横河電機 の歴史

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創業 1915年
創業者 横河民輔
創業地 東京都渋谷区
創業
1915年、横河民輔氏が東京・渋谷で電気計器研究所を個人創業した。帝国劇場や三越本店を設計した工学博士の建築家で、1903年の横河工務所、1907年の横河橋梁製作所に続く三つ目の事業にあたる。精密電気計器がウエスチングハウスやシーメンスからの輸入に依存していた時代に国産化を狙い、計器の開発は甥の横河一郎氏や青木晋氏ら20代の技術者へ託した。1917年に電流計・電圧計・電力計の国産化を実現し、1920年12月に株式会社横河電機製作所として法人化する。このとき民輔氏は株式を持たず、横河一郎氏を約30%の筆頭株主に据えて、所有と運営を最初から分けている。
決断
創業の商売だった計測器事業を、二度にわたって本体の外へ出した。1963年に米ヒューレット・パッカードと51対49で横河ヒューレット・パッカードを設立し、電子計測器事業を1980年に売上465億円・経常利益率13%超の事業へ育てたが、1999年7月に36年続いた合弁を解消して日本HP持分を売却した。1973年のオイルショックで石油産業向けが売上の83%を占める構造を突かれた経験から、1975年の総合制御システムCENTUM発表以来続けてきたプラント制御への集約を強め、2010年には残った計測器事業を子会社の横河計測へ移管して本体を制御専業にした。祖業を二度外へ出したことが、計器の販売台数ではなくプラントの運転そのものへ稼ぎを結び付けた。
現況
本体から外した測定器事業のほうが、残した制御より高い利益率で稼いでいる。2026年3月期の売上高6,048億円のうち制御が5,655億円を占め、営業利益752億円・利益率13.3%だった。これに対し2010年に子会社へ移した測定器事業は売上340億円ながら営業利益78億円・利益率22.9%と、制御を9ポイント上回る。売り先は日本1,612億円に次いで中東・アフリカが1,160億円で、欧州・CISと中国がそれぞれ672億円で続く。2015年には、1993年に解雇をしない構造改革を選んだ会社が1,105名の希望退職を募り、166億円を事業構造改善費用として特別損失に計上した。本体を制御へ絞った結果、業績を決めるのは自社の製品ではなく、石油・ガス会社が設備投資を出すかどうかになった。
競合
領域を増やした同業に首位を明け渡し、絞ることで規模を取り戻した。1977年、工業計器の売上構成比を44.6%まで下げて電子機器と空調制御を伸ばした山武ハネウエルに経常利益で抜かれ、工業計器が8割弱を占めていた横河電機は業界首位を譲った。米ハネウエルとの提携で空調制御まで広げた相手に対し、横河電機は領域を増やさず、1999年の合弁解消と2010年の計測器分社で制御専業へ進んでいる。2026年3月期の売上高6,048億円は、現在アズビルとなったその同業の2,989億円の2倍にあたる。ただし残した制御の需要は新設ではなく更新が主流で、計装率も1980年代後半の2%から1995年に1.5%へ下がった。領域を減らした選択は規模の差を逆にしたが、その先の需要を石油・ガスの設備投資という一つの循環へ集めることにもなった。
横河電機:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 計測器メーカーとしての基盤構築と戦後の業態転換 (1915年〜)

建築家が技術で築いた電気計器国産化の出発点

横河電機の創業者は帝国劇場や三越本店、東京株式取引所といった当時の代表的な建築の設計で知られた工学博士・横河民輔であり[1]、1903年に横河工務所を設立した建築家でありながら技術そのものを軸とした事業展開を志向した独特の経歴を持つ経営者であった[2]。横河民輔は建築事業に加えて自らの技術志向を実現するために1907年に横河橋梁製作所を創業しており[3]、1915年には電気計器の国産化を目的として東京渋谷に電気計器研究所を個人で創業し、甥の横河一郎や青木晋ら20代の若い技術者たちに計器開発を託す体制でスタートを切った[4]。当時の日本では精密電気計器がウエスチングハウスやシーメンスなど欧米製品からの輸入に依存している状況であり[5]、横河民輔の国産化への挑戦は産業インフラの基礎となる計測技術の独立という国家的意義を持つ事業となった。

