のたびに預金が集まる銀行と、戦時に失った35店

住友銀行はその受け皿の側にいた。1927年の金融恐慌のときから預金が急増[27]するという現象が起き、1929年末の総預金は6億6200万円に達して、名実ともに全国銀行の首位[28]を占めている。恐慌の期にも店舗網を拡充して預金を伸ばし、浅田銀行と和歌山倉庫銀行を吸収したうえ、西肥銀行・久留米銀行・佐賀百六銀行・豊前銀行・三州平和銀行を傘下に収めた[29]。満州事変を境に経済は戦時体制へ移り、太平洋戦争の勃発後は軍需融資機関として資金運用がおおむね統制下に置かれた[30]。統制の一手段として大銀行間の合併が相次いだが、住友銀行は統合を避ける方針をとった[31]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [27]1927年金融恐慌時からの預金急増
    • [28]1929年末の総預金6億6200万円・全国銀行首位
    • [30]太平洋戦争後の資金運用が統制下に置かれたこと
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [29]昭和初期の浅田銀行・和歌山倉庫銀行の吸収と西肥銀行ほか5行の傘下化
    • [31]大銀行間の合併が相次ぐなかで住友銀行は統合を避ける方針をとった

終戦直前の1945年、一県一行政策のもとで阪南銀行と池田実業銀行を合併し、店舗を一挙に30カ店増やした[32]にとどまる。三井銀行と第一銀行が1943年に合同して帝国銀行となり、翌1944年に十五銀行を加えた[33]のとは進み方が違う。戦時金融の傷は各行に共通しており、帝国・三菱・安田・住友・三和の五大銀行と日本興業銀行では、貸し出しのうち戦時補償をあてにしたものが8割を超えた[34]。住友は政治との距離を保ってきたが、総理事の小倉正恒氏は政府の要請に応じ、1940年から1941年にかけて無任所大臣と大蔵大臣を務めている[35]

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [32]1945年 阪南銀行・池田実業銀行の合併で店舗が一挙に30カ店増加
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [33]1943年 三井銀行と第一銀行が合同し帝国銀行、1944年に十五銀行を合併
    • [34]五大銀行と興銀の貸し出しのうち戦時補償をあてにしたものが8割超
  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [35]総理事の小倉正恒氏が1940年から1941年にかけて無任所大臣と大蔵大臣を務めた

戦争は人と店を削り、1944年8月の実働職員は約3800人で、うち3分の2が女子[36]だった。女子職員の採用が始まったのは1937年[37]で、7年で構成が入れ替わっている。日本各地の都市が空襲で被災し、大阪の本社は無事だったものの、焼失した店舗は住友銀行だけで35に達した[38]。敗戦により海外店舗は全面的に閉鎖されたが、国内の営業店は出張所を含めて123カ店を数え、1945年9月末の総預金は106億円、総貸金は81億円[39]である。1945年10月20日、GHQは三井・三菱・住友・安田など15財閥に事業内容の報告を求め、同月31日に資産の凍結を指令[40]した。同年11月には住友本社が解散の方針を発表[41]している。

  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [36]1944年8月の実働職員約3800人・うち3分の2が女子
    • [37]1937年 女子職員の採用開始
    • [38]空襲による焼失店舗35
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [39]1945年9月末の総預金106億円・総貸金81億円・国内123カ店
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥解体のアラシ」
    • [40]1945年10月20日のGHQ報告要求と10月31日の資産凍結指令
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [41]1945年11月 住友本社が解散の方針を発表
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [27]1927年金融恐慌時からの預金急増
    • [28]1929年末の総預金6億6200万円・全国銀行首位
    • [30]太平洋戦争後の資金運用が統制下に置かれたこと
    • [39]1945年9月末の総預金106億円・総貸金81億円・国内123カ店
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [29]昭和初期の浅田銀行・和歌山倉庫銀行の吸収と西肥銀行ほか5行の傘下化
    • [31]大銀行間の合併が相次ぐなかで住友銀行は統合を避ける方針をとった
    • [32]1945年 阪南銀行・池田実業銀行の合併で店舗が一挙に30カ店増加
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [33]1943年 三井銀行と第一銀行が合同し帝国銀行、1944年に十五銀行を合併
    • [34]五大銀行と興銀の貸し出しのうち戦時補償をあてにしたものが8割超
  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [35]総理事の小倉正恒氏が1940年から1941年にかけて無任所大臣と大蔵大臣を務めた
    • [36]1944年8月の実働職員約3800人・うち3分の2が女子
    • [37]1937年 女子職員の採用開始
    • [38]空襲による焼失店舗35
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥解体のアラシ」
    • [40]1945年10月20日のGHQ報告要求と10月31日の資産凍結指令
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [41]1945年11月 住友本社が解散の方針を発表

