岡三証券グループ の歴史

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創業 1923年
創業者 加藤清治
創業地 三重県津市
創業
1923年4月、加藤清治氏が三重県津市京口町にあった元宿屋・若林亭の八畳間で岡三商店を開業した。商号は創業を後援した岡副氏の岡と、加藤三兄弟の三を合わせたもので、社章には加藤家の蛇の目を用いた。1926年に山田市へ支店を出し、松阪・四日市と店を増やして、1941年には四日市の名阪商店を売買高で抜き三重県内で首位に立った。1944年、戦局の悪化にともなう企業整備で三重県下48カ所の証券営業所が6業者7店舗へ統合され、同年8月に宇治山田市の橋本商店と合併して資本金18万円の岡三証券株式会社となった。1948年7月に証券取引法に基づく証券業者として登録し、1949年10月に本店を大阪市東区北浜へ移して、同年12月に鈴木証券を吸収合併している。
決断
支店は建てず、他店の営業権を買って店と客を同時に取り込んだ。1956年10月に東京の吉村証券、1958年2月に京都の中屋証券、1959年6月に広島の興隆証券、1961年1月に神戸の三宝証券から営業権を譲り受け、設立時に18万円だった資本金は1961年4月に15億円へ達した。同年6月、創業者の急逝を受けて32歳の加藤精一氏が社長を承継して本部を東京へ移した。1965年10月には東京都中央区日本橋江戸橋に本社ビルを完成させ、本店を大阪から東京へ移している。1968年4月に証券業が登録制から免許制へ変わり財務基盤の弱い業者が姿を消したなかで免許を取得できたのは、譲受で店舗と顧客を先に確保していたためである。1973年6月の東証二部上場時は本支店40店・従業員1,571名で、収益の71.1%を受入手数料が占めた。
現況
稼ぎ方を、売買のつどの手数料から預り資産の残高へ移している。2026年3月末の預り資産は10.1兆円、口座数は110万口座、証券ビジネスの拠点は117カ所である。2024年9月には他社の銀行機能を利用した岡三BANKを始めて預金残高は700億円を超え、満期を迎えた定期預金の約92%は岡三証券内にとどまった。2024年10月にはUBSと提携した岡三UBSファンドラップの提供も始めている。2026年3月期は営業収益955億円・純営業収益918億円・経常利益228億円で、親会社株主に帰属する当期純利益213億円は過去最高となった。この対面の営業網は、経常損益が184億円の赤字だった1993年3月期に人員を削減せず新入社員研修を2週間から1年間へ延ばしたところから作り直されている。
競合
一つにしたオンライン専業を、4年後には他社へ譲渡した。1999年10月の手数料完全自由化のあと、岡三証券グループは2006年1月に岡三オンライン証券を設立し、対面の岡三証券とは別法人のまま16年並べた。2022年1月に岡三証券が岡三オンライン証券を吸収合併したが、翌2023年8月にはSBI証券が国内株式の売買手数料を恒久的に無料化する。価格で並ぶ余地が消えた岡三証券グループは、2022年11月に岡三アセットマネジメントを持分法適用関連会社へ移して運用を自前で抱えることをやめ、2026年3月には岡三オンライン証券事業の一部をSBI証券へ譲渡すると決めた。個人の口座を価格で集める役目を手放し、グループ証券・独立系金融アドバイザー・地域金融機関へ証券機能を供給する契約を残したことが、手数料の下げ合いから収益を外した。
岡三証券グループ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2026年3月期

創業ストーリー 三重県津市の宿屋の一間で始めた仲買と企業整備による法人化 (1923年〜)