  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)
    • [1]創業者は工学博士・横河民輔(帝国劇場・三越本店・東京株式取引所を設計)
    • [3]横河民輔は1907年に横河橋梁製作所を創業
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]横河民輔は工学博士で、1903年に横河工務所を設立し、帝国劇場・三越本店・東京株式取引所などの建築設計を手がけた
    • [5]創業当時の精密電気計器はウエスチングハウス・シーメンスなど舶来品が万能の時代で、横河民輔はこの輸入依存からの脱却を目指した
  • 横河電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1915年に東京渋谷で電気計器研究所を個人創業し、甥の横河一郎・青木晋ら若手技術者に計器開発を託した

1917年には精密電気計器の国産化を実現するという技術的成果を達成し、通信省や海軍省から輸入品に劣らない高い評価を得たことで[6]創業期の最大の技術的な壁を早期に乗り越えた。1920年12月には株式会社横河電機製作所として正式に法人化し[7]、甥の横河一郎が筆頭株主として約30%の株式を保有する形で株式構造が整備され、創業者の横河民輔自身は株式を保有せずに経営をあえて次世代に委ねる巧みな設計とされた[8]。以後の横河電機は横河家による同族経営のもとで計測器の専業メーカーとして発展を遂げていくこととなり、大正期から昭和初期にかけて、日本の電気産業勃興期を支える計測機器の主要サプライヤーとして官公庁・電力会社・通信事業者への納入実績を積み上げた。

  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)
    • [6]1917年に精密電気計器(電流計・電圧計・電力計)の国産化を実現し、通信省・海軍省から輸入品に劣らない評価を得た
    • [8]法人化時に甥の横河一郎が筆頭株主として約30%を保有、創業者の横河民輔は株式を保有しなかった
  • 横河電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1920年12月に株式会社横河電機製作所として法人化(資本金50万円)
  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)
    • [1]創業者は工学博士・横河民輔(帝国劇場・三越本店・東京株式取引所を設計)
    • [3]横河民輔は1907年に横河橋梁製作所を創業
    • [6]1917年に精密電気計器(電流計・電圧計・電力計)の国産化を実現し、通信省・海軍省から輸入品に劣らない評価を得た
    • [8]法人化時に甥の横河一郎が筆頭株主として約30%を保有、創業者の横河民輔は株式を保有しなかった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [2]横河民輔は工学博士で、1903年に横河工務所を設立し、帝国劇場・三越本店・東京株式取引所などの建築設計を手がけた
    • [5]創業当時の精密電気計器はウエスチングハウス・シーメンスなど舶来品が万能の時代で、横河民輔はこの輸入依存からの脱却を目指した
  • 横河電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1915年に東京渋谷で電気計器研究所を個人創業し、甥の横河一郎・青木晋ら若手技術者に計器開発を託した
    • [7]1920年12月に株式会社横河電機製作所として法人化(資本金50万円)

軍需喪失とフォックスボロ提携が切り拓いた民需転換

戦時中の横河電機は陸軍指定工場として高射砲算定器や航空計器の生産に従事する軍需メーカーとなり[9]、従業員数は1.2万名という水準にまで拡大したが、終戦によって軍需を喪失し存続の危機に直面した。5つあった工場のうち4工場を閉鎖して武蔵野本社に集約する事業縮小を断行し、1万名以上の従業員を解雇して1200名体制で再出発するという壮絶な縮小再建を経験した[10]。戦後の計測器市場では石油化学や鉄鋼といった戦後日本の復興を支える装置産業向けに需要が移行しており、横河電機は従来の電気計器中心の製品構成から工業用計測器への本格転換を進めることで、戦後の新しい産業構造に対応した企業へと脱皮を図った。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「横河電機製作所」(経済春秋社, 1968年)
    • [9]陸軍指定工場として高射砲算定器・航空計器を生産する軍需メーカーであった
  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)
    • [10]終戦時の従業員は約1.2万名、戦後は4工場を閉鎖し武蔵野本社に集約、約1万名以上を解雇し1200名体制で再出発

