ヤマハ:日本楽器製造の設立と1927年の経営再建
オルガン国産化から105日争議後の経営再建へ
1887年〜山葉寅楠の器械修理からオルガン製造への転業
山葉寅楠は、楽器ではなく器械の修業から出発した人物である。1851年に和歌山の士族の家へ生まれ、1871年に長崎で英国人技師のもとに入って時計を学んだが、国産時計の会社を興す計画は資本が集まらずに潰えた。次に大阪の医療器械店へ住み込み、数年で専門の知識と技術を身につけて、1883年、浜松病院の求めに応じて浜松へ移った。1886年の小学校令を受けて唱歌科を置いた浜松の小学校は、翌年に買い入れたアメリカ製オルガンを二か月半で故障させ、直せる者を土地に見つけられずにいた。浜松病院長の福島豊策が洋式器械に明るい寅楠を学校へ推し、寅楠はカザリ職人の河合喜三郎と二人で構造と故障箇所を調べ、1887年にこれを修理した。請け負ったのは1台の修理にすぎなかったが、そこで寅楠は、自分の扱える器械の延長に楽器があることを知った
- 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- [1]山葉寅楠は1871年に長崎で英国人技師に就いて時計製造を学び、時計会社の設立を企てたが資本が集まらず断念した
- [2]山葉寅楠は1871年に長崎で英国人技師に就いて時計製造を学び、時計会社の設立を企てたが資本が集まらず断念した
- [3]山葉寅楠は大阪の医療器械店に住み込んで技術を習得し、1883年に浜松病院の依頼で浜松へ移った
- [4]1886年の小学校令で唱歌科を置いた浜松の小学校が翌年購入した米国製オルガンは、約2か月半で故障した
- 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
- [5]1887年、医療機械の修理工であった山葉寅楠が浜松の小学校のオルガン修理に成功した
修理の成功は、寅楠を製造の側へ向かわせた。楽器の材料を売る店も職人もない土地で、すべてあり合わせを自分で加工するほかなく、2か月をかけて1台を組み上げている。でき具合の判定を求めた寅楠は、河合喜三郎とともにこのオルガンを担いで東海道を歩き、大井川と箱根を越えて数日がかりで東京の音楽取調所へ運んだ。音楽取調所長の伊沢修二は寅楠の労苦に感銘したものの、調律が不完全で使用に堪えないという結論を下した。寅楠は伊沢の勧めで約1か月その講義に列してから浜松へ帰り、1888年3月、舶来品に劣らないという評を得る2台目を仕上げた。作れることと、その音が国の定めた基準に合うことは別だった
- 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
- [6]山葉寅楠は前年のオルガン修理の成功からオルガンの製作完成に心血をそそいだ
- 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- [7]山葉寅楠は自作にあたりあり合わせの材料をすべて自分で加工し、約2か月で1台を組み上げた
- [8]山葉寅楠は河合喜三郎とともに自作オルガンを担いで東海道を歩き、数日がかりで東京の音楽取調所へ運んだ
- [9]音楽取調所長の伊沢修二は、持ち込まれたオルガンを調律が不完全で使用できないと判定した
- [10]山葉寅楠は音楽取調所で約1か月講義を受けたのち、1888年3月に2台目を完成させ、舶来品に劣らないとの評を得た
オルガンの第1号ができると、静岡県から5台、静岡師範学校から2台という具合に注文が入り始めた。寅楠は指物師・大工・カザリ師といった木工の職人を集め、浜松菅原町の廃寺普大寺を借りて、1889年3月に山葉風琴製造所を興した。集まった職人は10名に満たなかった。注文が増えるにつれ個人の裁量では資金が回らなくなり、寅楠は知人を説いて3万円の出資を得て合資会社へ改め、その年のうちに250台を売った。1891年には屋号を山葉楽器製造所と改め、翌25年、オルガン80台を英国へ輸出している。楽器を作る職種は当時の日本になく、寅楠が元手にできたのは木工と細工の技能だけだった
- 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- [11]国産オルガンの完成後、静岡県から5台、静岡師範学校から2台の注文が入った
- [12]山葉寅楠は1889年3月、浜松菅原町の廃寺普大寺を借りて山葉風琴製造所を設立した
- [14]山葉寅楠は知人から3万円の出資を得て合資会社山葉風琴製造所を設立し、同年に250台のオルガンを販売した
- 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
- [13]山葉風琴製造所は指物師・大工・カザリ師など10名に満たない職人を集めて設立された
- [15]1891年に山葉楽器製造所と改称し、1892年にオルガン80台を英国へ輸出した
参考文献[1]-[15]
