山一證券日本銀行法二十五条による特別融資の受け入れと、新旧勘定分離による再建
看板を残して債務を切り離せるか——史上初の日銀特融を四年余で完済するまで
- 概要
- 1965年5月28日夜、大蔵省と日本銀行は主力銀行首脳を日銀氷川寮に集め、田中角栄蔵相の決断で日本銀行法二十五条による無担保・無制限の特別融資を決めた。山一證券への融資は6月7日を皮切りに282億円に達した。同社は1966年に新旧勘定分離で債務と営業を切り分け、1969年9月30日に完済した。
- 背景
- 増資の急増による株式の供給超過で証券不況が深まり、1964年9月期の全国証券会社の最終損益は272億円の赤字となった。山一證券は同期に34億円余の欠損を計上し、純財産額70億円に対して運用預かりを477億円抱えていた。運用預かりは銀行預金に近い性格を持ち、解約は資金繰りを直撃した。
- 内容
- 日本興業銀行出身で日産化学工業社長だった日高輝氏を社長に迎え、銀行借入金の元利のタナ上げと支店網の縮減を進めた。再建策がまとまらないうちに新聞報道で取り付け騒ぎが起き、特融に至った。1966年7月に新会社を設立して9月に営業を譲渡し、旧会社「株式会社山一」が債務を負った。
- 含意
- 新会社の商号を変える案もあったが、日高氏は約80店の看板を替える費用を返済に回すべきだと考えて名称を残した。当初は完済に18年8か月を要する計算だったが、市況の回復と日本証券保有組合の解散に伴う還付金67億3000万円に支えられ、4年余で終えた。
純財産七十億円の会社が抱えた四百七十七億円
純財産額70億円の会社が、運用預かりを477億円抱えていた。大蔵省が純財産額の2倍程度に抑えるよう指導していた枠を、不況の深刻化のなかで7倍近くまで超えていたことになる。日高輝氏はこの実態を知らされないまま社長を引き受け、就任してから健全化委員会で現状を集めた。特融が信用機構全体への波及を理由に発動されたのは、山一一社の資金繰りが問題だったからではなく、運用預かりが銀行預金に近い性格を持ち、解約が他社と銀行へ連鎖する構造だったためとみることができる。
ただ、4年余での完済を経営努力だけの成果とみるのは正確でない。株式市場の回復と、日本証券保有組合の解散に伴う還付金67億3000万円——返済額の約3割——が支えている。そして看板を残すという判断は、対外折衝に長けた企画部門を経営の本流に据える結果も残した。同じ強みが制約に転じたのは、顧客から預かった資金の含み損を表に出せなくなったときであった。1965年に会社を救った日銀の特別融資は、32年後の破綻で初めて焦げ付いている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
増資の急増が招いた証券不況
1960年代前半の証券不況は、増資の急増による株式の供給超過から始まった。1961年の増資額は額面ベースで6738億円に達し、前年の3472億円から一気に膨らんだ。株価が下降に転じた1962年も6002億円の高水準が続き、1964年には5300億円台へ戻っている。東京証券取引所第一部の上場株式数は1961年に前年比140億株、43%近く増えた。1961年半ばには日銀が引き締めに転じており、市場が消化しきれる供給量ではなかった[1]。
業界は膨れあがった株式を投資信託や無理な営業で吸収しようとした。投資信託は資産の8割前後を株式に回し、組み入れ株式の時価総額は全上場株式の1割前後に達していた。それでも株価は下げ続け、東証修正平均は1961年7月18日の1829円74銭から1965年7月12日の1020円49銭まで、ピークを44%下回る水準へ落ちた。1964年1月に日本共同証券、1965年1月に日本証券保有組合が凍結機関として設けられたが、歯止めはかからなかった[2]。
運用預かりという資金調達
当時の証券会社経営を象徴していたのが運用預かりであった。証券会社が顧客から主として割引金融債を預かり料を払って借り入れ、それを担保に銀行から融資を受ける仕組みで、重要な資金調達手段になっていた。証券会社にとっても投資家にとっても銀行預金と同じような性格を持つため、解約はただちに資金繰りを圧迫する。しかも他社に波及し、銀行にも影響が及んで信用システムにひびが入る危険をはらんでいた[3]。
規模は自己資本を大きく超えていた。大蔵省は1963年7月の理財局長通達で運用預かりを純財産額の2倍程度に抑えるよう指導していたが、不況の深刻化で通達は事実上反故にされていた。1965年5月26日の衆議院予算委員会では、1964年9月期末の山一證券の純財産額70億円に対し、運用預かりが477億円に達していたことが明らかにされた。1965年3月末の運用預かりは555億円、借入金は長短合わせて725億円、借入有価証券は853億円であった[4][5]。