終戦後の混乱を脱した横河電機は、戦前からの計器技術を装置産業向けの工業計測へ振り向ける道を探り、1950年10月にはオートメーション用計器の先駆となる電子管式自動平衡計器を日本で初めて完成させた[11]。生産工程を自動で連続制御するこの計器は、戦後復興のなかで合理化と近代化を急ぐ石油や化学、鉄鋼といった装置産業の需要にかなうものであり、横河電機が単品の電気計器メーカーから工業用計測器メーカーへと主力を移していく技術的な足場となった。輸入技術に頼らず自前で計器を仕上げてきた創業以来の開発の積み重ねが、戦後の新しい産業構造に対応する製品の土台を支えた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [11]1950年10月にオートメーション用計器の先駆である電子管式自動平衡計器を日本で初めて完成した

1955年には米フォックスボロ社との技術援助契約を正式に締結し、石油精製プラント向け制御機器の世界的メーカーであるフォックスボロから空気圧式の工業計器技術を導入する道を切り拓くことに成功し[12]、同年9月には米ベンディックス社とも粘度計の技術提携を結んだ[13]。この技術提携によって横河電機は石油化学プラント向けの計測・制御技術の基盤を獲得することができ、戦後の石油産業の急速な成長という時代の追い風を活用して業容を拡張した。1957年には米国にYokogawa Electric Works, Inc.を設立して海外事業展開の足がかりを築き[14]、1962年4月には米ボルトロン・プロダクツ社との合弁でアクローム・エレクトロニクス社を設立するなど[15]、次の時代の事業転換に向けた技術的・組織的な基盤を整えた。

  • 横河電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [12]1955年6月に米The Foxboro Companyと工業計器に関する技術援助契約を締結し空気圧制御技術を導入
    • [14]1957年10月に米国でYokogawa Electric Works, Inc.を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [13]1955年9月に米ベンディックス社と粘度計の技術提携を結んだ
    • [15]1962年4月に米ボルトロン・プロダクツ社との合弁でアクローム・エレクトロニクス社を設立した
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「横河電機製作所」(経済春秋社, 1968年)
    • [9]陸軍指定工場として高射砲算定器・航空計器を生産する軍需メーカーであった
  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)
    • [10]終戦時の従業員は約1.2万名、戦後は4工場を閉鎖し武蔵野本社に集約、約1万名以上を解雇し1200名体制で再出発
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [11]1950年10月にオートメーション用計器の先駆である電子管式自動平衡計器を日本で初めて完成した
    • [13]1955年9月に米ベンディックス社と粘度計の技術提携を結んだ
    • [15]1962年4月に米ボルトロン・プロダクツ社との合弁でアクローム・エレクトロニクス社を設立した
  • 横河電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [12]1955年6月に米The Foxboro Companyと工業計器に関する技術援助契約を締結し空気圧制御技術を導入
    • [14]1957年10月に米国でYokogawa Electric Works, Inc.を設立

HPとの合弁と北辰電機合併による体制の二重強化

1963年に横河電機は米ヒューレットパッカード(HP)との間で51対49の出資比率で合弁会社の横河ヒューレットパッカード(YHP)を設立するという戦略的決断を下し[16]、日米の電子計測器分野における歴史的な提携が成立した。8年という長い交渉期間を要した提携の突破口となったのは、横河電機の大株主であったジャパン・ファンドのガーナー氏がHPの社外役員を兼務していたという偶然の人脈関係であり[17]、経営者の個人的なネットワークが企業間提携を動かす好事例となった。YHPは定価販売の徹底や親会社依存の排除といったHP流の経営手法を導入することで独自の経営文化を確立し、1980年には売上高465億円で経常利益率13%超という高収益合弁に成長を遂げて[18]、日本の電子計測器市場における中核的な存在となった。

  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「横河電機製作所」(経済春秋社, 1968年)
    • [16]1963年に米HPと横河51対49で合弁会社・横河ヒューレットパッカード(YHP)を設立
  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)
    • [17]提携の突破口は大株主ジャパン・ファンドのガーナー氏がHPの社外役員を兼務していた人脈
    • [18]YHPは1980年10月期に売上高465億円・経常利益率13%超の高収益に成長

