1923年4月、加藤清治氏は三重県津市京口町にあった元宿屋・若林亭の八畳間で岡三商店を開業した[1]。社名の由来は二つ[2]あり、創業を後援した岡副氏の恩を忘れないために頭へ岡を置き、加藤三兄弟が力を合わせて経営するようにと三を添えた[3]もので、社章には加藤家の紋章である蛇の目を用いた。八畳一間から始めた店は、開業から三年目の1926年に山田市へ支店を出し、その後も松阪、四日市と支店を増やした[4]。三重県を基盤としながら関西、中国、四国へ営業地盤を広げ、やがて東京へ進出する[5]道筋は、この時期の支店網から始まった。
支店網を広げた岡三商店は、1941年に四日市の名阪商店を売買高で抜き、三重県内で首位に立った[6]。名阪商店は全国的にも名の通った店[7]で、三重県内の序列はこの年に入れ替わった。首位の座は長くは続かず、1944年には戦局の悪化にともなう企業整備が証券業へ及び、三重県下にあった48カ所の証券営業所は6業者7店舗へ統合された[8]。個人商店として20年余り営んできた岡三商店もこの整理の対象となり[9]、県内首位という地位は、店の数を積み増して得たものから、統合を経て残った7店舗の一つ[10]という位置へ変わった。
1944年8月25日、岡三商店は宇治山田市の橋本商店と合併し、資本金18万円の岡三証券株式会社として法人組織に改めた[11]。合併相手の橋本商店は企業整備で統合された三重県内の証券店の一つ[12]であり、個人商店から株式会社への転換は、事業の拡大に合わせた選択ではなく、統合を迫られた側の帰結として起きた。設立時の本店は創業地の三重県津市京口町に置かれ[13]、法人となったあとも営業の中心は当分のあいだ三重県内にとどまった。経営を率いたのは創業者の加藤清治氏[14]で、法人化のあとも社長として指揮を執った。企業の歴史:明治百年は、設立から17年で資本金15億円へ到達した伸長を加藤清治氏の経営手腕によるものと記した[15]。
戦後の証券制度は取引所の再開と証券取引法の制定によって組み直され、岡三証券は1948年7月に証券取引法に基づく証券業者として登録し[16]て、新しい制度のもとで営業を続けた。翌1949年10月には本店を大阪市東区北浜へ移し、同年12月には大阪の鈴木証券を吸収合併した[17]。北浜は大阪の株式取引の中心地であり、本店の移転と地元業者の合併が同時に進んだ[18]ことで、創業から26年を経て営業の中心は三重県から関西へ移った。鈴木証券の吸収合併は他社の営業基盤を取り込んで店を増やす手法の最初の例にあたり、1950年代に4件続く営業権の譲受[19]へつながった。
1950年代の岡三証券は、支店の新設ではなく他店の営業権を譲り受ける方法で店舗網を広げた[20]。1956年10月に東京の吉村証券、1958年2月に京都の中屋証券、1959年6月に広島の興隆証券、1961年1月に神戸の三宝証券[21]から、それぞれ営業権を譲り受けた。買収の対象はいずれも地場の中小業者で、既存の顧客と店舗をそのまま引き継ぐ形をとり、証券以外の業務は1954年4月に設立した岡三興業[22]へ担わせた。三重県を基盤とした地方の店が、関西から中国、四国へ営業地盤を伸ばした[23]背景には、この譲受の積み重ねがある。
店舗網の拡大は資本金の増加をともない、1944年に18万円で設立した会社の資本金は1961年4月に15億円へ達し[24]、設立から17年での増加[25]は営業権の譲受と増資が並行して進んだことを示す。資本金15億円に達したこの1961年4月には機構改革を実施し、本部を東京に置いた[26]。この年の5月、加藤清治氏は証券業界への長年の功績により藍綬褒章を受けたが、翌6月に死去した[27]。創業者が経営から退いたのは、会社が三重県の一店から全国業者へ移る途中で、事業を継いだのは長男の加藤精一氏[28]で、当時32歳だった。
1961年6月に社長へ就いた加藤精一氏は、1954年に入社して同年11月に取締役、1956年11月に常務、1958年11月に専務と昇任していた[29]。社長就任後は本社ビルの建設と合理化を経営の柱に置いた[30]が、就任の時期は株式相場の転換点と重なった。東証修正平均は1961年7月の1829円をピークに下げ続け、1965年7月には1020円まで落ちた[31]。増資の急増による株式の供給超過が市場を機能不全に陥らせ[32]て証券会社の経営を圧迫し、全国の証券会社の最終損益は1964年9月期に272億円、1965年9月期にも117億円の赤字となった[33]。
