日本興業銀行山一証券への日高輝氏の派遣と、主力3行による再建の引き受け

融資で支えるか、経営そのものを預かるか——証券恐慌のさなかに興銀が選んだ関与のかたち

時期 1965年5月
意思決定者(推定) 中山素平 頭取
論点 産業金融と人材派遣
概要
1965年、証券不況で資金繰りが行き詰まった山一証券に対し、日本興業銀行は頭取の中山素平氏の主導で、興銀出身で日産化学工業社長の日高輝氏を社長に送り込み、富士銀行・三菱銀行とともに主力3行として再建を引き受けた。5月28日夜の日銀氷川寮での会談を経て日銀法第25条の特別融資が発動された。
背景
東証修正平均は1961年7月18日の1829.74円から1965年7月12日の1020.49円まで44%下がり、増資の急増で株式の需給が崩れていた。山一証券は1964年9月期に34億円余の欠損を計上し、1965年3月末の借入金は長短合わせて725億円に達していた。
内容
中山頭取は1964年10月に日高氏を口説き、11月24日の株主総会で山一の取締役に選任させた。日高氏は健全化委員会で実情を把握し、銀行借入金の元利棚上げの要請と支店網の縮小・再編を同時に進めた。再建策の報道が解約の殺到を招くと、大蔵省・日銀・主力3行のトップが氷川寮に集まった。
含意
融資の可否ではなく、人を送って経営そのものを預かる関与であった。同じ時期に興銀は八幡製鉄と富士製鉄の合併も仲介しており、取引先が再編と再建で強くなれば自行の融資基盤も強くなるという考えが背後にあった。
筆者の見解

貸すことと、預かること

中山素平氏が動かしたのは、融資の枠ではなく、日産化学工業の社長だった日高輝氏という一人の人物だった。赤坂の座敷での一言に始まり、富士・三菱の頭取と小林中氏を巻き込んで一年近くをかけ、興銀は債権者の位置から、経営の責任を負う側へ自らを移した。氷川寮の会談に臨んだのは興銀の頭取であり、その帰りを興銀で待っていたのは山一の社長である。救済の当事者がどちら側にいたかは、この一夜の座の配置が示している。

経営を預かるとは、前の経営陣を退かせることでもある。小池厚之助相談役と大神一会長は退任し、日高氏自身も再建のスタートでフライングを犯したのではないかと書いている。先に音をあげれば負けという空気の中で交代に踏み切った山一の判断は、当時として不合理ではなく、その裏目が出たとみるほうが実情に近い。特融が4年余で終わったのも、市況の回復と保有組合の還付金に支えられていた。それでも興銀が引き受けたのは再建の成否ではなく、再建に責任を負う立場そのものだった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

崩れた株式の需給と、相次いだ凍結機関

1960年代前半の株式市場は、増資の急増で需給が崩れていた。1961年の増資額は額面金額ベースで6738億円と前年の3472億円から倍近くに膨らみ、株価が下降に転じた1962年も6002億円の高い水準を保った。膨れあがった株式を吸収したのは投資信託で、その組み入れ株式の時価総額は全上場株式の1割前後を占めた。東証修正平均は1961年7月18日の1829.74円を頂に、ほぼ一貫して下げ続けた[1]

株価を支える機関が相次いでつくられた。1964年1月には余剰株式の凍結機関として、都市銀行・生命保険会社・証券会社などの出資で日本共同証券が設立され、ダウ1200円防衛と呼ばれた買い支えが連日繰り広げられた。1965年1月には証券会社を組合員とする日本証券保有組合が発足し、投信と証券会社の手持ち株について各銘柄の1割ずつが棚上げされた。それでも市況は戻らず、東証修正平均は同年7月12日に1020.49円まで沈み、ピークを44%下回った[2][3]

「法人の山一」の内実と運用預かり

大手証券の一角を占めた山一証券は、1964年9月期に34億円余の欠損を計上した。無理な営業がたたり、実際の赤字はこの数倍あるとみられていた。1965年3月末の借入金は長短合わせて725億円、借入有価証券は853億円にのぼる。2月から4月まで毎月3億円の赤字が出て、金利負担だけで月におよそ2億円かかっていた。証券会社は資金が絶えず回り続けるため、気づいたときには赤信号であった、と日高輝氏は後に書いている[4][5]

山一の資金繰りを縛っていたのは運用預かりであった。顧客から主に割引金融債を預かり料を払って借り入れ、それを担保に銀行から融資を受ける仕組みで、当時の証券会社はこれに大きく頼っていた。1964年9月期末の純財産額70億円に対し、運用預かりは477億円に達していた。解約は即座に資金繰りを圧迫し、他の証券会社や銀行へも波及しかねない。この構造があったから、興銀・富士銀行・三菱銀行の主力3行は金利棚上げなどの支援策を検討していた[6]

