第2章 年〜年

ヤマハ:プロペラ量産による軍需転換と減資

プロペラ量産による軍需化から減資後の楽器復帰へ

1931年〜金属製プロペラと国産パイプオルガンの並立

1931年に満州事変が起こると、軍需産業を育てる国策のもとで、日本楽器は軍の命令により全金属製プロペラの製造を始めた。選ばれた理由は木工の技術にあった。1921年に陸軍省の要請で木製プロペラを作った実績があり、その技術を見込まれての受注である。木材の加工で成り立ってきた会社が、ここで初めて金属を本格的に扱うことになる。社長の川上嘉市は住友電線製造所の取締役から迎えられた人物で、金属を扱う工場の経営を見てきた。楽器も航空機部品も、材を削って形を出し、寸法の精度が性能を決める点では変わらなかった

  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [1]1931年の満州事変を受け、軍需産業育成の国策により軍の命令で全金属製プロペラの製造を開始した
    • [4]日本楽器製造は木製プロペラの製造を経て、1931年から全金属製プロペラの製造へ移った
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [2]1921年に陸軍省の要請で木製プロペラを製造しており、その木工技術を見込まれて金属製プロペラの製造を命じられた
    • [3]1921年に陸軍省の要請で木製プロペラを製造しており、その木工技術を見込まれて金属製プロペラの製造を命じられた
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
    • [5]川上嘉市は住友電線製造所の取締役から日本楽器製造の社長に迎えられた

1931年5月、東京本郷の聖テモテ教会が日本楽器へパイプオルガンの製作を依頼した。パイプオルガンは、当時の日本では製造が不可能とされていた楽器である。日本楽器は苦心の研究の末、翌1932年2月にこれを完成させて納入した。1933年6月にはアコーディオンの製造販売を始め、1934年には聖テモテ教会向けに得た技術で東京音楽学校の注文に応じ、納めたパイプオルガンは戦後まで使われた。こうした製品の広がりに伴い、1936年から12年にかけて工場がいくつも新設されている。軍需の受注と最も難しい楽器の開発とが、同じ数年のうちに並んで進んだ

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [6]1931年5月、東京本郷の聖テモテ教会から日本楽器製造にパイプオルガンの製作が依頼された
    • [8]日本楽器製造は研究の末、1932年2月にパイプオルガンを完成させ聖テモテ教会へ納入した
    • [10]1934年、聖テモテ教会向けに開発した技術で東京音楽学校の注文によるパイプオルガンを納入し、同機は長く使用された
    • [11]1936年から1937年にかけて日本楽器製造は複数の工場を新設した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [7]パイプオルガンは当時の日本では製造不可能とされていた楽器だった
    • [9]1933年6月にアコーディオンの製造販売を開始した

川上嘉市の再建策が効いて経営が安定すると、日本楽器は品質の改良へ資源を向け、音響実験室を設けて製品の水準を上げた。1937年7月に日中戦争が本格化すると、平和産業への資材の使用制限が強化され、やがて軍需品の生産へ移らざるを得なくなる。同じ月、嘉市の長男で大日本人造肥料に勤めていた川上源一が浜松へ戻り、日本楽器へ入社した。源一は前の勤め先で、荷役作業をすべてストップウォッチで測って賃金の計算式を組む仕事を任されていた。当時としては新しい作業測定の手法を、この26歳の入社者は持ち込んだことになる。楽器の品質を上げるために整えた設備と人が、そのまま軍需品の生産へ振り向けられていった

