川合流経営による本体黒字化への再建
量産を追って赤字に転落した富士重工業を、日産から迎えた川合勇氏はどう立て直したか
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- 概要
- 1990年、北米事業の重い固定費と量産志向の誤算で営業赤字に転落した富士重工業が、日産から迎えた川合勇社長のもとで米国販売会社の立て直しと現場重視の経営に取り組み、5年かけて本体を黒字化させた再建。
- 背景
- いすゞと組んだ米インディアナ工場SIAと、完全子会社化した米国販社SOAの赤字が重なり、内需が伸びるなかで1990年3月期に営業赤字296億円を計上した。興銀出身の田島敏弘社長が退き、興銀主導の田島体制が崩れた。
- 内容
- 日産ディーゼルの再建で知られる川合勇氏を社長に迎え、独立路線は保ったまま量産追求を捨てた。米国の販売在庫を半減させて1991年3月期に636億円の経常赤字を出し切り、週末のディーラー回りと従業員との対話で現場を動かした。
- 含意
- 財務の穴埋めそのものより、中堅が大手と同じ量産で競う誤りを生産畑の経営者が現場から解いた再建だった。一方で川合流の求心力が生んだ「モノ言えぬ社風」は、後年の欠陥車隠しという別の破綻にもつながったとみられる。
規模を追うより、強みをどこで活かすか
この再建で川合勇社長が向き合ったのは、財務の穴埋めそのものというより、中堅が大手と同じ量産で稼ごうとした誤りであった。トヨタや日産が握る市場で規模を競えば、部品の共有も販売網も及ばない富士重工はコスト高を抱え込む。生産畑を歩いた経営者が、テストコースと工場と販売店を自ら回り、在庫と品質とコストという現場の数字から立て直していったところに、銀行主導の量産経営とは異なる性格がうかがえる。得意分野に絞って稼ぐという選択は、のちの北米SUV事業へと引き継がれていく。
もっとも、一人のリーダーの求心力に支えられた再建は、影も落とした。役員が「たった一人のリーダーがこれほど企業を変えるものとは思わなかった」と語ったほどの統率は、裏返せばトップに異を唱えにくい空気とも隣り合わせだった。日経ビジネス誌が1997年に「再建至上でモノ言えぬ社風」と指摘した欠陥車隠しや、翌1998年の川合会長の逮捕は、再建の成功が別の破綻を招きうることを示している。規模を追うより強みをどこで活かすか——川合流の問いは、その光と影をともに残した。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
量産志向と北米事業の重荷
富士重工業は中島飛行機を源流とする技術者集団を母体とし、水平対向エンジンや四輪駆動車という独自の技術で中堅の地位を保ってきた。1968年には日本興業銀行の仲介で日産グループの一員として生きる方針を打ち出したが、業界再編の危機感が薄れると日産との関係は疎遠になり、事実上は興銀が経営を主導した。興銀出身の田島敏弘社長のもとで富士重工は車種を増やし、トヨタに倣って量産で稼ぐ「ミニトヨタ」を目指したが、部品の共有率は2割前後にとどまり、量を追うほどコストがかさむ体質を抱えていた[1][2]。
とりわけ重かったのが北米事業だった。1987年にいすゞと51対49で設立し、1989年9月に稼働した米インディアナ工場SIAは、採算に要する月産1万2500台に対して実際の生産が月5000台前後にとどまり、1年間で200億円を超える赤字を出した。米国販売会社SOAも田島社長の時代に約110億円を投じて完全子会社化したものの、毎年100億円を超える赤字を計上した。輸出を含む国内総生産台数は1987年3月期の63万台から1990年3月期には50万台へ減り、業界内の順位も下がった[3][4][5]。
1990年の赤字転落と田島体制の崩壊
内需拡大で国内の自動車市場が急拡大するさなか、富士重工は1990年3月期に前期の営業黒字26億円から一転して営業赤字296億円を計上した。市場全体が伸びるなかでの赤字だけに深刻さは際立ち、独立企業として存続できるのかという声が社内外で強まった。SIAとSOAの北米二社が生んだ損失が本体の収益を圧迫し、量を追う経営がもはや行き詰まった事実を突きつけた[6]。
