この判断が解こうとしたのは多角化の管理手法ではなく、承継に伴う情報の非対称であったと思われる。父が河島博社長を解任して自ら埋め、3年後に譲った席に座った新社長にとって、半導体から家具まで広がった事業群は、業績も課題も社長の手元に集まらない対象だった。事業を細かく割り、一つずつ業績責任単位として社長へ結び直す設計は、その非対称を埋める手続きとして理にかなっている。事業部制は現場へ権限を下ろす分権の形式をとるが、ヤマハでは統括の階層を挟まず報告線を社長一人へ引いたため、実質は集権として働いた。1987年に単一商品のために事業部を1つ立てた徹底ぶりが、その性格を表している。
もっとも、報告線を集めた先の社長に、それを結び直す時間は残らなかった。各事業部長の管理で手一杯になれば、事業部間を提携させる仕事は誰の業績責任にも属さなくなる。音源技術を持つ電子機器事業部とAV機器事業部が同じ会社にありながら連携できなかったのは、担当者の能力ではなく指揮系統の設計に起因するのだろう。横串の統括を求める声を退けた川上浩社長の判断は、事業部の自律を前提とする分権論としては筋が通る。ただしその前提は各事業部が単独で開発と販売を賄える規模を持つことであり、10に割られたヤマハは満たしていなかった。1992年3月、指揮系統は事業部を統括する本部制へ改められた。