後援者の名を頭に置いた岡三商店の開業

1923年4月、加藤清治氏は三重県津市京口町にあった元宿屋・若林亭の八畳間で岡三商店を開業した[1]。社名の由来は二つ[2]あり、創業を後援した岡副氏の恩を忘れないために頭へ岡を置き、加藤三兄弟が力を合わせて経営するようにと三を添えた[3]もので、社章には加藤家の紋章である蛇の目を用いた。八畳一間から始めた店は、開業から三年目の1926年に山田市へ支店を出し、その後も松阪、四日市と支店を増やした[4]。三重県を基盤としながら関西、中国、四国へ営業地盤を広げ、やがて東京へ進出する[5]道筋は、この時期の支店網から始まった。

    • [1]1923年4月に加藤清治が三重県津市で岡三商店を開業した
    • [2]社名は後援者の岡副氏に由来する「岡」と加藤三兄弟に由来する「三」の二つから成る
    • [3]社名は後援者の岡副氏と加藤三兄弟に由来し、社章は加藤家の蛇の目紋
    • [4]1926年に山田市へ支店を出し、松阪・四日市へ拡大した
    • [5]三重県を基盤に関西・中国・四国へ伸び、東京へ進出した

支店網を広げた岡三商店は、1941年に四日市の名阪商店を売買高で抜き、三重県内で首位に立った[6]。名阪商店は全国的にも名の通った店[7]で、三重県内の序列はこの年に入れ替わった。首位の座は長くは続かず、1944年には戦局の悪化にともなう企業整備が証券業へ及び、三重県下にあった48カ所の証券営業所は6業者7店舗へ統合された[8]。個人商店として20年余り営んできた岡三商店もこの整理の対象となり[9]、県内首位という地位は、店の数を積み増して得たものから、統合を経て残った7店舗の一つ[10]という位置へ変わった。

    • [6]1941年に四日市の名阪商店を売買高で抜き県内首位となった
    • [7]名阪商店は全国的にも知られた四日市の証券店だった
    • [8]1944年の企業整備で三重県下の証券営業所48カ所が6業者7店舗に統合された
    • [9]1944年の企業整備は個人商店だった岡三商店にも及んだ
    • [10]企業整備後の三重県内には6業者7店舗が残った
    • [1]1923年4月に加藤清治が三重県津市で岡三商店を開業した
    • [2]社名は後援者の岡副氏に由来する「岡」と加藤三兄弟に由来する「三」の二つから成る
    • [3]社名は後援者の岡副氏と加藤三兄弟に由来し、社章は加藤家の蛇の目紋
    • [4]1926年に山田市へ支店を出し、松阪・四日市へ拡大した
    • [5]三重県を基盤に関西・中国・四国へ伸び、東京へ進出した
    • [6]1941年に四日市の名阪商店を売買高で抜き県内首位となった
    • [7]名阪商店は全国的にも知られた四日市の証券店だった
    • [8]1944年の企業整備で三重県下の証券営業所48カ所が6業者7店舗に統合された
    • [9]1944年の企業整備は個人商店だった岡三商店にも及んだ
    • [10]企業整備後の三重県内には6業者7店舗が残った

企業整備による法人化と戦後の証券業者登録

1944年8月25日、岡三商店は宇治山田市の橋本商店と合併し、資本金18万円の岡三証券株式会社として法人組織に改めた[11]。合併相手の橋本商店は企業整備で統合された三重県内の証券店の一つ[12]であり、個人商店から株式会社への転換は、事業の拡大に合わせた選択ではなく、統合を迫られた側の帰結として起きた。設立時の本店は創業地の三重県津市京口町に置かれ[13]、法人となったあとも営業の中心は当分のあいだ三重県内にとどまった。経営を率いたのは創業者の加藤清治氏[14]で、法人化のあとも社長として指揮を執った。企業の歴史:明治百年は、設立から17年で資本金15億円へ到達した伸長を加藤清治氏の経営手腕によるものと記した[15]

    • [11]1944年8月に岡三商店と橋本商店が合併し岡三証券となった
    • [12]橋本商店は宇治山田市の証券店で、企業整備のなかで岡三商店と合併した
    • [14]創業者の加藤清治は法人化後も社長を務めた
    • [15]企業の歴史:明治百年は設立から17年での資本金15億円到達を加藤清治氏の経営手腕によるものと記した
  • 岡三証券グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [13]設立時の本店は三重県津市京口町

