中山素平氏が動かしたのは、融資の枠ではなく、日産化学工業の社長だった日高輝氏という一人の人物だった。赤坂の座敷での一言に始まり、富士・三菱の頭取と小林中氏を巻き込んで一年近くをかけ、興銀は債権者の位置から、経営の責任を負う側へ自らを移した。氷川寮の会談に臨んだのは興銀の頭取であり、その帰りを興銀で待っていたのは山一の社長である。救済の当事者がどちら側にいたかは、この一夜の座の配置が示している。
経営を預かるとは、前の経営陣を退かせることでもある。小池厚之助相談役と大神一会長は退任し、日高氏自身も再建のスタートでフライングを犯したのではないかと書いている。先に音をあげれば劣位に立つという空気の中で交代に踏み切った山一の判断は、当時として不合理ではなく、その裏目が出たとみるほうが実情に近い。特融が4年余で終わったのも、市況の回復と保有組合の還付金に支えられていた。それでも興銀が引き受けたのは再建の成否ではなく、再建に責任を負う立場そのものだった。