財閥解体で大阪銀行と名を変え、平和条約の年に住友へ復するまで

財閥解体で行名を失い、大阪銀行となった3年

戦時補償の打ち切りは1946年8月に決まり、金融機関と企業は損失を特別の方法で整理する必要[42]に迫られた。金融機関の特別損失の最終処理と再建整備は、企業に先立って完了[43]している。財閥解体の側でも、指定財閥の関係会社632社から2210人の役員が職を追われた[44]。1947年8月、鈴木剛氏が51歳で住友銀行の社長に就いた。『上におられた方々が、すべて追放の対象となったためである。その年の二月、取締役(同時に常務取締役)に選ばれてからわずか半年後のことで、意外な成り行きに唖然としたものである』[引用元]と本人が書き残している。

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [42]1946年8月 戦時補償の打ち切り決定と損失の特別整理
    • [43]金融機関の特別損失の最終処理と再建整備は企業に先立って完了した
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥解体のアラシ」
    • [44]指定財閥の関係会社632社から2210人の役員が追放

銀行は分割の必要がないという決定が1948年7月に出た[45]が、財閥名の使用だけは許されなかった。1948年10月、金融機関再建整備法により11億4000万円を増資し[46]、同時に旧資本金の全額を切り捨てたうえで、行名を大阪銀行に改めて再発足している。大銀行はこのとき積立金の全額と資本金の9割から全額、大口の第二封鎖預金の7割前後を切り捨てた[47]。三菱は千代田、安田は富士、野村は大和と看板を変え[48]、三井と第一の合同で生まれた帝国銀行だけは二つの系統に分かれて旧三井が帝国、旧第一が第一と名乗った[49]。翌1949年5月、東京・大阪の両証券取引所に上場[50]している。

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [45]1948年7月 銀行は分割の必要がないという決定
    • [47]再建整備で大銀行が切り捨てた積立金全額・資本金の90〜100%・第二封鎖預金の7割前後
    • [48]財閥系各行の改称(三菱→千代田、安田→富士、野村→大和)
    • [49]帝国銀行が旧三井の帝国と旧第一の第一に分かれた経緯
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [46]1948年10月 11億4000万円増資・旧資本金全額切り捨て・大阪銀行へ改称
    • [50]1949年5月 東京・大阪両証券取引所に上場