山一証券への日銀特融に至った証券恐慌[34]は証券業の制度そのものを変え、大蔵省は証券取引法を改正して、1968年4月1日から証券業をそれまでの登録制から免許制へ移した[35]。免許は委託売買、自己売買、引受などの区分ごとに与えられ[36]、体力の乏しい業者はふるいにかけられて姿を消した。岡三証券は同月に改正証券取引法による免許を取得した[37]が、業者の整理を通過する条件になったのは、1950年代に営業権を買い集めて店舗と顧客を確保していたことだった。この間、1964年10月には日本投信委託を設立し[38]、投資信託の運用へ業務を広げていた。
1965年10月、岡三証券は東京都中央区日本橋江戸橋に本社ビルを完成させ、本店を大阪から東京へ移した[39]。証券恐慌のさなかに本拠を兜町の一角へ移した[40]ことで、三重県から大阪を経た本店の移動は16年で二度目となった。本部機能も東京に置き[41]、全国の店舗を東京から統括する体制に改め、1968年の免許取得を挟んで電子計算機とテレタイプによる通信網の整備も進めた[42]。地方の仲買店から出発した会社は、この時点で東京に本社を置く全国業者の一つになって[43]おり、1968年時点の資本金は15億円、従業員は1,250名[44]、業容は総合証券業だった。
1973年6月1日、岡三証券は東京・大阪両証券取引所の市場第二部へ株式を上場し[45]、銘柄コードには8609が割り当てられた[46]。上場時点の店舗は本支店40店で、内訳は東京都9店、三重県8店、大阪府6店、ほか12府県に17店[47]だった。従業員は1,571名、収益の構成は受入手数料が71.1%、金融収益が17.4%、有価証券売買益が11.5%[48]である。個人からの委託手数料に収益の7割を依存する構造[49]は、その後の相場変動に業績が連動する要因として残った。1975年11月には東京・大阪の市場第一部へ指定され、1978年8月に名古屋証券取引所市場第一部へも上場した[50]。
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|---|---|---|---|---|
| 1923〜1949年三重県津市の宿屋の一間で始めた仲買と企業整備による法人化 | 岡三商店を改組し岡三証券を設立。本店は三重県津市 | ★★★ | ||
| 証券取引法に基づく証券業者として登録 | ★★ | |||
| 本店を大阪市東区北浜に移転 | ★★ | |||
| 大阪の鈴木証券を吸収合併 | ★★ | |||
| 1949〜1973年営業権の譲受で広げた店舗網と免許制のもとでの東京進出 | 岡三興業を設立 | ★ | ||
| 東京の吉村証券から営業権を譲受 | ★★ | |||
| 京都の中屋証券から営業権を譲受 | ★★ | |||
| 広島の興隆証券から営業権を譲受 | ★★ | |||
| 神戸の三宝証券から営業権を譲受 | ★★ | |||
| 加藤精一 | 創業者の加藤清治氏の死去にともない加藤精一氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 加藤精一 | 日本投信委託を設立 | ★★ | ||
| 加藤精一 | 創業者の急逝を受けた32歳での社長承継と本部の東京移転、投資信託部門の分離と証券業免許の取得 1961年、本部を東京へ移した直後に創業者の加藤清治社長が死去し、長男の加藤精一氏が32歳で社長に就いた。精一氏は投資信託部門の分離と東京・兜町の本社ビル建設を近代化の柱に掲げ、1968年4月の証券業免許の取得までに、三重の地場業者を全国業者へ組み替えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 加藤精一 | 改正証券取引法による証券業の免許を取得 | ★★ | ||