決断
外から来た社長と、漏れた再建策
1964年10月、日本興業銀行の中山素平氏が、日産化学工業の社長だった日高輝氏を赤坂の料亭に呼び、山一の支援を持ちかけた。日高氏は一度断ったが、富士銀行の岩佐凱実氏、三菱銀行の宇佐美洵氏、そして小池厚之助氏と同郷の先輩にあたる小林中氏から相次いで説得され、11月24日の株主総会で取締役に選任された。財務の実態は、就任前に誰からも知らされていない[6][7]。
日高氏は大森治氏を長とする健全化委員会を置き、銀行借入金の元利のタナ上げと支店網の縮減という二正面作戦を進めた。ところが再建策がまとまらないうちに、地方支店の閉鎖を経営難と結びつける記事が1965年5月21日に西日本新聞へ載り、時事通信も配信する。同日午後1時半、丸の内の銀行倶楽部で主力三行と共同の記者会見が開かれたが、投資家は預けた証券の引き出しと投資信託の解約に走り、取り付け騒ぎが実際に起きた[8][9]。
日本銀行法二十五条と、看板を残す選択
1965年5月28日の夜、大蔵省と日本銀行は主力銀行首脳を日銀氷川寮に集めて対策を協議し、田中角栄蔵相の決断で日本銀行法二十五条による無担保・無制限の特別融資が決まった。発表文は、政府および日銀は証券界の必要とする資金について関係主要銀行を通じて日銀が特別融資を行うと述べ、さしあたり山一證券については主要三行がこの融資を行うとした。日銀が直接貸すのではなく、主力三行を通す形が採られている[10][11]。
返済の枠組みには、戦後の金融機関再建整備で使われた新旧勘定分離が採られた。1966年7月7日に新会社を設立して9月1日に営業を譲り受け、旧会社に特融分と主力三行の債権を残し、新会社が挙げた利益で旧会社が債務を返す形とした。新会社は募集設立で120億円余の申し込みを集め、払込資本金90億円・株主85で発足している。商号を変えるべきだという意見もあったが、日高氏は約80店の看板を替える費用を返済に回すべきだと考え、名称を残した[12][13]。
結果
十八年八か月の計算を、四年余で終える
当初の計算では、完済に18年8か月を要した。実際には4年余で終わっている。株式市場が回復に転じたことに加え、日本証券保有組合の解散に伴う還付金67億3000万円が入り、これが返済額の約3割を占めた。大阪北浜に確保していた自社用地は野村證券へ売却して返済に充てている。1969年9月30日に特融を完済し、10月1日に新旧両社が合併した。実質4割の減資を伴うため、日高氏は反対する株主全員の了解を求めたという[14][15]。
当時この特融は「無担保」「無利息」と非難されたが、完済までに日歩1銭68から1銭88で総額61億7000万円余の利息が支払われ、担保も許される限り提供されていた。制度の側も動いた。証券業を大蔵省の厳格な監督下に置くという問題意識から改正証券取引法が1965年5月に成立し、証券業は1968年4月1日を期して登録制から免許制へ移った。弱い業者はふるいにかけられ消えていった[16][17]。
再建が残した経営の型
再建の要は、大蔵省・日本銀行・主力三行との折衝であった。それを担うのは企画部門であり、危機を切り抜けた経験が対外折衝に長けた系統を経営の本流に据えた。破綻直後、ある社員は、無責任に上空を飛ぶアホウドリのような大蔵省の顔色ばかりうかがい、企画畑の社長が続いたと書き残している。別の関係者も、山一は企画畑が代々社長になり大蔵のほうばかり向いた経営をしてきたと証言した[18][19]。
顧客から資金を預かる構図も残った。1980年代後半、山一證券は営業特金で利回りを約束し、相場が崩れると含み損を決算期の外へ、やがて帳簿の外へ移した。1991年に64法人と2個人への総額456億円の損失補填が発覚し、1997年11月には簿外債務2648億円を公表して自主廃業を決議する。1999年6月に破産宣告を受け、日本銀行の特別融資は初めて焦げ付いた。1965年に会社を救った制度が、二度目には毀損されている[20][21]。
- 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「証券-証券恐慌乗り越え土台固め」
- 私の履歴書 日高輝(日本経済新聞連載、1975年)
- 週刊東洋経済1997年11月22日号「追跡!「闇取引」の構造 山一証券の疑惑と危機に新事実」
- 週刊東洋経済1997年12月13日号「山一証券を潰した行平前会長のウソ」
- 週刊東洋経済1997年12月13日号「いま泣いている暇はない 内側から見た山一証券の崩壊」
- 週刊東洋経済1999年5月22日号「前代未聞 自己破産すら容易でない山一証券の最終処理」