再出発後の経済はインフレからドッジ・デフレへの転換期にあり、企業の資金需要は復興資金と合理化資金で膨らんだ[51]。1950年から1951年にかけては輸入物資の引取資金もかさみ、金融機関はオーバーローンに苦しんで[52]いる。住友銀行は1949年に『ラッキー定期』などで大衆化路線を敷き[53]、1950年4月には資産再評価を行って資本を適正化[54]した。広く大衆層の資金吸収に努めた結果、1951年末の預金は1000億円を超え、1954年末には2000億円に達して[55]いる。1954年4月にも資産再評価を行い、再評価積立金は約10億8000万円[56]になった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [51]インフレからドッジ・デフレへの転換期と復興・合理化資金の需要
    • [52]1950年から1951年の輸入物資引取資金とオーバーローン
    • [54]1950年4月 資産再評価による資本の適正化
    • [55]1951年末の預金1000億円超・1954年末2000億円
    • [56]1954年4月の資産再評価と再評価積立金約10億8000万円
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [53]1949年 ラッキー定期などによる大衆化路線
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [42]1946年8月 戦時補償の打ち切り決定と損失の特別整理
    • [43]金融機関の特別損失の最終処理と再建整備は企業に先立って完了した
    • [45]1948年7月 銀行は分割の必要がないという決定
    • [47]再建整備で大銀行が切り捨てた積立金全額・資本金の90〜100%・第二封鎖預金の7割前後
    • [48]財閥系各行の改称(三菱→千代田、安田→富士、野村→大和)
    • [49]帝国銀行が旧三井の帝国と旧第一の第一に分かれた経緯
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥解体のアラシ」
    • [44]指定財閥の関係会社632社から2210人の役員が追放
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [46]1948年10月 11億4000万円増資・旧資本金全額切り捨て・大阪銀行へ改称
    • [50]1949年5月 東京・大阪両証券取引所に上場
    • [51]インフレからドッジ・デフレへの転換期と復興・合理化資金の需要
    • [52]1950年から1951年の輸入物資引取資金とオーバーローン
    • [54]1950年4月 資産再評価による資本の適正化
    • [55]1951年末の預金1000億円超・1954年末2000億円
    • [56]1954年4月の資産再評価と再評価積立金約10億8000万円
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [53]1949年 ラッキー定期などによる大衆化路線

平和条約の年に取り戻した行名と、松下電器に残した一行取引

復名は早く、1952年4月に対日平和条約が発効すると、住友・三菱・三井の3行が相次いで旧称号に復した[57]。住友銀行が行名を戻したのは同年12月[58]である。安田は富士、野村は大和の称号[59]を続けた。戦前に総合的なコンツェルンを形成していた3家は旧称号への執着が強く、金融閥として発展した安田と証券金融に縁の深かった野村は新しい名を選んで[60]いる。住友の場合はもう一つ理由があり、海外進出が進むにつれて行名復帰の必要が増し、取引先の要望も重なった[61]。1952年9月にはニューヨーク支店をいち早く再開し、続いて加州住友銀行を設立して、ロンドンとカラチに駐在員事務所を置いた[62]。1953年4月には資本金を22億8000万円へ倍増[63]している。

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [57]1952年4月の対日平和条約発効と住友・三菱・三井の旧称号復帰
    • [59]安田は富士、野村は大和の称号を継続
    • [60]旧称号への執着と、安田・野村が新しい名を選んだ事情
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [58]住友銀行が行名を戻したのは1952年12月
    • [61]海外進出の進展にともなう行名復帰の必要と取引先の要望
    • [62]1952年9月 ニューヨーク支店の再開と加州住友銀行の設立、ロンドン・カラチの駐在員事務所
    • [63]1953年4月 資本金22億8000万円への倍増

戦後の独占禁止政策は系列融資にも及び、住友銀行が連係各社と一行取引で融資することは認められなくなった[64]。ある日、松下幸之助氏が銀行を訪ね、『こんな時勢になって、松下としても、将来について悩んでいる。住友さんは今後も取引して下さるだろうか』[引用元]と相談した。鈴木剛社長は即座に答えている。『住友系各社との一行取引は、出来なくなりました。いま一行取引先で残っているのは、あなたのところだけです。今後も松下さんとだけは一行取引を続けましょう』[引用元]。松下電器産業は住友の連係会社ではなく[65]、規制の外にあった。

  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [64]戦後の独占禁止政策により住友系各社との一行取引が認められなくなった
    • [65]松下幸之助氏の相談と鈴木剛社長の即答による一行取引の継続
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
    • [57]1952年4月の対日平和条約発効と住友・三菱・三井の旧称号復帰
    • [59]安田は富士、野村は大和の称号を継続
    • [60]旧称号への執着と、安田・野村が新しい名を選んだ事情
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [58]住友銀行が行名を戻したのは1952年12月
    • [61]海外進出の進展にともなう行名復帰の必要と取引先の要望
    • [62]1952年9月 ニューヨーク支店の再開と加州住友銀行の設立、ロンドン・カラチの駐在員事務所
    • [63]1953年4月 資本金22億8000万円への倍増
  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [64]戦後の独占禁止政策により住友系各社との一行取引が認められなくなった
    • [65]松下幸之助氏の相談と鈴木剛社長の即答による一行取引の継続

