日清戦争のあと東洋市場が広がり、日本の近代工業は急速に立ち上がった。設備を据えるための資金需要は巨額に達し、金融は著しく逼迫する。この情勢に応じるため、フランスの動産銀行制度にならった長期事業金融機関を設ける機運が政府と実業界の双方で高まり、1900年3月に日本興業銀行法が公布された。[1]同法に基づき、資本金1000万円のうち4分の1を払い込む形で、1902年3月31日に日本興業銀行が発足する。初代総裁には添田寿一氏が就いた。[2]普通の銀行のように預金を集めて短期の運転資金を回す機関ではなく、興業債券を発行して内外から資金を調達し、証券投資を通じて事業へ長期の資金を流す。設計の段階から、調達も運用も証券に依存する銀行として構想されていた。
構想は、日本の資本市場の実力を先取りしすぎていた。証券を通じて事業資金を供給するには、企業の株式や社債が市場で流通していなければならない。しかし当時の日本は資本の証券化そのものが未発達で、この方式で供給できる資金には自ずと限度があった。[3]設立から数年で、興銀は最初の設計をそのまま押し通す道を捨てる。1905年に各種抵当法と担保付社債信託法が制定されると、証券を担保に取る手形貸付、工場や鉱山をまとめて担保に入れる財団抵当貸付、そして一般の信託業務を新たに手がけられるようになった。[4]証券投資の銀行から、担保を取って長期に貸す銀行へ、主たる業務が移った。
創立10年の記録として1912年に編まれた『日本興業銀行十年史』は、章立てそのものが当時の業務の輪郭を示している。債券、預金・貸出金・有価証券、外資輸入、信託業務が独立した章として並び、信託業務の筆頭には担保付社債信託に関する事務が置かれた。[5]日本銀行の代理事務や軍人遺族特別賜金の保管まで手がけており、民間の銀行というより、産業金融を担う公的機構に近い姿だった。[6]特殊銀行という位置づけは、政府から与えられた特権であると同時に、政府が必要とする役目を断れないという拘束でもあった。この二面性は、興銀が独立した銀行として存続した98年を通じて消えなかった。
外資の輸入は、創立から昭和初年まで興銀の主要な仕事であり続けた。[7]国内の資本蓄積が薄い段階では、鉄道や電力のような回収に十年単位を要する事業に、国内資金だけを充てるのは難しい。興銀は海外市場で債券を売り、その資金を国内の重工業へ流す経路を担った。財閥系の銀行が系列企業を抱え込む形で発展したのに対し、興銀には抱え込むべき系列がない。[8]特定の資本系列に属さないという条件が、外資導入の窓口としても、複数の財閥にまたがる案件の取りまとめ役としても働いた。系列を持たないことを弱みではなく職能に転じたところに、この銀行の初期の性格がある。
興銀の活動がもっとも目立ったのは、平時ではなく危機のときだった。第一次大戦後の反動期には株式市場の救済融資に加わり、産業救済のための臨時事業資金を貸し付け、価格が崩れた蚕糸業と鉄鋼業へ救済資金を供給し、休業した銀行の不動産貸付を肩代わりした。1923年の関東大震災では、大蔵省預金部の援助を受けて罹災地の中小工業者へ復興資金を出し、大工業にも復興資金を供給し、証券市場には安定資金を回した。[9]三菱銀行と共同で東京市へ臨時の救済資金を融通し、罹災民の救護も支えている。この震災時に設けられた臨時工業資金部が、のちの中小工業部の前身にあたる。[10]
昭和初年の金融恐慌と世界恐慌でも、興銀は貸し手として引かなかった。有望と見た事業には援助を惜しまず、整理に要する資金も出し、経営の合理化を促した。産業界が危機を脱して金融が緩むと、今度は各企業を指導して短期借入を長期に振り替えさせ、借入金を社債に置き換えさせ、経理の基礎を固めさせている。[11]貸すだけでなく、貸した先の資本構成に手を入れる。この作法が戦時経済への移行後は重化学工業への設備資金供給に振り向けられ、興銀は軍需産業へ資金を流す中枢の一つになった。[12]危機のたびに前へ出て産業を立て直すという役回りは、この40年で固まった。
敗戦後の興銀は、まず自らの帳簿を整理するところから始めた。1948年3月、金融機関再建整備法に基づいて政府補償の打切りによる特別損失を処理し、同年12月に資本金を5億円へ増やして、債券発行による長期金融機関として再発足する。[13]1949年9月には資本金10億円。ここまでは戦前の延長線上にあったが、1950年3月に『銀行等の債券発行等に関する法律』[引用元]が公布施行され、同時に日本興業銀行法が廃止されたことで、前提が変わった。特殊銀行としての根拠法が消えた。同年4月、興銀は普通銀行に転換した。見返資金の引受により優先株10億円を発行し、資本金は20億円となり、10月には甲種外国為替銀行の指定を受けている。[14]
