加藤精一氏が1961年6月に引き受けたのは、東京へ移したばかりの本部と、その前月に頂点を越えた相場であった。資本金は設立時の18万円から15億円になっていたが、増資と本部移転で全国業者の体裁が整っただけで、営業の中身は父である清治社長の代のまま残っていた。32歳の二代目が近代化として掲げたものが、投資信託部門の分離と本社ビルの建設という外から見える二つに絞られていたのは、そこからしか手が付けられなかったからだと推察される。
この7年で身につけたものが、そのまま強さになったとは言いにくい。1973年の上場時点でも収益の71.1%は受入手数料であり、株式の売買高が落ちれば収益がそのまま減少する構造は、証券不況を通り抜けたあとも変わっていなかった。1968年の免許取得にしても、経営基盤の弱い業者が退くなかで残ったという意味では守りの結果である。それでも、三重の商店が制度の入れ替えで消える側ではなく残る側に回れたこと自体が、この7年の成果であったといえる。