1990年5月、田島敏弘社長の後任に日産ディーゼル工業社長の川合勇氏が内定した。同年4月上旬、興銀の中村金夫頭取、日産自動車の久米豊社長、田島・川合の両氏を加えた四者が人事を固め、「バンカーには自動車会社の経営は無理」とする日産側の意向が通った。田島社長は代表権のある会長へ退いたものの経営には積極的に関わらない体制となり、興銀が主導してきた田島体制は崩れた[7][8]。
決断
日産から迎えた川合勇氏と量産追求の放棄
1990年6月、川合勇氏が富士重工業の社長に就いた。1922年生まれの川合氏は東京大学を出て1946年に日産自動車へ入り、40年以上を生産の現場で過ごしたのち、累積損失を抱えた日産ディーゼル工業を再建した実績を買われた。富士重工は日産の傘下に入るのではなく、経営者だけを受け入れて独立路線を保つ道を選んだ。就任早々、川合氏は「なぜ富士重工が米国に工場進出したのか、体力を全然考えていない」と漏らしつつ、「出てしまったものは仕方がない、徹底的にコストを削ってイメージを変える」と宣言した[9][10]。
川合氏がまず取り組んだのは、大量の出血を止める緊急の手当てだった。6万台近くまで膨らんだ米国の販売在庫を一気に半分へ減らすため販売促進費と広告費を投じ、1991年3月期にあえて636億円の経常赤字を出し切って膿を出した。「再建はスピード」を持論とし、配当は中間・通期とも見送り、2年半で延べ830人の社員を販売店へ出向させた。資産の切り売りには頼らず、松崎一男常務が「今後は量の拡大は追わない」と語ったとおり、量産で稼ぐ経営そのものを捨てた[11][12][13]。
現場重視の「川合流」と米国販社の立て直し
川合流の核心は、現場に足を運ぶことにあった。川合氏は朝7時半に出社し、週末は自らディーラーを回り、就任以来、従業員1000人との対話集会を繰り返した。最大の課題とみた米国販社SOAへは就任直後に飛び、販売部長に在庫が全米で何カ月分あるか、中古車相場がどう動いているかを問い、押し込み販売を戒めた。補修部品やサービスなど景気に左右されにくい事業の比率を「不変比率」と呼び、これを5割以上に高めるよう求めた[14][15][16]。
品質とコストにも川合氏は自ら踏み込んだ。テストコースで開発中を含む全車種を運転して欠陥を洗い出し、1993年に全面改良したレガシィでは時速160キロ付近の微妙な振動を理由に、いったん商品化を止めさせた。工場では基礎コンクリートの厚みや鉄骨の寸法まで見て投資を削り、生産畑で培った目でコストの無駄を一つずつ潰した。品質へのこだわり、生産の合理化、販売の活性化を同時に進めたのが川合流だった[17]。
結果
5年越しの本体黒字化と米国販社の立て直し
再建はほぼ計画どおり進んだ。1992年3月期に営業損益が3年ぶりに黒字へ転じ、最大の重荷だった米国販社SOAは1994年12月期に収支が均衡した。1991年3月期に636億円の経常赤字を出した本体も1995年3月期に黒字化する見通しとなり、日産自動車やマツダが赤字に転落する不況のさなかで再建をほぼ完了した。日経ビジネス誌はこれを「川合流経営」が実ったと伝えた[18][19][20]。
独立路線は保たれた。川合氏は自主独立を守りつつ日産と協力する道を選び、四輪駆動車とワゴンという得意分野に資源を集める方向を定めた。前任の田島社長が描いたレガシィ中心の商品戦略を、現場を動かして実らせた面が強い。ただし田島ビジョンを超える中長期の将来構想と、興銀・日産に頼らないプロパー経営者の育成は、川合流の再建が残した課題であった[21][22][23]。
- 日経ビジネス 1990年5月7日号「富士重工、田島体制の崩壊」
- 日経ビジネス 1991年10月7日号「富士重工業 得意の多目的車でトップ 赤字突き付け意識改革、量産志向脱却」
- 日経ビジネス 1992年11月9日号「編集長インタビュー 川合勇氏[富士重工業社長]『心をひとつ』が再建の基本 今の環境では辞められない」
- 日経ビジネス 1995年3月13日号「富士重、『川合流経営』実る。現場徹底重視のハンドルさばき 米国販社立て直し、本体も黒字化」
- 富士重工業 会社年鑑(連結業績)