1982年9月1日、横河電機は翌1983年4月に国内3位の北辰電機製作所と合併すると発表した。北辰電機は多角化で横河電機や2位の山武ハネウエルに後れを取り、工業計器のデジタル化への対応も遅れて売上が伸び悩んでいたうえ、東京芝浦電気など総合電機メーカーが工業計器分野に力を入れ始めており、このままでは業績不振は避けられないとの判断が合意の背景にあった[19]。のちに正三は、狙いは人材だったと振り返り、MITやカーネギーメロン大学で学んだ海外に強い人材を抱える北辰との合併が、海外部門の要職の多くを旧北辰出身者が占める結果につながったと書いている[20]

  • 日経新聞(1982年9月1日)
    • [19]北辰電機は多角化で横河電機や業界2位の山武ハネウエルに遅れ、工業計器のデジタル化への対応も遅れて売上が伸び悩み、東京芝浦電気など総合電機メーカーが工業計器分野に力を入れ始めたことから、ジリ貧となり業績不振に追い込まれるのは避けられないと判断して合併に合意したとみられる
  • 日経新聞(私の履歴書・横河正三、1996年9月23日)
    • [20]横河正三は合併の狙いは人材だったと述べ、北辰にはMIT・カーネギーメロン大学で学んだ海外に強い人材が数多くおり、合併後は現地法人の社長など海外部門のポストの多くを旧北辰出身者が占めたと記している

1983年4月には横河電機は国内工業計器業界3位の北辰電機との合併を正式に実現することとなり、合併比率は横河1.0対北辰0.35で[21]横河電機側が主導する合併であった。ただし対外的には対等合併として慎重に掲げ、当時の横河正三社長は社内からの突き上げを受けるほど北辰電機側に配慮する姿勢を維持することで、旧北辰社員の感情的な反発を最小化する繊細な経営配慮を尽くした[22]。合併後は旧北辰電機の本社工場をキヤノンに売却して1000名を別事業に配置転換するなどの大胆な再編を実行し[23]、3年という短期間で拠点統合を完了させることに成功し、国内の工業計器市場における横河電機の地位を一段と強固なものとした。

  • 横河電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [21]1983年4月に北辰電機と合併(合併比率 横河1.0対北辰0.35、対外的には対等合併)
  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)
    • [22]当時の横河正三社長が北辰側に配慮する融和策をとった
    • [23]合併後に旧北辰電機本社工場をキヤノンに売却し約1000名を配置転換
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「横河電機製作所」(経済春秋社, 1968年)
    • [16]1963年に米HPと横河51対49で合弁会社・横河ヒューレットパッカード(YHP)を設立
  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)
    • [17]提携の突破口は大株主ジャパン・ファンドのガーナー氏がHPの社外役員を兼務していた人脈
    • [18]YHPは1980年10月期に売上高465億円・経常利益率13%超の高収益に成長
    • [22]当時の横河正三社長が北辰側に配慮する融和策をとった
    • [23]合併後に旧北辰電機本社工場をキヤノンに売却し約1000名を配置転換
  • 日経新聞(1982年9月1日)
    • [19]北辰電機は多角化で横河電機や業界2位の山武ハネウエルに遅れ、工業計器のデジタル化への対応も遅れて売上が伸び悩み、東京芝浦電気など総合電機メーカーが工業計器分野に力を入れ始めたことから、ジリ貧となり業績不振に追い込まれるのは避けられないと判断して合併に合意したとみられる
  • 日経新聞(私の履歴書・横河正三、1996年9月23日)
    • [20]横河正三は合併の狙いは人材だったと述べ、北辰にはMIT・カーネギーメロン大学で学んだ海外に強い人材が数多くおり、合併後は現地法人の社長など海外部門のポストの多くを旧北辰出身者が占めたと記している
  • 横河電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [21]1983年4月に北辰電機と合併(合併比率 横河1.0対北辰0.35、対外的には対等合併)