堀田庄三の効率経営と、個人取引の入口を先に開いた10年

1951年11月に社長という職名が頭取へ変わり、鈴木剛氏は職名変更後の1年余を頭取として務めている[66]。1952年11月、その後を継いだのは副頭取の堀田庄三氏[67]である。1951年から1952年当時の預金残高は1300億円弱で、大手のなかでは第4位[68]にとどまった。ただし一店舗当たり・一従業員当たりの資金量は第一位[69]で、効率では他行を上回っている。融資を調査部と審査部の2部門で検討するダブル・チェック・システム[70]も、住友銀行の特徴として知られた。1955年3月末の店舗数は138、預金総額2206億円、貸出金総額1825億円[71]である。

  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [66]1951年11月 社長から頭取への職名変更と鈴木剛氏の頭取在任
    • [67]1952年11月 堀田庄三氏が副頭取から頭取に就任
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [68]1951年から1952年当時の預金残高1300億円弱・大手第4位
    • [69]一店舗当たり・一従業員当たりの資金量が第一位
    • [70]調査部と審査部によるダブル・チェック・システム
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [71]1955年3月末の店舗数138・預金総額2206億円・貸出金総額1825億円

広げた先は法人ではなく個人で、1960年11月にプリンス自動車販売との提携で自動車購入資金の貸付を制度化し、個人向け消費者金融に先鞭をつけた。融資先の選別と住友系列外の有望企業との取引開拓[72]を進めて貸し出しを伸ばす一方、預金の獲得にも力を注いでいる。預金集めでは、支店の配る『ブルーの名刺』が営業の道具になった[73]。新規事業としては、別会社によるクレジットカード業務も始めている[74]。1964年には河内銀行を合併し、預金量で一気に第2位へ進んだ[75]。1965年に始まる昭和40年代は、銀行にとって金融効率化と再編成の時代の入口[76]にあたる。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [72]融資先の選別と系列外の有望企業との取引開拓
    • [73]預金集めに使われた「ブルーの名刺」
    • [74]別会社によるクレジットカード業務の開始
    • [75]1964年 河内銀行の合併で預金量2位へ
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [76]昭和40年代は銀行にとって金融効率化と銀行再編成の時代
  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛
    • [66]1951年11月 社長から頭取への職名変更と鈴木剛氏の頭取在任
    • [67]1952年11月 堀田庄三氏が副頭取から頭取に就任
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [68]1951年から1952年当時の預金残高1300億円弱・大手第4位
    • [69]一店舗当たり・一従業員当たりの資金量が第一位
    • [70]調査部と審査部によるダブル・チェック・システム
    • [72]融資先の選別と系列外の有望企業との取引開拓
    • [73]預金集めに使われた「ブルーの名刺」
    • [74]別会社によるクレジットカード業務の開始
    • [75]1964年 河内銀行の合併で預金量2位へ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
    • [71]1955年3月末の店舗数138・預金総額2206億円・貸出金総額1825億円
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [76]昭和40年代は銀行にとって金融効率化と銀行再編成の時代

安宅産業の1132億円を1期で償却し、平和相互銀行で首都圏を得るまで

合併の列に加わらず、装置と人の派遣で広げた取引

事務の合理化では金融界で最初の総合オンライン化に着手[77]し、1969年12月に日本で最初の現金自動支払機を店舗へ置いた[78]。1968年3月末の預金残高は1兆9225億円で第2位、申告所得では業界の首位[79]に立っている。店舗網は国内177カ店、海外3カ店の計180カ店で、海外コルレス網では世界の一流銀行約500行[80]と結んでいた。この間に経常収益は1971年3月期の2351億円から1975年3月期の6480億円へ4年で2.8倍になり、同じ期の経常利益は616億円、当期純利益は247億円[81]である。

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [77]金融界最初の総合オンライン化への着手
    • [79]1968年3月末の預金残高1兆9225億円で第2位、申告所得は業界首位
    • [80]国内177カ店・海外3カ店の計180カ店と海外コルレス約500行
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [78]1969年12月 日本初の現金自動支払機を店舗に設置
  • 会社年鑑(1976年版)住友銀行・単体
    • [81]1971年3月期の経常収益2351億円から1975年3月期6480億円へ4年で2.8倍、経常利益616億円・当期純利益247億円