決断

赤坂の座敷で一人の社長を口説く

1964年10月、東京オリンピックの開会式を目前にして、興銀頭取の中山素平氏は日産化学工業社長の日高輝氏を赤坂の料理屋へ誘った。日高氏は興銀の同期で、日産化学の再建を託されて送り出されていた。夕食が始まってもなかなか用件を切り出さず、やがて「山一証券が苦しくなっている。テルさんに手伝ってもらえまいか」ともらした。日高氏は「冗談じゃない。日産化学はやっと復配したところだ」と一蹴した[7][8]

説得は興銀だけでは終わらなかった。富士銀行の岩佐凱実頭取と三菱銀行の宇佐美洵頭取から相次いで面会の申し入れが届き、証券業界の最高顧問であった小林中氏まで動いた。日高氏は「だれかがやらなくてはならない」と腹を決め、1964年11月24日の株主総会で取締役に選任された。当時の証券界は極度の低迷にあり、先に音をあげれば負けという空気の中で経営者の交代に踏み切ったことの裏目が出たのではないか、と日高氏は山一の側に立って後年振り返っている[9][10]

二正面作戦と氷川寮の一夜

就任した日高氏は大森治常務を長とする「健全化委員会」を置き、各部署から実情を聞き取った。そこで固まった策は、銀行借入金の元利棚上げの要請と、国内外の支店網の縮小・再編という二正面作戦だった。地方支店の整理は世間の耳目を集めないよう、1965年7月初めの参議院選挙の投票日に作業を終える日程を組んだ。だが、宮崎支店の閉鎖は地方紙から漏れた。5月21日午前1時、日高氏は中山氏の電話でたたき起こされる[11][12]

同日午後、山一と主力3行は丸の内の銀行倶楽部で共同記者会見に臨んだ。再建策の発表は経営の苦しさを表に出すことにもなり、運用預かりと投資信託の解約が日を追って増えた。5月28日には四苦八苦の末に手当てした30億円前後が一日で引き出された。その夜、大蔵省・日銀・主力3行のトップが日銀氷川寮に集まる。三菱銀行の田実渉頭取が取引所の閉鎖を口にしたのに対し、田中角栄蔵相が「君はそれでも都市銀行の頭取か?」と怒鳴って決まった、と中山氏は後年語っている[13][14]

結果

282億円の特融と新旧分離

日銀法第25条にもとづく無担保の特別融資は、このとき史上初めて発動された。山一は1965年6月7日から翌月28日までに8回、合計282億円の特融を受ける。利息は日歩1.68銭から1.88銭で、完済までに支払った金額はおよそ61億7000万円にのぼった。会談の間、日高氏はただ一人興銀にいて中山氏の帰りを待ち、「決まったよ」の一言を聞くまでの時間を、人生でもっとも長いものだったと書いている[15][16]

引き受けの代償は、山一の側にも表れた。興銀証券課時代からの顔なじみであった小池厚之助相談役と、債券部門を担った大神一会長は退任した。日高氏は二人を退任に追い込んだことを切ないと書き、自らについても再建のスタートでフライングを犯したのではないかと記している。特融の翌日、日高氏は管理職以上を講堂に集め、日銀法第25条の発動が信用機構と国際信義にかかわる問題であることを説き、批判は一切自分が受けると力説した[17][18]

健全化委員会は、実情を把握する場から特融の処理を練る場へ変わった。採られたのは、戦後の金融機関再建整備で用いられた「新旧勘定分離」に倣う方法である。旧会社に債務を棚上げし、営業の一切を譲り受けた新会社の利益を返済に充てる。1966年7月7日に新会社を設立し、9月1日に営業譲渡を行って、改正証券取引法による大蔵大臣免許の第1号を取得した。募集設立の申し込みは120億円余に達し、新会社は払い込み済み資本金90億円・株主85で発足した[19][20]

肩代わりによる完済と、再編を仲介する銀行

計算上、特融の完済には18年8カ月を要するはずであった。実際には株式市場の回復と、日本証券保有組合の解散に伴う67億3000万円の還付金が返済を押し上げた。1969年9月期を控えて残高は49億8000万円まで減り、主力3行がこれを肩代わりして特融は4年余で完済された。棚上げしていた借入金も金利の減免と新規融資への振り替えが行われ、10月1日に新旧両社は合併した。山一は1970年9月期に復配し、1973年4月に市場第二部へ再び上場した[21][22]

同じ時期、中山氏は東京電力の木川田一隆氏を担いで「産業問題研究会」をつくり、産業界を強くするには合併しかないという考えのもとに動いた。1970年の八幡製鉄と富士製鉄の合併、海運再編、日産自動車とプリンス自動車の合併、石油化学の再編が、その舞台となった。取引先が合併で強くなれば興銀も強くなるという狙いがそこにはあった。産業界へ人材を数多く送り出すことから、興銀は「益荒男派出婦」と呼ばれた。山一への日高氏の派遣も、この関与のかたちに連なる[23][24]

出典・参考
  • 私の履歴書 経済人16(日本経済新聞社、1981年)「日高輝」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「証券-証券恐慌乗り越え土台固め」
  • 週刊東洋経済 2005年12月3日号「最後の大物バンカー 中山素平氏逝く 産業界の再編に大きな功績」

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