岡三証券グループ創業者の急逝を受けた32歳での社長承継と本部の東京移転、投資信託部門の分離と証券業免許の取得

三重の地場業者にとどまるか、全国業者となるか——証券不況をはさんだ7年の選択

時期 1961年6月
意思決定者(推定) 加藤精一 社長
論点 経営承継と全国展開
概要
1961年、本部を東京へ移した直後に創業者の加藤清治社長が死去し、長男の加藤精一氏が32歳で社長に就いた。精一氏は投資信託部門の分離と東京・兜町の本社ビル建設を近代化の柱に掲げ、1968年4月の証券業免許の取得までに、三重の地場業者を全国業者へ組み替えた。
背景
1923年に津市の八畳間で開業した岡三商店は、戦後に本店を大阪北浜へ移し、営業権の買い集めで関西から中国・四国へ広がった。一方で株価は1961年7月から下げ続け、全国の証券会社は1964年9月期に272億円の赤字を計上していた。
内容
1961年4月に資本金を15億円として本部を東京に置き、同年6月に加藤精一氏が承継。1964年10月に日本投信委託株式会社を設立して投資信託部門を分離し、1965年10月に兜町の本社ビルを完成、1968年4月に改正証券取引法の免許を取得した。
含意
登録制から免許制への切り替えを残る側で通過し、1973年6月に東京・大阪両取引所の市場第二部へ上場した。ただし上場時点の収益は71.1%を受入手数料が占め、売買高の増減がそのまま収益に響く構造は残った。
筆者の見解

外から替えるほかなかった近代化

加藤精一氏が1961年6月に引き受けたのは、東京へ移したばかりの本部と、その前月に頂点を越えた相場であった。資本金は設立時の18万円から15億円になっていたが、増資と本部移転で全国業者の体裁が整っただけで、営業の中身は父である清治社長の代のまま残っていた。32歳の二代目が近代化として掲げたものが、投資信託部門の分離と本社ビルの建設という外から見える二つに絞られていたのは、そこからしか手が付けられなかったからだとみられる。

この7年で身につけたものが、そのまま強さになったとは言いにくい。1973年の上場時点でも収益の71.1%は受入手数料であり、株式の売買高が落ちれば収益がそのまま細る構造は、証券不況を通り抜けたあとも変わっていなかった。1968年の免許取得にしても、経営基盤の弱い業者が退くなかで残ったという意味では守りの結果である。それでも、三重の商店が制度の入れ替えで消える側ではなく残る側に回れたこと自体が、この7年の成果であったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

津の八畳間から関西・中国・四国へ

岡三証券の前身である岡三商店は、1923年4月、三重県津市京口町の、もと宿屋だった若林亭の八畳間で開業した。頭の岡は創業を後援した岡副氏への恩を忘れないという意味であり、下の三は加藤家の三兄弟が協力して営むという願いを表していた。支店は開業から三年目の山田市を皮切りに松阪、四日市と増え、1941年には全国的にも知られた名阪商店を追い越して、県内の売買高で首位となった[1][2]

1944年、戦局の悪化に伴う企業整備が証券業へ及び、三重県下の営業所は48カ所から6業者7店舗まで絞り込まれた。岡三商店は宇治山田市の橋本商店との合併によって、資本金18万円の岡三証券という法人へ姿を変えている。戦後は1948年7月に証券業者の登録を受け、翌1949年10月には本店を大阪市東区北浜へ移して、同年12月に鈴木証券を吸収合併した。以後は吉村証券、中屋証券、興隆証券、三宝証券と営業権を買い集め、東京・京都・広島・神戸へ店を置いた[3][4]

増資の急増と戦後最大の証券不況

拡大の途中で、業界の外形が崩れた。1961年の増資額は額面金額ベースで6,738億円に達し、前年の3,472億円から急増した。東京証券取引所市場第一部の上場株式数も同年に前年比43%近く増え、日銀が同年半ばに引き締めへ転じたことと重なって、株式の需給が崩れた。東証修正平均は1961年7月18日の1,829.74円を頂点にほぼ一貫して下げ、1965年7月12日には1,020.49円と、頂点を44%下回る水準まで落ちた[5]