- 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- [1]山葉寅楠は1871年に長崎で英国人技師に就いて時計製造を学び、時計会社の設立を企てたが資本が集まらず断念した
- [2]山葉寅楠は1871年に長崎で英国人技師に就いて時計製造を学び、時計会社の設立を企てたが資本が集まらず断念した
- [3]山葉寅楠は大阪の医療器械店に住み込んで技術を習得し、1883年に浜松病院の依頼で浜松へ移った
- [4]1886年の小学校令で唱歌科を置いた浜松の小学校が翌年購入した米国製オルガンは、約2か月半で故障した
- [7]山葉寅楠は自作にあたりあり合わせの材料をすべて自分で加工し、約2か月で1台を組み上げた
- [8]山葉寅楠は河合喜三郎とともに自作オルガンを担いで東海道を歩き、数日がかりで東京の音楽取調所へ運んだ
- [9]音楽取調所長の伊沢修二は、持ち込まれたオルガンを調律が不完全で使用できないと判定した
- [10]山葉寅楠は音楽取調所で約1か月講義を受けたのち、1888年3月に2台目を完成させ、舶来品に劣らないとの評を得た
- [11]国産オルガンの完成後、静岡県から5台、静岡師範学校から2台の注文が入った
- [12]山葉寅楠は1889年3月、浜松菅原町の廃寺普大寺を借りて山葉風琴製造所を設立した
- [14]山葉寅楠は知人から3万円の出資を得て合資会社山葉風琴製造所を設立し、同年に250台のオルガンを販売した
- 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
- [5]1887年、医療機械の修理工であった山葉寅楠が浜松の小学校のオルガン修理に成功した
- [6]山葉寅楠は前年のオルガン修理の成功からオルガンの製作完成に心血をそそいだ
- [13]山葉風琴製造所は指物師・大工・カザリ師など10名に満たない職人を集めて設立された
- [15]1891年に山葉楽器製造所と改称し、1892年にオルガン80台を英国へ輸出した
1897年〜日本楽器製造への改組と舶来品との競争
1897年10月12日、山葉寅楠の個人経営だった山葉オルガン製造所は、資本金10万円の日本楽器製造株式会社へ改組された。品目はオルガンに留まらず、ピアノ、家具木工品、合板、ハーモニカ、シロホンへと次々に増えていった。ピアノの製造が始まるのは1899年である。日露戦争後の好況で資本金は24万円へ、翌年には金融恐慌に備える意味も含めて一挙に60万円へ引き上げられた。1908年に大連支店、43年に東京支店が開き、楽器用合板とハーモニカの製造、ピアノの輸出が続いた。鍵盤楽器も家具も合板も同じ木材加工の延長にあり、品目の広がりは技術の飛躍ではなく木工の転用だった
- 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
- [16]1897年10月12日、山葉寅楠個人経営の山葉オルガン製造所を資本金10万円の日本楽器製造株式会社へ改組した
- 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
- [17]日本楽器製造はオルガンに加えピアノ、家具木工品、合板、ハーモニカ、シロホンと生産品目を増やした
- 有価証券報告書
- [18]1899年にピアノの製造を開始した
- 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- [19]日露戦争後の好況で資本金を24万円へ増資し、翌年には一挙に60万円へ増資した
- [20]1908年に大連支店、1910年に東京支店を開設し、楽器用合板・ハーモニカの製造とピアノの輸出を進めた
北海道の木材資源を使うため、日本楽器は釧路に分工場を設けた。ハーモニカの工場だけで600名の女子工員を抱え、第一次世界大戦後の好況もあって会社の規模は急速に膨らんだ。ピアノと並んで高級木製家具を作り、ハーモニカは大量生産に移している。1916年には楽器の増産に合わせ、浜松市中沢町に新しい工場を建てた。同じ年の8月、寅楠は64歳で死んだ。あとを継いだのは、1913年に副社長へ迎えられていた浜名郡長の天野千代丸である。天野は1917年の社長就任と同時に資本を倍額へ引き上げ、以後も増資を重ねていった。木材と女子工員という二つの調達条件の上に、この拡大は載っていた
- 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- [21]日本楽器製造は北海道の木材資源を利用するため釧路に分工場を設けた
- [22]ハーモニカ工場だけで600名の女子工員を擁し、第一次世界大戦後の好況が会社の拡大に寄与した
- [24]1916年、楽器の増産に伴い浜松市中沢町に新工場を建設した
- [25]山葉寅楠は1916年8月8日に64歳で死去した
- [26]1913年8月、浜名郡長の天野千代丸が日本楽器製造の副社長に迎えられた