普通銀行になった以上、預金を集めて短期の商業金融へ移る道はあった。都市銀行と並んで支店網を広げ、個人と中小企業の預金を取りにいく選択である。興銀はその道を選ばなかった。[15]普通銀行へ移ったあとも、債券発行によって諸産業へ長期の事業資金を供給することを主要業務に据え続け、1951年7月には10億円を増資して債券の発行限度を広げている。[16]看板は外れても、やる仕事は変えない。この時期に何をしなかったかが、その後の半世紀を決めた。預金基盤を持たないという条件を、興銀は選択の結果として引き受けたことになる。
1952年12月、長期信用銀行法が施行された。[17]のちに頭取となる西村正雄氏は、この制度を『戦後、資金が不足していた時代に、産業の育成のため長期の設備資金を供給していくのが目的だった』[引用元]と要約している。
制度が固まると、数字は急に伸びた。1955年3月末の債券発行額は1587億円に達し、これに対して預金は465億円にとどまる。[18]貸出は2049億円で、その62%が設備資金、38%が運転資金だった。[19]調達の主力が預金ではなく債券であり、運用の主力が短期の商業金融ではなく設備資金である。都市銀行とは逆向きの貸借対照表がここに出来上がっている。資本金は数回の優先株償却を経て1955年3月に22億9000万円となり、頭取は川北禎一氏が務めていた。制度と実務と数字が噛み合ったこの時期から、長期信用銀行としての興銀が始まった。
1960年代前半、証券市場は増資の急増による供給超過で機能不全に陥っていた。東証修正平均は1961年7月の1829円74銭を頂点に下げ続け、1965年7月には1020円49銭まで落ちる。余った株式を凍結する機関として1964年1月に日本共同証券が設立され、都市銀行と生命保険会社と証券会社が出資に加わり、株価の下支えには金融機関が総出で当たった。[20]だが最大の懸案は個別の証券会社にあった。山一証券は1964年9月期に34億円余の欠損を計上し、1965年3月末の借入金は長短合わせて725億円、顧客からの運用預かりは555億円に達していた。[21]興銀は富士、三菱とともに主力3行として、金利の棚上げを含む支援策を検討する立場にあった。
興銀が出したのは資金だけではない。1964年11月の株主総会で山一証券の取締役に選ばれ、社長として再建に当たったのは、興銀出身で日産化学工業社長を務めていた日高輝氏である。[22]再建策がまとまる前に報道が出て取り付け騒ぎが起き、1965年5月28日夜、日銀氷川寮に大蔵省と日銀と主力3行の首脳が集まった。日高氏は興銀で結果を待っている。同期入行の中山素平氏が戻って『決まったよ』と告げるまでの時間を、日高氏はのちに自らの人生でもっとも長い時間だったと書いた。日本銀行法第25条による無担保の特別融資が、この夜に初めて発動される。山一への特融は6月7日から翌月28日まで8回、合計282億円に達した。[23]
高度成長の後半から1980年代前半にかけて、興銀の収益規模は一本調子で膨らんだ。1971年3月期の経常収益は2109億円、経常利益176億円、当期純利益144億円。[24]オイルショックを挟んだ1975年3月期には経常収益5001億円まで伸び、1982年3月期は1兆2613億円、1985年3月期は1兆5890億円に達した。14年で経常収益は7.5倍である。ただし同じ期間の当期純利益は144億円から440億円と3倍にとどまる。資金量の拡大が利益率の改善を伴っていないことは、この時点の数字にすでに表れていた。
現地法人のドイツ興銀を通じて欧州に足場を作り、1973年12月の住友重機械工業のフランクフルト証券取引所上場では、ドイツ大和とともに海外現地法人として初めて引受幹事に加わった。[25]
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|---|---|---|---|---|
| 日本興業銀行法が公布 | ★ | |||
| 1902〜1945年動産銀行として設けられた特殊銀行と社債市場 | 日本興業銀行法に基づき設立 | ★★ | ||
| 証券担保の手形貸付・財団抵当貸付・一般信託業務を開始 | ★★ | |||
| 『日本興業銀行十年史』を刊行 | ★ | |||
| 関東大震災の復興資金を供給する臨時工業資金部を設置 | ★★ | |||
| 三菱銀行と共同で東京市に臨時救済資金を融通 | ★ | |||
| 1945〜1960年特殊銀行の廃止から長期信用銀行法による再定義へ | 金融機関再建整備法により特別損失を整理 | ★★ | ||