証券会社の損益も同じ方向へ振れた。全国証券会社の最終損益は1964年9月期が272億円の赤字、1965年9月期も117億円の赤字であった。「法人の山一」と呼ばれた山一証券には1965年6月7日から日銀特融が入り、合計282億円に達した。大蔵省は証券業を厳格な監督下に置く必要があると判断し、アメリカ流の登録制に代えて免許制の導入を進めた。地場から出てきたばかりの中堅業者にとって、この制度改正は残れるかどうかを分ける条件であった[6]

決断

本部を東京へ移した二カ月後の急逝

1961年4月、岡三証券は資本金を15億円とし、機構を改めて本部を東京に置いた。1944年の設立時の資本金18万円から17年での増資であり、三重を基盤とする業者が全国業者として振る舞うための資本と司令塔を同時に整えた措置であった。同年5月、業界に対する多年の功績により加藤清治社長が藍綬褒章を受章した。ところが翌6月、清治社長は死去する。本部を東京へ移した二カ月後に、その移転を決めた当人が退場した[7]

後を継いだのは長男の加藤精一氏であった。1929年1月生まれ、1954年4月に入社して同年11月に取締役、1956年11月に常務、1958年11月に専務と進み、1961年6月に32歳で社長に就いた。役員としての経験は7年あったものの、相場が下げに入った時期に、資本金15億円の会社と移したばかりの東京本部をそのまま引き受けた。精一氏は新本社ビルの建設と合理化の促進を掲げ、証券経営の近代化に取り組んだ[8][9]

投資信託部門の分離と兜町の本社ビル

近代化として掲げたものは二つに分かれる。一つは商品と組織の切り分けで、岡三証券は投資信託部門を本体から分離し、1964年10月に日本投信委託株式会社を設立した。株式の売買が細る時期にあっても、この分野の伸びは続いた。1962年には東証の出来高で4社に次ぐ第5位に入り、オープン型の投資信託を50億円追加設定している。委託手数料に頼るだけではない収益源を、別会社として抱えたことになる[10][11]

もう一つは本社ビルであった。1965年10月、東京・兜町の一角に念願の本社ビルが完成し、本店は三重でも大阪でもなく東京都中央区日本橋江戸橋へ移った。株価が底を打った年に、自前の建物へ資金を投じている。津の八畳間で始まり大阪北浜を経てきた会社が、取引所の隣に住所を構えたことで、地場業者としての立ち位置を手放した。承継から4年を経て、精一氏の掲げた二つの看板がともに形になった[12][13]

結果

免許制の通過と市場第二部への上場

1968年4月1日、証券業は登録制から免許制へ変わった。改正証券取引法は委託売買、自己売買、引受などに免許を4種類へ分けて個別に付与する仕組みを採り、経営基盤の弱い業者は市場から退いた。岡三証券は同日付で免許を取得している。取得の3日後にあたる4月4日が創業45周年で、三重の商店として始まった会社が、制度の入れ替えを越えて全国業者としての資格を得た[14][15]

1973年6月1日、岡三証券は東京・大阪両証券取引所の市場第二部に株式を上場した。店舗は本支店を合わせて40店あり、東京都に9店、三重県に8店、大阪府に6店、ほかの12府県に17店を置いていた。従業員は1,571名。収益の内訳は受入手数料が71.1%を占め、金融収益が17.4%、有価証券売買益が11.5%と続く。津の八畳間から数えて50年目に、売買の仲介で稼ぐ全国業者としての姿が数字に表れた[16][17]

出典・参考
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)「岡三証券」
  • 証券 1973年6月号「新規上場会社紹介 岡三証券株式会社」
  • 日本産業史 第3巻 金融・商業(日本経済新聞社、1994年)「証券-証券恐慌乗り越え土台固め」
  • 株式会社岡三証券グループ 有価証券報告書【沿革】【役員の状況】

免責事項およびポリシー