CENTUM発表が告げた計測器から制御への軸足移動

1973年のオイルショックは石油産業向けが売上の83%を占めていた横河電機に対して深刻な打撃を与え[24]、石油メジャーや国内の石油化学メーカーによる設備投資の相次ぐ中止によって販売が低迷する厳しい状況に追い込まれた。計測器メーカーとして単品の計器を売るビジネスモデルでは顧客の設備投資サイクルに左右される構造的な弱さが露呈し、横河電機は次の事業の柱を模索する局面に入った。この危機感を背景として1975年に横河電機は総合制御システムCENTUMを発表し[25]、プラント全体の制御を統合的に担うシステム事業への本格参入を対外的に宣言することで、計測器メーカーから制御システムメーカーへの歴史的な転換を図る布石を置いた。

  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)
    • [24]1973年のオイルショック当時、石油産業向けが売上の83%を占めていた
  • 横河電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [25]1975年に総合制御システムCENTUMを発表(発売)

石油関連が売上の8割を占める事業構造は、戦後最大の不況となった1975年に、全社員が会社がなくなるという危機感を抱くところまで横河電機を追い込んだと、のちに横河正三は書き残している[26]。単品の計器に頼る事業の弱さは順位にも表れ、1977年には工業計器の売上構成比を44.6%まで下げて電子機器や空調制御を伸ばした山武ハネウェルに経常利益で抜かれ、業界首位を明け渡した。工業計器が8割弱を占める横河電機と7割の北辰電機製作所に対し、多角化の進んだ同業他社が収益で上回ったという評価であった[27]

  • 日経新聞(私の履歴書・横河正三、1996年9月16日)
    • [26]石油ショックの影響で1975年は戦後最大の不況となり、横河の売上高の80%を占める石油関連業界が直撃され、全社員が会社がなくなるとの危機感を持った
  • 日経ビジネス 1977年12月19日号
    • [27]1977年に山武ハネウェルが横河電機製作所を抜いて経常利益で業界トップに立った。山武は工業計器が売上高の44.6%で電子機器・空調制御など非工業計器が5割以上を占め、横河の工業計器8割弱・北辰電機製作所の7割に比べ多角化が進んでいたと評された

1982年にはGEと49対51の出資比率でCT装置の合弁会社である横河メディカルシステムを設立したが[28]、HPとの合弁とは対照的に出資比率は1986年に25%へと後退し、最終的にはGEヘルスケアジャパンとして自社の名が消えていく経緯をたどることとなった[29][30]。HPとの合弁では主導権を確保しつつGEとの合弁では主導権を失うという対照的な構図の背後には、製品開発の主導権が横河側にあるかGE側にあるかという技術的な力関係の根本的な違いが存在していた。この経験を通じて横河電機は自社の技術的な強みがプラント向け制御システムにあるという事業アイデンティティをより一層強固にし、1990年代を通じて制御システム事業への経営資源集中を進める戦略の軌道が確立されていくこととなった。

  • 横河電機 有価証券報告書【沿革】/横河電機100年史(横河電機, 2015)
    • [28]1982年にGEと横河メディカルシステムを設立、出資比率は横河49対GE51
  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)
    • [29]横河の出資比率は1986年に25%へ後退(本文は『1986年に25%』と書くが、本文同一文の文脈では『1986年に』としつつ後段で経緯を述べる。decisionでは1986年にGE75%・横河25%へ変更で一致)
    • [30]合弁は最終的にGEヘルスケアジャパンへ改称(自社名が消えた)。decisionでは2009年にGEヘルスケアジャパンへ改称とあり、本文は年を明示せず
  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)
    • [24]1973年のオイルショック当時、石油産業向けが売上の83%を占めていた
    • [29]横河の出資比率は1986年に25%へ後退(本文は『1986年に25%』と書くが、本文同一文の文脈では『1986年に』としつつ後段で経緯を述べる。decisionでは1986年にGE75%・横河25%へ変更で一致)
    • [30]合弁は最終的にGEヘルスケアジャパンへ改称(自社名が消えた)。decisionでは2009年にGEヘルスケアジャパンへ改称とあり、本文は年を明示せず
  • 横河電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
    • [25]1975年に総合制御システムCENTUMを発表(発売)
  • 日経新聞(私の履歴書・横河正三、1996年9月16日)
    • [26]石油ショックの影響で1975年は戦後最大の不況となり、横河の売上高の80%を占める石油関連業界が直撃され、全社員が会社がなくなるとの危機感を持った
  • 日経ビジネス 1977年12月19日号
    • [27]1977年に山武ハネウェルが横河電機製作所を抜いて経常利益で業界トップに立った。山武は工業計器が売上高の44.6%で電子機器・空調制御など非工業計器が5割以上を占め、横河の工業計器8割弱・北辰電機製作所の7割に比べ多角化が進んでいたと評された
  • 横河電機 有価証券報告書【沿革】/横河電機100年史(横河電機, 2015)
    • [28]1982年にGEと横河メディカルシステムを設立、出資比率は横河49対GE51

