美川英二社長の「解雇なきリストラ」路線

雇用を守るという公約を掲げたまま、いかに構造改革を貫いたか

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時期 1993年6月
意思決定者 美川英二 社長
論点 雇用維持と構造改革の両立
概要
1990年代、設備投資不況で業績が落ち込んだ横河電機が、「雇用は守る」という温情主義の公約を掲げたまま、出向専門の第2人事部・間接部門の分社化・「新幹線発想」による30%コスト削減で構造改革を進めた経営判断。1993年に就任した美川英二社長が、解雇に頼らずに人員を動かすリストラを陣頭指揮した。
背景
売上の8割超を工業計器が占める横河電機は、2ケタ成長が望めなくなっていた。バブル崩壊後の3年で売上は約17%落ち込み、売上高営業利益率は60年代の16.3%から1993年3月期の1.2%まで低下した。一方、製造の自動化とソフト化で中高年の設計者・熟練工が余り、解雇をしない伝統との間で緊張が生じていた。
内容
1990年に出向専門の第2人事部を設けてグループ全体で人材を共有し、経理などの間接部門を横河ファイナンシャルサービスなどへ分社化した。1993年就任の美川社長は「ゼロ発想法」で人事部門を88人から22人へ絞り、42のプロジェクトチームに若手リーダーを据えて主力機種の製造原価を30%削減した。
含意
解雇をしない代わりに、できる社員を出向させ、間接部門を関係会社へ移し、社内に年俸制と実力主義の競争を持ち込んだ。温情主義の中に熾烈な競争を組み込む綱渡りは35%のコスト削減を実現したが、雇用維持の公約は2003年に工場閉鎖と希望退職の決定で撤回されることになる。
筆者の見解

公約と実質のあいだで

この判断の核心は、「雇用は守る」という公約を掲げたまま、解雇以外のあらゆる手段で人と原価を組み替えた点にある。出向専門の第2人事部、間接部門の分社化、ゼロ発想による人員圧縮、若手主導の原価削減——美川社長が用いた手法は、いずれも社員を会社の外へ押し出さずに、働く場と仕事の中身を作り替えるものであった。温情主義の看板と熾烈な社内競争とを同居させる綱渡りには、日本企業が終身雇用のもとで構造改革をどこまで進められるかという問いが凝縮していたとみることができる。

もっとも、その両立は永続しなかった。1990年代の解雇なきリストラは35%のコスト削減という成果を挙げたが、市況の変動が続くなかで、横河電機は2003年に雇用維持の公約そのものを見直す選択へ踏み込む。公約を掲げて改革を貫くのか、公約自体を書き換えるのか——美川社長の路線は、雇用を守るという約束と競争力の確保という要請のあいだで、企業がどこまで踏みとどまれるかを映した一例といえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

工業計器の成熟と設備投資不況

横河電機は計測器・制御機器などの工業計器が売上高の8割以上を占める、米ハネウェルと覇を競う専業の最大手であった。だが、この主力事業はもはや2ケタ成長を望めなくなっていた。製造現場では自動化が進んで人手が余り、設計開発の仕事もハードウエアからソフトウエアへと比重が移っていた。祖業に連なる工業計器の成熟が、次の成長と人員の両面で経営の重荷になり始めていた[1]

業績の落ち込みは深刻だった。バブル崩壊後の3年間で売上は約17%減り、鉄鋼・化学メーカーの設備投資削減が直接に響いた。かつて売上高営業利益率は1960年代に平均16.3%、1970年代に9.4%あったが、1993年3月期にはわずか1.2%まで落ちた。1994年3月期の予想経常利益50億円は、ピークだった1991年3月期の3割にも満たなかった。厳しいリストラを迫られる時期に、美川英二社長は登板した[2]

解雇をしない温情主義という縛り

横河電機は、苦しいときでも解雇をしない温情主義の会社として知られてきた。定年後に80歳近くまで働ける子会社があるほど、家族主義の伝統は根づいていた。1983年の北辰電機との合併時にも「人員削減をしない方針」を掲げ、以後これを堅持してきた。給与や賞与はメーカーとして日本で最も高いクラスを払い、雇用と処遇の手厚さが会社の看板の一つとなっていた[3]