この20年は業界にとって再編の時代でもあり、1968年6月に金融機関の合併及び転換に関する法律が制定された[82]。合併転換法は、同じ分野の金融機関だけでなく異種金融機関どうしの合併・転換を認める[83]ものだった。同年12月には日本相互銀行が普通銀行の太陽銀行へ転換している[84]。1969年元旦には三菱銀行と第一銀行の合併構想が報道され、大銀行どうしの合併時代の幕開けと受け止められた。この構想は第一銀行会長の井上薫氏が強く反対して実現に至らなかった[85]が、1971年10月に第一勧業銀行、1973年10月に太陽神戸銀行が生まれた。住友銀行はこの大型合併の列に加わっていない[86]。地銀1行の吸収と装置への投資で規模を積み、合併による規模の獲得は1986年まで手をつけずにいた[87]。再編と並行して、1971年7月には預金者を保護する預金保険制度が創設[88]されている。

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [82]1968年6月の合併転換法制定
    • [83]合併転換法は異種金融機関の間での合併・転換を認めた
    • [84]1968年12月 日本相互銀行から太陽銀行への転換、1971年10月 第一勧業銀行、1973年10月 太陽神戸銀行の発足
    • [85]1969年元旦に報道された三菱銀行・第一銀行の合併構想と第一銀行会長 井上薫氏の反対
    • [86]1971年10月 第一勧業銀行、1973年10月 太陽神戸銀行の発足
    • [88]1971年7月 預金保険制度の創設
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [87]1986年まで合併による規模の獲得に手をつけなかったこと

取引先へ人を送るのも住友銀行の広げ方で、メインバンクを務めたアサヒビールには、1971年の高橋吉隆氏、1976年の延命直松氏に続き、1982年に副頭取の村井勉氏、1986年に同じく副頭取の樋口廣太郎氏と、4代続けて出身者が社長として入った[89]。村井氏は1976年から東洋工業へ副社長として出向した再建の経験を持ち、住友銀行を退社したうえで『販売なくして会社なし』[引用元]を持論に転じている[90]

  • 高井紘一朗・大川洋史・岡倉徹「アサヒビール「太鼓判システム」の開発」赤門マネジメント・レビュー5巻6号(2006年6月)
    • [89]アサヒビールへの住友銀行出身社長4代(高橋吉隆1971〜・延命直松1976〜・村井勉1982〜・樋口廣太郎1986〜)
  • 日経ビジネス 1982年6月28日号 新社長登場
    • [90]村井勉氏の東洋工業出向と持論「販売なくして会社なし」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
    • [77]金融界最初の総合オンライン化への着手
    • [79]1968年3月末の預金残高1兆9225億円で第2位、申告所得は業界首位
    • [80]国内177カ店・海外3カ店の計180カ店と海外コルレス約500行
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [78]1969年12月 日本初の現金自動支払機を店舗に設置
    • [87]1986年まで合併による規模の獲得に手をつけなかったこと
  • 会社年鑑(1976年版)住友銀行・単体
    • [81]1971年3月期の経常収益2351億円から1975年3月期6480億円へ4年で2.8倍、経常利益616億円・当期純利益247億円
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [82]1968年6月の合併転換法制定
    • [83]合併転換法は異種金融機関の間での合併・転換を認めた
    • [84]1968年12月 日本相互銀行から太陽銀行への転換、1971年10月 第一勧業銀行、1973年10月 太陽神戸銀行の発足
    • [85]1969年元旦に報道された三菱銀行・第一銀行の合併構想と第一銀行会長 井上薫氏の反対
    • [86]1971年10月 第一勧業銀行、1973年10月 太陽神戸銀行の発足
    • [88]1971年7月 預金保険制度の創設
  • 高井紘一朗・大川洋史・岡倉徹「アサヒビール「太鼓判システム」の開発」赤門マネジメント・レビュー5巻6号(2006年6月)
    • [89]アサヒビールへの住友銀行出身社長4代(高橋吉隆1971〜・延命直松1976〜・村井勉1982〜・樋口廣太郎1986〜)
  • 日経ビジネス 1982年6月28日号 新社長登場
    • [90]村井勉氏の東洋工業出向と持論「販売なくして会社なし」