完全終身雇用を掲げた経営と細る計装需要

1980年、社長の横河正三は完全終身雇用という考えを語っている。定年を迎えた社員が引き続き働ける場として1975年に横河事業所を設けており、利益は出ないものの、退職して生き甲斐を失った社員が急に老けるのを見てきたことが設立の理由だと説明した。年齢の上限は設けず、働けるなら100歳までいてよいという運用であった[31]。一方で定年そのものの延長は先進国が実施する65歳までにとどめるべきだとし、それ以上を阻むのは賃金の問題で、日本だけが年功賃金を続けてよいのかが最大の疑問だとも述べた[32]

  • 日経ビジネス 1980年4月21日号
    • [31]横河正三は定年後の社員が働く場として5年前(1975年)に横河事業所を設立したと語った。ゼニにはならないが、退職すると生き甲斐がなくなり急に老けるため設けたもので、何歳までいてもよく働けるなら100歳までとした
    • [32]横河正三は、定年は先進国が実施している65歳までは延長すべきだがそれ以上は無理とし、その際の問題は賃金で、日本だけが年功賃金を続けてよいのかが最大の疑問だと述べた

バブル崩壊後の設備投資削減は、工業計器で圧倒的なシェアを持つ横河電機を正面から直撃した。1993年3月期の売上高は前期比10%減の1820億円に落ち込む見通しとなり、収益は低迷して拡大路線に急ブレーキがかかった[33]。顧客である石油精製や化学、鉄鋼といった装置産業が新工場の建設を止めれば、横河電機の計器と制御システムの受注はそのまま細る。圧倒的なシェアは、装置産業の設備投資が伸びる間は強みだが、それが止まれば同じ幅で業績に跳ね返った。1975年のCENTUM発表以降に築いたシステム事業も、需要そのものが縮小するなかでは受注減を埋めきれなかった。

  • 日経産業新聞(1993年3月2日)
    • [33]横河電機の収益が低迷。産業界の設備投資削減が、工業計器で圧倒的なシェアを持つ同社を直撃し、1993年3月期の売上高は前期比10%減の1820億円に落ち込む見通しとなった

回復は限られた。1996年10月、横河電機は、プロセス用計測制御装置の業界受注が1996年度に前年度比4%増の3800億円へ戻るとしても、実質的に5年間マイナスが続いた後の水準にすぎず、ピークである1990年度の4800億円を今世紀中に超えることはないとの見方を示した[34]。化学や石油精製、鉄鋼の設備投資に占める計測制御機器の比率である計装率は、1980年代後半の2%を頂点に下がり、1995年には1.5%まで低下していた。新工場の建設は止まって更新需要が主流となり、業界全体が潤う時代は終わったという認識であった[35]