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [12]川上嘉市の再建策により経営が安定し、日本楽器製造は音響実験室を設けて品質の向上を図った
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [13]1937年7月の日華事変勃発後、平和産業に対する資材の使用制限が強化され、日本楽器製造は軍需品の生産へ移行せざるを得なくなった
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
    • [14]川上源一は大日本人造肥料を退職し、1937年7月に浜松へ戻って日本楽器製造へ入社した
    • [15]川上源一は大日本人造肥料王子工場で、陸揚げから倉庫積み・びん詰めまでの作業をストップウォッチで測定し作業員賃金の計算式を作成した
    • [16]川上源一は大日本人造肥料で産業能率研究所長の上野陽一に助言を求め、ガントチャートを用いて作業を計測した
参考文献[1]-[16]
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [1]1931年の満州事変を受け、軍需産業育成の国策により軍の命令で全金属製プロペラの製造を開始した
    • [4]日本楽器製造は木製プロペラの製造を経て、1931年から全金属製プロペラの製造へ移った
    • [7]パイプオルガンは当時の日本では製造不可能とされていた楽器だった
    • [9]1933年6月にアコーディオンの製造販売を開始した
    • [13]1937年7月の日華事変勃発後、平和産業に対する資材の使用制限が強化され、日本楽器製造は軍需品の生産へ移行せざるを得なくなった
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [2]1921年に陸軍省の要請で木製プロペラを製造しており、その木工技術を見込まれて金属製プロペラの製造を命じられた
    • [3]1921年に陸軍省の要請で木製プロペラを製造しており、その木工技術を見込まれて金属製プロペラの製造を命じられた
    • [6]1931年5月、東京本郷の聖テモテ教会から日本楽器製造にパイプオルガンの製作が依頼された
    • [8]日本楽器製造は研究の末、1932年2月にパイプオルガンを完成させ聖テモテ教会へ納入した
    • [10]1934年、聖テモテ教会向けに開発した技術で東京音楽学校の注文によるパイプオルガンを納入し、同機は長く使用された
    • [11]1936年から1937年にかけて日本楽器製造は複数の工場を新設した
    • [12]川上嘉市の再建策により経営が安定し、日本楽器製造は音響実験室を設けて品質の向上を図った
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
    • [5]川上嘉市は住友電線製造所の取締役から日本楽器製造の社長に迎えられた
    • [14]川上源一は大日本人造肥料を退職し、1937年7月に浜松へ戻って日本楽器製造へ入社した
    • [15]川上源一は大日本人造肥料王子工場で、陸揚げから倉庫積み・びん詰めまでの作業をストップウォッチで測定し作業員賃金の計算式を作成した
    • [16]川上源一は大日本人造肥料で産業能率研究所長の上野陽一に助言を求め、ガントチャートを用いて作業を計測した

1938年〜プロペラ増産のための増資と全面軍需化

1938年8月、日本楽器はプロペラ増産のため資本金を400万円から875万円へ引き上げた。プロペラの量産が決まったのはこの年である。翌9月19日、プロペラ関係の工場は陸軍の管理下に置かれた。1939年には天龍分工場の完成に伴って製材と合板の部門を本社工場から移し、翌15年には名古屋と京城に支店を開くとともに、東京調布にプロペラ試作のための研究所と工場を着工した。この時点で生産の主力は、すでに楽器から軍需品へ移っていた。増資で集めた金の向かう先は、楽器ではなく航空機部品の生産能力だった

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [17]1938年8月、プロペラ増産のため資本金を400万円から875万円へ増資した
    • [19]1938年9月19日、プロペラ関係工場が陸軍の管理下に置かれた
    • [20]1939年、天龍分工場の完成に伴い製材・合板の両部門を本社工場から移した
    • [21]1940年に名古屋支店と京城支店を開設した
    • [22]1940年、プロペラの試作研究のため東京調布に研究所と工場を着工した
    • [23]1940年ごろには日本楽器製造の生産の主力が楽器から軍需品へ移っていた
  • 有価証券報告書
    • [18]1938年にプロペラの量産を決定した

日中戦争が本格化してから、平和産業が使える資材への制限は強まり続けていた。1939年2月に鉄製品の回収が始まると、ピアノなどは作ることがきわめて難しくなった。同年7月の国民徴用令によって、労働力はいっそう軍需産業へ集められた。1940年9月には資本金が1,750万円まで積み増された。従業員は全員が現地で徴用され、プロペラと補助タンクの増産に回った。1941年12月の太平洋戦争開始と、翌年からの航空機の激しい消耗によって、増産の要求はさらに強まる。材料も人も外から断たれ、日本楽器に選べる生産品目は残っていなかった

  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [24]日華事変勃発後、平和産業に対する資材の使用制限が強化され続けた
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [25]1939年2月に始まった鉄製品の回収により、ピアノなどの生産は極度に困難となった
    • [26]1939年7月の国民徴用令により軍需産業への労働力集中が加速した
    • [27]1940年9月に資本金1,750万円へ増資し、全従業員が現地徴用されてプロペラ・補助タンクの増産にあたった
    • [28]1941年12月の太平洋戦争開始と1942年からの航空機の消耗により、プロペラや補助タンクの増産要求が一層強まった