安宅産業の1132億円を1期で捨てた判断

系列企業への集中的な融資が企業の投機的な行動につながっているという批判が高まり、第一次石油ショック後の1974年11月、大蔵省は行政指導による大口融資規制を実施[91]した。石油ショックは商社業界にも大きな傷跡[92]を残した。1975年12月の半ば過ぎ、業界9位の安宅産業の経営危機が突然表面化し、1カ月もたたない1976年1月12日に伊藤忠商事との業務提携が発表[93]された。当時の安宅産業は年商2兆円、負債総額1兆円、取引先3万5000社、国内の取引金融機関223行[94]である。10大商社の一角が倒産すれば連鎖倒産が広がり、信用恐慌に至りかねない規模[95]だった。

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [91]1974年11月 大蔵省による行政指導での大口融資規制
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-国際化の幕開け」
    • [92]第一次石油ショックが商社業界に残した傷跡
    • [93]1975年12月半ばの安宅産業の経営危機表面化と1976年1月12日の伊藤忠商事との業務提携発表
    • [94]安宅産業の年商2兆円・負債総額1兆円・取引先3万5000社・取引金融機関223行
    • [95]10大商社の一角の倒産は連鎖倒産と信用恐慌に至りかねない規模

危機の直接の原因はカナダの石油精製事業のつまずきにあったが、崩壊の真の原因は杜撰な経営で、安宅産業自身がメインバンクを持たなかった[96]ことも重なっていた。終戦処理にあたった住友銀行によれば、年商のうち健全な取引は約半分で、残りは赤字取引もしくは架空取引[97]である。危機の表面化からちょうど1年後の1976年12月29日、住友・協和両銀行の仲介で安宅産業が伊藤忠商事に吸収合併されることが本決まりとなり、合併覚書に調印した。合併の実行は1977年10月[98]で、救済融資約2000億円のうち住友銀行の負担は1132億円[99]に上っている。

  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-国際化の幕開け」
    • [96]危機の直接の原因はカナダの石油精製事業のつまずき、真の原因は杜撰な経営とメインバンク不在
    • [97]住友銀行の調査で年商のうち健全な取引は約半分、残りは赤字取引もしくは架空取引
    • [98]1976年12月29日 住友・協和両銀行の仲介による伊藤忠商事への吸収合併の覚書調印と1977年10月の合併
  • 日経ビジネス 1980年2月25日号
    • [99]救済融資約2000億円のうち住友銀行の負担は1132億円

住友銀行はこの1132億円を、1977年9月期決算で全額償却した。分割して数期に散らす処理も選べたが、選んでいない[100]。1972年3月期の経常利益は530億円、伸びたあとの1975年3月期でも616億円[101]で、償却額は2期分の稼ぎにあたる。磯田一郎頭取は後年、失った額を利益で取り返すのは無理だとして『まあ、すてたんです』[引用元]と語った[102]。同じ誌面の主題は『銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応』[引用元]に移っている[103]。その前年、1978年3月13日号の日経ビジネスは13ページの特集を住友銀行に割いて[104]いた。1982年3月期の経常収益は1兆6013億円、経常利益は1051億円、当期純利益は556億円[105]である。