  • 日経新聞(1996年10月28日)
    • [34]プロセス用計測制御装置の業界受注予測は1996年度が前年度比4%増の3800億円。実質的に5年間マイナスであり、ピークの1990年度4800億円は今世紀中に超えられないとの見方
    • [35]化学・石油精製・鉄鋼などの設備投資に占める計測制御機器の比率(計装率)は1980年代後半の2%を頂点に下降を続け、1995年は1.5%まで低下。新工場を新設する投資はなく更新需要が主流で、業界全体が潤う時代は終わったとした
  • 日経ビジネス 1980年4月21日号
    • [31]横河正三は定年後の社員が働く場として5年前(1975年)に横河事業所を設立したと語った。ゼニにはならないが、退職すると生き甲斐がなくなり急に老けるため設けたもので、何歳までいてもよく働けるなら100歳までとした
    • [32]横河正三は、定年は先進国が実施している65歳までは延長すべきだがそれ以上は無理とし、その際の問題は賃金で、日本だけが年功賃金を続けてよいのかが最大の疑問だと述べた
  • 日経産業新聞(1993年3月2日)
    • [33]横河電機の収益が低迷。産業界の設備投資削減が、工業計器で圧倒的なシェアを持つ同社を直撃し、1993年3月期の売上高は前期比10%減の1820億円に落ち込む見通しとなった
  • 日経新聞(1996年10月28日)
    • [34]プロセス用計測制御装置の業界受注予測は1996年度が前年度比4%増の3800億円。実質的に5年間マイナスであり、ピークの1990年度4800億円は今世紀中に超えられないとの見方
    • [35]化学・石油精製・鉄鋼などの設備投資に占める計測制御機器の比率(計装率)は1980年代後半の2%を頂点に下降を続け、1995年は1.5%まで低下。新工場を新設する投資はなく更新需要が主流で、業界全体が潤う時代は終わったとした

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横河電機の沿革1920〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1915〜1962年計測器メーカーとしての基盤構築と戦後の業態転換横河電機製作所を設立
吉祥寺工場を新設(武蔵野本社)
吉祥寺工場が竣工
従業員約1万名を削減★★
東京証券取引所に株式上場
横河時介The Foxboro Companyと技術援助契約を締結★★
横河時介Yokokawa Electric Works, Inc.を設立
1963〜1998年合弁戦略と制御システムへの段階的な事業転換山崎巌横河ヒューレットパッカードを設立★★
松井憲紀保守サービスの子会社3社を設立
横河正三販売低迷・人員削減は回避
横河正三Yokogawa Electric Singapore Pte. Ltd.を設立
横河正三甲府工場を新設
横河正三総合制御システムCENTUMを公表
横河正三GEと合弁で横河メディカルシステムを設立★★
横河正三Electrofactを買収
横河正三北辰電機と合併★★
横河正三横河電機に商号変更
横河正三生産拠点統合計画を完了
美川英二統合生産制御システム(CENTUM CS)を発表
美川英二小峰工場を新設
美川英二横河エムアンドシーを設立
1999〜2022年制御システム専業への集約と構造改革の時代内田勲米HPとの36年合弁の解消と日本HP持分の売却

1999年、横河電機が米ヒューレット・パッカード(HP)との36年に及ぶ合弁を解消し、日本ヒューレット・パッカード株の保有分25%すべてを約600億円でHPへ売却した経営判断。日本HPは米HPの全額出資会社となり、横河は電子計測器という収益の柱を事実上失う一方、制御システムへの集中に向けた投資財源を得た。

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★★★
内田勲国内生産子会社5社を統合
内田勲安藤電気の株式33%を取得
内田勲国内グループ15工場を閉鎖★★
内田勲中国地域統括会社「横河電機(蘇州)有限公司」の本社・工場が竣工、生産開始
海堀周造最終赤字に転落
海堀周造計測器事業を子会社の横河計測に移管
西島剛志横河ソリューションサービスを発足
西島剛志希望退職者を募集★★
西島剛志YOKOKAWAコーポレートガバナンス・ガイドラインを制定
西島剛志KBC Advancedを買収★★
奈良寿中期経営計画AG2023を策定
奈良寿中期経営計画GS2028を策定
出典・参考
  • 横河電機 有価証券報告書【沿革】/横河電機100年史(横河電機, 2015)
  • 横河電機 有価証券報告書 第149期(2025年3月期)【沿革】
  • 横河電機100年史(横河電機, 2015)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「横河電機製作所」(経済春秋社, 1968年)
  • 日経ビジネス 1977年12月19日号
  • 日経ビジネス 1980年4月21日号
  • 日経新聞(1982年9月1日)
  • 日経産業新聞(1993年3月2日)
  • 日経新聞(私の履歴書・横河正三、1996年9月23日)
  • 日経新聞(私の履歴書・横河正三、1996年9月16日)
  • 日経新聞(1996年10月28日)

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