山葉寅楠
ヤマハ・元日本楽器製造株式会社を設立・初代社長
社長就任 1897年10月
生年月日 —
学歴 —
出自 —
社長就任までの出自
出自
和歌山県の士族の家に三男として生まれた。1871年に長崎へ出て英国人技師のもとで時計の技術を学び、国産時計の製造会社を興そうとしたが資本が集まらず断念した。その後は大阪の医療器械店に住み込んで修理を習得し、1883年に浜松の病院の求めで同地へ移り、医療器械と時計の修理で生計を立てた。楽器の製造ではなく器械修理の技術が出発点にあった。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1887年、浜松の小学校の輸入オルガンの修理を病院長の紹介で引き受けたのが転機となった。自作の1台を東京の音楽取調所へ運び、所長の伊沢修二氏に調律が不完全と評されたのち、1888年3月の2台目で舶来品に劣らないとの評を得た。1889年3月に合資会社山葉風琴製造所を設立したが、1891年に出資者の一人が競合を始めて解散が決議され、工場を担保に出資金を返して個人経営へ戻した。日清戦争後に需要が増えると資本を集め直し、1897年10月に資本金10万円の日本楽器製造株式会社を設立して初代社長に就任した。
在任中の主な施策
施策
1897年の会社設立から2年後、1899年に文部省の嘱託として自ら渡米してピアノの製法を調べ、機械と材料を持ち帰って1900年からピアノの製造を開始した。1903年には楽器で培った木工技術を高級家具の製造へ広げ、1905年のセントルイス万国大博覧会ではピアノとオルガンが名誉大賞を受けた。資本金は設立時の10万円から日露戦争後に24万円、翌年には60万円へ増えた。1913年8月に浜名郡長の天野千代丸氏を副社長へ迎え、1916年8月8日に在任のまま死去した。
在任の評価
評価
執筆予定
経歴 1887〜1916年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-