- [27]天野千代丸は1917年に社長へ就任し、ただちに資本を倍額へ増資した
- 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
- [23]日本楽器製造はピアノのほか高級木製家具の製造を始め、ハーモニカの大量生産にも着手した
- [28]二代目の天野千代丸社長の時代に日本楽器製造は増資を重ねた
第一次世界大戦後の軍需不況で多くの銀行と生産会社が倒れるなか、日本楽器は1920年に資本金を120万円から300万円へ引き上げて事業を続けた。しかしマルク暴落でドイツ製のピアノとハーモニカが大量に流入すると、経営は一転して苦しくなった。日本楽器は横浜の西川楽器製造株式会社を合併し、1921年8月に資本金348万円となる。同年12月には第1回社債100万円を発行し、あわせてベヒシュタインのピアノ、ヘッケルとエヴェットの管楽器、ハンミヒの弦楽器といった外国製楽器の輸入販売にも乗り出した。国産化を掲げて出発した会社が、舶来品を売る側へ回ったのである
- 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- [29]第一次世界大戦後の軍需不況下で多くの銀行や生産会社が倒産するなか、日本楽器製造は1920年に資本金を120万円から300万円へ増資して事業を継続した
- [30]戦後のマルク暴落によりドイツ製のピアノやハーモニカが大量に流入し、日本楽器製造の事業は困難になった
- [32]1921年12月に第一回社債100万円を発行した
- [33]経営改善のためベヒシュタインのピアノ、ヘッケルとエヴェットの管楽器、ハンミヒの弦楽器などの輸入販売を行った
- 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
- [31]5回の増資後、1921年8月に西川楽器製造株式会社を合併し資本金348万円となった
参考文献[16]-[33]
- 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
- [16]1897年10月12日、山葉寅楠個人経営の山葉オルガン製造所を資本金10万円の日本楽器製造株式会社へ改組した
- [31]5回の増資後、1921年8月に西川楽器製造株式会社を合併し資本金348万円となった
- 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
- [17]日本楽器製造はオルガンに加えピアノ、家具木工品、合板、ハーモニカ、シロホンと生産品目を増やした
- 有価証券報告書
- [18]1899年にピアノの製造を開始した
- 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- [19]日露戦争後の好況で資本金を24万円へ増資し、翌年には一挙に60万円へ増資した
- [20]1908年に大連支店、1910年に東京支店を開設し、楽器用合板・ハーモニカの製造とピアノの輸出を進めた
- [21]日本楽器製造は北海道の木材資源を利用するため釧路に分工場を設けた
- [22]ハーモニカ工場だけで600名の女子工員を擁し、第一次世界大戦後の好況が会社の拡大に寄与した
- [24]1916年、楽器の増産に伴い浜松市中沢町に新工場を建設した
- [25]山葉寅楠は1916年8月8日に64歳で死去した
- [26]1913年8月、浜名郡長の天野千代丸が日本楽器製造の副社長に迎えられた
- [27]天野千代丸は1917年に社長へ就任し、ただちに資本を倍額へ増資した
- [29]第一次世界大戦後の軍需不況下で多くの銀行や生産会社が倒産するなか、日本楽器製造は1920年に資本金を120万円から300万円へ増資して事業を継続した
- [30]戦後のマルク暴落によりドイツ製のピアノやハーモニカが大量に流入し、日本楽器製造の事業は困難になった
- [32]1921年12月に第一回社債100万円を発行した
- [33]経営改善のためベヒシュタインのピアノ、ヘッケルとエヴェットの管楽器、ハンミヒの弦楽器などの輸入販売を行った
- 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
- [23]日本楽器製造はピアノのほか高級木製家具の製造を始め、ハーモニカの大量生産にも着手した
- [28]二代目の天野千代丸社長の時代に日本楽器製造は増資を重ねた
1923年〜105日争議と川上嘉市による再建
1923年9月の関東大震災は、日本楽器の東京支店を全焼させ、横浜工場の一部を壊した。前年に二度の工場火災を受けたばかりで、打撃は重なっている。震災後の東京には大崎工場を設け、復興向けの木造家具の大量生産に乗り出した。1924年5月には第2回・第3回あわせて115万円の社債を発行し、ピアノの製作技術を高めるためベヒシュタイン社から技師エール・シュレーゲルを招いた。それでも慢性化した不況のもとでは、災害の打撃から脱するには足りない。舶来品の流入と震災の打撃が重なって、経営は傾き続けた。借入と社債で設備を保った以上、動かせる原価は人件費しか残っていなかった
