SUBARUSUBARU創業——中島飛行機の戦後解体と旧5社の再結集による富士重工業
航空機製造を禁じられ12社に分割された中島飛行機系の企業は、1953年にどのように富士重工業として再結集したか
- 概要
- 1953年7月15日、旧中島飛行機系の5社(富士工業・富士自動車工業・大宮富士工業・宇都宮車輌・東京富士産業)が出資する持株会社として、富士重工業株式会社が東京都新宿区に資本金1億円で設立された。初代社長には旧中島飛行機の常務で富士工業の社長を務めた北謙治 氏が就いた。1955年4月に5社を吸収合併して旧中島系の工場群を1つの事業会社へ統合し、1958年のスバル360で乗用車メーカーへ転じた。
- 背景
- 中島知久平 氏が1917年に群馬県太田で創設した飛行機研究所を源流とする中島飛行機は、陸海軍の主力機種を量産して機体・発動機で三菱と並ぶ業界2位に成長した。だが1945年の敗戦でGHQが航空機製造を全面的に禁じ、中島飛行機は富士産業へ改組して民需へ転換、1950年の過度経済力集中排除法で12社へ強制分割された。日本最大級の航空機メーカーは組織として一度解体された。
- 内容
- 1952年の講和条約発効と航空機製造の再開許可を機に、集中排除法の運用が緩められた。戦前からの工場間取引と技術者の結び付きが残る5社は、富士工業を母体に資本統合を進め、1953年に富士重工業として再結集した。特定の創業者を欠いた旧中島系の技術者集団が、持株会社の設立と5社合併という手順で1つの事業会社へまとまり、航空機技術を民需へ応用する体制を整えた。
- 含意
- 再結集した富士重工業は、1955年の通産省「国民車構想」を受けて軽自動車枠での参入へ転じ、航空機設計者出身の百瀬晋六 氏を主任とするチームが機体構造の軽量化の考え方を応用してスバル360を1958年に投入した。「てんとう虫」の愛称で長く生産され、乗用車が数年で中心の製品となった。1961年10月には東京・大阪両証券取引所市場第一部へ上場し、公開企業となった。
集団として再結集した企業が示すもの
この創業が示すのは、一人の創業者の物語ではなく、解体された技術者集団が再び1つの会社にまとまった経緯である。中島飛行機は敗戦で航空機という主力を失い、過度経済力集中排除法によって組織として分割された。それでも工場間の取引や技術者の結び付きが戦前から残っていたことが、5社の再結集を現実的なものにしたとみられる。特定の創業者を欠いたまま、旧中島系の企業が持株会社の設立と合併という手順で1つの法人を得た点に、この再編の特徴があらわれている。
もう一つ見えてくるのは、航空機で培った技術を平時の民需へ振り向けた道筋である。百瀬晋六 氏らが機体構造の軽量化をスバル360に応用したように、失われた航空機の技術は乗用車という新しい用途へ引き継がれた。国民車構想という時代の要請と、再結集で1つにまとまった技術者集団が重なったことが、富士重工業を航空機メーカーから乗用車を主力とする企業へ転じさせたと読める。戦後の再編を経て残った技術の受け皿が、その後のSUBARUの土台になっていったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
中島飛行機——民営による国産航空機メーカー
中島知久平 氏は1884年に群馬県新田郡尾島町の農家に生まれ、海軍機関学校を経て海軍機関大尉に任官し、横須賀海軍工廠の飛行機工場で水上機の設計に従事した。第一次世界大戦中の欧米で飛行機の実用化と量産が進む様子に接し、官営に頼らず民間の立場で国産航空機産業を育てる必要があると考えるに至った。1917年5月、海軍予備役となった中島知久平 氏は将来を約束された官の地位を辞し、故郷の群馬県太田に民営の飛行機研究所を創設した[1]。陸海軍からの直接発注を当てにせず機体の設計から自ら取り組む点が、官営が優位を占めていた当時の航空産業のなかでの独自の選択であった。
飛行機研究所は1919年に陸軍機を初めて受注し、民間企業として日本で最初の軍用機受注となった。1931年12月には株式会社中島飛行機製作所へ改組して資本と設備を拡張し、陸軍の九七式戦闘機や一式戦闘機「隼」、海軍の零式艦上戦闘機の発動機「栄」「誉」など主力機種の設計と量産を相次いで担った[2]。太田・武蔵・三鷹・大宮などに大規模な機体・発動機の工場群を構え、最盛期には機体28%・発動機31.3%のシェアで三菱重工業と並ぶ業界2位を占めた[3]。創業者の中島知久平 氏は1939年に経営の第一線を退き、戦後の1949年に世を去っている。
敗戦・富士産業への改組と過度経済力集中排除法