| 長期金融機関としての存続をGHQが承認 | ★★★ | |||
| 債券発行による長期金融機関として再発足 | ★★ | |||
| 資本金を10億円に増資 | ★ | |||
| 銀行等の債券発行等に関する法律が公布施行 | ★ | |||
| 普通銀行に転換 | ★★ | |||
| 見返資金の引受により優先株10億円を発行 | ★ | |||
| 甲種外国為替銀行の指定を取得 | ★ | |||
| 10億円を増資 | ★ | |||
| 長期信用銀行法が公布 | ★ | |||
| 日本興業銀行法の廃止に伴う普通銀行への転換と、長期信用銀行への移行 1950年4月に日本興業銀行法が廃止されて普通銀行となった日本興業銀行が、債券発行による長期資金の供給という業務を変えず、1952年12月の長期信用銀行法の施行で長期信用銀行へ移った判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 優先株の償却により資本金が22億9000万円に減少 | ★ | |||
| 債券発行残高が1587億円に到達 | ★★ | |||
| 1960〜1985年人を送り産業再編を仲介した高度成長期の産業金融 | 中山素平氏が頭取に就任 | ★★ | ||
| 余剰株式の凍結機関として日本共同証券が設立 | ★ | |||
| 日高輝氏が山一証券の社長に就任 | ★ | |||
| 山一証券への日高輝氏の派遣と、主力3行による再建の引き受け 1965年、証券不況で資金繰りが行き詰まった山一証券に対し、日本興業銀行は頭取の中山素平氏の主導で、興銀出身で日産化学工業社長の日高輝氏を社長に送り込み、富士銀行・三菱銀行とともに主力3行として再建を引き受けた。5月28日夜の日銀氷川寮での会談を経て日銀法第25条の特別融資が発動された。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 富士銀行・三菱銀行とともに山一証券再建の主力3行に | ★★ | |||
| 中山素平氏が会長に就任 | ★ | |||
| 八幡製鉄と富士製鉄の合併を仲介 | ★★ | |||
| 経常収益2109億円・当期純利益144億円を計上 | ★ | |||
| ドイツ興銀が住友重機械工業の上場で引受幹事に参加 | ★ | |||
| 経常収益5001億円を計上 | ★ | |||
| 経常収益が1兆円台に到達 | ★ | |||
| 経常収益1兆5890億円を計上 | ★ | |||
| 黒澤洋氏が頭取に就任 | ★★ | |||
| 東洋信用金庫の架空預金証書事件と、料亭経営者への2400億円融資の焦げ付き 1991年8月、大阪ミナミで料亭を営む尾上縫氏による3420億円の架空預金証書が発覚した。日本興業銀行は割引金融債(ワリコー)を担保に尾上氏へ2400億円を融資しており、頭取の黒澤洋氏が国会で陳謝した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 興銀証券を設立 | ★★ | |||
| 興銀信託銀行を設立 | ★ | |||
| 住宅金融専門会社の処理により赤字決算 | ★★ | |||
| 西村正雄氏が頭取に就任 | ★★ | |||
| 安岡雅之氏を常務に招請 | ★ | |||
| 西村正雄氏が非常事態宣言を発表 | ★★ | |||
| 有価証券が300億円超の含み損に転落 | ★★ | |||
| 金融債残高が19兆4714億円に減少 | ★ | |||
| 第一生命と資本業務提携で合意 | ★ | |||
| 1998年度の不良債権処理を7000億円規模に上積み | ★ | |||
| 約6000億円の公的資金を申請する方針を決定 | ★★ | |||
| 第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の経営統合とみずほ誕生(2000年成立) 1999年8月、第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行の3行が全面統合を発表し、2000年9月に株式移転で持株会社みずほホールディングスを設立。国内初のメガバンクが誕生した案件。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 株式の上場を廃止 | ★ |
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事実根拠:出所(日本興業銀行)