戦後の証券制度は取引所の再開と証券取引法の制定によって組み直され、岡三証券は1948年7月に証券取引法に基づく証券業者として登録し[16]て、新しい制度のもとで営業を続けた。翌1949年10月には本店を大阪市東区北浜へ移し、同年12月には大阪の鈴木証券を吸収合併した[17]。北浜は大阪の株式取引の中心地であり、本店の移転と地元業者の合併が同時に進んだ[18]ことで、創業から26年を経て営業の中心は三重県から関西へ移った。鈴木証券の吸収合併は他社の営業基盤を取り込んで店を増やす手法の最初の例にあたり、1950年代に4件続く営業権の譲受[19]へつながった。

  • 岡三証券グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1948年7月に証券取引法に基づく証券業者として登録した
    • [17]1949年10月に本店を大阪市東区北浜へ移転し、12月に鈴木証券を吸収合併した
    • [18]1949年10月の本店移転と同年12月の鈴木証券吸収合併は同じ年に並んで起きた
    • [19]1956年・1958年・1959年・1961年と4件の営業権譲受が続いた
    • [11]1944年8月に岡三商店と橋本商店が合併し岡三証券となった
    • [12]橋本商店は宇治山田市の証券店で、企業整備のなかで岡三商店と合併した
    • [14]創業者の加藤清治は法人化後も社長を務めた
    • [15]企業の歴史:明治百年は設立から17年での資本金15億円到達を加藤清治氏の経営手腕によるものと記した
  • 岡三証券グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [13]設立時の本店は三重県津市京口町
    • [16]1948年7月に証券取引法に基づく証券業者として登録した
    • [17]1949年10月に本店を大阪市東区北浜へ移転し、12月に鈴木証券を吸収合併した
    • [18]1949年10月の本店移転と同年12月の鈴木証券吸収合併は同じ年に並んで起きた
    • [19]1956年・1958年・1959年・1961年と4件の営業権譲受が続いた

他店の営業権を買い集めた関西・中国・四国への展開

1950年代の岡三証券は、支店の新設ではなく他店の営業権を譲り受ける方法で店舗網を広げた[20]。1956年10月に東京の吉村証券、1958年2月に京都の中屋証券、1959年6月に広島の興隆証券、1961年1月に神戸の三宝証券[21]から、それぞれ営業権を譲り受けた。買収の対象はいずれも地場の中小業者で、既存の顧客と店舗をそのまま引き継ぐ形をとり、証券以外の業務は1954年4月に設立した岡三興業[22]へ担わせた。三重県を基盤とした地方の店が、関西から中国、四国へ営業地盤を伸ばした[23]背景には、この譲受の積み重ねがある。

  • 岡三証券グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1950年代の店舗網拡大は他社からの営業権譲受によるものだった
    • [21]1956年から1961年にかけて吉村証券・中屋証券・興隆証券・三宝証券の営業権を譲り受けた
    • [22]1954年4月に岡三興業を設立した
    • [23]三重県を基盤に関西・中国・四国へ営業地盤を伸ばした

店舗網の拡大は資本金の増加をともない、1944年に18万円で設立した会社の資本金は1961年4月に15億円へ達し[24]、設立から17年での増加[25]は営業権の譲受と増資が並行して進んだことを示す。資本金15億円に達したこの1961年4月には機構改革を実施し、本部を東京に置いた[26]。この年の5月、加藤清治氏は証券業界への長年の功績により藍綬褒章を受けたが、翌6月に死去した[27]。創業者が経営から退いたのは、会社が三重県の一店から全国業者へ移る途中で、事業を継いだのは長男の加藤精一[28]で、当時32歳だった。