| 加藤精一 | 東京・大阪両証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 1973〜2003年準大手として迎えた不祥事とリテール特化への絞り込み | 加藤精一 | 東京・大阪両証券取引所市場第一部に指定 | ★ | |
| 加藤精一 | 香港に岡三国際(亜洲)有限公司を設立 | ★ | ||
| 加藤精一 | 名古屋証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 加藤精一 | 岡三インフォメーション・サービスを設立 | ★ | ||
| 加藤精一 | 調査部・投資顧問室を分離し岡三経済研究所を設立 | ★★ | ||
| 加藤精一 | 岡三投資顧問を設立 | ★ | ||
| 加藤精一 | 岡三インフォメーション・サービスを岡三情報システムに商号変更 | ★ | ||
| 加藤精一 | 新入社員研修の2週間から1年間への延長と、支店への「新入営業課」の設置 1993年、岡三証券が新入社員研修を従来の2週間から1年間へ延ばした経営判断。金融・証券業界で最長にあたり、同年4月入社の総合職71人を対象に、前半の半年を知識研修、後半の半年を支店での営業研修に充てた。人事研修部門を担当する加藤哲夫専務が経営会議の反対を押し切って実施した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 加藤精一 | 岡三ビジネスサービスを設立 | ★ | ||
| 加藤哲夫 | 改正証券取引法に基づく総合証券会社として登録 | ★★ | ||
| 加藤哲夫 | 日恵証券と東京連合証券が合併し三晃証券に商号変更 | ★ | ||
| 加藤哲夫 | 会社分割で証券業を承継させ持株会社の岡三ホールディングスに移行 | ★★★ | ||
| 2003〜2026年持株会社への移行と証券プラットフォームへの組み替え | 加藤哲夫 | 岡三オンライン証券を設立 | ★★ | |
| 加藤哲夫 | 岡三証券が岡三経済研究所を吸収合併 | ★ | ||
| 加藤哲夫 | 岡三証券グループに商号変更 | ★★ | ||
| 加藤哲夫 | 六二証券と大石証券が合併し三縁証券に商号変更 | ★ | ||
| 加藤哲夫 | 室町本社を開設し本社機能を日本橋室町に移転 | ★ | ||
| 加藤哲夫 | 丸福証券が新和証券を子会社化 | ★ | ||
| 加藤哲夫 | 丸福証券が新和証券を吸収合併 | ★ | ||
| 新芝宏之 | 丸福証券が岡三にいがた証券に商号変更 | ★ | ||
| 新芝宏之 | 岡三キャピタルパートナーズを設立 | ★ | ||
| 新芝宏之 | 証券ジャパンを子会社化 | ★★ | ||
| 新芝宏之 | ネット専業・岡三オンライン証券の設立と、16年後の岡三証券への吸収合併 2006年1月にネット専業の岡三オンライン証券を別法人として設立し、2022年1月1日に岡三証券が同社を吸収合併して社内の『岡三オンライン証券カンパニー』とした経営判断。1999年10月の委託手数料完全自由化で対面とオンラインの収益構造が分かれたことに対する、準大手証券としての二段構えの答えであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 新芝宏之 | 東京証券取引所プライム市場・名古屋証券取引所プレミア市場に移行 | ★ | ||
| 新芝宏之 | 岡三アセットマネジメントを持分法適用関連会社に異動 | ★★ | ||
| 新芝宏之 | 本店を東京都中央区日本橋室町に移転 | ★ | ||
| 新芝宏之 | 銀行サービス「岡三BANK」の提供開始 | ★★ | ||
| 新芝宏之 | 「岡三UBSファンドラップ」の提供開始 | ★★ | ||
| 新芝宏之 | 三晃証券ウェルスマネジメントが営業開始 | ★ | ||
| 新芝宏之 | 岡三キャピタルパートナーズの株式を譲渡 | ★ | ||
| 新芝宏之 | 岡三オンライン証券事業の一部のSBI証券への譲渡を決定 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(岡三証券グループ)