- 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- [34]1923年9月の関東大震災で日本楽器製造の東京支店が全焼し、横浜工場の一部が破壊された
- [35]関東大震災の前年、日本楽器製造は二度にわたり工場の火災に見舞われた
- [36]震災後の東京に大崎工場を設け、復興のための木造家具類の大量生産を始めた
- [37]1924年5月に第二回・第三回あわせて115万円の社債を発行し、ベヒシュタイン社から技師エール・シュレーゲルを招いた
- [38]当時の慢性化した不況のもとで、日本楽器製造は災害の打撃から脱しきれなかった
- 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
- [39]マルク相場の暴落によるドイツ製品の流入で不振に陥り、1923年の関東大震災の打撃が重なって日本楽器製造の経営は傾き続けた
1926年4月21日、浜松合同労働組合に属する従業員代表3名が工場長山葉直吉に11条の嘆願書を提出し、期限を切り回答を求めた。中身は便所と洗面所の設置、正月の休日、男子15歳以上70銭・女子14歳以上60銭という最低賃金、年2回の昇給など、労働条件の水準そのものだ。社長の天野千代丸は翌日、日本労働組合評議会と手を切らない限り認められないと答え、26日に交渉は決裂する。争議は105日に及び、動員された警官は延べ2万人、検挙者は600名に上った。8月8日、協調会理事添田敬一郎の調停案で妥結し、組合側は350名の解雇を認め、会社は解雇手当3万円と見舞金8,000円を出した。争議は収まったが、日本楽器は外部の応援を仰ぐほかなくなった。要求はどれも設備と賃金の水準に関わり、拡大の間ずっと会社が手をつけずに来た原価だった
- 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- [40]1926年4月21日、浜松合同労働組合に加盟する日本楽器製造の従業員代表3名が工場長山葉直吉に11条の嘆願書を提出し、期限つきで回答を求めた
- [41]嘆願書は便所・洗面所の設置、正月休日、男子15歳以上70銭・女子14歳以上60銭の最低賃金制定、年2回の昇給などを求めた
- [42]天野千代丸は日本労働組合評議会と手を切らない限り嘆願事項を認められないと回答し、4月26日に交渉が決裂した
- [43]争議は105日に及び、鎮圧に動員された警官は延べ2万人、検挙者は600名を超えた
- [44]1926年8月8日に協調会理事添田敬一郎の調停案で妥結し、組合側は350名の解雇を認め、会社は解雇手当3万円と見舞金8千円を支払った
- 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
- [45]105日間のストライキにより日本楽器製造は行き詰まり、外部の応援を仰ぐ事態に立ち至った
105日の争議で工場は完全に止まり、争議そのものの出費も重なって、日本楽器の経営はいっそう悪化した。1927年の日本楽器は、株価が額面の半額にも満たない不良会社へ落ちている。重役の一部が改革を訴えても天野千代丸は聞き入れず、同年1月、取締役会は経営の整理改革を決議した。4月に天野は辞め、住友電線製造所の取締役だった静岡県出身の川上嘉市が、42歳で第3代社長に就いた。嘉市は住友の総理事湯川寛吉らに所信を述べて52万円の増資新株の引受を取りつけ、積立金と繰越金60万円余りの全額を取り崩し、不良資産を売り、一挙に無配とする。支店と出張所は本社の営業部へ統一し、釧路分工場と大崎工場は売却した。3年から5年と見られた無配は2期で済んだ。外から招かれた経営者が最初にしたのは、拡大の巻き戻しだった
- 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- [46]105日の争議で工場が完全に停止し、争議のための出費も重なって日本楽器製造の経営は一層困難になった
- [48]1927年1月、日本楽器製造の取締役会が経営の整理改革を決議した
- [51]川上嘉市は積立金および繰越金の全部60万円余りを取り崩し、不良資産の一部を売却し、一挙に無配とした
- [52]支店・出張所を全部本社の営業部へ統一し、釧路分工場と大崎工場を売却した
- [53]3年ないし5年と予想された無配はわずか2期で済んだ
- 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
- [47]1927年当時の日本楽器製造は株価が額面の半額にも満たない成績不良会社に落ちていた
- [49]1927年4月、天野千代丸の辞任を受けて住友電線製造所取締役の川上嘉市が42歳で第三代社長に就任した
