住友銀行1995年3月期における8000億円超の不良債権償却と、都市銀行初の経常赤字の計上
決算の悪化を避けるか、損失を1期で落とすか——償却先送りの横並びから外れた1995年3月期
- 概要
- 1995年3月期、住友銀行が8000億円を超える不良債権を償却し、都市銀行として初めて経常赤字を計上した判断。森川敏雄頭取のもとで、決算の悪化を嫌って処理を先送りする業界の横並びから外れた。
- 背景
- 大手22行の不良債権は1994年3月末で13兆5741億円に達していたが、決算の悪化と経営責任の追及を恐れて償却は進まなかった。住友銀行自身もイトマン向け債権の不良化で磯田一郎会長が辞任し、企業文化を問われていた。
- 内容
- 単年度の決算に損失を寄せ、経常赤字を受け入れた。1977年9月期に安宅産業救済の1132億円を一括償却した先例と同じ処理にあたる。同じ誌面で森川頭取はリスク管理の立て直しを課題に挙げ、同年10月には貸し出しの判断を改める動きが報じられた。
- 含意
- 先に落としても責任の追及は続き、1998年6月には旧住専への融資紹介をめぐって約48億円の賠償を求められた。処理額も1998年度に1兆500億円へ膨らみ、1999年3月には公的資金5010億円の注入を受けた。
早く落として減らしたのは、損失ではなく時間
8000億円超を1期に寄せれば、経常赤字は避けられない。赤字は経営責任の議論を呼び込む——産業史が償却の遅れた理由に挙げたのは、この怖さであった。住友銀行はそれを承知で1995年3月期に落とした。安宅産業の1132億円を1977年9月期に全額償却した経験が行内に残っており、それが二度目の一括処理を支えた。他行の首脳が本体分の処理はほぼ完了したと口をそろえたのは1997年の決算であり、その差は2年に及ぶ。
ただ、償却の早さは同行を免責しなかった。1998年6月には旧住専への融資紹介をめぐって約48億円の賠償を求められ、紹介責任を問われた134件のうち72件が住友銀行だったと名指しされた。処理額も1995年で終わらず、1998年度には1兆500億円に膨らみ、1999年3月には公的資金5010億円の注入を受けている。早く落としても損失の総額は減らない。1995年に減ったのは、新しく貸す基準を作り直すまでの時間である。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
統計に出ても落とされない不良債権
バブル崩壊後の不良債権は、統計に現れてもなお処理されずに積み上がった。都市銀行・長期信用銀行・信託銀行の大手22行が抱える経営破綻先債権と6カ月以上の延滞債権は、1994年3月末で13兆5741億円に達し、貸付金に占める比率は3%に及んだ。公表された額の外にも回収の見込みが薄い債権があるとみられ、実質では30兆円とも50兆円ともいわれた。金額の大きさ以上に問題だったのは、その償却が進まないことである[1][2]。
償却が遅れた理由は一つではない。不良債権を売買する市場が育たず、税制や税務の面でも対策が整っていなかった。加えて産業史は、銀行経営者が償却に伴う決算の悪化に二の足を踏んだことを挙げ、「経営責任の問題に点火することを恐れた面は否めない」と書いている。不動産不況や中南米債務問題で同じ痛手を負った米銀が償却を急いでいち早く立ち直ったのに対し、日本の銀行の速度は遅すぎた[3][4]。
イトマンと、企業文化を問われた住友銀行
住友銀行自身も、この時期に拡大の後始末を抱えていた。系列の総合商社イトマン向けの債権が不良化し、実力者であった磯田一郎会長が辞任している。日本興業銀行や富士銀行の首脳も国会に呼び出され、産業史は当時を「不祥事のない銀行を探した方が早いといわれたほどだった」と記す。担保にしていた土地と株の値段が崩れた以上、融資の可否を支えてきた前提そのものが失われていた[5]。
後任の巽外夫頭取は1992年10月のインタビューで、イトマンの合併処理が当初から頭にあったと語っている。1993年4月には経営3カ年計画「CHANGE, 100計画」が始まり、同年8月の日経ビジネスは「住友銀行。ゆがんだ企業文化を洗い流す」と題した記事を載せた。業容の拡大ではなく、審査と融資のやり方をもとに戻すことが、このときの主題であった。不良債権をどう落とすかも、その主題の一部である[6][7]。
決断
8000億円超の償却と、都市銀行として初めての経常赤字