1945年8月の敗戦と同時に、連合国軍最高司令官総司令部の指令で全国の航空機製造が全面的に禁じられた。中島飛行機は同年11月に富士産業株式会社へ改組し、鍋や釜、スクーター、バス車体といった民需品への転換を迫られた[4]。占領下で航空関係の技術者数万人が転業を求められ、富士産業は事業を細かく分けながら経営を続けた。日本最大級の規模を持つ航空機メーカーは、主力の航空機市場を敗戦によって失った。
1950年7月、過度経済力集中排除法の適用で富士産業は12社へ強制的に分割された[5]。富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輌、東京富士産業の5社を含む各社が、それぞれ独立した会社として切り離された。日本最大級だった航空機メーカーは組織として一度解体され、戦前の中島飛行機が築いた事業基盤は地理的にも資本的にも分散した。創業者の中島知久平 氏が戦前に経営を離れ、戦後まもなく世を去っていたことも、旧中島系が創業者個人を欠いたまま再編へ向かう遠因となった。
決断
1953年——旧中島系5社の再結集
1952年4月のサンフランシスコ講和条約の発効と前後して、過度経済力集中排除法の運用が緩められ、航空機の製造も再び認められた。旧中島飛行機系の分割各社のうち、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車輌、東京富士産業の5社は、戦前から続く工場間の部品取引の慣行と技術者の結び付きが残っていた[6]。互いの製品や人の往来が保たれていたことが、資本の面でも1つにまとまり直す現実的な条件となった。分散した旧中島系のなかで、この5社が再統合の中核を担える位置にいた。
1953年7月15日、これら5社が出資する持株会社として、富士重工業株式会社が東京都新宿区西新宿に資本金1億円で設立された[7]。初代社長には、旧中島飛行機の常務で富士工業の社長を務めた北謙治 氏が就いた。1955年4月には5社を正式に吸収合併し、群馬太田・東京三鷹・埼玉大宮・栃木宇都宮の旧中島系の工場群を1つの事業会社の傘下へ統合した[8]。特定の創業者ではなく旧中島飛行機の技術者集団が、持株会社と5社合併という手順を踏んで再び1つの会社に集まった。
結果
スバル360と乗用車メーカーへの転換
1955年5月、通商産業省は乗用車の普及をねらって「国民車構想」を示し、排気量360cc級で4人乗り、最高速度100km/h以上といった超小型乗用車を業界に促した[9]。当時の業界誌は既存の乗用車への不満を強めており、「カメラも造船も世界水準に達したというのに、乗用車だけがまだ一本立ちできない」(ダイヤモンド 1955/3/21)[10]と、国産乗用車の立ち遅れを指摘した。国民車を待ち望む声が高まるなか、富士重工業は再結集後の主力事業を乗用車へ求めていった。
富士重工業は1954年から試作車のP-1(のちのスバル1500)を進めていたが量産を見送り、軽自動車の枠での参入へ方針を切り替えた。開発は航空機の設計者だった百瀬晋六 氏を主任とする20人ほどのチームに委ねられ、機体構造の軽量化の考え方を応用したモノコックボディと後部エンジン・後輪駆動を採り、1958年5月にスバル360として発売された[11]。富士重工業は群馬製作所の新設で増産を見込み、「1961年中には月産4000台に達しよう」(経済展望 1961/3/1)[12]と自ら見通しを示した。「てんとう虫」の愛称で長く生産が続いた。
機械の総合メーカーと株式上場
再結集した富士重工業は、旧中島飛行機の航空機技術を核に据えつつ、飛行機やスバル、スクーター、バス、鉄道車両、農業機械までを手掛ける多角経営を志向した。業界誌は富士重工業を「機械の総合メーカー」と呼び、「飛行機から始まって、スバル、スクーター、バス、車両、農業機械」(週刊野田経済 1963/12)[13]と幅の広さを伝えた。そのなかでスバルは発売から5年ほどで中心の製品へと育ち、民需への転換を主導する事業へ成長した。
スバル360の量産が軌道に乗るにつれ、富士重工業は乗用車を柱とする事業構成へ移り、公開企業として資金を調達する体制を整えた。1961年10月、再結集から8年で、東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第一部へ株式を上場した[14]。1917年の飛行機研究所に始まり敗戦で解体された旧中島飛行機の系譜は、5社の再結集と1つの上場会社への到達という道を経て、航空機メーカーから乗用車を主力とする総合機械メーカーへ姿を変えた。
- 有価証券報告書(沿革)
- ダイヤモンド 1955/3/21
- 経済展望 1961/3/1
- 週刊野田経済 1963/12