1942年6月、調布の東京製作所は陸軍の管理工場となり、10月には本社工場と天龍分工場が海軍の監査工場になった。天龍工場はほどなく陸海両軍の共同管理工場へ切り替えられ、1943年9月には東京製作所の拡張も許可される。同年12月には製板のため岩手県黒沢尻町に岩手工場を設けている。1944年の軍需会社指定で日本楽器は民間兵器廠となり、11月には楽器の製造禁止命令が出た。4回の増資を経て、同年12月の資本金は3,000万円に達している。空襲が激しくなると天龍市船明に疎開工場の建設を決め、学徒動員によって1945年5月、一部地下式の佐久良工場が完成してプロペラ部門が移った。同年3月に名古屋支店と大阪支店、5月に天龍工場、6月に本社工場が焼け、操業は佐久良工場だけとなった。1944年末には、生産のほとんどが軍需品だった

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [29]1942年6月に東京製作所が陸軍の管理工場となり、10月に本社工場と天龍分工場が海軍監査工場となった
    • [30]天龍工場は海軍監査工場から陸海両軍の共同管理工場へ切り替えられ、1943年9月に東京製作所の拡張が許可された
    • [31]1943年12月、撫材の製板のため岩手県黒沢尻町に岩手工場を設けた
    • [32]1944年の軍需会社指定により日本楽器製造は民間兵器廠となり、同年11月に楽器の製造禁止命令が出た
    • [34]空襲の激化により天龍市船明へ疎開工場の建設を決め、学徒動員により1945年5月に一部地下式の佐久良工場が完成しプロペラ部門が疎開した
    • [35]1945年3月に名古屋支店・大阪支店、5月に天龍工場、6月に本社工場が焼失し、佐久良工場のみの操業となった
  • 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
    • [33]4回の増資を経て1944年12月に資本金3,000万円となった
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [36]1944年末には日本楽器製造の生産のほとんどが軍需品で占められた
参考文献[17]-[36]
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [17]1938年8月、プロペラ増産のため資本金を400万円から875万円へ増資した
    • [19]1938年9月19日、プロペラ関係工場が陸軍の管理下に置かれた
    • [20]1939年、天龍分工場の完成に伴い製材・合板の両部門を本社工場から移した
    • [21]1940年に名古屋支店と京城支店を開設した
    • [22]1940年、プロペラの試作研究のため東京調布に研究所と工場を着工した
    • [23]1940年ごろには日本楽器製造の生産の主力が楽器から軍需品へ移っていた
    • [25]1939年2月に始まった鉄製品の回収により、ピアノなどの生産は極度に困難となった
    • [26]1939年7月の国民徴用令により軍需産業への労働力集中が加速した
    • [27]1940年9月に資本金1,750万円へ増資し、全従業員が現地徴用されてプロペラ・補助タンクの増産にあたった
    • [28]1941年12月の太平洋戦争開始と1942年からの航空機の消耗により、プロペラや補助タンクの増産要求が一層強まった
    • [29]1942年6月に東京製作所が陸軍の管理工場となり、10月に本社工場と天龍分工場が海軍監査工場となった
    • [30]天龍工場は海軍監査工場から陸海両軍の共同管理工場へ切り替えられ、1943年9月に東京製作所の拡張が許可された
    • [31]1943年12月、撫材の製板のため岩手県黒沢尻町に岩手工場を設けた
    • [32]1944年の軍需会社指定により日本楽器製造は民間兵器廠となり、同年11月に楽器の製造禁止命令が出た
    • [34]空襲の激化により天龍市船明へ疎開工場の建設を決め、学徒動員により1945年5月に一部地下式の佐久良工場が完成しプロペラ部門が疎開した
    • [35]1945年3月に名古屋支店・大阪支店、5月に天龍工場、6月に本社工場が焼失し、佐久良工場のみの操業となった
  • 有価証券報告書
    • [18]1938年にプロペラの量産を決定した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [24]日華事変勃発後、平和産業に対する資材の使用制限が強化され続けた
    • [36]1944年末には日本楽器製造の生産のほとんどが軍需品で占められた
  • 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
    • [33]4回の増資を経て1944年12月に資本金3,000万円となった