    • [24]資本金は1944年の18万円から1961年4月に15億円となった
    • [25]資本金15億円への到達は1944年の設立から17年での増加だった
    • [26]1961年4月に機構改革で本部を東京に置いた
    • [27]加藤清治は1961年5月に藍綬褒章を受け、6月に死去した
    • [28]32歳の加藤精一が事業を継いだ
  • 岡三証券グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [20]1950年代の店舗網拡大は他社からの営業権譲受によるものだった
    • [21]1956年から1961年にかけて吉村証券・中屋証券・興隆証券・三宝証券の営業権を譲り受けた
    • [22]1954年4月に岡三興業を設立した
    • [23]三重県を基盤に関西・中国・四国へ営業地盤を伸ばした
    • [24]資本金は1944年の18万円から1961年4月に15億円となった
    • [25]資本金15億円への到達は1944年の設立から17年での増加だった
    • [26]1961年4月に機構改革で本部を東京に置いた
    • [27]加藤清治は1961年5月に藍綬褒章を受け、6月に死去した
    • [28]32歳の加藤精一が事業を継いだ

32歳での社長交代と証券恐慌下の免許取得

1961年6月に社長へ就いた加藤精一氏は、1954年に入社して同年11月に取締役、1956年11月に常務、1958年11月に専務と昇任していた[29]。社長就任後は本社ビルの建設と合理化を経営の柱に置いた[30]が、就任の時期は株式相場の転換点と重なった。東証修正平均は1961年7月の1829円をピークに下げ続け、1965年7月には1020円まで落ちた[31]。増資の急増による株式の供給超過が市場を機能不全に陥らせ[32]て証券会社の経営を圧迫し、全国の証券会社の最終損益は1964年9月期に272億円、1965年9月期にも117億円の赤字となった[33]

山一証券への日銀特融に至った証券恐慌[34]は証券業の制度そのものを変え、大蔵省は証券取引法を改正して、1968年4月1日から証券業をそれまでの登録制から免許制へ移した[35]。免許は委託売買、自己売買、引受などの区分ごとに与えられ[36]、体力の乏しい業者はふるいにかけられて姿を消した。岡三証券は同月に改正証券取引法による免許を取得した[37]が、業者の整理を通過する条件になったのは、1950年代に営業権を買い集めて店舗と顧客を確保していたことだった。この間、1964年10月には日本投信委託を設立し[38]、投資信託の運用へ業務を広げていた。

    • [34]山一証券への日銀特融に象徴される証券恐慌が免許制導入という制度改革をもたらした
    • [35]1968年4月1日に証券業が登録制から免許制へ移行した
    • [36]免許は委託売買・自己売買・引受など4種類とし個別に付与され、弱い業者は淘汰された
  • 岡三証券グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [37]岡三証券は1968年4月に改正証券取引法による免許を取得した
    • [38]1964年10月に日本投信委託を設立した
  • 岡三証券グループ 有価証券報告書【役員の状況】
    • [29]加藤精一は1954年入社、同年取締役、1956年常務、1958年専務を経て1961年6月に社長へ就任した
    • [30]加藤精一氏は新本社ビルの建設と合理化の促進を経営の軸に置いた
    • [31]東証修正平均は1961年7月の1829円から1965年7月に1020円まで下落した
    • [32]増資の急増による株式の供給超過が証券市場を機能不全に陥らせた
    • [33]全国証券会社の最終損益は1964年9月期に272億円、1965年9月期に117億円の赤字となった
    • [34]山一証券への日銀特融に象徴される証券恐慌が免許制導入という制度改革をもたらした
    • [35]1968年4月1日に証券業が登録制から免許制へ移行した
    • [36]免許は委託売買・自己売買・引受など4種類とし個別に付与され、弱い業者は淘汰された
  • 岡三証券グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [37]岡三証券は1968年4月に改正証券取引法による免許を取得した
    • [38]1964年10月に日本投信委託を設立した

