山葉寅楠氏の日本楽器製造設立(1897年・ヤマハの決断)

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論点 個人経営のまま増産に応じるか
増産に応じるための、個人経営から資本金10万円の株式会社への改組

何をなぜ決めたか:増産に応じるための、個人経営から資本金10万円の株式会社への改組

概要

1897年10月、山葉寅楠氏は日本楽器製造株式会社を設立し、初代社長に就任した。資本金は10万円で、本社を浜松に置き、オルガンの製造から事業を始めている。設立に先立つ9月28日に創立総会を開き、山葉寅楠氏が個人で営んでいたオルガン製造を新会社が承継した。

この決断の中身は、事業の形態を個人経営から株式会社へ改めたことにある。1895年に日清戦争が終わると、景気の回復と洋楽の普及でオルガンの注文が急増し、従来の規模の工場では生産が追いつかなくなった。そこで山葉寅楠氏は改めて外部から資本を集め、会社の資金で工場を拡張する方針をとった。

背景

山葉寅楠氏は楽器職人ではなく、器械の修理工だった。1871年に長崎で英国人技師から時計を学び、のちに大阪の医療器械店で修業して、1883年に浜松の病院へ修理工として赴いた。1887年、浜松小学校が購入した米国製オルガンが故障すると、山葉寅楠氏はカザリ職人の河合喜三郎氏とともに構造を調べて修理した。同じ年に、山葉寅楠氏はオルガンの製作に成功している。

ただし、最初の試作は音律が使用に堪えないと判定された。山葉寅楠氏は伊沢修二氏の勧めで東京で調律を学び直し、1888年3月からオルガンを一般に発売した。1889年3月には知人から3万円の出資を得て合資会社山葉風琴製造所を設立し、その年に250台を販売した。ところが出資者の多くが解散を求め、1891年に合資会社は解散して、事業は山葉寅楠氏の個人経営に戻った。

内容

個人経営に戻ったあとも、製品の評価は上がり続けた。1892年には神戸の外国商館を通じてオルガン70台余りをロンドンへ輸出し、1895年の第4回内国勧業博覧会では進歩賞牌を受けている。株式会社にしたことで、設備への投資が先に進んだ。1897年末に資本金を12万円へ増やして社章と商標を定め、1898年1月には浜松板屋町に新工場を建設して移転した。

会社の資金は、次の製品であるピアノへ向かった。1899年4月、山葉寅楠氏はピアノの製法と材料を調べるために渡米し、9月に帰国した。米国で購入した機械は1900年1月に届き、同じ月にピアノの製造を開始した。設立から3年で、オルガン1品目の工場はピアノも製造する楽器メーカーへ変わった。

含意

株式会社は増資を重ねて規模を拡大した。1916年には浜松市中沢町に新工場を建設したが、同じ年の8月8日、山葉寅楠氏は64歳で死去した。副社長の天野千代丸氏が社長に就任し、1921年8月には横浜の西川楽器製造を合併した。それまでの6度の増資で、資本金は348万円に達している。

もっとも、拡張を急いだ経営は不況への備えを欠いていた。1922年の旧工場の焼失と1923年の関東大震災で損失が重なり、1926年4月からは職工の争議で105日間工場が止まった。1927年4月、住友電線製造所取締役の川上嘉市氏が第3代社長に就任し、積立金の取り崩しや無配、工場の売却で立て直した。1929年の会社は資本金400万円、職工1,800名を抱えていた。

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考察:解散の後に再び選んだ株式会社
考察

考察:解散の後に再び選んだ株式会社

なぜ山葉寅楠氏は、もう一度外部の資本を入れたのか。1891年、山葉寅楠氏は出資者の多くが解散を求めたことで合資会社を失い、個人経営に戻っていた。出資者に事業を左右される危うさを知っていたはずである。それでも1897年に株式会社を選んだのは、注文の伸びが個人の資金で回せる規模を超えていたからだろう。個人経営のまま借入で工場を拡張すれば、資金の手当ても失敗の負担も山葉寅楠氏一人が背負う。株式会社は、その負担を株主と分け合う仕組みだった。

もっとも、会社の形態が変わっても経営の中心は山葉寅楠氏個人のままだった。ピアノの調査で渡米したのも山葉寅楠氏本人である。会社は増資を重ねて工場を拡張し、1921年には資本金348万円に達した。しかし1916年に山葉寅楠氏が死去すると、後を継いだ体制は工場の焼失と関東大震災、105日間の争議に耐えられなかった。拡張の速さに比べて、不況に備える内部の仕組みが育っていなかったとみられる。

この創業は成功だったと言える。資本金10万円で始めた会社は、1929年には資本金400万円、職工1,800名の楽器メーカーになった。1889年の合資会社の年間販売が250台だったことを考えれば、規模は桁違いである。そして株式会社だったからこそ、創業者の死後に経営が傾いても、1927年に社外から川上嘉市氏を社長に迎えて立て直せた。個人経営のままであれば、事業は山葉寅楠氏の死とともに途切れた可能性が高い。

Yutaka Sugiura, 2026年7月
資本金の推移
参考文献

参考文献

参考
  • ヤマハ 公式サイト「ヤマハブランドの歴史」(2026年10月取得)
  • 日本楽器製造『日本楽器製造株式会社の現況』(1929年)附録「日本楽器製造株式会社の歴史」二 会社の初期
  • 『企業の現代史 よろこびをつくる』(1964年)「創業者の苦難、いま花ひらく」
  • 日本楽器製造『日本楽器製造株式会社の現況』(1929年)附録「日本楽器製造株式会社の歴史」一 山葉寅楠氏の個人経営
  • 日本楽器製造『日本楽器製造株式会社の現況』(1929年)附録「日本楽器製造株式会社の歴史」三 会社の拡張
  • 日本楽器製造『日本楽器製造株式会社の現況』(1929年)附録「日本楽器製造株式会社の歴史」四 会社の革新
  • 日本楽器製造『日本楽器製造株式会社の現況』(1929年)一 規模と組織
  • ヤマハ 有価証券報告書「第195期(2019年3月期)【沿革】」
  • ヤマハ 企業公式サイト「ヤマハブランドの歴史」
  • 日本楽器製造 会社案内「日本楽器製造株式会社の現況」

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