  • 日経ビジネス 1980年2月25日号
    • [100]1132億円を1977年9月期決算で全額償却し分割償却を選ばなかった
    • [102]磯田一郎頭取が安宅産業の処理について「まあ、すてたんです」と語った
    • [103]同号の主題は「銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応」
  • 会社年鑑(1976年版)住友銀行・単体
    • [101]1972年3月期の経常利益530億円・1975年3月期616億円
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [104]日経ビジネス1978年3月13日号の13ページ特集
  • 会社年鑑(1986年版)住友銀行・単体
    • [105]1982年3月期の経常収益1兆6013億円・経常利益1051億円・当期純利益556億円
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
    • [91]1974年11月 大蔵省による行政指導での大口融資規制
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-国際化の幕開け」
    • [92]第一次石油ショックが商社業界に残した傷跡
    • [93]1975年12月半ばの安宅産業の経営危機表面化と1976年1月12日の伊藤忠商事との業務提携発表
    • [94]安宅産業の年商2兆円・負債総額1兆円・取引先3万5000社・取引金融機関223行
    • [95]10大商社の一角の倒産は連鎖倒産と信用恐慌に至りかねない規模
    • [96]危機の直接の原因はカナダの石油精製事業のつまずき、真の原因は杜撰な経営とメインバンク不在
    • [97]住友銀行の調査で年商のうち健全な取引は約半分、残りは赤字取引もしくは架空取引
    • [98]1976年12月29日 住友・協和両銀行の仲介による伊藤忠商事への吸収合併の覚書調印と1977年10月の合併
  • 日経ビジネス 1980年2月25日号
    • [99]救済融資約2000億円のうち住友銀行の負担は1132億円
    • [100]1132億円を1977年9月期決算で全額償却し分割償却を選ばなかった
    • [102]磯田一郎頭取が安宅産業の処理について「まあ、すてたんです」と語った
    • [103]同号の主題は「銀行も情報産業、顧客志向でニーズに対応」
  • 会社年鑑(1976年版)住友銀行・単体
    • [101]1972年3月期の経常利益530億円・1975年3月期616億円
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
    • [104]日経ビジネス1978年3月13日号の13ページ特集
  • 会社年鑑(1986年版)住友銀行・単体
    • [105]1982年3月期の経常収益1兆6013億円・経常利益1051億円・当期純利益556億円

首都圏の店舗網を一度に買った平和相互合併

1985年9月のプラザ合意のあと、公定歩合は1986年1月から1987年2月までに5回引き下げられて5%から2.5%となり、この水準が1989年5月末まで維持された。銀行には資金が流れ込み、貸出先を探す圧力が強まった[106]。当時の銀行は自由に店を出せず、出店規制のもとで支店には利権があった。1985年3月期の住友銀行は経常収益2兆555億円、経常利益1584億円、当期純利益750億円[107]だった。

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [106]公定歩合は1986年1月から1987年2月まで5回引き下げられ5%から2.5%となり1989年5月末まで維持
  • 会社年鑑(1986年版)住友銀行・単体
    • [107]1985年3月期の単体業績 経常収益2兆555億円・経常利益1584億円・当期純利益750億円

新資本金は約1266億円、預金は約24兆円となって、預金量で国内2位[108]に立っている。

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [108]1986年10月 平和相互銀行の吸収合併で新資本金約1266億円・預金約24兆円・国内2位

1984年にはスイスのゴッタルド銀行を買収していた。1986年から1989年の不動産業向け融資は約44兆円に達し、審査は右肩上がりの地価を前提に土地の担保があれば通って[109]いる。1989年8月には住友銀行が土地所有層へ融資を広げていること[110]が誌面に載った。

  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [109]1986年から1989年の不動産業向け融資約44兆円と土地担保依存の審査
  • 日経ビジネス 1989年8月14日号
    • [110]1989年8月 住友銀行の土地所有層への積極融資
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
    • [106]公定歩合は1986年1月から1987年2月まで5回引き下げられ5%から2.5%となり1989年5月末まで維持
    • [109]1986年から1989年の不動産業向け融資約44兆円と土地担保依存の審査
  • 会社年鑑(1986年版)住友銀行・単体
    • [107]1985年3月期の単体業績 経常収益2兆555億円・経常利益1584億円・当期純利益750億円
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
    • [108]1986年10月 平和相互銀行の吸収合併で新資本金約1266億円・預金約24兆円・国内2位
  • 日経ビジネス 1989年8月14日号
    • [110]1989年8月 住友銀行の土地所有層への積極融資

イトマンの後始末、他行に先駆けた8000億円の償却、そして統合で幕

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住友銀行の沿革1670〜2001年における主な出来事を抜粋