東京兜町への本店移転と東証二部への上場

1965年10月、岡三証券は東京都中央区日本橋江戸橋に本社ビルを完成させ、本店を大阪から東京へ移した[39]。証券恐慌のさなかに本拠を兜町の一角へ移した[40]ことで、三重県から大阪を経た本店の移動は16年で二度目となった。本部機能も東京に置き[41]、全国の店舗を東京から統括する体制に改め、1968年の免許取得を挟んで電子計算機とテレタイプによる通信網の整備も進めた[42]。地方の仲買店から出発した会社は、この時点で東京に本社を置く全国業者の一つになって[43]おり、1968年時点の資本金は15億円、従業員は1,250名[44]、業容は総合証券業だった。

  • 岡三証券グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [39]1965年10月に本店を東京都中央区日本橋江戸橋へ移転した
    • [40]1965年10月に完成した本社ビルは東京兜町の一角にあった
    • [41]機構改革により本部を東京に置いた
    • [42]本部を東京に置き、電子計算機とテレタイプの通信網を整備した
    • [43]1968年時点の本社は東京都中央区日本橋江戸橋にあり、事業は総合証券業だった
    • [44]1968年時点の資本金は15億円、従業員は1,250名だった

1973年6月1日、岡三証券は東京・大阪両証券取引所の市場第二部へ株式を上場し[45]、銘柄コードには8609が割り当てられた[46]。上場時点の店舗は本支店40店で、内訳は東京都9店、三重県8店、大阪府6店、ほか12府県に17店[47]だった。従業員は1,571名、収益の構成は受入手数料が71.1%、金融収益が17.4%、有価証券売買益が11.5%[48]である。個人からの委託手数料に収益の7割を依存する構造[49]は、その後の相場変動に業績が連動する要因として残った。1975年11月には東京・大阪の市場第一部へ指定され、1978年8月に名古屋証券取引所市場第一部へも上場した[50]

    • [45]1973年6月1日に東京・大阪両取引所の市場第二部へ上場した
    • [46]上場時に割り当てられた銘柄コードは8609だった
    • [47]上場時の店舗は40店(東京9・三重8・大阪6・ほか12府県17)、従業員1,571名
    • [48]収益構成は受入手数料71.1%、金融収益17.4%、有価証券売買益11.5%
    • [49]上場時の収益は受入手数料が71.1%と7割を超えた
  • 岡三証券グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [50]1975年11月に東京・大阪の市場第一部へ指定、1978年8月に名証一部へ上場した
  • 岡三証券グループ 有価証券報告書【沿革】
    • [39]1965年10月に本店を東京都中央区日本橋江戸橋へ移転した
    • [50]1975年11月に東京・大阪の市場第一部へ指定、1978年8月に名証一部へ上場した
    • [40]1965年10月に完成した本社ビルは東京兜町の一角にあった
    • [41]機構改革により本部を東京に置いた
    • [42]本部を東京に置き、電子計算機とテレタイプの通信網を整備した
    • [43]1968年時点の本社は東京都中央区日本橋江戸橋にあり、事業は総合証券業だった
    • [44]1968年時点の資本金は15億円、従業員は1,250名だった
    • [45]1973年6月1日に東京・大阪両取引所の市場第二部へ上場した
    • [46]上場時に割り当てられた銘柄コードは8609だった
    • [47]上場時の店舗は40店(東京9・三重8・大阪6・ほか12府県17)、従業員1,571名
    • [48]収益構成は受入手数料71.1%、金融収益17.4%、有価証券売買益11.5%
    • [49]上場時の収益は受入手数料が71.1%と7割を超えた

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岡三証券グループの沿革1944〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1923〜1949年三重県津市の宿屋の一間で始めた仲買と企業整備による法人化岡三商店を改組し岡三証券を設立。本店は三重県津市★★★
証券取引法に基づく証券業者として登録★★
本店を大阪市東区北浜に移転★★
大阪の鈴木証券を吸収合併★★
1949〜1973年営業権の譲受で広げた店舗網と免許制のもとでの東京進出岡三興業を設立
東京の吉村証券から営業権を譲受★★
京都の中屋証券から営業権を譲受★★
広島の興隆証券から営業権を譲受★★
神戸の三宝証券から営業権を譲受★★
加藤精一創業者の加藤清治氏の死去にともない加藤精一氏が社長に就任★★
加藤精一日本投信委託を設立★★
加藤精一創業者の急逝を受けた32歳での社長承継と本部の東京移転、投資信託部門の分離と証券業免許の取得