だが、成熟事業と不況のもとで、この伝統は余剰人員という難題を突きつけた。自動化と開発のソフト化によって、40歳代後半から上の設計者や熟練工の多くが行き場を失い、社内で潜在的な失業者になりかねなかった。解雇という手段を封じたまま、いかに人を動かし、原価を下げるか。雇用を守るという公約と、構造改革の実質とをどう両立させるかが、経営の中心的な課題として横河電機に迫った[4]

決断

出向専門の第2人事部と間接部門の分社化

横河電機はまず、人を解雇せずに動かす仕組みを整えた。1990年11月、通常の社内人事を担う人事部とは別に、関係会社への出向を専門に扱う第2人事部を設けた。狙いは「グループ全体で人材を共有し有効活用する」ことにあった。全社員が毎年提出する自己申告をもとに、コンピュータに蓄えた候補者情報から関係会社の求人に人を割り当て、余剰人員を人手不足のグループ会社へ回した。出向者は1985年まで100人に満たなかったが、1992年度には社員の1割にあたる700人超に達し、その比率を15%まで高める計画が立てられた[5]

あわせて、本社の間接部門を切り出して別会社にした。経理事務を担う横河ファイナンシャルサービスを設立し、本社やグループ会社の経理を本社より安いコストで請け負わせた。美川社長は「経理部は本社に要るのか」と問いかける「ゼロ発想法」で、いったん仕事を全部捨てるつもりから本当に必要なものを組み直し、人事部門の人員を88人から22人へと4分の1に減らした。ただし出向は暗い異動ではなく、人事考課で上位の社員を送り出して栄誉とし、業績を上げた者は役員として本社へ戻す循環に仕立てた[6]

「新幹線発想」の30%コスト削減

1993年6月に社長へ就いた美川英二氏は、原価そのものに大なたを振るった。3%や5%の削減なら在来の改善で足りるが、30%削減には線路を敷き直すほどの革新が要るとして、これを「新幹線発想」と呼んだ。42のプロジェクトチームを作って若手のできる人物をリーダーに据え、開発・設計から調達・物流・製造まで全体を新しい考え方で組み替えさせた。改革のために社内委員会を作って答申させるのではなく、決められるところは自分で決め、細部まで踏み込んだ[7]

目標は具体的に据えられた。主力機種の製造原価を30%削減し、研究開発の投資効率を25%高め、管理部門の1650人を社外へ再配置・再活用する。この3つを計画より前倒しで実現した。美川社長は18あるプロジェクトの経過報告会を毎月すべて出席し、専門用語を交えた報告に聞き入って助言を与えた。トップが具体的な目標を掲げ、フォローし続けなければ組織は動かないという信念が、リストラの推進力となった[8]

結果

温情主義の中の熾烈な競争

コスト削減は目標を超えた。2年で30%という掲げた目標に対し、実際には約35%の削減を達成し、50%以上を削れた機種も4つあった。業績への寄与は1996年3月期からと見込まれ、収益回復のめどが立った。美川社長は雇用を守るという公約を崩さず、「全体としては温情主義」としながら、部課長の年俸制や学歴・性別を問わない実力主義を持ち込み、社内に熾烈な競争を組み込んだ。数年前まで人事部長を高校卒の女性が務めるなど、処遇は実績のみで判断された[9]

解雇をしないという縛りは、しかし恒久のものではなかった。工業計器の成熟と石油・ガス市況の変動は、その後も横河電機の収益を揺らし続けた。2003年、同社は国内15工場の閉鎖と希望退職を決め、1983年の北辰電機合併以来堅持してきた「人員削減をしない方針」をついに撤回した。出向と分社化で人を動かし続けた1990年代の綱渡りは、外部環境の圧力の前で、雇用維持の公約そのものの見直しへと行き着いた[10]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1998年5月11日号「編集長インタビュー 美川英二 横河電機社長」
  • 日経ビジネス 1994年4月11日号「美川英二氏[横河電機社長]人を動かすツボを熟知」
  • 日経ビジネス 1993年8月9・16日号「美川英二氏[横河電機]登場 本音でぶつかる豪傑、懸命のリストラ」
  • 日経ビジネス 1992年2月24日号「横河電機 余剰対策から人材共有へ 出向専門の第2人事部」
  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)