1945年〜敗戦後の縮小と楽器への復帰

終戦後の日本楽器は、いち早く本来の業務へ復帰した。1945年8月の敗戦を、この会社は佐久良工場だけの操業で迎えている。戦後の復興でまず求められたのは木工家具の製作で、学徒動員と女子挺身隊を合わせて1万名を数えた従業員は大幅に整理され、九州支店と京城支店は廃止された。楽器の再開は同年10月のハーモニカと木琴から始まり、11月に本社工場、12月に天龍工場が平和産業への転換を認可された。1946年1月には本社工場と天龍・佐久良・岩手の各工場、東京製作所が賠償予定工場に指定されたが、指定は同年10月に解かれている。同年2月には本社の労働組合が結成された。軍需へ寄せた設備は、最も単純な楽器から順に本業へ戻された

  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [37]終戦後、日本楽器製造はいち早く本来の業務へ復帰した
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [38]浜松市が焼け野原となるなか、日本楽器製造は佐久良工場のみの操業で1945年8月15日の終戦を迎えた
    • [39]戦後の復興では木工家具の製作が最も緊急を要し、1万名を数えた従業員を大幅に整理して九州支店と京城支店を廃止した
    • [40]1945年10月にハーモニカと木琴の製造を開始し、11月に本社工場、12月に天龍工場が平和産業への転換を認可された
    • [41]1946年1月に本社工場と天龍・佐久良・岩手の各工場および東京製作所が賠償予定工場に指定され、同年10月に指定が解除された
    • [42]1946年2月に日本楽器製造の本社労働組合が結成された

過度経済力集中排除法の適用で岩手工場を閉め、従業員を解雇したのは1948年2月である。この工場は前年9月に北上川の氾濫で被害を受け、一部はすでに手放していた。閉鎖に先立ち、製造は1946年1月のオルガンとアコーディオン、1947年4月のピアノと順に戻っており、同じ22年にはハーモニカ二千ダースの米国向け出荷で楽器輸出も再び始まっていた。閉鎖と同じ年には、3月にスピネット型ピアノの試作が仕上がり、6月に音響実験室が復旧、7月にピアノ輸出も再開し、8月に民間貿易が再開されると輸出商談が活発になって、11月には神戸出張所が支店に昇格した。生産設備の整理と製品の復旧が、同じ年のうちに並んで進んだ

  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [43]1948年2月、過度経済力集中排除法の適用を受けて岩手工場を閉鎖し従業員を解雇した
    • [44]1947年9月の北上川の氾濫で岩手工場は損害を受け、経営困難から一部を売却していた
    • [45]1946年1月にオルガンとアコーディオン、1947年4月にピアノの製造を再開した
    • [47]1948年3月にスピネット型ピアノの試作が完成し、6月に音響実験室が復旧、7月にピアノの輸出を再開した
    • [48]1948年8月の民間貿易再開に伴い輸出商談が活発化し、11月に神戸出張所が支店へ昇格した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [46]1947年に楽器の輸出を再開し、ハーモニカ2,000ダースを米国へ輸出した

1948年6月、日本楽器は旧株一に対し新株〇・五の割当で資本金を7,937万5,000円へ引き上げた。ところが同年12月には企業再建整備計画に基づいて未払込金を切り捨て、資本金は7,000万円へ減る。9月には独占禁止法に基づく株式処分計画と企業再建計画が認可され、翌24年にはさらに500名を超える従業員を解雇した。1949年3月に3,000万円を増資して資本金は1億円となり、同じ年、日本楽器の株式は東京証券取引所へ上場された。1950年2月に第100期を迎え、川上嘉市は戦中戦後の労苦で健康を害して同年9月に辞任し、長男の源一へ社長を譲っている。争議の後始末のために外から招かれた経営者が、23年をかけて会社を軍需と敗戦の両方から引き戻したことになる