1961年、本部を東京へ移した直後に創業者の加藤清治社長が死去し、長男の加藤精一氏が32歳で社長に就いた。精一氏は投資信託部門の分離と東京・兜町の本社ビル建設を近代化の柱に掲げ、1968年4月の証券業免許の取得までに、三重の地場業者を全国業者へ組み替えた。

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★★★
加藤精一改正証券取引法による証券業の免許を取得★★
加藤精一東京・大阪両証券取引所市場第二部に上場
1973〜2003年準大手として迎えた不祥事とリテール特化への絞り込み加藤精一東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定
加藤精一香港に岡三国際(亜洲)有限公司を設立
加藤精一名古屋証券取引所市場第一部に上場
加藤精一岡三インフォメーション・サービスを設立
加藤精一調査部・投資顧問室を分離し岡三経済研究所を設立★★
加藤精一岡三投資顧問を設立
加藤精一岡三インフォメーション・サービスを岡三情報システムに商号変更
加藤精一新入社員研修の2週間から1年間への延長と、支店への「新入営業課」の設置

1993年、岡三証券が新入社員研修を従来の2週間から1年間へ延ばした経営判断。金融・証券業界で最長にあたり、同年4月入社の総合職71人を対象に、前半の半年を知識研修、後半の半年を支店での営業研修に充てた。人事研修部門を担当する加藤哲夫専務が経営会議の反対を押し切って実施した。

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★★★
加藤精一岡三ビジネスサービスを設立
加藤哲夫改正証券取引法に基づく総合証券会社として登録★★
加藤哲夫日恵証券と東京連合証券が合併し三晃証券に商号変更
加藤哲夫会社分割で証券業を承継させ持株会社の岡三ホールディングスに移行★★★
2003〜2026年持株会社への移行と証券プラットフォームへの組み替え加藤哲夫岡三オンライン証券を設立★★
加藤哲夫岡三証券が岡三経済研究所を吸収合併
加藤哲夫岡三証券グループに商号変更★★
加藤哲夫六二証券と大石証券が合併し三縁証券に商号変更
加藤哲夫室町本社を開設し本社機能を日本橋室町に移転
加藤哲夫丸福証券が新和証券を子会社化
加藤哲夫丸福証券が新和証券を吸収合併
新芝宏之丸福証券が岡三にいがた証券に商号変更
新芝宏之岡三キャピタルパートナーズを設立
新芝宏之証券ジャパンを子会社化★★
新芝宏之ネット専業・岡三オンライン証券の設立と、16年後の岡三証券への吸収合併

2006年1月にネット専業の岡三オンライン証券を別法人として設立し、2022年1月1日に岡三証券が同社を吸収合併して社内の『岡三オンライン証券カンパニー』とした経営判断。1999年10月の委託手数料完全自由化で対面とオンラインの収益構造が分かれたことに対する、準大手証券としての二段構えの答えであった。

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★★★
新芝宏之東京証券取引所プライム市場・名古屋証券取引所プレミア市場に移行
新芝宏之岡三アセットマネジメントを持分法適用関連会社に異動★★
新芝宏之本店を東京都中央区日本橋室町に移転
新芝宏之銀行サービス「岡三BANK」の提供開始★★
新芝宏之「岡三UBSファンドラップ」の提供開始★★
新芝宏之三晃証券ウェルスマネジメントが営業開始
新芝宏之岡三キャピタルパートナーズの株式を譲渡
新芝宏之岡三オンライン証券事業の一部のSBI証券への譲渡を決定★★
出典・参考

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