時代年月頭取出来事重要度
1670〜1945年別子銅山の家が持った銀行が、恐慌のたびに預金を集めて全国首位に立つまで泉屋平兵衛友貞氏が大阪で両替商を開業
住友家が並合業という本格的な貸付・金融業へ進む
住友吉左衞門氏を行主とする個人経営の銀行として大阪市で開業
六十一銀行を買収
個人経営からの住友銀行に改組
昭和金融恐慌後の預金集中を受け、総預金6億6200万円で全国銀行の首位に立つ
GHQが持株会社の解体に関する覚書を交付
1946〜1965年財閥解体で大阪銀行と名を変え、平和条約の年に住友へ復するまで鈴木剛金融機関再建整備法により11億4000万円を増資
鈴木剛大阪銀行に商号変更
鈴木剛東京・大阪の両証券取引所に上場
鈴木剛ニューヨーク支店を再開
堀田庄三対日平和条約の発効を受け、行名を住友銀行に復帰
堀田庄三プリンス自動車販売との提携で自動車購入資金の貸付を制度化
堀田庄三河内銀行を吸収合併
堀田庄三預金量で第2位に浮上
1966〜1989年安宅産業の1132億円を1期で償却し、平和相互銀行で首都圏を得るまで堀田庄三金融界で最初の総合オンライン化に着手★★
堀田庄三日本で最初の現金自動支払機を店舗に設置
磯田一郎安宅産業の救済で負担した1132億円の全額償却

1977年、住友銀行は総合商社 安宅産業の救済で負担した1132億円を、1977年9月期決算で全額償却した。数期に分けて処理する道を選ばず、1期で落としきった判断にあたる。

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磯田一郎1980年9月期決算で都市銀行の首位に復帰
磯田一郎スイスのゴッタルド銀行を買収★★
磯田一郎ゴールドマン・サックスに出資(1999年時点の出資比率は10%強)★★
磯田一郎平和相互銀行の吸収合併と首都圏店舗網の取得

1986年10月、住友銀行が首都圏に約100店舗を持つ平和相互銀行を吸収合併した経営判断。新資本金は約1266億円、預金は約24兆円となり、預金量で国内2位に立った。

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磯田一郎預金約24兆円で国内2位
1990〜2001年イトマンの後始末、他行に先駆けた8000億円の償却、そして統合で幕磯田一郎1995年3月期における8000億円超の不良債権償却と、都市銀行初の経常赤字の計上

1995年3月期、住友銀行が8000億円を超える不良債権を償却し、都市銀行として初めて経常赤字を計上した判断。森川敏雄頭取のもとで、決算の悪化を嫌って処理を先送りする業界の横並びから外れた。

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磯田一郎都市銀行で初めて経常赤字を計上★★
西川善文西川善文氏が頭取に就任
西川善文大和証券と業務提携で基本合意★★
西川善文公的資金5010億円の注入を受ける。1998年度の不良債権処理額は1兆500億円★★
西川善文さくら銀行と住友銀行の合併・三井住友銀行の発足(2001年成立)

2001年4月、住友グループの住友銀行と三井グループのさくら銀行が合併し、三井住友銀行が発足した。総資産で世界有数の規模となった大型行合併である。

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出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「大資本制覇確立期の会社」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「住友銀行」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)「住友銀行」
  • 会社年鑑(1976年版)住友銀行・単体
  • 会社年鑑(1986年版)住友銀行・単体
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「鉱業-財閥とともに育つ」
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-財閥銀行から近代化」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「創造的革新に挑む」年表
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-中小銀行に苦難」
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行-日銀の威力高まる」
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「財閥解体のアラシ」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-銀行再編成の時代」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「自動車-国際化の幕開け」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
  • 日経ビジネス 1978年3月13日号
  • 日経ビジネス 1980年2月25日号
  • 日経ビジネス 1982年6月28日号 新社長登場
  • 日経ビジネス 1989年8月14日号
  • 高井紘一朗・大川洋史・岡倉徹「アサヒビール「太鼓判システム」の開発」赤門マネジメント・レビュー5巻6号(2006年6月)
  • 私の履歴書 経済人21(日本経済新聞社、1986年)鈴木剛

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