  • 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
    • [49]1948年6月、旧株1に対し新株0.5の割当で資本金7,937万5千円へ増資した
    • [50]1948年12月、企業再建整備計画に基づき未払込金を切り捨てて減資し、資本金7,000万円となった
    • [53]1949年3月に3,000万円を増資し資本金1億円となった
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [51]1948年9月、独占禁止法により申請中の株式処分計画と企業再建計画が承認・認可された
    • [52]1949年に500名を超える従業員を解雇して経営の合理化を進めた
    • [55]1950年2月に第100期を迎えた
    • [56]川上嘉市は戦中戦後の労苦で健康を害し、1950年9月に社長を辞して会長となり、長男の源一へ社長を譲った
  • 有価証券報告書
    • [54]1949年に東京証券取引所へ株式を上場した
参考文献[37]-[56]
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
    • [37]終戦後、日本楽器製造はいち早く本来の業務へ復帰した
    • [46]1947年に楽器の輸出を再開し、ハーモニカ2,000ダースを米国へ輸出した
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
    • [38]浜松市が焼け野原となるなか、日本楽器製造は佐久良工場のみの操業で1945年8月15日の終戦を迎えた
    • [39]戦後の復興では木工家具の製作が最も緊急を要し、1万名を数えた従業員を大幅に整理して九州支店と京城支店を廃止した
    • [40]1945年10月にハーモニカと木琴の製造を開始し、11月に本社工場、12月に天龍工場が平和産業への転換を認可された
    • [41]1946年1月に本社工場と天龍・佐久良・岩手の各工場および東京製作所が賠償予定工場に指定され、同年10月に指定が解除された
    • [42]1946年2月に日本楽器製造の本社労働組合が結成された
    • [43]1948年2月、過度経済力集中排除法の適用を受けて岩手工場を閉鎖し従業員を解雇した
    • [44]1947年9月の北上川の氾濫で岩手工場は損害を受け、経営困難から一部を売却していた
    • [45]1946年1月にオルガンとアコーディオン、1947年4月にピアノの製造を再開した
    • [47]1948年3月にスピネット型ピアノの試作が完成し、6月に音響実験室が復旧、7月にピアノの輸出を再開した
    • [48]1948年8月の民間貿易再開に伴い輸出商談が活発化し、11月に神戸出張所が支店へ昇格した
    • [51]1948年9月、独占禁止法により申請中の株式処分計画と企業再建計画が承認・認可された
    • [52]1949年に500名を超える従業員を解雇して経営の合理化を進めた
    • [55]1950年2月に第100期を迎えた
    • [56]川上嘉市は戦中戦後の労苦で健康を害し、1950年9月に社長を辞して会長となり、長男の源一へ社長を譲った
  • 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
    • [49]1948年6月、旧株1に対し新株0.5の割当で資本金7,937万5千円へ増資した
    • [50]1948年12月、企業再建整備計画に基づき未払込金を切り捨てて減資し、資本金7,000万円となった
    • [53]1949年3月に3,000万円を増資し資本金1億円となった
  • 有価証券報告書
    • [54]1949年に東京証券取引所へ株式を上場した

筆者考察

日本楽器が1931年に全金属製プロペラを引き受けたのは、軍需へ進出したかったからではなく、1921年に木製プロペラを作った木工の腕を軍が名指しで求めたからである。楽器も航空機部品も、材を削って寸法の精度で性能が決まる点では同じ仕事だった。だからこの会社は、パイプオルガンを日本で初めて完成させた1932年と、プロペラ工場が陸軍の管理下へ入る1938年を、断絶なく続けて通り抜けている。資本金は400万円から875万円、1,750万円、3,000万円へと積み上がったが、その金が買ったのは楽器の生産能力ではない。品質を上げるために設けた音響実験室も、増やした工場も、そのまま軍需の側へ数えられていった。

敗戦のあと日本楽器が楽器へ戻れたのは、軍需へ渡していたのが設備と人であって、木を削る技術そのものではなかったからである。1945年10月に再開したのはハーモニカと木琴という最も単純な楽器で、オルガンが3か月後、ピアノは1年半後だった。戻る順番は、その製品がどれだけ手を要するかで決まっている。戦時に3,000万円まで膨らんだ資本は、1948年6月に7,937万5,000円へ増えた直後、12月には未払込金の切捨てで7,000万円へ落ちた。500名を超える解雇と資産の縮小をそこへ重ねて、ようやく1949年の東証上場に間に合っている。争議の後始末に呼ばれた川上嘉市は、23年をかけて軍需と敗戦の両方から会社を引き戻し、それを終えて長男の源一へ渡した。

日本楽器製造の資本金 1937年〜1944年(万円)

400 1937 875 1938 1,750 1940 3,000 1944
  • 1938年と1940年の増資はいずれもプロペラの増産を理由とするもの。
  • 出所は企業の現代史(1964年)と株式会社年鑑1955年版。

出典・参考

5件
出典・参考
  • 有価証券報告書
  • 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
  • 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
  • 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)

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