1995年3月期、住友銀行は8000億円を超える不良債権を償却し、都市銀行として初めて経常赤字を計上した[8]。決算の悪化を避けて処理を先送りする銀行が並ぶなかで、単年度の決算に損失を寄せる判断であった。赤字は隠しようがなく、経営責任の議論を自ら呼び込む。産業史が償却の遅れた理由として挙げたのは、この点であった。他行と同じ速度で進めば当面の決算は保てたが、住友銀行は横並びから外れた。
記事の表題は「赤字決算で2つの『過去』償却」となっている。何と何を指すかは表題から読み取れない。ただ、複数の過去を一つの決算に寄せたことは、当時の誌面にも表れている。同行には、1977年9月期に安宅産業の救済で負担した1132億円を全額償却した先例がある。損失を薄く延ばさず1期で落とす処理を、金額を7倍に増やしたうえで繰り返している[9][10]。
落とした後に何を残すか——リスク管理と貸し出し
森川敏雄頭取が同じ誌面で課題に挙げたのは、償却の後に何を残すかであった。記事の副題は「多様化乗り切るリスク管理を」となっている。金利の自由化は1993年に定期性預金で完了し、1994年には流動性預金にも及んだ。業務の自由化も進み、銀行は自己資本の充実だけでなくALMの導入などリスク管理の強化を迫られ、融資競争と預金獲得競争から離れて収益率を重視する経営へ切り替え始めていた[11][12]。
償却の影響は貸し出しの現場にも及んだ。1995年10月、日経ビジネスは住友銀行が貸し出しの判断を一変させ、リスク管理体制の構築へ進んでいると報じている。担保となる土地の値段に寄りかかって可否を決める審査は、地価の下落によってすでに機能を失っていた。落とすべき過去を落としたうえで、新しく貸す基準を作り直す。1995年3月期の決算は、その順序を先に踏んだ[13]。
結果
先に落としても、責任の追及は続いた
1998年6月、旧住専の債権回収にあたる住宅金融債権管理機構は、旧住専2社への融資紹介をめぐって住友銀行に約48億円の損害賠償を求め、提訴した。中坊公平社長は、紹介責任を問う134件のうち72件が住友銀行だったと述べている。住友銀行は「融資は旧住専の自主判断で当行に法的責任はない」と反論した[14]。
中坊社長の批判は、償却の早さとは別のところを突いていた。「銀行はいつも天気のいい日に傘を差し出して、雨の日には傘を取り上げる」。住専へは過剰に融資し、その後に本来貸すべき先へは貸し渋る、という見方であった。損失を他行より先に落としたことは、貸し手としての過去の当否を問う訴えから同行を外さなかった[15]。
業界が「ヤマは越えた」と言うまでの2年、そして公的資金5010億円
他行の処理が住友銀行に追いつくには、なお時間がかかった。1997年6月の週刊東洋経済は、都銀の決算を「一強八弱一脱落」と評し、多くの大手行が本体分の処理はほぼ完了したと口をそろえる一方で、不良債権の引当率が都銀全体で43%、大手20行ベースで41%にとどまることを指摘している。住友銀行も系列の住銀保証への支援を続けており、同誌は「大きな不良債権処理は終わったが、不良債権処理はまだ続く」と結んだ[16]。
処理額はその後さらに膨らんだ。1998年度の不良債権処理額は1兆500億円に達し、1999年3月には公的資金5010億円の注入を受けている。西川善文頭取は、債権の分類基準が変わったことを受けて引当率を厳しくしたと説明し、自己査定で見えているものについては償却・引当をほぼ終えたと述べた。そのうえで1999年度に1200億円、2000年度に1100億円、2001年度に1000億円の償却を計画に織り込んでいると語っている[17]。
- 日経ビジネス 1995年3月27日号「編集長インタビュー 森川敏雄氏[住友銀行頭取]赤字決算で2つの「過去」償却 多様化乗り切るリスク管理を」
- 日経ビジネス 1995年10月2日号「住銀、貸し出し姿勢を一変 リスク管理体制構築へ」
- 日経ビジネス 1993年8月23日号「住友銀行。ゆがんだ企業文化を洗い流す」
- 日経ビジネス 1992年10月12日号「編集長インタビュー 巽外夫氏[住友銀行頭取]イトマン合併は当初から頭に」
- 日経ビジネス 1980年2月25日号「編集長インタビュー 磯田一郎氏(住友銀行頭取)銀行も情報産業」
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「銀行・生損保-バブル発生と崩壊の主役」
- 週刊東洋経済 1997年6月14日号「特集 なお遠いバブルの清算 都銀 一強八弱一脱落の格差」
- 週刊東洋経済 1998年8月1日号「フラッシュ 住友銀行は紹介融資の責任をとれ キーマンに聞く 住宅金融債権管理機構社長 中坊公平」
- 週刊東洋経済 1999年5月22日号「編集長インタビュー 西川善文 住友銀行頭取 公的資金注入の責務は果たしていく」