純財産額70億円の会社が、運用預かりを477億円抱えていた。大蔵省が純財産額の2倍程度に抑えるよう指導していた枠を、不況の深刻化のなかで7倍近くまで超えていたことになる。日高輝氏はこの実態を知らされないまま社長を引き受け、就任してから健全化委員会で現状を集めた。特融が信用機構全体への波及を理由に発動されたのは、山一一社の資金繰りが問題だったからではなく、運用預かりが銀行預金に近い性格を持ち、解約が他社と銀行へ連鎖する構造だったためと思われる。
ただ、4年余での完済を経営努力だけの成果とみるのは正確でない。株式市場の回復と、日本証券保有組合の解散に伴う還付金67億3000万円が支えている。そして看板を残すという判断は、対外折衝に長けた企画部門を経営の本流に据える結果も残した。同じ強みが制約に転じたのは、顧客から預かった資金の含み損を開示できなくなったときであった。1965年に会社を救った日銀の特別融資は、32年後の破綻で初めて焦げ付いている。