- [50]川上嘉市は住友の総理事湯川寛吉・常務理事小倉正恒に所信を述べ、52万円の増資新株の引受を取りつけた
参考文献[34]-[53]
- 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- [34]1923年9月の関東大震災で日本楽器製造の東京支店が全焼し、横浜工場の一部が破壊された
- [35]関東大震災の前年、日本楽器製造は二度にわたり工場の火災に見舞われた
- [36]震災後の東京に大崎工場を設け、復興のための木造家具類の大量生産を始めた
- [37]1924年5月に第二回・第三回あわせて115万円の社債を発行し、ベヒシュタイン社から技師エール・シュレーゲルを招いた
- [38]当時の慢性化した不況のもとで、日本楽器製造は災害の打撃から脱しきれなかった
- [40]1926年4月21日、浜松合同労働組合に加盟する日本楽器製造の従業員代表3名が工場長山葉直吉に11条の嘆願書を提出し、期限つきで回答を求めた
- [41]嘆願書は便所・洗面所の設置、正月休日、男子15歳以上70銭・女子14歳以上60銭の最低賃金制定、年2回の昇給などを求めた
- [42]天野千代丸は日本労働組合評議会と手を切らない限り嘆願事項を認められないと回答し、4月26日に交渉が決裂した
- [43]争議は105日に及び、鎮圧に動員された警官は延べ2万人、検挙者は600名を超えた
- [44]1926年8月8日に協調会理事添田敬一郎の調停案で妥結し、組合側は350名の解雇を認め、会社は解雇手当3万円と見舞金8千円を支払った
- [46]105日の争議で工場が完全に停止し、争議のための出費も重なって日本楽器製造の経営は一層困難になった
- [48]1927年1月、日本楽器製造の取締役会が経営の整理改革を決議した
- [51]川上嘉市は積立金および繰越金の全部60万円余りを取り崩し、不良資産の一部を売却し、一挙に無配とした
- [52]支店・出張所を全部本社の営業部へ統一し、釧路分工場と大崎工場を売却した
- [53]3年ないし5年と予想された無配はわずか2期で済んだ
- 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)
- [39]マルク相場の暴落によるドイツ製品の流入で不振に陥り、1923年の関東大震災の打撃が重なって日本楽器製造の経営は傾き続けた
- [45]105日間のストライキにより日本楽器製造は行き詰まり、外部の応援を仰ぐ事態に立ち至った
- [47]1927年当時の日本楽器製造は株価が額面の半額にも満たない成績不良会社に落ちていた
- [49]1927年4月、天野千代丸の辞任を受けて住友電線製造所取締役の川上嘉市が42歳で第三代社長に就任した
- [50]川上嘉市は住友の総理事湯川寛吉・常務理事小倉正恒に所信を述べ、52万円の増資新株の引受を取りつけた
筆者考察
日本楽器製造の最初の40年は、楽器の技術ではなく木工の技術がどこまで通用するかで決まった。山葉寅楠が浜松の小学校で直したのはアメリカ製オルガンであり、2台目で舶来品に劣らないという評を得たあと、彼が集めたのは楽器職人ではなく指物師と大工とカザリ師だった。オルガンからピアノ、家具木工品、合板、ハーモニカ、シロホンへと品目が増えたのも、木材の加工という一つの技能を別の製品へ当て直した結果である。資本金10万円で出発した会社が20年あまりで300万円へ届いたのは、需要が増えたからというより、同じ職人と同じ材で作れるものを増やし続けたからだろう。楽器を作る会社というより、木を扱う会社が楽器に当たったと言うほうが近い。
木材と低賃金の労働力に載った拡大は、その二つが高くつく局面で行き詰まる。マルク暴落でドイツ製ピアノが流入すると、国産化を掲げた会社が舶来品を輸入して売る側へ回り、関東大震災と度重なる火災が設備を削った。社債と借入で工場を保った以上、削れる原価は人件費しか残らない。1926年に従業員が求めたのは便所と洗面所の設置であり、男子70銭・女子60銭という最低賃金だった。105日の争議は、拡大の間ずっと据え置かれてきた条件の請求書である。額面の半額まで落ちた株価で川上嘉市を迎え、彼が最初にしたのが釧路と大崎の工場の売却と無配だったのは、拡大そのものを巻き戻すほかに手がなかったからにほかならない。
- 1921年8月の値は西川楽器製造を合併した後の資本金。
- 出所は企業の現代史(1964年)と株式会社年鑑1955年版。
出典・参考
5件
- 有価証券報告書
- 『株式会社年鑑』1955年版「日本楽器製造」
- 串田孫一「創業者の苦難、いま花ひらく」『企業の現代史』(1964年)
- 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「日本楽器製造」(1968年)
- 川上源一『狼子虚に吠ゆ』(日本経済新聞社、1979年)